ステュアート朝

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東京ディズニーランドのアトラクションの1つに「カリブの海賊」があります。

1983年のディズニーランドオープン当初からある老舗のアトラクションですが、

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の公開を受けて、2007年にリニューアルされました。

海賊の黄金時代は17世紀後半から18世紀前半にかけてで、

スペインの無敵艦隊「アマルダ」を撃破して勢いに乗るイギリス海軍との攻防が

作品中の到る所に散りばめられています。 当時のイギリスは「スチュアート朝」です。



【ステュアート朝】

1371年から1714年まで続いた、スコットランド起源の王朝です。

1603年以降、イングランドの国王も兼ねて、同君連合体制となり、

1707年に「グレートブリテン王国(イギリス)」を成立させました。



【ジェームズ5世】・・・スコットランドの第7代君主


ステュアート朝がジェームズ4世の時代に、

イングランドから、テューダー朝のヘンリー7世の女子マーガレットが嫁いで、ジェームズ5世が生まれました。

この時点で、ステュアート家は、イングランドの王位継承権を得たことになります。



【メアリー1世】・・・スコットランドの第8代君主(在位1542−1567) ジェームズ5世の女子


イングランドでエリザベス1世が即位すると、

メアリー1世は、エリザベスが庶出であるとして、イングランド王位を要求し、

スコットランドとイングランドの関係が悪化しました。

そして、嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、

メアリー1世の男子ジェームズ6世が、「ジェームズ1世」として、イングランド王位に就きました。



【ジェームズ6世/1世】・・・メアリー1世の男子。


第9代スコットランド王(在位1567−1625)/イングランド王(在位1603−1625)

女系継承ではありますが、ジェームズ6世/1世の父親で、メアリーの2番目の夫である

ヘンリー・ステュアートもステュアート家なので、

ジェームズ6世/1世以降の家系も含めて、それまでと区別なく、ステュアート家と呼びます。



【チャールズ1世】・・・ジェームズ6世/1世の男子(在位1625−1649)


ジェームズ6世/1世時代、チャールズ1世時代ともに、国教を強制し、

カルバン派のピューリタン(清教徒)までをも抑圧しました。

無理強いする国王に対して、ついに、議会派が立ち上がり、1642年、内戦へと発展しました。



内戦は、初めは、王党派が優勢でしたが、

東部イングランドのジェントリの家に生まれ、母親を通して熱心なピューリタンだった、

クロムウェル(1599−1658)が率いる精鋭部隊の活躍により、議会派が勢力を盛り返し、

最終的には、1645年に王党群を破り、チャールズ1世を逮捕しました(清教徒革命)。



その後、1649年に、裁判によって国王を処刑し、共和政を樹立しました。

共和政の続いた1649−1660は、イギリス史上で、唯一、国王が存在しなかった期間です。

しかし、クロムウェルの政策は、あまりにも厳格で、独裁的だったので、人気が急落し、

1660年に王政復古となりました。



【チャールズ2世】・・・チャールズ1世の男子


スコットランド王(在位1649−1685)/イングランド王(在位1660−1685)

信教自由宣言を発して、カトリックの復活を図りました。



【ジェームズ7世/2世】・・・チャールズ2世の弟(在位1685−1688)


チャールズ2世と王妃の間に、子はいませんでした(チャールズ2世の庶子は複数人いましたが・・・)。

そこで、チャールズ2世の弟が即位することになりました。

ジェームズ7世/2世は、熱心すぎるカトリックであったため、議会は、ジェームズ7世/2世の廃位を決定。

1688年、議会は、新教徒の王女メアリーと、その夫であるウィレム3世に援軍を要請しました。

ウィレム軍が上陸すると、ジェームズ7世/2世はフランスに亡命し、無血革命に成功しました(名誉革命)。



【メアリー2世】・・・ジェームズ7世/2世の女子(在位1689−1702)


メアリーは、夫のウィレムとともに共同で、1689年に王位を継承しました。

その後、1694年に、メアリー自身は亡くなり、

1694年〜1702年は、夫のウィレムが王位に残留しました。

2人には子がいなかったので、次の代は、メアリーの妹アンが継承しました。



【アン】・・・ジェームズ7世/2世の女子(在位1702−1714)


1707に「グレートブリテン王国」になったので、正確には、

スコットランド、および、イングランドの王として1702−1707、

グレートブリテンの王として1707−1714です。

アン女王には後継者がいなかったので、ステュアート朝は、ここで終了!



(※)ステュアート朝最後の君主アン女王は、夫がスウェーデン王子であり、

   次のハノーバー朝最初の君主ジョージ1世は、ドイツ出身で英語が話せませんでした。

   国政に疎い国王が2代続いたことで、議会が主導権を持つようになり、産業革命へと向かっていきます。



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