田内千鶴子(1912〜1968) 「韓国孤児の偉大なる母」と称えられた日本人女性の生涯


「梅干しが食べたい」
(後編)



岡登久夫
 
   

「お母さんが帰ってきた」
 子ども達は、纏わりついて離れなかった。子ども達の数が増えていた。二〇〇人はいただろう、事情が分からず、遠巻きに俯く子ども達が多かった。致浩の苦労を思うと涙も出なかった。千佳子が戻ったという噂を聞いて、協生園を出て独り立ちをしているこども達が一人、二人と尋ねてくれた。大きな荷物を背負って尋ねてくれた。協生園に戻ったその日から前にも増した苦労の日々が始まった。食べるにも事欠く日々だった。高知から持ち出して来たものも直ぐに食べ物になって消えた。

 日本語が全く聞こえなくなっていた。千佳子は、日本には戻らない、朝鮮人に成り切ろうと覚悟し始めていた。日本語を使わない。辛くてあまり好きになれなかったキムチだけで食事ができるようになろう。韓服チマチョゴリで毎日を過ごそう。そう思った。

 日本人がいなくなり朝鮮人だけの世界になるはずだった。今まで接触の少なかった白人がうろうろし始めた。米国人だった。市民の間に警戒心が強まっていた。

 一方、致浩の子ども達への献身的な活動もあり、協生園を見る目が温かく変わり始めていた。千佳子に向けられる視線も以前のような激しい憎しみは消えていた。街を歩けば声を掛けてくる年寄りもいた。魚を届けてくれる島の漁師もいた。千佳子や致浩にとっては束の間の平和だった。四人目の子どもが誕生した。栄華と名付けた。

 木浦の街が突然騒然となった。白人の軍隊が上陸してきた。国連軍だった。直ぐにいなくなり、入れ替わりに朝鮮人の軍隊が入り込んできた。北朝鮮軍だった。

 協生園にも二十〜三十の軍人がやって来た。千佳子と致浩は、拘引され、府庁前の広場に引っ張り出された。人民裁判だった。
「ちびの日本人野郎!」
「死刑だ!」
「朝鮮人のくせに日本人に味方するのか!」
 千佳子は、日本人がこの国の人たちにしたことを思うと死刑になっても仕方がないことだと思った。それに反し、致浩は子ども達のために寝食を忘れて闘ってきたではないか、道連れにする訳にはいかないと叫びたかった。
 一人の市民が立ち上がり叫んだ。
「この夫婦は、朝鮮人の孤児のために、自分の食事も着るものも後回しにする立派な方だ。なぜ死刑なんだ!解放しろ!」
「そうだ、そうだ」、とたくさんの市民が呼応した。銃の前に多くの市民が立ちはだかった。今度は、木浦の市民に救われた。

 致浩が木浦市民に人望があるのを知って、木浦市の人民委員長に任命した。有無を言わせなかった。

 置き去りにされる子どもや、どこからともなく逃げてくる子どもが、一人二人と毎日のようにいた。港の側の市場で所在無さげに立っていることが多かった。致浩は、そうした子どもを連れてきて協生園に住まわせた。三〇〇人近い人数になっていた。
 食事を、三度三度食べさせることもできない。一度だけの食事で済まさざるをえないこともあった。子ども達の荒んでいく気持ちを和らげることに腐心した。致浩は勿論のこと年長の子ども達も五〜六人の集団になって荷車を引いて街中を歩き回った。小さな子ども達も手伝うようになった。子ども達を汚らしいものを見るようにしていた市民の中にも、ご飯や漬物を毎日のように用意してくれる人が出てきた。自分達だけでも食べるのが精一杯であったのに協力をしてくれた。

 北朝鮮軍がいつのまにかいなくなった。白人の軍隊に列なって南朝鮮軍がやって来た。致浩が逮捕された。人民委員長になり北朝鮮軍に協力したという理由からだった。

 協生園に逃げ込んでくる子どももいた。協生園は、四〇〇人を超える子ども達で、溢れ返っていた。千佳子一人になった。相談する人もいなかった。致浩の半分もできないけれど子ども達のために全てを捧げてやろうと覚悟した。寝る間もなかった。年長者が「お母さんのために」と、こども達を、お風呂代わりの海に引き連れていったり、洗濯や煮炊きを手伝ったりして夜昼となく働いてくれた。

 市の有力者が動いてくれた。南朝鮮軍に交渉し、致浩を自由の身にしてくれた。三ヶ月が経っていた。入獄中は、子ども達のこと、千佳子のことが心配でならなかった。でも休息になったと冗談を言う。

 出獄して一ヶ月も経たないとき、致浩は、協生園への道庁の援助を求めて光州に向かった。子ども達も千佳子も手を振って見送った。三日四日の予定だった。千佳子にしてみれば致浩の顔を見る最後になるとはつゆにも思い尽くせることではなかった。

 致浩は、道庁の援助や食糧を求めて光州に向かった。牧師としての恩師が運営する光州中央教会に向かった。夜の祈祷会に出席し、三人の若者と出かけ、その後、消息が不明になった。突然の失踪だった。宿舎の部屋の片隅にリュックが残されていた。

 待てども待てども致浩は戻らなかった。高知から持ってきたものは売り尽くしていた。オルガンも手放すことになった。途方に暮れた。子ども達のために何とかしなければならなかった。食べなければいけなかった。考える暇もなかった。子ども達と一緒になって、街中を歩き回った。家々を尋ね回った。初めての経験だった。恥ずかしいとか言う感情もなかった。困窮し切っていた。

 戦争が終わった。兵隊がいなくなった。木浦市は何とか少しずつ落ち着きを取り戻していた。気が付けば協生園には五〇〇人近くの子ども達が寝泊りしていた。古くからいる年長者が子ども達の面倒をよくみた。千佳子をよく助けた。靴磨きをして得たお金を差し出す子どももいた。

 経済的にも肉体的にも千佳子にとって協生園を続けることは限界だった。迷っていた。止めざるを得ないと決心し、年長者に話をした。泣き叫ぶように懇願された。自分達の食事は後回しにしてでも小さな子ども達のために続けて欲しいという。頑張るという。子ども達の寝姿を見るといとおしい。この子達を捨て去ることはできない。致浩だったらどうするだろうと考えると止める訳にはいかなかった。致浩が開いた協生園を途絶えさせる訳にはいかなかった。致浩は、必ずどこかで生きている。必ず戻ってくれると確信できるものもあった。致浩が心の支えだった。

 千佳子は、朝鮮人に成り切ろうと決心した。朝鮮語だけを使った。韓服を二十四時間着た。キムチを毎日食べた。林佳子と名乗った。

 十八歳になった孤児は、協生園を出て独立した生活をさせることに決めた。千佳子にとってみれば、相談相手であり、助手でもあった。必要な人達であった。心細くもあった。将来のために独立させたほうが良いと考えた。泣く泣くの決断だった。涙を見せる訳にはいかなかった。そうかといって出て行けとは言えなかった。食べるものも食べず、継ぎ接ぎだらけの服を着る千佳子を見てきた子ども達の中には、何時までも迷惑を掛ける訳にはいかないと出て行く子どももいた。迎えに来る親もいた。それでも二〇〇人を超える子ども達が協生園で生活をしていた。

 千佳子は、一人になり、寝食を忘れて子ども達のために働いた。生きがいを感じていた。倒れてはいけないと思った。疲れを感じなかった。いや疲れを感じる余裕が無いほどに疲れきっていたのかもしれない。どんなに疲れていても聖書を読むことは忘れなかった。子ども達には、食事の前に必ず神への感謝の言葉を言わせていた。そうしたことが効を奏したのかもしれなかった。千佳子も子ども達も少しずつ落ち着きを取り戻していた。本来の子どもらしい姿を取り戻し始めていた。年長者も小さな子も自分が置かれた境遇を理解していた。小さい子は小さい子なりに生きることに必死だった。手伝いをしてくれた。

 南朝鮮は大韓民国として独立し、李承晩が大統領となっていた。国としての体制が整い始めていた。徴兵制度が敷かれていた。協生園を出て独立した子どもの中には、二十歳を過ぎた子もいた。徴兵される。三年間の軍隊生活を送り除隊する者もいた。悦び勇んで母親や恋人の元に帰る者が大部分の中で、彼には帰る場所がなかった。酒を飲み、やり場の無い彼は、協生園に怒鳴り込んで来た。
「なぜ、子どものとき死なせてくれなかったんだ!」
 千佳子は、彼を受け入れ、手伝わせた。

 木浦市や光州市などを、援助を求めて走り回った。内気で口数が少なく、交渉ごとなどは全く苦手であった千佳子を致浩の励ましの声や子ども達の沢山の顔が後押しをした。粘り強く何度も何度も訪ね交渉を続けた。
 千佳子の努力が報われた。協生園が福祉施設として認められ、援助を受けられるようになった。篤志家や企業も資金援助をしてくれるところが出てきた。だからと言って孤児に十分な食事を与えられる訳ではなかった。千佳子や子ども達の苦労は続いた。苦労の後には必ず喜びがある、今、苦労すればするほど喜びも大きくなると自分を励ました。

 戦後も十二年経っていた。千佳子は四十五歳になっていた。永年の疲れから体調を崩すことも多くなっていたが寝込む訳にはいかなかった。建物は今にも倒れそうになっていた。いや元々そうであった。まだ二〇〇人は超える子ども達が寝泊りしていた。オンドルのある家で子ども達をゆっくりと寝させてあげたい。今までとは違った希望を持って千佳子は走り回った。
 掘っ立て小屋かもしれない。オンドル付きの家を建てることができた。なんとか五十人は収容することが出来るほどの建物だった。今までに較べれば天国と地獄の差があった。小さなこども達を住まわせた。角にはキリストの祭壇を設けた。

 「私のお母さんは、どこにいるの?」
「そこにいるじゃないの」
「あの人は、お母さんじゃない」
 栄華が泣きながら必死に清美に訴えるのを、千佳子は、垣間見た。胸が痛んだ。実の母親として確りと抱いてあげたい。話し掛けてあげたい。それはできない。致浩との約束だった。自分の子どもであっても特別扱いせず、他の子ども達と分け隔てなく育てることを約束していた。清美に対しても基や香美、そして栄華に対しても冷たいと思われるかもしれないが孤児達に対すると同じように接してきた。清美も基も香美もほんの短い期間ではあったが千佳子を母親として独占できたときがあった。栄華だけが生れて直ぐに大勢の子ども達の中に放り出されたともいえた。抱きしめてあげたい。

 木浦は、落ち着きを取り戻していた。朝市が立ち並びおばちゃんたちのお客さんを呼び込む声が聞こえる。街中では槌音が騒々しかった。済州島に渡る旅客船の汽笛の音が聞こえる。
 市民の生活は苦しかった。島の漁師達は船を奪われ途方にくれていた。日雇い仕事を追いかけ、その日暮らしをする者も多かった。戦争孤児がいなくなった代わりに、乳のみ子を抱いた母親が協生園を訪れるようになった。預かって欲しいという。とてもその余裕はなかった。一人二人と預かるようになった。千佳子は、また新しい課題を負うことになった。道庁に掛け合い乳児院の認可を得なければならなかった。そうした。ミルク、食糧、衣服、医薬品を求めて走り廻ることになる。
 戦後も十五年経ち、協生園で生活する子ども達の人数が減っているとはいえ二〇〇人を下ることはなかった。乳幼児が増えていた。十人、二十人となっていた。行政からの援助や篤志家の寄付でなんとか三食の心配はしなくても済むようになった。オンドルを備えた家も一棟、二棟と立ち並んだ。なんとか寝食雨露は凌げるようになった。小さな教会も建てた。
 
 母ハルの口利きもあって故郷高知の篤志家が寄付集めをしてお金を送ってくれた。ありがたかった。ハルからの手紙が同封されていた。千佳子の苦労をいたわり、子ども達の幸せを祈っていた。老いた母に会いたい。一度で良いから会いたい。気持ちは募るばかりだった。父徳治や祖父母の墓参りもしたかった。清美は二十歳に、基は十八歳になっていた。
「協生園は、私達が見ているから」
 と強く勧められた。いま、高知に戻らねば、一生ハルに会えず後悔するだろうと思った。決心した。子ども達の中には父親や母親に一度も会えず、またこれからも会えぬであろう子どももいることを思うと申し訳ない気持ちが強かった。

 香美と栄華を連れていた。船から見る高知の港は変わっていなかった。背中を丸めたハルが迎えに出ていてくれた。「お母さん」それだけが口からほとばしり出た。後は何も言わなくても分かり合えた。
 鞭で追われるように出た高知は温かだった。千佳子が戻ったという話を伝え聞いて、徳治の兄弟や教会の聖歌隊仲間が集まってきた。寄付をよせてくれた人達も駆けつけてくれた。千佳子にしてみれば、七歳の時の出奔であったからほとんどの方々が記憶の外にあった。涙を流さんばかりに喜んでくれた。 
 「ハルさん、会えて良かったね」

 「ハルさんの口から出る言葉は、いつも、千佳子、千佳子だったよ」

 香美と栄華は、このときとばかり千佳子に纏わりついて離れなかった。チマを握って放さない。三人、一つ布団で寝る。香美も栄華も一寸の光陰を惜しむかのように話し掛けてくる。ハルと千佳子、清美、そして栄華と四人で手をつないで歩くのもこれが最初で最後かもしれないと思うと心に詰まるものがあった。湧き上がるものがあった。 

 ハルが鰹のたたきを作ってくれた。千佳子の口の中に懐かしい想いが広がった。酒盗が並んだ。お豆腐と若布の味噌汁があった。何よりのご馳走が、白いお米のご飯だった。清美も栄華も、何杯も何杯もお代わりをした。

 千佳子は、高知にいる間も韓服チマチョゴリで過ごした。香美も栄華も日本語を話せず、ハルとの会話はハングルだった。二人は、三日も経つと木浦に帰りたがった。千佳子も三日間も経つと協生園の子ども達のことが思われてならなかった。居ても立ってもいられなかった。

「このまま、高知に残り、ハルに親孝行をしなさい」と皆が言う。
「私は、老い先短い。子ども達は、先が長い。幸せに導いてあげなさい」とハルは言う。
 ハルも千佳子もこれが最後の別れであることを知っていた。辛かった。ハルのことをお願いして回った。ハルは、気丈だった。
 「老人ホームに入り、友達と楽しくやるから大丈夫」と言う。
 あわただしい四日間だった。見送ってくれた。大きく手を振っている。船が港を離れる時、千佳子は、声を出して泣いた。あらん限りの声を出して「お母さ〜ん」とハルを呼んだ。

 木浦のあわただしい生活が、また始まった。たった四日間だったとはいえ、子ども達の面倒を確りとみていてくれた。協生園を二人に任せて大丈夫だと思った。道や市の援助や企業からの寄付によって食事や衣料品は、十分とは言えなかったけれど、なんとか安定的に賄うことができるようにはなっていた。そのこともあって、協生園のことは二人に頼もうと思った。そうした。

 千佳子は、常日頃思うことがあった。それは、子ども達の手に技術を持たせたいということだった。十分な教育を受けさせたい。上級学校に進ませたい。義務教育の中学校に通わせるだけで精一杯だった。いや、それもままならないこともあった。独立して行った子ども達の中には正業につけず苦労をしている子が居ることを知っていた。
 志があっても現実にはどうしたら良いのか分からなかった。母のような助産婦を育てる学校か、それとも祖父のような医者を育てる学校か。それは、千佳子にとって余りに重過ぎる課題だった。実現不可能と言うことは自明の理だった。
 調理、大工、裁縫、電機などの職業訓練校を創立するための活動を始めた。協生園に寄付をしてくれている篤志家や企業を訪問し、相談する毎日だった。ブサンやソウルを始めとして韓国中を走り回った。食糧を求めて歩き回る苦しさとは違って、切羽詰った感覚は無かった。子ども達のために何とかしなければという思いは、同じだった。

 ある日の夜、束の間の休息を協生園でとっている千佳子の許に、基が目に涙を一杯溜めてやって来た。話があるという。
「お母さん、ごめんなさい」と言う。
「協生園のこれからを思い悩み海岸を散歩して来ました。戻ってくると、独立して行った孤児の祈る声が教会から聞こえました。「神様、孤児の本当の気持ちが分かるのは、孤児と一緒に生活してきた基さんであることを気付かせてください」と何度も何度も祈る声でした。ハッとしました。今までお母さんは、私に母親らしいことを一つもしてくれなかったと恨む気持ちがありました。彼の祈りの言葉を聞いて、お母さんが私を死に物狂いで愛してくれたことに気が付きました。本当にごめんなさい」
 千佳子は、今までの疲れが一遍に吹き飛んだように感じた。私は、ただお父さんとの約束を守ってきただけなんだよと言いたかった。言わなかった。千佳子は、初めて基と二人だけで話をした。子ども達のための将来の夢を語り合った。清美と二人で力を合わせ、苦労するだろうけれど子ども達のために頑張って欲しいと繰り返した。

 千佳子は、ささやかな夢を持っていた。協生園の子ども達の生活に余裕ができたら合唱団を作りたいと思い続けていた。子ども達に音楽を楽しむ喜びを与えたい。心の傷を持つこどもや母親を少しでも癒したい。オルガンを買った。鉛筆やノート、絵本などが十分に揃えられていた訳ではないけれど、たった一つの我儘を聞いてもらった。
 女の子が大部分だった。三十人そこそこの子ども達が集まってきた。音程の怪しい子もいたけれどそれでいいと思った。夕食後、毎晩のように練習を重ねた。賛美歌、朝鮮民謡、そして演歌「木浦の涙」も練習した。大きな口を開けて、一生懸命に歌う子ども達。癒されていたのは千佳子だった。子ども達の澄んだ声に自分の子どもの頃の姿が重なった。涙の温かさが頬を通して感じられることもあった。教会から流れてくる子ども達の声に導かれてやってくる市民の姿もあった。月に一度は、市民と一緒になって合唱を楽しみたいと思う。合唱団に協生園水仙花合唱団と名付けた。協生園の庭に水仙花や野の花を子ども達と一緒になって植えた。赤や黄色や水色の花が一年中庭を彩ってくれていた。

 千佳子は、職業訓練校の設立の目途をつけるためにソウルに向かった。清美が付き添った。清美は、千佳子がいつ倒れてもおかしくない位に体調が衰えていることを知っていた。子ども達のためにという思いだけが千佳子を動かしていると感じた。木浦からソウルへの旅は、遠くて長い。若い清美にとっても辛い旅だった。
 春四月とはいえ寒い日が続いていた。どこにそんなに強い力があるのかと不思議に思えるほどに千佳子は、精力的だった。役所、企業、学校・・・と尋ね歩いた。情熱的に語る千佳子の姿を見るのは、清美にとって初めての経験だった。協生園に居る時の静かな微笑を浮かべながら子ども達と小声で話す千佳子しか知らなかった。子ども達への愛が千佳子を勇気付けているとつくづくと思った。
 ソウルで過ごす三日目の夜だった。千佳子が激しい胸の痛みを訴えた。清美にとってソウルは不案内の地だった。どうしたら良いか分からなかった。安宿の女将に相談するしかなかった。

「病院に行くお金があるなら子ども達のために使っておくれ」

 痛みをこらえて歩き回っていた。道端に屈み込むことが多かった。二日経っても三日経っても痛みは引かなかった。苦しそうだった。嫌がる千佳子を無理矢理近くの病院に連れて行った。大きな病院に行って診察を受けた方が良いという医師の勧めだった。大病院に連れて行くことにした。木浦の牧師の紹介を受けてキリスト教系の病院に連れて行った。即入院ということになった。肺がんの疑いがあると言うことだった。

 肺がんだった。三ヶ月もつかどうかという医師の判断だった。清美は、ただ、ただ「神さま、お母さんを助けてください」と祈るばかりだった。毎日のように教会に出かけ、祈った。いま、自分のできることの全てを捧げようと思った。
 清美にとって 母と二人だけになれたのは初めてであった。辛い旅ではあったけれど、母親を独占できる喜びを感じていた。それなのに、こんなことになるとは想像もしていなかった。自分の責任のように思え、涙がとめどもなく流れた。

 激痛が走っているのだろう。小さな体を、ますます縮こませて耐えている。握る清美の手をギュッと握り返してくる。病状が落ち着いて、穏やかに二人だけで話す日もあった。子ども達のこと、致浩のこと、音楽のこと、聖書のこと、学校のこと、そして夢・・・。

 千佳子の入院のことが独立して行った子ども達の耳に伝わって行った。子ども達が二人三人と毎日のようにやって来る。立派な大人になっていた。
「お母さん、私の妻です」
 「お母さん、私、三人の子持なんです」
「大学でこども達を教えています」
 千佳子は、慈愛に満ちた目で微笑み返し、昔話をしたり、仲間の消息を語り合う。子ども達と会っているときは痛みに耐えている素振りを一つも見せなかった。元気な頃と変らない声音で話す。子ども達から元気をもらっているようだった。子ども達が去ると、ベッドの上で横になり静かになる。口をきくのも苦しそうだった。

「子ども達に会いたい」
「協生園に戻りたい」
「お金は、子ども達のために使ってください」
 と繰り返し繰り返し言う。
 清美は、本当の処、千佳子の望み通りに木浦に連れて帰りたいと思った。木浦への移動は大変危険で耐えられないだろうという医師の話だった。子ども達のために一日でも良いから長生きして欲しかった。辛い時間が静かに過ぎていく。

 協生園の子ども達は、千佳子のことを敏感に感じとっていた。
「お母さんは、どこに行ったの?」
「お母さんに会いたい」
 千佳子が入院して一年経った頃だった。ハルが協生園の畑に植え、大木となった一本の桜の木がピンクの花をつけ始めた頃、基は、年長の子ども達を連れてソウルに向かった。一本の枝を携えていた。子ども達が描いたお母さんの似顔絵も大きな鞄に入れた。

「お母さん」
 と言って子ども達は、千佳子に抱きつく。言葉はなかった。それ以上にはなにも言えなかった。千佳子は、ベッドに立て膝して座り、一人一人の顔を確認しながら名前を呼ぶ。お見舞いで戴いたお菓子を一人ずつに手渡す。
「ごめんね。こんなことになってしまって。今日は、ありがとう。小さな子たちを頼むね」
 と一人一人に言う。やせ細り、注射で黒ずんだ手を見て眼を真っ赤にする子ども達、病室を離れようとしない。清美と基は、病室を出て、静かに佇む。

 清美が子ども達を連れて木浦に帰った。基が残った。

 病室の窓から見える中庭では、槿が黄色の花をつけて満開だった。千佳子は意識が混濁したり、意識を取り戻したりの危ない状況にあった。基は、正直、覚悟した。

「お母さん!お父さんは、必ず生きている。協生園に戻ってくるよ。「頑張ったな〜、ほんとうにありがとう」と言って誉めてくれるよ」
 と話し掛けると、
「そうだったら良いんだけれど」
 と消え入りそうな声で肯く。ほんとうに嬉しそうにする。こうして病室で二人だけの時間を過ごしていると、基の頭の中に走馬灯のようにおぼろげな父の姿や母の元気な姿が巡り回った。
「お父さん!生きていたら早く帰って来てください」
 と叫びたかった。祈った。

 コートの必要が感じられる十月の中頃だった。
「お母さん、お誕生日がすぐだね」
 と話し掛けると、今まで封印してきた日本語で、
「梅干が食べたい」
 確りとした声で言った。基は、内心驚いた。日本語を何十年も使わない母だった。日本語を話した。

 あわてて病室を飛び出した。風の冷たい夕方だった。ソウルの町を梅干を求め、探し尽くした。諦めかけた時、漢字の書かれた古びた提灯が見えた。老人夫婦が経営する小さな食堂だった。走りこんだ。事情を話すと、奥に入り梅干を探し出してくれた。大きな梅干だった。高価な宝石のように見えた。「梅干があった。お母さん!待てって」

 基は、千佳子を協生園に連れて帰ろうと決心した。医師もそうしてくださいと同意してくれた。
「お母さん!園に帰ろう」
 意識の無い頭で肯いてくれたように見えた。微笑んだように見えた。基は、最初で最後の親孝行だと思った。悲しい旅だった。ソウルにいる子供たちが付いて来てくれた。

 昭和四十三年十月三十日、千佳子は静かに息を引き取った。五十六回目の誕生日だった。清美、基、香美、栄華、そして子ども達に見守られて旅立った。

 韓国の新聞は千佳子の死を「木浦が泣いている」と報じた。千佳子を「韓国孤児の偉大なる母」と呼び、その功績に尊敬の念をもって悼んでいた。

 木浦市は、韓国人でもない千佳子を市民葬で送った。市民葬には、全国から三万人以上の人々が集まり、千佳子に献花した。今も千佳子のお墓は、お花が絶えない。

 あくまでも創作であることをお断りしておきたい。「田口千佳子」は、「田内千鶴子」を仮想している。本名を使わせていただいた方々もいる。失礼があれば、ここにお詫びする。
 協生園は「共生園」を仮想している。今も立派に運営されている。職業訓練校も設立され、多くの職業人を育てている。

 
   
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