裏方 その2

ここはチェコの作曲家:マルチヌーのページの舞台裏です。

2001/4/13 fri
今日は復活祭の聖金曜日。今日の午後3時、イエスが十字架の上で息絶えたのだ。今頃ヨーロッパでは人々の心が厳粛な気持ちに包まれ、街中も静まり返っていることだろう。最も子供や若者たちはお菓子やご馳走にわくわくしたり、男の子が枝で女の子のお尻をぺんぺん叩いたり(チェコでの話)して、楽しく騒いでもいるのだろうが、伝統の中で自分たちの救済のために十字架に架けられたイエスの死を悼み、復活を祝う厳かな気持ちになっているのは確かである。

 そんな今日、新大久保のルーテル東京協会の礼拝でバッハのマタイ受難曲の第2部を歌った。去年9月の公演と同様、日本語で歌ったからではあるが、イエスが死ぬ場面やら、民衆がイエスが本当の神であったことに驚く場面を歌うときには、クリスチャンでもないのに感動が伝わりぞーっとなるから不思議である。バッハの音楽のすごさなのだろうか。クリスチャンである指揮者の話を聞いたり、歌って感動したりしているうちになんだか「イエスの復活」というのも信じられてきたような気がする。礼拝の最後に牧師さまがそれでは神様の祝福を受けましょうと言われ、短い祈りを捧げたときなど、聖霊というか神の気が天井からさーっと降りてきて、私まで祝福された気持ちになった(神の気などという言葉使いが東洋人であって仏教徒的だが)。

 ヨーロッパの人々は信心の薄い人でもこのような感覚を持っているのだろう。これがベースにあって音楽を演奏するのだ。クリスチャンでない日本人の音楽家にとってキリスト教に根付いた音楽を理解するのに必要不可欠な感覚を実感することができて大変に満足である。これは論理的な知識ではなく感覚的な知識なのである。そんなこんなが確かめられたのもバッハの受難曲をイエスの受難日に日本語で歌ったからである。こんな境遇にある自分をありがたく思う。神に感謝である。今度こそ『ギリシャ受難劇』の台本を完成させなければと思うトホホ。


2001/4/4 wed
・あっという間にもう4月。4/1に最後のスキーに行って冬とは完璧にさようなら。暖かくなってみるとちょっとうきうきするようだけど、やぱり冷たい季節の方が性にあってるような。ま、このあいまいな季節を乗り越えられればこっちのもの。それにしても来年の冬まであと1年もある。。

・アマチュア大会終了後の全てプログラムが出揃った。結構たくさんやったもの。アマチュアの人達に新しい曲を教えていただけるのもひとつの醍醐味。って知らないことが多すぎるのだけど。

ズィコフさんのプラハ音楽紀行、盛り沢山でびっくり。ちょっとぎっしりしずぎていて読みづらいのがナンだけれど、フォントを大きくして染め染め読めば問題なし。とっても面白いのでぜひお読みください。マルチヌーの「門の後ろの劇場」を見られたとのこと。うらやましいが、そんなものの存在は忘れてた。

ポーランドの舞踊団「ルブリン」の公演を見た。マリア・キュリー・スクロフスカ大学の学生の舞踊団らしかった。
 池袋芸術劇場小ホールは満場の入り。観客のほとんどが年輩のフォーク・ダンスの愛好家。いつものように。プログラム1000円。写真ばかりで大した内容でもないので買う気がしなかった。しかしどういう曲目かわからないのは大変に不便。いくら観客が踊りと衣装以外に興味がないとはいえ、どこの地方の曲かとか曲順くらい書いた紙の半ペラくらい配れないものだろうか。

 西スロヴァキア、ドイツっぽい音楽と踊りだったように思う。全体的にスロヴァキアやハンガリーほどそそられるような気分になるものではなかったが、スラヴ人の踊りとしていくつかの共通した動作はやはりあり、変拍子や単純な2拍子なのに踊り手の拍感が違うものなどは面白かった。ショパンが17歳の時に書いたマズルカにそっくりな民謡があった。やはり元歌というのはあるものだ。ユーゴスラヴィアあたりで見られるマスゲームのような十字に並んだフォームの踊りもあった。そのテンポや雰囲気もバルカン地方を思わせた。チェコやスロヴァキアでそういうフォームは見たことがないように思う。衣装は色とりどりで華やかだが、黒が主体になっている。モラヴィアでは黒が基調になっている衣装を多く見るが、影響を受けあっていると言うことなのだろう。

 「ポーランド公国時代の史的マズルカ」というものものしいタイトル・衣装の踊りがあったが、これが「ドンブロフスキのマズルカ」という国歌なのだろうか。
この踊りと、モニューシコ作曲オペラ「幽霊屋敷」の「マズルカ」は、男性は軍服のような衣装、女性は社交用のドレスで、テープ伴奏の踊りだった。ローカルな民族舞踊からいきなりバレエの舞台になってしまうのだが、しかしバレエの舞台としてだとはなはだ不完全なので、大変に良くなかった。それでも演った(演らせた?)ということはまあやっぱり、出し物として価値があったのだろうな。。


2001/2/23 fri
スロヴァキア民俗・芸能財団(?)のページをリンク。スロヴァキア語。
・1名様ご入会。


2001/2/8 fri
・ウイルスに感染していることがわかって真っ青。駆除。被害が少なかったのは不幸中の幸い。
・Tomas Visek & Yumeki plays P E T R O Fのお知らせを追加。


2001/1/29 mon
・アクセス・カウンターの調子が悪い。
・マルチヌー・プロのコンサートを更新。


2001/1/20 sun
・アクセス・カウンターを新調。過去の記録を元に数を増やした。月平均750くらいだったので、その3ヶ月分を止まってしまった13000に加算すると15250ほど。サバよんで15500!


2001/1/18 thu
・入会ページを手直し。


2001/1/17 wed
・サーバーがダウンしてしまったために一気に見れなくなってしまった。でも割合早く復旧したのでやれやれ。
・トップの壁紙を変えた。


2001/1/15 mon
スロバキア民族アンサンブル来日のお知らせを入れた。


2001/1/14 sun
・入会フォームを再設定。会員の方でも試しに入力・送信してみてください。


2001/1/12 fri
・ようやく日常がもどってきた。さあて仕事を再開・・・と取りかかろうとしたら、必要な資料が思う場所にない!
みんなどこに行っちゃったんだろう。思えば3年と3ヶ月ぶりだもの。濃厚な人生やってたから・・・。
資料探すよりは小説家にでもなった方が得策かも。なれるものなら。


2001/1/9 tue
・あちこち手直し。楽屋裏も手直し。コブリーチェクさん宅での体験を追加。


2001/1/8 mon
・楽屋裏手なおし。コブリーチェクさんの写真をリンクした。


2001/1/7 sun
・チェコとスロヴァキア行きの報告。MyPCが壊れそうになってきて使いづらい。入院させるべきか。そしたら当分はまたまた更新不能だ。。
・a-uraとしては異例なことだけれど、古い日付け順に並べた。


☆ 大変遅くなりましたが昨年12月に行ったチェコ・スロヴァキア旅行の報告です ☆


2000/12/10 sun
マルチヌー・フェスティヴァル3日目・・・といっても私にとっては1日目
(ルドルフィヌム;指揮者なしのプラハ室内オーケストラ/芸術監督:オンドジェイ・クカル)
                              
 「マルチヌーとコンチェルト・グロッソ」と題して、ルドルフィヌムでのコンサート。最初はJ.S.バッハ「ブランデンブルク協奏曲 No.2」。とても久しぶり。学生の頃以来聴いてないのではないかしら。バロック音楽ってなんで朝起きたてみたいにすがすがしく感じるか、ちょっとわかった気がした。チェンバロとチェロなどの楽器同士がよく共鳴しあっているのが、山での朝、鹿や雉の鳴き声が木立に響いて窓辺のベッドに届くまでの感じに似ているから・・・かな、なんて。でもそんな動物の声を聞くなんて体験、あまりないはず???

 次はマルチヌー「シンフォニエッタ・ジョコーザ H.282」(アヴネル・アラドpf)。休憩をはさんで「ヴァイオリンのためのコンチェルト・ダ・カメラ H.285」(アヴネル・アラドpf/レギ・パスキエvl)「シンフォニエッタ・ラ・ホジャ H.328」とどれもバッハの「ブランデンブルク」のスタイルで作られたトゥッティとソロのアンサンブル作品ばかり。

 リッチな音色とエキサイティングな演奏に観客はみんな引き込まれるように聴き入っていた。4曲のうち3曲がマルチヌー・プロでルドルフィヌムほとんど満員という、日本なら絶対ありえない動員力を持ったマルチヌー財団はやはりすごい!最も「ヨーロッパの文化都市プラハ2000」というプラハ市上げての文化事業の一環として、市のバックアップがあったからだけれど、「世界のマルチヌー協会」が今年2月にベルギーで発足したのと重なって、各国から音楽学者を集めてのシンポジウムもできるのだし、マルチヌーも運が向いてきたのですね。今日のコンサートでマルチヌーのファンが絶対的に増えたと思われます。

 イスラエル出身の若手ピアニスト、アヴネル・アラド氏はマルチヌーを弾いたことがなかったそうだが、ジュリアード音楽院でマルチヌーの友人だったピアニストのR.フィルクシュニーに習っていた、ということでマルチヌー財団のA.ブジェジナ氏が打診したのだそうである。彼のカンは大当たりで、アラド氏は明るく、音色の変化の多い演奏を聞かせた。


2000/12/11 mon
マルチヌー・フェスティヴァル4日目・・・といっても私にとっては2日目。
 テーマは「マルチヌーとハンガリー音楽」プラハ・アカデミー内のマルチヌー・ホールでのコンサート。
昨日と今日だけでも来た甲斐があったといえる。

 最初はマルチヌー「ピアノのためのソナタ H.350」
 1954年にルドルフ・ゼルキンのために書かれたピアノ・ソナタ。最初だから調子よくないのかな・・・とやや退屈していたが、2番目:バルトーク「ピアノのためのハンガリーの農民の歌からの即興曲 Op.20」のすごいこと。ピアノとピアニストが一体になって、すべての音が決定的に鳴っている。これは変だぞ、とよくプログラムを見てみたら、なんとチェコ人ではなく、デネス・ヴァリオンというハンガリー人の若手ピアニストだった。これほど違いがあると、やはり自国の曲を弾くべきなのかな、と思ってしまう。次から弾くチェリスト:ミコロス・ペレニもハンガリー人。

 前半最後はマルチヌー「チェロとピアノのためのソナタ No.2」
 1941年、アメリカに渡って間もない頃に出会った、チェコ出身のチェリスト:フランク・リプカのために書いた曲。

 なんの違和感もなく聴けた。双方の楽器がよく鳴り、アンサンブルがすばらしい。ピアノを全開にして弾けるピアニストってやはりすごい。音がきれいに響かせられるし。それにしてもピアノはスタインウエイなのに、日本で聴くスタインウエイとはなんだか違う。調律のせいだろうか。媚びてこないし、音のふくよかさと、音一個一個のつやつやと丸い感じ(?)がペトロフによく似ているように思う。

 後半最初はマルチヌー「チェロとピアノのためのスロヴァキア民謡による変奏曲 H.378」
 最晩年の1959年3月に書かれた曲。本当はこうだったのね。この曲は今までにあちこちでよく聴いたが、こんなにしっくり来たのは初めて。スロヴァキア民謡とはいえ、完全音程の扱いやリズムなど、ハンガリーの影響を受けているので、ハンガリー音楽みたいなもの。チェコ人にとってもスロヴァキア民謡はとらえにくいのだろうか。そんなことないだろうと思うのだけど、しっくりくる「きかた」が何か違った。

 コダーイ「チェロ・ソロのためのソナタ Op.8」
 どれだけ長い時間弾いてたろう? これでもかこれでもか、というくらいにチェロという楽器でできることを際限なしに繋げた、といった感じの超絶技巧の曲。チェロ・ソロって珍しいのでは? 生で聴くのは初めて。個々のモチーフがそれぞれ独立していて、その組み合わせ方に妙味がある、ということか。高音と低音、音の強弱、音色、リズム、音の無い間、の絶妙な組み合わせでもって、楽器の能力を最大限に引き伸ばしたばかりでなく、楽器が最も喜ぶように作られている。だからとっても官能的。ロムの人々が遊びかたがたやりそうなような。バルトークと一緒に民謡集めをしていたコダーイは、彼らのやり方を作曲法にとり入れていなかったろうか。とにかく、官能性を追求したのか、と思うくらいHなのだ。コダーイっていったいどんな人??? それに共鳴する天才チェリスト、ミコロス・ペレニ。どんなにやりすぎても品が悪くならないところが、芸能じゃなくて、芸術なのだろう。こんな瞬間って滅多にないと思う。体の動きに伴って、彼をとりまくオーラが揺れ動くかのように見え、オーラと人と楽器が一体になって、官能の極みを再現している。誰もがエロチックな空気に大義名分を掲げて惹きこまれているように見えた。最後に「Doぉ~!」と弾き切ったときにはすねの細胞まであわ立ちました。

 最後はバルトーク「チェロとピアノのためのラプソディー No.1」
さきほどの余韻が続いて、まだ頭が「かんのうせい」を追求している。音量を上げるときには全身全霊をこめて精一杯フォルティッシモになり、突然でもピアニッシモになるときにはすっとなる。フォルテにするよりはピアニッシモを作る方が技術的に難しいので、だから、ものすごいエネルギーの移動を感じる。やるときにはとことんやる!式のヨーロッパ・ポルノを思わせます。聴いていて、生きてるっていいな・・・という気がしてくる。生きる喜びに満ちているのだ。音楽はいつもこうであってほしい。

* * *

 なんでこう、ヨーロッパで聴く音楽は違うのだろう。
 ものすごいエキサイトするのに、ぎざぎざいうわけでもなく、響きはいつも温かく、上品なのだ。一つにはホールの音響のせいもあるだろう。横に広くない箱型のホールはやはりいい。日本では?府中の森のホールに箱型のがありますね。確かにあそこはいいホールですよね。カザルス・ホールもいいはずだと思うのだけど、響きすぎるのはなぜかしらん。で、なんでこんなにいいか。他には?優秀な演奏家は疲れてもいない。近所の国からやってくるから?

 イギリスのドヴォジャーク協会のボス:グラハム・メルヴィル・メイソン氏にお会いした。シベリウスみたいな頭の、目玉のぎょろりとしたきれいなおじいさんだった。杖をつきながらわざわざイギリスから?と思っていると、「マルチヌーも応援しているんだよエヘヘ」とおっしゃった。シンポジウムでは「マルチヌーの舞台音楽のオーケストレーション」について話されるようだ。


2000/12/12 tue
マルチヌー・フェスティヴァル5日目
フィルム上映会。ラジオ・オペラ「森の声」ドキュメンタリー・フィルム「マルチヌーとアメリカ」

☆ラジオ・オペラ「森の声」 1幕のラジオ・オペラ(1935/4-1935/5 パリ)に映像をつけたもの。
 面白かったけれど、知らない曲だったのでよくわからなかった。後ほどページを作ってアップします。

☆ドキュメンタリー・フィルム「マルチヌーとアメリカ」
 アメリカ時代の友人たちが語るマルチヌーの素顔。バルトークと違い、大成功を収め、多くの友人にも囲まれながら、僕はハッピーじゃない、と言っていたマルチヌーはやはり祖国への思いばかりが強かったのだろうか。


2000/12/14 thu
・チェコ・フィル演奏会
 ブラームス:ピアノ協奏曲第2番/アシュケナージcon・キーシンpf


 前から2列目だったので、左耳からオーケストラが、一旦後ろへ飛んで天井から降りてきたピアノの音が右耳から聞える感じで、聞き辛かった。  久しぶりに見るキーシン、ずいぶんお兄さんになったこと。でもまだ20代かな。変な大人になっておらず、地道で理想的なピアニストに育っていっているように見えた。アンコールではドヴォジャークのスラヴ舞曲を一生懸命弾く様子に楽団員も微笑みを浮かべながら聴いていた。


2000/12/15 fri
マルチヌー・フェスティヴァル6日目
 オペラ「兵士と踊り子」/国立劇場 3幕のコミック・オペラ(1926/7-1927/6 ポリチカ-パリ) なんともクレージーなどたばた劇。1作目だからか。劇場に勤めていた父親の影響で舞台に対する興味も人並み以上だった、と思うから見ていられるが、オペラ作品としては感心できない。135分あるところを80分台に削ってあるとのこと。ジャズ風な2重唱を大マジメに歌ったりするところがもの珍しく聞えた。色がカラフルなのは劇には合っていた。
 主にウィーンで活躍するポーントニーの演出。マルチヌーのオペラ:『ジュリエット』、1999年にブレゲンツ・フェスティヴァルで初演された『ギリシャ受難劇:第1稿』の演出によりマルチヌー財団よりメダルが贈られている。

2000/12/16 sat
International Bohuslav Martinu Society(IBMS)の第1回目の会議
 プラハのマルチヌー財団から事務局長A.ブジェジナ、彼の秘書で音楽学者の女性二人、ベルギーからIBMSの会長:K.V.エイケン(建築士。音楽家ではないが、なんと40年もマルチヌーやチェコ音楽に関わってきたという、筋金入りのチェコ音楽ファン)、マルチヌー研究家:H.ハルプライヒ(ベルギー:マルチヌーのH.番号を付けた方)、イギリスドヴォジャーク協会会員:G.テリアンの各氏と私での話し合い。まず最初に私のコンタックスで記念写真を撮る。マルチヌーの肖像画の前で四の五の言いながら並び順を整え、はい、チーズ! シャンパンを傾けながら、和気藹々と話が進んだ。

 当協会はIBMSの日本支部となって協力することになった。マルチヌーも世界の遺産であることを誰もが知る日がいよいよ来るな、と言う感じ。彼らと一緒に日本の愛好家として、何ができるのか真剣に考えていきたい。
 ちなみに年会費は25ユーロ(米ドル)。日本からの送金は思案すべきところ。銀行から送金すると同額ほどの手数料をとられる。なんとかならないか。

2000/12/18 mon
・ブラチスラヴァへ。
 M.ルスコ氏親子が中央スロヴァキア固有の民俗楽器:フヤラを演奏して下さり、DATに録音。
 通常フヤラを吹くときには歌とフヤラを交互に演奏する。父親のルスコ氏はスロヴァキア人としてフヤラが吹くが、自分の声が嫌いなので、大衆の前では吹いたことはないという。それでも舞踊祭で聞くフヤラ吹きの演奏と変わりがあるように思えない。父親の影響でフヤラを吹くようになった息子のミランは、よその国に演奏に行ったりしている。しかしながら彼もプロフェッショナルな仕事はちゃんとある。基本的にフヤラ吹きにプロはいないのだ。スロヴァキア国民として吹く限り全員アマチュアの域から出ない。そもそもアマチュアかプロかという概念さえもないのだろう。フヤラは吹くものではなく、心を表現するものだそうだから。その中で「名人」というのはいるようだけれど。

 夜はアカデミックな機関のプレジデントである人々のパーティーに招待された。非公式な宴会であって、余興でフヤラの演奏もあるので、私を呼んでくださったのだった。行ってみたら8本ものフヤラが用意されていて、一人が歌い出すと好きな人たちがわらわらと寄ってきて、この歌知ってる?じゃこれは?という具合に、歌に合わせて別な人がフヤラを吹き、どんどんメドレーでつながっていく。誰もがバリトンのすばらしい声を聞かせる。男性合唱も迫力あるが、フヤラの3重奏ともなると、煙モクモクの宴会だということも忘れるくらいすばらしい。これがこちらの宴会か。もうすっかり聞きほれてしまい、録音させていただけることになっていたのにコロッ!と忘れていた。フヤラがひとしきり終わると、今度はスロヴァキア・フィルのアコーディオン奏者の伴奏で歌うことになった。こちらは録音させていただいた。民俗舞踊祭でよく耳にする曲が多かった。

 それにしてもなぜみんなバリトンなのだろうか。民謡を歌うのにテナーは相応しくないのか?それとも背が高いので声帯がそれなりに長いせいだろうか?

 40人ほどいた中、15人くらいが歌ったり楽器を演奏したりできる。豊かなものである。しかし、ルスコ氏によれば、最近の若者はこういう楽しみ方をしなくなってきたのだそうだ。歌好き、楽器好きは親の代から引き継ぐことが普通だが、最近では親が歌っても子供の興味は、コンピューター、語学などの習い事、ポップスなどに移っていっていて、民謡を歌わなくなってきている、ということである。どこの国も同じだな、と思うが、あんなに沢山の民謡があるのに、このまま衰退していくのかと思うと、本当にもったいない気がする。

2000/12/19 tue 
・バーンスカー・スチェアヴニツァへ。
ブラチスラヴァから200kほど、バーンスカー・ビストリツァの南側。ユネスコの世界遺産に登録されているそうだが、まだ建物も修復されておらず、静かなままである。スロヴァキアで最初の「森の大学」が創立された場所で、小さな村に3つの大学が並んで建っている。この周辺では「バーンスカー・どこそこ」という地名が多く見られるが、「鉱山」という意味だそうだ。

・楽器作りの名人:ティボル・コブリーチェクさんのお宅へ。トゥリチキーという小さく静かな村(彼の作るフヤラには彼の名前と共に村の名前が彫られている)。ベルリンでの楽器の展覧会で、彼作の楽器をいくつか購入された日本人の女性から手紙をもらった、と嬉しいそうに見せて下さった。お礼の挨拶は英語、ドイツ語、日本語で書かれているが、自宅のポストに届けられた楽器を見てWAO!っと大喜びしている様子を、可愛らしい絵で描かれていた。しかし、差し出し人のローマ字の住所が、字・小字まで書かれているので長すぎ、書くのが大変だから日本から送ってください、と私に託された。みなさん、住所は短めに必要なことだけ書きましょうね。私が快諾すると、そのお礼に、と、フヤラ、ドヴォイカ(2管の笛。一つはリコーダー、片方は一つの音しかでない)やコンツォフカ(フヤラの小さいもの。穴が無し。折れ曲がった枝の部分を鹿の頭などに見たてられたデザイン)、ハーディ・ガーディなどを弾き、歌を聞かせて下さった。

 応接間は、背の高く中がいくつかに仕切られた陶器製のストーヴがとても温かく、居心地がいいのけれど、暗くなってから20M離れた外のトイレに行くのは、冷たく恐かった~。だって街灯もないから真の闇で、ドアがどこにあるのかわからないのだもの!しかし、夏なら虫がいっぱいいるだろうと思うと、次回にお邪魔するときもなるべく冬にしようと思った。
→ 参考:コブリーチェクさんとフヤラ、ドヴォイカ

2000/12/21 thu 
マルチヌー・フェスティヴァル7日目
 ファイナル・コンサート(ルドルフィンウム/チェコ・フィル&ウルフ・シルメルcon/クリストフ・リヒテルvc)

注目の「ハーフ・タイム」「チェロ協奏曲第2番」「交響曲第3番」

 「ハーフ・タイム」(1924):1923年、憧れのパリに到着し、「もうすっかりはまっちゃったよ。面白くってさー。」(故郷に宛てた手紙より)とはしゃぐ様子を象徴しているかのような作品。文句なしのご機嫌さで、爽快な気分になった。誰かの何かみたいだとはいううものの、音が充実していてやはりマルチヌーのマスター・ピースだと思う。
 
 「チェロ協奏曲第2番」は初めて聞く曲。スケルツォ風な第2楽章と、超絶技巧なのではと思えるアレグロの3楽章には引き込まれて聴いた。しかし、オケとソリストとのバランスが悪いのか、双方が同時に鳴るとき、全体がくぐもって聞えるのが残念だった。
 
 「交響曲第3番」(1944/5-6):第2次世界大戦中に書かれた最後の交響曲。『リヂツェ追悼』の次の曲。ひどいホームシックに罹っていて、「家(ポリチカ)に帰ってるような夢を見るんだ」と友人でマルチヌーの評伝を書いているシャフラーネクに書き送った頃の作品。そうと知っているせいか、第3楽章の木管と弦でフーガが奏でられる部分や、フルートがの半音階を軽やかなppのスタカートで吹く下で、弦が静かに線の細いメロディーとはいえないようなメロディーを奏でるフレーズは、魂の慰めを求めているかのようで切なくなる。全楽章を通して音色もフレーズの作りも生き生きとあざやかで、満足のいく演奏だった。

  指揮者のU.シルメルは1955-96年、デンマーク国立ラジオ交響楽団の主席指揮者として脚光を浴び、1999年、『BergLulu』(Chandos)、Nielsen『Masterade』(Decca)でグラモフォン賞を贈られている。1999年ブレゲンツ・フェスティヴァルでの『ギリシャ受難劇;第1稿』の初演を指揮。

読んでくださいましてありがとうございました。


→ 裏方 その1 → 裏方 その3