ヤナーチェク生誕 150周年記念音楽祭報告

ヤナーチェクの生誕150周年を記念した国際音楽祭「ヤナーチェクのブルノ 2004」が、この作曲家の本拠地である街、ブルノで開催されました。開催期間は、イェヌーファが初演されてからちょうど100年周年目となる2004年 1月21日から2月5日まで。この間、ヤナーチェクの全オペラ作品が上演される他、室内楽作品(弦楽四重奏曲)、管弦楽作品(タラス・ブーリバ、ドナウ)、声楽作品(グラゴルミサ、消えた男の日記)が演奏されました。以下はその報告です。


「ヤナーチェクのブルノ 2004」全日程に参加して


―――オペラ作品全9曲、集中上演を聞く―――

住田 健二

はじめに

 今年はヤナーチェックの生誕150年祭の年である、世界中で彼の作品が上演される機会が増えているに違いない。ヤナーチェック・ファンならずとも、今年 はあの特徴的な「シンフォニエッタ」の金管の生々しい音でのファンファーレをたっぷり聞かされるぞと身構えたくなるだろう。その冒頭を飾ったのが、彼がその 生涯の殆どを送ったブルノで1月21日から2月5日まで開催された、「Jana'cek Brno 2004」と名付けられた国際音楽祭であった。そして、その特色として大きく取り上げられたのは、約半月の間に彼のオペラ全9曲を一気に上演するというこ とであった。勿論、若干の他プロのコンサートもあったが、目玉はここだった。

 世の中には、殆どバッハばかりとか、モーツアルトの作品中心の音楽祭もある。ヴェルデイ、ワーグナーのオペラのみのオペラ祭もあるが、残念ながらヤナー チェックをこれらの人々の列に加えて、それだけで多数の聴衆を集めうる時代にはまだまだなっていない。まして彼のオペラ全部が聞けるという快挙は、ヤナー チェック・オペラのファンにとっては、それこそ盆と正月が同時に来る位では済まない気分である。勿論、計画は相当前から練られていたろうが、私がこの計画 を知ったのは昨年10月初旬にプラーハを訪問した時で、音楽仲間すらその開催可能性を危ぶみ、まだ切符の売り出しも始まってないがと話していた。

 なにしろ58年以来の大企画で、最近の最多記録では78年にもっと日数をかけて最高が7曲だったと言われている。まあ、この数を競うこと自体は大した意 味が無いと思うけれど、近年流行し始めたといわれていても、オペラ上演が日常化している欧米の大都会でも1シーズンにヤナーチェックのオペラが2曲もとい うことはごく稀である。彼のオペラが国際的な音楽祭に取り上げられるようになったのもここ10年前くらいで、彼のオペラばかりで全部を埋め尽くすという大 胆さには驚いた。しかも、真冬の厳冬期に観光都市とは縁がない人口40万の商工業都市のブルノでの開催である。

  このチェッコ第2の都市は、チェッコの東半分をしめるモラビア地方の南の中心とされており、彼はこの地方の北東端のフクワルデイを11才の時に離れて、こ の地方の中心地ブルノに住み着き、74才の生涯を殆どこの地で送って創作を続けた。彼の第3作目のオペラで、出世作の「イェヌーファ」の初演は彼のプラー ハでの初演切望にもかかわらず、実際は1904年1月21日にブルノで実現したことをふまえて、その100年祭も同時にというのが今回の企画であった。そ うなれば、ボヘミア生まれのスメタナ、ドボルザークを擁するプラーハの向こうをはって、わがモラビアの産んだ大作曲家ヤナーチェックの作品を中心とした国 際的催しを開ける場はこのブルノ以外にはあり得ないとの地元関係者の意気込みがあった。この機会に、ヤナーチェック記念館(彼の自宅)の改装や市立博物館 分室での常設的な展示室の新設等の事業も同時に計画にされ、総額約1億円弱程度の基金が用意されたが、その殆どはブルノ市からのもので、企業からのものも 若 干含まれている。

 それと、昨今の国際音楽祭では、サルツブルグで、チューリッヒで、またエジンバラでも、同じ演奏者が予め仕入れておいたほぼ同じ演目を、ごく近接した時 期に諸処で何回か演奏して歩き、その開催場所だけが異なるといった傾向がある。その点で、この音楽祭は断固として出演者が郷土色を示しているのが特徴。国 際音楽祭と名付けてはいるが、出演者や出演団体は殆ど現地とチェコ国内で現在活躍中の人達であった。国外からの有名出演者は指揮者のC.マッケラース卿と アーニア・シリア(S)くらいで、英国からの室内オペラグループもドイツからのアルデイーチェ四重奏団も、歌手の数名もそれほどの有名人はいない。つまり 「国際的」に聴衆を呼び集めて、ヤナーチェックの音楽の粋を満喫させるという事が本来の目的であるらしい。同じチェコでも「プラーハの春」だとそうはなっ ていない。口の悪い連中は予算枠のせいだというが、仮にそうだとしても、このモラビアの産んだ世界的作曲家ヤナーチェックの特徴はまさしくそうした地方色 の濃さを反映した音楽の特性にあるのだから、地元勢が集結して気勢を上げるというのは結構な発想ではなかろうか。

 所で、日本へ帰りしばらく忘れていたら、秋深まってある会合であの計画が実現し、1月から2月へかけての開催、いよいよ切符の売り出しも12月から開始 されると聞かされた。詳しい日程や演奏者もまだ十分な情報がないままに、オペラ全9曲上演ということに惹かれた。まず思ったことは空前の計画の実現だ、自 分の年齢(73才!)を考えると、恐らくこれを逃したらもう2度とこうした機会は巡ってこないということだった。一方では、是非聞きたいが何しろ厳冬期に 半月以上もあの街でというためらいがあった。本業の原子力関連で、チェコ最初のドコバニ原子力発電所がそう遠くない所(60km)に設置されており、ブルノの街にはこれまでも2回泊まって発電所を訪問しており、その機会にヤナーチェック劇場でオペラも見たり、ヤナーチェック博物館も訪問済みだった。

 正直なところ、迷いに迷った。全部ではなくて、舞台での実演を聞いてないお目当ての数曲だけをねらうことも考えたが、どうせ出かけるなら全演目を聴い て、ゲネプロも出来る限り聴かしてもらうと一大決心をした。しかし、健康維持への気がかりもあり、何時もお世話になっている各科のお医者様方の検査やら診 察の結果として総合的な医師団のお許しが出たのが12月中頃。閑散期だから空路や宿の予約はすぐとれたが、肝心の音楽祭自体の切符の入手だけが進行しない で困った。クリスマス時期と新年を挟んでの連絡で、主催者へのEメールの連絡になかなか返事がこない、再三の督促にもなしのつぶて。たまりかねて現地や日 本国内だけで終わらず、在ヴィーン、在プラーハの知人までの多数のチャンネルを煩わす騒ぎとなって、本当に皆様にご迷惑をお掛けした。

 もし、ヤナーチェック祭の切符が手に入らないのなら、空路は予約済みだから、同じ時期に開催される冬のサルツブルグ・モーツアルト祭に切り替えようかと 考え始めた矢先、出発予定数日前に、「多分大丈夫だが、後は現地へ赴いて自分で直接交渉して下さい」との連絡メールによる朗報がヴィーンから届いた。私 は、時差からの体力回復も考えて、1月15日にはヴィーンへ入った。多少の他用も済ませながら、行きがけの駄賃に国立歌劇場で19日に小沢さん指揮のフィ ガロを聞き、帰路の2月6日には同じ棒でドン・ジョバンニを聞いた。そして開会の前日20日午後に小雪のぱらつくブルノへ無事到着、早速歌劇場事務局内の 音楽祭事務所を訪問した。そこには、めでたく開会中の催し物全部の切符が用意されていただけではなく、国際担当M女史が遠来の客に是非お目にかかりたいと 自室へ招き入れてくれた。複数のマスコミからの紹介や依頼がすでに伝えられていたので,こちらも早速の取材開始、先方からも日本の事情をいろいろと質問さ れていわば情報交換の良い仲間になった。おかげで音楽祭の開催期間中、諸処でお世話になったが、各種のレセプションへの招待だけではなく、関係者以外は非 公開のゲネ・プロもいくつか聴かせて頂けて、とてもよい勉強ができた。

 今後の参考に周囲条件をご紹介しておくと、入場料は初日と最終日だけが、最高650K(クローン;約4円)、他の日のオペラ、コンサート等は450Kど まりで、ほぼ満員の人気プロと7ー8割位の入りのプロの日もあったが、当日券売場に並ぶ気さえあれば必ず入場出来たようだった。団体客はそれほど多くな かったと思うが、英国のドボルザーク協会の人たちが80人位団体で参加していて会場でも目立った。そして、初めて墓参した私の目には、ヤナーチェックの墓 に彼らが捧げたいくつかの花束と墓地に残っていた積雪との対比が印象的だった。私がメールで予約したホテルは、はからずも関根先生や青木さんといったヤ ナーチェック友の会の皆さんと同じ所だったので、チエコ語が話せない私にとっては、いろいろと助けていただく事が多かった。3つ星クラスのホテル(シング ル1泊、バス・トイレつきで1500K位)なら一人くらいは必ず英語が話せる従業員がいるだろうというのは甘い期待で、鉄道の駅でも英語がしゃべれるのは 国際切符売り場の人だけで、あちこちと駅内をウロウロする羽目にあった。考えてみれば、過去に訪問したときは鉄道で駅のプラットホームに着きさえすれば仕 事上の知人が待ち受けていてくれ、帰途も列車まで見送ってくれていたので、完全な一人旅ではなかったことに気がついた。プラーハのような観光都市ではない ということを、しっかりと認識して訪問すべきだという事だが、逆に街のどこでも皆さんが親切で、いつも暖かい対応を受けた。古い話になるが、40年も昔に 初めてプラーハを訪問した時の事を思い出して、失われていない多くのものに触れた気がした。
 

1.初日はヴィーンとの共同製作のイェヌーファ

 開会初日の21日は「イェヌーファ」(1895完成、以下同様)のプレミエ。これはヴィーン国立歌劇場との共同製作で、演出・装置・衣装は両劇場の共同 製作である。ヴィーンでは既に一咋秋から小沢指揮で何回かの公演があり、私もその公演の一つ(昨秋10月7日)をヴィーンで聴いていたので、両者の対比に も興味があった。なお歌詞はヴィーンでは昔からのブロート訳のドイツ語版で、当然ながらブルノでは原作通りチェコ語であった。また、使用される譜面にも興 味があったが、これは両者とも、いわゆるコヴァルジョヴィツ版といわれているプラーハでの初演指揮者の加筆のある従前からの慣用版によらず1908年復元 版と呼ばれているティレル‐マッケラース校訂版によっていた。ただし、 小沢指揮はどちらかというと、ブルノ原作版の精神を尊重して、金管の増強や装飾多用による多彩さを押さえていのに比して、今回のブルノ上演では昔からの慣 習に近い感じで、弦がよく歌い、壮麗な金管や打楽器が活躍するクライマックスで全曲の幕が下り、盛大な歓声が上がっていた。

  今や練達の境地に立つ小沢指揮のヴィーン上演では、バランスのよい洗練されたアンサンブルがあり、優れたリズム感に支えられた鋭さが目立つ他は、わざとら しさのないいわば現代的な感覚の上演だった。ただ歌手達は、主役のデノーケ(S)の健闘以外は、ヴァルツア(MS)の過剰な表現等はかなり小沢の意図から ずれており、かって70年代後半から90年代へかけて、ヴィーン国立歌劇場でG.ベニャチコーバ(S)を主役に養母にリザネック(S)を配した国際的な名 コンビを使って、マッケラースやノイマン指揮で繰り返された往年のヴィーン上演の味わいを知る者にとっては、何となく物足りない感じが残った。

 一方、ブルノ国立オペラの首席指揮者として、この重要な初日の指揮を受け持ったのは、新進気鋭・31才のキズリングであった。この人は昨年のこの歌劇場 の日本公演にも同行した馴染みの人で、東京公演でのグラゴール・ミサを聞いているが、今回の音楽祭でも実に多くの曲に何回も登場していた。他公演を含めて その才能は瞠目に値し、特に準備万端その全力投入が可能であったこの「イェヌーファ」ではまれに聴ける素晴らしい魅力を示していた。特に弦を中心としたふ くよかな独特の音色と、歌とオケの絶妙な交感から生まれる暖かな感触が素晴らしい。あの幕切れの2重唱の頭の所で密やかにわき上がってくるような弦のささ やきは、ヴィーン・フィルにはない”慰めと優しさ”がこもっていたのだった。一方ではややゲネラル・パウゼが多用されたり、生々しさをあえて押さえずに、 強引とも言えるほど豪快に金管群を鳴らしきって発散させていた。私には、この対比こそまさしく「ヤナーチェックの響」なのだという思いがした。

 また主役歌手も見事だった。かって5年前にプラーハ国民劇場の日本公演で聴いたときはまだスケールの小さい「ルサルカ」だったカウポバー(S)が劇的な 表現力とコントロールのよさをもって、イェヌーファを見事に歌い抜いた。この人は、イェヌーファ3回だけでなく他の公演にも大活躍で、日を追うにつれ、さ すがに疲れが出ていて気の毒であったが、特にこの初日の演奏は忘れがたい。これでかってのベニャチコーバのあの哀愁に充ちたソットヴォーチェがあればと今 後のさらなる前進を期待した。そしてこれと対峙する養母の役に、大ベテランのシリア(S)が細身で鋭く、これ以上の表現は許されないだろうというギリギリ の劇的表現の線を守りつつ迫っていた。ただ、惜しむべくは初日のみの出演で、2回、3回目はマルタ・ベニャチコーバ(MS)がこの役を受け持った。この人 は叙情面ではいいものがあり、第2回目でのしんみりした味わいも捨てがたい者があった。しかし第3回目やカーチャになると連日の出演で疲れが目立ってきて いた。歌手面から云えば、今回の音楽祭には同じく出っぱなしになったのだが、疲れもみせず大活躍し切ったのが、ラツァ役のドイツ出身のストラカ(T)で、 これは今まで随分実演をきいてきた中でも最高のラツァだと思えた。普通は女性2人に挟まれてやや陰が薄くなるが、第3幕での破局判明以後での終結へ向かっ ての力強い歌唱で初めてこのラツァの愛の強さと深さが浮かび上がってきて感動させられた。脇役にも、村長に日本でも知られている老練のノヴァーク(B)ら を配したこの初日の演奏は、チェコ国営TVが全曲を収録していた。出会ったTV関係者の話では、半分位は日本でも放映されそうな話だったが、実際はNHK の教育TVでのわずか数分のニュースとしての紹介で終わり、聞き所が全く放映されず残念だった。田舎街の音楽祭だからと軽く扱ったのか? なお、イエヌー ファはこの秋にベルリン・ドイツ・オペラとの共同製作による二期会の手による上演(ドイツ語版)が予告されている。





© Photo Jana Hallová




2.演奏会形式で上演された初期オペラ作品群

  「イェヌーファ」以前の、第1作「シャルカ」(1887)と第2作「ロマンスの始まり」(1891)の二作は、CDでは聴いているが、いずれも生演奏は私 にとって初めて。前者は演奏会形式ながらかなりの整った演奏で、それなりに迫力もあった。これもキズリグ指揮、主役にまたカウポバーとストラカが出てお り、管弦楽は同じモラビアの北部、オロモウツの町から、モラビア・フィルハーモニックの来演。合唱は地元のヤナーチェック劇場のもの。意外に厚手のヤナー チェック的な音がしたのでびっくりしたが、晩年まで彼が何回か手を入れており、そのせいでこうした響きになったのではと教えられた。舞台にかかったのは生 前に一回だけ、死後もごく最近2回だけだそうで、演奏会形式上演はやむをえないものであったろう。街の本屋の窓にはご最近録音されたCDとその元にもなっ た2000年出版のマッケラース改訂版楽譜が飾られていた。

 一方後者はヤナーチェック芸大の学生達による上演だった。そのせいもあったろうが、これという特徴の無い演奏に終始した。言い方が悪いが曲も平凡、演奏 は学芸会的で退屈、全くいただけなかった。あのイェヌーファのわずか10年前にはヤナーチェックがこんな駄作を書いていたとは信じ難いものがある。40歳 台後半にいたって彼には一体何がおこったのだろうか。同時に上演された、同じ頃の作品で、モラビア民謡の合唱つきの舞踏曲ラーコス・ラーコテイには素朴な 美しさが諸処にあり、楽しいものだったのと全く対象的な印象。

  さらに、同じく演奏会形式で、第4番目の未完のオペラ「運命」(1903)が上演された。これにはCDが何種かあり、私自身も1992年の演奏会形式での ヴィーン初演を聴く機会があった。不思議に甘美な悲しさが漂っていて、忘れがたい何かがあり、ひどく感動した思い出がある。今回の演奏の原型はプラーハの 国民劇場のもので、比較的若い指揮者ミユラーの指揮ではあるが、仕込みは2001、2002年の2シーズンに亘り、日本でも馴染み深いビエロフラベックの 指揮で国民劇場の舞台でオペラ上演されたもの、ミユラーはその時の補助指揮者だったとのこと。主役ジブニーのJ・ヴァシック(T)はすでにミラー役のイリ コーバ共々日本でも活躍済みの歌手達で、充実した演奏を聴かせてくれた。この曲も、今秋に読響の手での日本初演(原語)が予定されている。



© Photo Luděk Svítil

3.ついに舞台上演を観れた! ブロウチェック氏の旅(1917)

  これまでヤナーチェック・オペラの上演があれば、内外を問わず出来るだけ参加してきたのだが、イェヌーファ以後の作品で、この曲だけはこの年齢になるまで 生の舞台はおろか、映像ですら舞台上演をみる機会が無く、せいぜいCDをきいて想像をめぐらすより仕方がなかった。野次馬的な興味で云えばハイドンにも月 の世界を描いたオペラがあるが、あれは偽物の月世界を作る話で、此方の方は本格的に主人公が乗り込むのだから、美しい音楽描写のみではなく、演出や装置上 の工夫が見せ場になる。しかも後半では彼は中世の世界へ行くのだから、これも大変な工夫がいる。曲のスケールからみても、日本での上演が実現するのは当分 無理で、此方の冥土行きの方が先に実現するのは間違いなさそうだ。だから、今回の音楽祭参加の原動力の一つは、この幻の大作が生で聴けて、おまけにその舞 台が見れるということであった。

 それに、ヤナーチェックのオペラは殆どブルノで初演されたというのに、この曲だけはプラーハが初演の地で、そのせいもあってか昨年暮れにマッケラース指揮で新製作された上演がそっくりそのままやってきた。マッケラースのヤナーチェック・オペラは二昔も前になるが、ヴィーンでのイェヌーファ、メトでカー チャ、パリで女狐と聴いていたから、彼の活発な演奏には馴染みがあった。戦後のヤナーチェック普及における彼の大活躍に対しては、われわれヤナーチェック・ファンは大いに感謝している。特にヤナーチェックの生前から色々と他人が手を加えて上演されてきた作品を、チレル博士らと協力して原作品に復元する努 力を演奏面から協力した成果も見事だ。今回も地元大学からの名誉学位授与式へ出る傍ら、この音楽祭に出演したり、彼の名を付した作曲コンクールにも顔を出 している。 

 主役、ブロウチェック氏を唱ったJ.ヴァシック(T)の見事な歌唱と演技力もさることながら、この曲でもストラッカ(T)が出てきて活躍するのには驚い た。紗幕を使った天上世界での月世界人種の描写も楽しく、ここにつけられた音楽がまたヤナーチェックらしからぬ素直な美しさで、我々を楽しませた。第2部 の方は、やや時代ものめいていて、前者ほどの楽しさが無かったけれど、それでも主人公が無事地上へ帰りついたら、もう終わりに近づいたのかと惜しかった。

 演奏全体としての水準の高さという点では、恐らくこの音楽祭の全上演を通じて、最高のものがあったといえよう。演奏が始まってすぐ感じられたのは、洗練 された管弦楽団の音色やアンサンブルの見事さの差である。柔らかな金管の響きもさほどまで生々しくは叫ばないで、木管とうまく解け合っていた。ブルノ市民 の立場から云えば悔しいだろうが、やはりこの差は大きかった。曲想によって、この音色の使い分けが出来るのが、ヤナーチェックだと思うが、月世界の音楽の 美しさにはまさに、この音色が欲しい所だった







© Photo Jana Hallová




4.カーチャ・カバノヴァ(1922)での競演

 イェヌーファと女狐にならんで、あちこちの舞台上演を聴く機会が多い曲だが、今回もなんと同じ音楽祭期間に、2日連続して姉妹国スロバキアはブラチスラバから来演したスロバキア国立オペラの上演と、地元ブルノ国立オペラの競演があった。おまけに、ブラチスラバ出身のマルタ・ベニャチコーバが両方に同じ意 地悪なカバニハ役で連日出演して、随分と対照的な演奏を聴かせてくれた。

 ただ、上演の出来はかなりの差があった。いわゆる人妻の浮気話程度の当世風の軽めの演出を試みた前者の上演では、歌手の歌唱レベルもオケもやや精度が欠 けており、隣組としてのお付き合いご苦労さまといったねぎらい位しか言えない気分になった。ブルノ国立オペラの上演はさすがによくまとまり、本格的な製作 として高い質を保っていた。ただ、直前になってのピンチヒッターとして、指揮にあたったキズリングの指揮は、イェヌーファでのあの感動的な集中力が発揮さ れず、いかにもそつなく上手くまとめたと云う程度に止まって、深い感銘を与えるところまではいけなかった。彼の叙情的な表現力の見事さから言えば、この キャストでもっと素晴らしい切々たるカーチャを聴かせ得るはずだと思った次第。歌手陣では、日本にも来ているカーチャ役のハブラノーバ(S)もがんばっていたが、相手役ボリスを唱ったロシア出身のプロラート(T)が印象に残った。






© Photo Luděk Svítil



5.メルヘン的な利口な女狐(1922)の流行

 私がヤナーチェックに魅せられ始めた昔には、なんといってもイェヌーファの上演回数がダントツで、おなじベリズモ的なカーチャがそれに次いだ。そして、 第3位がこの女狐だった。ただし日本ではむしろ最初から女狐の方が人気があったようで、これは吉田秀和さんの影響力のせいではないかと思っていたら、最近では世界的にこの曲の相対的な上演回数が増えてきている。そして、演出もメルヘン的な雰囲気を強調して、動物、特に子役の狐を多数出演させて、聴衆を楽し ませることが多く、舞台装置もそれを追って美しい幻想的なものが増えてきた。この頃は、全くわけの分からない超モダンな舞台装置が流行しているから、その 反動でこの女狐での舞台はどこでも美しくて楽しいものにする傾向が出てきている。ヤナーチェックのオペラで家族連れのグループが聴きにゆけるのはこの曲だけだろうが、今回もどちらの公演にもそうした姿を多く見かけた。

 この曲には二つの団体の競演があったのだが、英国の地方巡業オペラグループのダブリン・オペラ座の室内楽伴奏版(16人のための版といいながら、実際は もう少し多くて22人の演奏だった)英語での上演であった。演奏面からは、チェコ・ヴィルチオージ・室内オケと組んだマッケイ指揮の英国組が、かなり筋肉質の引き締まった演奏をしており、時間的にもすこし早めのテンポで、装置も簡略なものであった。通常だと、かなり編成が大きくなるヤナーチェックのオペラ の普及にはこうした試みは確かに効果的だろう。この音楽祭でヤナーチェック・メダルを受けられたチェッコ音楽の大家、関根日出男先生は、ゲネプロまでつきあって、今回の音楽祭ではこの演奏が一番気にいったよと云われていた。もっとも、私のような素人の軟弱派は、どうもあの痩せた音でこの曲を聞いていると、 失われたものが大きすぎるような気がした。
 








© Photo Jana Hallová







 その点では、オペラの連続公演の最終日になったオリジナル版上演は、ベテランのツバビテルの指揮で、柔らかな音色をふくよかに聴かせてくれ、いかにもメ ルヘン的な気分が満喫できる上演だった。特に傑出した歌手はいなかったが、粒がそろっており、まさにこれが本場の演奏だと楽しい時間を過ごした。そして、 最後の幕切れのシーンで、昼寝から目覚めた森番が昔を懐古して、自然界における愛と輪廻を語るシーンに続いて子蛙が話しかける場面が続く、それから突如と して全てを包み込むような深い響きのフル・オーケストラが鳴り響いて曲はゆくりと最後に近づいて行き、金管とティンパニーの強奏で曲が閉ざされた。なぜだ か、今回の上演ではこの短い後奏部で突然こみ上げてくるようなものを感じ、涙が出そうになって困ってしまった。後で教わったのだが、この部分こそヤナー チェックの葬儀の時、出棺の際に彼の遺志としてブルノ国立オペラの楽員らが演奏した部分だったそうだ。偶然なのか、それとも、私があの時何か特別なものを この部分に感じとったのか、自分でもよく分からないけれど。

6.やはり難曲だったマクロプロスの物語(1923)

 この曲には名ソプラノのガブリエラ・ベニャチコーバ(S)が出演すると予告されていた。彼女は既に2年前に同じマーヘン劇場でのこの曲の新製作をこなし ていたから、私が今回の音楽祭へ出かける気を起こしたのは、一つには彼女のエミリア・マーテイへの挑戦を聴いてみたかったからである。それがブルノの事務 局へ出頭したとたんに、彼女はキャンセルしてきたよと聞かされて、本当にがっかりした。私はこの曲の1993年のA・シリア主演によるヴィーン・フォルク ス・オーパー初演を聴いており、その名演に酔ったことがあった。今回の代役は、ワーレンという比較的若いアメリカのソプラノが抜てき起用されていた。これ までも各地でこの難役を唱った経験が買われたのであろう。ただ、美貌と素晴らしい容姿ほどの歌唱力が無く、難所を突破するのがやっとという所。それに十分 な準備期間もなかったらしく、小さなマーヘン劇場での上演ではプロンプターの声が気になった。周囲の脇役がどれほど見事で、オケがどれほど雄弁でも、このオペラはエミリア次第である。神秘的な美しさと魅惑的な声を共有するというのは、舞台の上でも至難の事であるらしい。
 

7.地底からの深い響き、死者の家より(1927)

 昨年秋に演奏会形式で日本初演がなされたこの曲も、LDでサルツブルグ祭のアッバード指揮の上演の映像は観ているが、生の舞台はまだ聴く機会が無く、今 回のブルノ訪問の原動力の一つであった。それだけに期待も大きく、ゲネプロも参加させて貰い、心ゆくまでたっぷり味合うことが出来た。薄暗い流刑所の中で の物語で、クライマックスらしいものが無いオペラながら、そこにいくつかの何か大きなうねりのようなものが感じられ、心を引かれたといってよいだろうか。 本当に、遠路を出かけた甲斐を感じる満足感のあった上演だった。これだけの上演でなくても、またどこかでもう一度じっくりときいてみたいと思っている。

  演出は地味でごく普通だったが、老練なツバビテルの指揮は音楽的なまとまりがよく、それに日本初演にも参加したR.ハーン(B)はじめ、つぎつぎと出て来 る男性ソリストの層の厚さに圧倒されたが、さらには男性合唱のすばらしさに感動した。声量よりその柔らかく深い響きに魅せられ、日頃の鍛錬の反映と受けと めた。ドイツ・オペラでの堅い鋼の響きではないし、ロシアものでの圧倒的な響きでもない、やはりチェコ独特の音色というべきだろうか。
 







© Photo Luděk Svítil








8.オペラ以外の演奏会から

  オペラが目玉ではあったが、その上演の間を縫って、他分野でのヤナーチェック作品が演奏されて、我々を喜ばせた。新タウン・ホールの講堂で開かれた初日 21日午後の開会式では、挨拶や表彰の行事が終わった後に、フェニックス・アンサンブルの演奏で木管六重奏の「青春」が演奏された。予告になかったので、 えらく儲けものをした気分になった。22日はベセダハウスで、ドイツからやってきた現代物が得意のアルデイーチェ弦楽4重奏団が、バルト-クの第1、第3 を挟み、ヤナーチェックの第1と第2を上演し、アンコールでリゲティの曲を弾いて、さえざえとした演奏で聴衆を圧倒した。私はスメタナ弦楽4重奏団とヤ ナーチェック弦楽4重奏団の両者のヤナーチェック生演奏を何回も聞いており、ある程度まで先入感があったせいか、あまりにもすっきりしすぎてやや物足りな いが、他方では新しい魅力を教えられた感があった。もっともバルトークもあのゴシゴシとした激しい感じがしない演奏だったから、新しい時代の演奏様式なの かもしれない。個人的な感銘としては、アンコールで弾かれたリゲティの曲でのピチカートだけによる特異な音楽表現での見事なさえに忘れがたいものがあっ た。

  2月1日午後には、同じ講堂で、地元団体の競演で、合唱曲を集めたコンサートがあった。小編成の女性児童合唱・ピアノ伴奏の「小さな王女」から始まり、最 後は小編成ながらもオーケストラ伴奏による混成合唱のミサ・変ホ長調に終わる多彩な曲目が組まれていた。作曲家としてよりまず合唱指揮者として名をなした 初期のヤナーチェック作品は、数枚のCDを通じて一応は知っていたが、少女達の合唱等はあまり生演奏で聞いたことがなかった私はすっかりその可憐な美しい 響きに惹かれた。ただ曲の編成が大きくなってくるにつれて、オペラほどの魅力が感じられなくなってしまった、何故か分からないが。

  最後の2日間は、バレーの夕べとオーケストラ・コンサートだった。バレーの方は2月3日でプラーハ国民劇場バレー団とプラーハ室内バレー団の競演だった が、ブルノ勢の名が見えなかった。バレーそのものについては、私がとやかくいえるとは思えないが、結構高度の水準のように感じた。ただ、最初の「未知の国 への帰還」と題したバレーに対しては、ピアノ・ソナタ・1905年10月1日等がプラーハ音楽院のホレナ教授によって生演奏されたが、その後の2作品に は、ヴァイオリン・ソナタとシンホニエッタのテープ録音の伴奏で上演された。著作権問題がうるさい今日、演奏者の名前が何処にも出てこないのは珍らしかっ た。  最終日の2月5日はC.マッケラース指揮のブルノ・フィルと同合唱団の演奏会であった。珍しい「ドナウ交響曲」が演奏されたが、生では初めての聴く曲だったが、これはどうにも頂けない凡作。「ヴァイオリン協奏曲(さまよえる魂)」(パトシュカ.V)も演奏が技巧的すぎてそれほどの魅力がなく、これでは締め くりの演奏会としてさまになるかどうかと心配になった。

 所が、最後のグラゴール・ミサではまずステージ一杯にならんだ大編成のオーケストラに驚かされた。3人の奏者の前に10基のティンパニーが置かれ、管 も6管編成という感じ、合唱団も250人くらいだった。ソリストもまたまただが、カウポバー(S)ストラカ(T)ノヴァーク(B)の顔ぶれがそろってい た。彼が最近録音したCDでは、初演時のスタイルの復元ということで、例のオルガン独奏の部分が最初にも演奏されていたのでどうするのか興味があったのだ が、今回は昔からのスタイルのままで、いささか肩すかしを喰った感じ。

  今や老境に入り、サーの称号をもつマッケラースで、前半はお疲れかなといった感じだったが、このグラゴール・ミサになったとたんに、元気いっぱいの指揮ぶ りとなり、最後のイントラーダでは猛烈な勢いで突っ走り、壮大なクライマックスを作り出した。これに対して、満場の聴衆がいっせいに立ち上がって盛大な拍 手を送るという情景が展開された。海外では、名演に接した時に方々の座席で次々に人が立ち上がって、やがて全体に拡がるのはよく見かけるのだが、これくら い一斉にというのは本当に珍しい。彼はオケや合唱の退場後にも何回となく呼び出されて盛大な拍手を送られていた。
 
  なお、オペラが中心だったため、今回上演できなかった器楽曲や声楽曲が、9月22日からブルノで開催される恒例の「モラビアの秋」音楽祭には、ヤナー チェックの特集として組まれるとの事である。
 

最後に

 開会式での市長さんの挨拶に、「ヤナーチェックはブルノの生まれでは無いが、この街を選んで住んでくれた人であり、彼の音楽こそわれわれの音楽である。」という言葉があった。人口40万の街が、誇りをもって開催したこの音楽祭の成功は何よりもヤナーチェックの音楽に潜むその地方色を、全面に押し出し て誇らしげに連続上演してみせ、国際的な聴衆を魅惑する事に成功した点にある。われわれの音楽といいきれる強みが、主催者の中心的な組織、ブルノ国立オペ ラ周辺の人達を奮い立たせたともいえる。聴衆の一人として参加し得た者の立場からは、演奏面での多少の不備などはどこかへ吹き飛んだ。近代的な設備の整ったヤナーチェック劇場(1300人収容)と昔からの華麗な室内装飾が美しいマーヘン劇場と(800人収容)を使い分け、その上コンサートには現代風のベセダ・ハウス(433人収容)も使えた好条件や、周辺のオペラやオーケストラの応援があったにせよ、よくまあ、あの予算でこれだけのヤナーチェック一色とい う大事業をなしとげたと、心から関係者の努力を賞賛したい。それにつれても、あの圧倒的な自信に充ちた、優しさと野暮ったさが共存している街に、「われわ れの音楽」を持つものの強みを痛感した。日本でも、いつかそうした街とその音楽が生まれる日のあることを祈りたい。 
(2004.4.10、7.10加筆訂正)


住田 健二
 1930大阪生、現在も大阪在住。大阪大学名誉教授、工学博士。中学生時代からの声楽好きが嵩じて、歌曲やオペラの世界とのお付き合いが長く、主にドイツもの専門?だったのが、次第に手を広げているいるうちに、ヤナーチェックにめぐり合い、78年にヴィーンでドイツ語版ながら「イェヌーファ」を聴いたと きから、決定的にのめりこんでいます。2004年より日本ヤナーチェク友の会会員。
 音楽関係の著作は、ハンス・ホッターの伝記の邦訳(音楽の友社。1994.)があります。本職の専門書は多数ありますが、一般向けにはJCO臨界事故の現場に立つた時の,「原子力とどうつきあうか」(筑摩書房。2000.)が知られているようです。

公式ホームページ:International Music Festival 'Janáček's Brno 2004'


プログラム

2004年 1月

21、23、25日19時: ヤナーチェク劇場「イェヌーファ」
指揮:キズリンク 、ブルノ国立劇場オペラ団+ウィーン国立オペラ、
演出:パウントニー、コステルニチカ:アニア・シリア(21日)、マルタ・ベニャチコーバ(23、25日)、
イェヌーファ:ヘレナ・カウポヴァー(全日)、ラツァ:ストラカ(全日)ほか
22日20時: ベセドニー会館「室内楽」
アルディッティ弦楽四重奏団 、ヤナーチェク弦楽四重奏曲2曲、バルトーク第1番、3番
24日19時: マーヘン劇場「マクロプロスの秘事」
ブルノ国立劇場オペラ団、 指揮:シュティヒ、演出:シメルダ、
E・マルティ:N・ワーレン、グレゴル:R・サドニク
26日20時: ベセドニー会館 「物語の始まり」「ラーコ-シ・ラーコーツィ」
ブルノ音楽院、同芸術アカデミー、演出:M・シュヴェツォヴァー
27日20時: ヤナーチェク劇場「シャールカ」(演奏会形式)
オロモウツ・モラヴィア・フィル、指揮:キズリンク
ブルノ・ヤナーチェク劇場合唱団、合唱指揮:パンチーク
シャールカ:カウポヴァー、ツチラド:ストラカ 
28日19時: マ-ヘン劇場「利口な女狐」(歌手9人、演奏者16人の室内楽版)
アイルランド巡回オペラ団、指揮:B.マッケーイ
演出:コンウェイ(2002年1月16日)
29日19時: マーヘン劇場「ブロウチェク氏の旅、2部作」
指揮:マッケラス、プラハ国民劇場オペラ団、演出:ネクヴァシル
ブロウチェク:J・ヴァシーク、マザル:ストラカ ほか
30日19時: ヤナーチェク劇場「死の家より」
ブルノ国立劇場オペラ団 、指揮:ズバヴィテル、演出:力ロチ
ゴリャンチコフ:R・ハーン、アリェヤ:B・ジャードラポヴァー、
スクラトフ:M・ヴルチク、シシュコフ:P・カマス ほか
31日20時: ヤナーチェク劇場「運命」(演奏会形式)
プラハ国民劇場オペラ団、指揮:ミューレル
ジブニー:J・ヴァシック、ミーラ:I・イジーコヴァー

2月

1日16時: ベセドニー会館「合唱曲」
ブルノ・カンティレーナ児童合唱団、プラハ・フィル合唱団
19時: マーヘン劇場「カーチャ・カバノヴァー」
スロヴァキア国立劇場オペラ団、指揮:シュチェファーネク、演出:プルーデク
カーチャ:K・ヴァルコンドーヴァ、カバニハ:M・ベニャチコヴァー
2日19時: ヤナーチェク劇場「カーチャ・カバノヴァー」
ブルノ国立劇場オペラ団、指揮:キズリング、 演出:カロチ
カーチャ:J・ハルバノヴァー、カバニハ:M・ベニャチコヴァー
3日19時: マーヘン劇場「バレエの夕べ」
プラハ国民劇場バレエ団、 プラハ室内バレエ団、振付:イジー・キリアーン、「霧の中で」、
シンフォニエッタ、ピアノ・ソナタ、草蔭の小径第2集
4日19時: ヤナーチェク劇場「利口な女狐」
ブルノ国立劇場オペラ団、 指揮:ズバヴィテル、演出:ヴィェジ二ーク
女狐:Y・タンネンベルゲローヴァ、森番:J・スルジェンコ、雄狐:J・シュテファーチコヴァー
5日20時: ヤナーチェク劇場「オーケストラ・コンサート」
ブルノ国立フィル、スロヴァキア・フィル合唱団、指揮:マッケラス、
ヴァイオリン独奏:ロマン・パトッカ(2003年プラハの春コンクール優勝者)、
「交響曲ドナウ」「ヴァイオリン協奏曲」「グラゴル・ミサ」
カウポバー(S)ストラカ(T)ノヴァーク(B)

4つのオペラヘのコメント

チェコ音楽研究家 関根 日出男


   「イェヌーファ」は、1918年のウィーン公演により世界への第一歩を踏み出した。しかしこのオペラ以外で、今日までウィーンで上演されてきた のは「カーチャ」だけで、2004年にようやく「運命」がとりあげられる予定になっている。
  今回のブルノ=ウィーン共同制作の「イェヌーファ」は、文字通りインターナショナルなもので、演出はマルチヌーの「兵士と踊子」(プラハ国立オペラ)や、 スメタナの「悪魔の壁」(プラハ国民劇場)でなじみのイギリスのパウントニー David Pountney、衣裳担当はルーマニアのレッカ Marie-Jeanne Lecca、舞台装置はアメリカのイスラエル Robert lsraelである。つい最近のウィーン公演は、ティレル=マッケラス監修による原典版を用い、小沢の指揮、配役はデノーケ Angela Denoke (イェヌーファ)、バルツァ Agnes Baltsa (コステルニチカ)、シルヴァスティ Jorma Silvasti (ラツァ)だった。
  演出の特徴としては、第1幕の水車は、機械工場にあるような電動式の巨大なもので、第2幕の部屋は小麦粉袋の大きな堆積でできており、第3幕の空虚な舞台 は閉鎖された3つの高い壁からなっている。演出家はこの作品を典型的なオペラとしてではなく、音楽を伴う劇作品としてとらえている。
 むろん原典版がチェコ語で歌われ、ソリストとしてシリア Anja Silja、ザムピエリ Mara Zampieri、ストラカ Peter Straka らが出演した。

   「カーチャ・カバノヴァー」:演出を担当するカロチ Zdeněk Kaločは、マーヘン劇場で演劇を担当している演出家で、シュトラウスの「サロメ」、ヤナーチェクの「死の家より」などでブルノの聴衆には顔なじみであ る。舞台装置を担当するのは彫刻家のプレツリーク Vladimir Pleclíkで、衣裳は「サロメ」「ラ・トラヴィアータ」や、ドヴォジャークの「ジャコバン党員」を担当したズボジロヴァー Jana Zbořilová。
  ソリストとしては、主にドイツで活躍しているハヴラノヴァー Jana Havranová とテスリア Tatiana Teslia(カーチャ)、M・ベニャチコヴァー Marta Beňačková、フラフソヴァー Adriana Hlavsová、ゼルハウオヴァー Jitka Zerhauová(カバニハ)、プロラト Valentin Prolat、ショモリャイ Simon Šomorjai(ポリス)、コップ Miroslav Kopp、クレイチーク Vladimír Krejčík(チホン)、フラヂーク Jan Hladík、ノヴァーク Richard Novák (ヂコイ)らが登場した。

   「利口な女狐の物語」: 今回はヴィェジニークの正統的な演出の前に、もう1つアイルランドの巡回オペラ団による上演も行なわれる。1986年にダブリンで結成され、プリテンの 「ネジの回転」で旗揚げしたこのオペラ団は、毎年3、4演目を加え、これまでにヨーロッパ、アメリカの100以上の都市や町で巡業を行ってきた。バロック と古典オペラで人気をさらっているが、9つのアイルランド現代作品を含む現代作品をもレパートリーとしている。ブルノヘは1992年の「モラヴィアの秋」 音楽祭の折に来演し、マーヘン劇場でヘンデルの「タメルラーノ」を上演した。
  「利口な女狐」には本来、子供や踊り手を含め20人以上の人物が登場するが、彼らの舞台に登場するのは10人だけで、校長=蚊、神父=あな熊など、一人で 2役を受け持っている。16人の小人数オーケストラを指揮するのはファーネス Richard Farnes である。この室内楽版を作成し、ウニヴェルザール社から出版したのは、ドーヴ Jonathan Doveで、英語版の演出をしているのは、永年このオペラの団長をつとめているコンウェイ James Conwayである。この室内楽版は、2002年2月8日にアイルランド第2の都市コークで初演されている。この後このオペラ団の演目には、同年4月のス メタナの「口づけ」、ウルマンの「アトランティスの皇帝」が上がっていた。90年代には「イェヌーファ「カーチャ」も演目に入れている。

   「シャールカ」:2002年4月11日、モラヴィアの出版社 Editio Moravia とウィーンのウニヴェルザール・エディションの新版で、「シャールカ」が演奏会形式で上演された。ソリストにはロマノヴァー Natálie Ramanová、ルトハ Ludovít Ludha、フメロ Vladimír Chmelo、コルダ Zoltán Korda が登場し、キズリンク指揮オロモウツのモラヴィア・フィルとヤナーチェク・オペラ劇場合唱団が参加した。
  詩人ゼイエルがドヴォジャークを念頭に書き下ろした「シャールカ」(1897年にフィビヒが完成した)を、ヤナーチェクは部分的に作曲した後、ゼイエルに 作曲の許可を願い出たが、作曲者が台本への介入を行なっていたため、原作者にこれを拒否された。にもかかわらずヤナーチェクは作曲を続けていったが、やが てこれを忘れてしまった。ほぼ30年を経てヤナーチェクはこれに多くの手を加え、弟子のフルブナにオーケストレーションを依頼した。
 初演は1925年にブルノ国民劇場で行なわれ、作曲者はこれに満足していた。その後、作曲者没後30周年のブルノ音楽祭で演奏されただけだったが、 2001年のウルバノヴァー主役、マツケラス指揮チェコ・フィルによる録音(グラミー賞受賞)で復活し、ブルノでは2002年にオロモウツのモラヴィア・ フィルがオーケストラを担当して、演奏会形式で上演し、その後オロモウツとオストラヴァでも続演された。

  もう一つの話題として、2007年完成予定の多目的ホールの定礎式が行なわれることになっている。音響効果満点を目玉とするこのホールは、ベセドニー通り とヴェセラー通りの交点に位置し、収容人員1200~1800を予定している。


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