18.故郷での死
1928年、ヤナーチェクは『死者の家から』の筆を進めていた。
彼の身の回りには様々な出来事が続いた。夫妻の親しい友人で、『利口な女狐』の原作者であったルドルフ・チェスノフリーデク夫妻の自殺、そしてカミラとの仲のスキャンダル化。
しかしヤナーチェクは周囲の忠告を意に介さず、毎週のようにカミラのいるピーセクに通い、手紙の中でカミラを「私の将来の妻」と呼んだ。妻ズデンカのシニカルな表現に従えば、「永遠の若さ、束縛のない情熱的な愛、生命の嵐のような欲望という幻想が、彼の目前で踊っていた。彼はそれを年老いた手で握りしめようとした。」
そうした中で1月29日、ヤナーチェクは新しい作品を書き始めた。『弦楽四重奏曲第2番』である。作曲の動機は明らかだった。まず前年の12月から二人の間では、作曲家ズデニェク・フィビヒが愛人アネシュカとの関係をもとにピアノ連作『気分、印象と思い出』(376曲から成るピアノ小品集)を書いたことが何度か手紙の話題になった。また1月に、カミラは、ヤナーチェクを手玉に取っているという悪評に傷ついていると訴える手紙を書いた。
そこでヤナーチェクは二人の関係がフィビヒと違って「純粋に精神的なもの」(1月18日付のマックス・ブロート宛の手紙)であり、その関係から自分は霊感を得ているのだと世間に示すために、この作品を書いたのだった。
この作品は、彼の最後の愛を心の奥底から歌い上げた作品である。どの楽章にもヤナーチェクの激しい愛の幻想、陶酔、苦悩が、強烈な緊張感をもって描かれていて、聴く者を深い感動に誘う。
私はこの曲ほど熱い思いの込められた室内楽を他に知らない。
彼はこの作品をわずか3週間あまりで書き上げると、再び、
『死者の家から』
の最終稿に没頭した。その合間にプラハの文芸誌「リテラールニー・スヴィエト」のインタヴューに答えた記事が、同誌の3月8日に掲載された。その中にこんな一節がある。
今日のオペラ? まずベルクの『ヴォツェック』について言わせて欲しい。不正義、不正義だ! 彼らは『ヴォッエック』を中傷したのだ。ベルクをひどく中傷したのだ。彼は深い真実を備えた、驚くべき重要な劇作家だ。彼に発表の場を与えねば! 今、彼は歪曲され、受難している。道の半ばで止められている。一音も奏されない。彼の一音一音は血で浸された音なのに。...道端の芸術。『ジョニーは演奏する』が劇場を満席にするのだ。なんという不毛、不毛だ!
オペラの状況?ベルリンでも同じ事を尋ねられた...オペラはただ楽器がやかましい音を立てるのではない。「物事の本質」、それこそがオペラという存在を正当化するのだ。そして人が成長するように、オペラも成長するのだ。しかし勿論、私はその中で自分の道を歩むが。 ほかの道?...私は真実をもって道を切り開く。極限まで真実を。
生命は層になしているように思う。そう、たくさんの層と要素がある。その中には美しい音も含まれている。シュレーカーやシェーンベルクはそれを忘れたのだ。真実は美を排除しない。逆に、真実であるほど美があるのだ。生はその最たるものだ...私は生きることを恐れない。私は生を愛する。」
ベルクの『ヴォツェック』(1925年)は1927年にプラハの国民劇場で上演されたが、反ドイツ運動の槍玉に上げられて3公演のみで下ろされたのだった。
ヤナーチェクは愛国者だったが、主義主張や偏見で目の曇らない人だったことはこの事でも分かる。それにシュテッセル夫妻がユダヤ人であることも、ヤナーチェクには何の意味も持たなかった。この年の7月16日の手紙で、彼はカミラがユダヤ人であることに触れてこう言っている。「私たちは宗教の違いを知らない神を持っている。それは、愛という神だ。」
しかし、ナチの足音は中欧にも忍び寄りつつあった。
この年の1月に『ジョニーは演奏する』がウィーンで上演されると、「伝統ある国立歌劇場に対するユダヤ系黒人による汚辱」だという、ナチの鈎十字の抗議ポスターが市内に張り出されたのだった。
彼は『死者の家から』の筆を進めていった。このオペラはドストエフスキーの小説「死の家の記録」に基づいており、ヤナーチェクは自分で台本を作成した。
原作はドストフスキー自身が政治犯としてシベリアの収容所に送られた時の実体験によっている。かつてヤナーチェクは『イェヌーファ』で、コステルリチカのように、道徳的な人間さえ、時として衝動的に罪を犯すことも描いているが、この収容所の囚人たちは、無知や盲目的な憎悪で人を殺したり、一方的に社会から疎外され、人としての幸福を永遠に奪われた者たちであった。
そこに誇り高い政治囚ペトロヴィッチが送られてくるが、彼も収容所に足を踏み入れた途端、侮辱され、罪もなく鞭打たれて襤褸をまとわされ、人間の自由と尊厳を剥奪されるのである。ヤナーチェクは原作の大部の小説から、囚人たちの語る身上話と収容所でのエピソードのタペストリーのような台本を作った。
「どんな人間にも、神の閃光があるー彼らは実に善良な人々なのだ。そこに宿命が襲いー運命の一撃ーただの一撃で、彼らは苦しまねばならない。しかしそれでも、彼らは純金のような心を持った人々なのだ。」ヤナーチェクは前掲のインタビューの中で語っている。彼は運命によって極限にまで転落した人々をも、個性をもったひとりの人間として描こうとしたのだった。
その音楽の徹底した非感傷性と、薄いオーケストラの響きに込められた、燃え上がるような情熱は、ヤナーチェク特有の音楽語法ともあいまって、初めは馴染みにくいかもしれない。しかし、この作品の独創的で真実に満ちた音楽は、次第に観る者を圧倒する。
ヤナーチェクにとっても、作曲はたやすいことではなかった。カミラに宛てた手紙で、彼は打ち明けている。「私は暗闇の中の人間、人間の中でも惨め極まる者たちに向かって一歩一歩下りていくように感じている。難しい下降だ。」(1927年11月29日)その中て彼は曲を仕上げていった。
同じ頃に、マックス・ブロートは「シュラックとヤウ」という、シレジア生まれのドイツ人作家ゲルハルト・ハウプトマンの喜劇に付随音楽を作曲することを勧めた。ヤナーチェクは5月17日にブロートに「『死者の家から』には、まだ沢山やることがあると思う。」と手紙に書いて断っているが、クレンペラーの勧めもあって重い腰を上げた。しかし結局ヤナーチェクは4曲のスケッチを書いただけであった。
ヤナーチェクは『死者の家から』を一段落させると、5月22日に休養のためにフクヴァルディに行った。この最後から2番目のフクヴァルディ訪問の間に、彼は『ラシュスコ舞曲集』のポケットスコアの最終校正を行った。
この作品はまだ30歳のヤナーチェクがバルトシュと共に始めた故郷ラシュスコ地方の民謡研究から最初に生まれた、彼の原点ともいうべき作品であった。若き日の情熱と思い出の込められたスコアを手に取って、彼は回想している。
「フクヴァルディの城のふもとの、石を投げれば向こうに届くほど狭い谷に、ウ・ハラビシューという宿屋があった。窓ガラスは夕闇のなかで 残り火のように赤く輝き、中は人息れと煙草でもうもうとした煙っていた。ジョフカ・フラビショヴァーは人の手から手へと飛ぶように踊っている!
あれから45年が経った。
私はじっと『ラシュコ舞曲集』の校正譜を見入っている。どの音符、どの小節にも、あの宿屋の部屋で汗をかいて真っ赤な顔をしていた大勢の人たちの 顔が見える..
.あの夏の熱い日、夜空に輝く星、愛のささやきのように音を立てていたオンドジェイニツェ川、あの夜に踊り、今は永遠の眠りについた人々の思い出に、そしてわが故郷ラシュスコ地方の賞揚のために、この急流のように流れる小さな音符と、時にささやき合ったり考え込んでいるかのような、愉快な旋律に満ちたこのスコアを世に送る。願わくばこのスコアが、喜びと笑顔を呼ばんことを。」
この年も、例年と同じように過ぎていった。毎日彼はカミラに長い熱烈な手紙を書き送り、作曲を続けた。その頃カミラの母親の病気が悪化しており、今年の夏はルハチョヴィツェに行けないとカミラが知らせると、ヤナーチェクは落胆と怒りのあい半ばする返事を書き、カミラにたしなめられるという一幕もあった。
結局ヤナーチェクは、7月1日にひとりでルハチョヴィツェに向かった。
1928年8月15日のナーロドニー・ノヴィニ紙によれば、この最後のルハチョヴィチェ滞在の時の彼の様子は、「まだ生気に満ちていて、毎日同じ時間に遊歩道を歩いていた。いつも白いスーツに入念に身を包み、誰にも暖かい微笑で会釈していた。」
ヤナーチェクはこのルハチョヴィチェでの療養の成果に上機嫌だった。彼自身の見立てでは、リューマチはすっかり良くなったようだった。しかし、その療養は熱い泥の風呂に入るというもので、彼の心臓には良くなかった。それに彼はルハチョヴィツェでの療養の間に菜食を続けたために、体重が8キロ減り、病人のような姿でブルノに戻った。召使いのマリエはやせ衰えて庭を散歩しているヤナーチェクの姿に目を見はり、ズデンカはたまりかねて言った。
「そんな無茶をして、肺炎にでもなったらお終いよ。」
ヤナーチェクは頷いて、静かに言った。
「そうだ、そうだな。」
2週間後に、それは現実になった。
ブルノに戻ると、ヤナーチェクはカミラ夫妻とその子とともにフクヴァルディに行く計画を立てた。カミラの母親が7月17日に亡くなったので、「気分を変えるため」というのが名目だった。
出発の日1928年7月30日はズデンカの誕生日だったが、ヤナーチェクは荷造りを済ませ、駅で待つシュテッセル夫妻とその11歳の男の子のもとに向かおうとした。鞄に『死者の家から』の第三幕のスコアを詰め、ピアノの蓋を閉めると、彼は思いに耽って言ったという。「準備は終わった。それにしても、二度と戻らないような気がする。」
そしてタクシーが来ると、ヤナーチェクはズデンカに手を差し出してキスしようとしたが、ズデンカは顔を背けた。短い会話を交わすとヤナーチェクはタクシーに乗り込み、駅に向かった。これが夫婦の永別となった。最後までヤナーチェクとズデンカの生き方は、交わることはなかった。
しかしフクヴァルディに着いたヤナーチェクは、喜びにあふれていた。この日のために彼は二階を増築して寝室を造り、電灯を入れ、庭を手入れしていた。到着して数日するとダヴィット・シュテッセルは商用という口実で去り、彼はカミラと、可愛がっていた夫妻の息子オットーと共に過すことになった。
それはヤナーチェクにとって夢のような日々だった。
昼間は3人は家族のように散策に行った。夜になると彼はひとりオルガンに向かって和音を試し弾きしながら、カミラの持参したアルバムに小曲を書き入れた。その中で、8月5-7日頃に書かれた『君を待つ』という小品が彼の絶筆となった。
その頃の3人の訪問を受けた人の回想が残っている。
「マエストロの晩年で、あの時ほど陽気で機嫌が良く、喜びで一杯のところを見たことはなかった。彼の目は幸福と満足感とで輝いており、生命と活力で満ちあふれているように見えた。」
「私は取りかかりたい題材が一杯ある。もう『死者の家から』は書き上げたから。これを改訂し、あれを仕上げたい。心は準備ができているし、体はまったく健康だからね。」と彼は言った。」
しかし、運命は一変した。
8月8日、3人は連れだって家の近くの丘の森に散策に行った。その時、急な坂道を登ったり下りたりして彼は汗をかき、雨に降られて風邪をひいた。
その日の夜のうちに彼は発熱した。翌日フクヴァルディの村医らが診断したところ、肺炎の兆候が見られた。両医師とフクヴァルディの村長はヤナーチェクに、ブルノかオストラヴァの病院に入院するよう口やかましく勧めたが、ヤナーチェクは拒否した。
しかし8月10日の朝になると、病状はひどく悪化したので、彼はオストラヴァのクライン博士のサナトリウムに行くことに同意した。救急車に乗り込む時、ヤナーチェクは看護人に冗談を飛ばした。「ふむ、早く治して連れ戻してくれよ。」しかし、オストラヴァのサナトリウムに着いた時は体温はカ氏104度を示し、X線写真で右肺の下部に炎症を起こしていることが確認された。
ヤナーチェクは重体であった。ズデンカは後に「入院した時は、もう手後れだった」と聞かされた。治療に当たった2人の医師は、ヤナーチェクの心拍を高め、血圧低下を食いとめるために注射を行った。
1928年7月 ルハチョヴィツェにて
クライン博士のサナトリウム
収容された病室
8月11日の土曜日、ヤナーチェクの容体は好転し、彼のベットはたちまち作品の原稿で埋った。「お願いがある。」ヤナーチェクはコルベル博士に言った。「あの若い医師たちが、始終注射するのを止めるように言ってくれないか。仕事の邪魔だから。」
その夜のうちに容体は急変した。ヤナーチェクは次第に自分が死に直面していることを悟り始めた。咳が続き、呼吸が困難になった。そして精神的な疲労感が襲った。グロス博士は徹夜でヤナーチェクのベット脇におり、心臓の働きを上げるために、アドレナリンの濃度を徐々に強くして注射したが、いくら高くしても効果は無かった。その日の夕方、彼は友人に手紙を書いていたが、午前2時頃に書いた文章が遺書となった。
あとに残ったのは死との苦痛に満ちた絶望的な戦いだけだった。一時意識が戻った時、彼は注射を拒否して言った。「こんな状態で生きるより、死にたい。」最後の夜に看病に当たったボジェナ・セドラコヴァー看護婦によれば、彼は冷布に身を包むことさえ拒否して、自分は死ぬのだから無駄だと言ったという。しかし持ち前の反抗心はまだ健在だった。看護婦たちが、神に祈りますかと問うた時、彼は言った。「看護婦さん、あなたは私が何者か知らんようですな。」
高熱による半昏睡状態に陥った瞬間、彼は叫んだ。「戻らなくては。ほら、あの子は見つけたぞ。」彼の意識はフクヴァルディの山野をさ迷っていたのだった。翌8月12日日曜日の早朝、彼は最初の心臓発作に襲われ、その後は急速に衰弱した。9時頃、ヤナーチェクは昏睡に陥った。血圧は下限まで降り、意識はなくなった。その状態で心臓の鼓動は止み、1928年8月12日の朝10時ちょうどに、彼は静かに息を引き取った。
カミラが何も知らないズデンカに電報を打ったのは、その時になってからだった。病院側がズデンカに連絡を取ろうとすると、ヤナーチェクはひどく不機嫌になって断ったからである。「マエストロジュウビョウ スグキタレ カミラ」
ズデンカはその日の朝、教会の礼拝から帰宅してから電報を受け取った。彼女は真相を直感したようである。取り乱しながらも彼女は友人たちに事の次第を伝え、共にオストラヴァに向かった。
その日の午後5時頃、一行はオストラヴァのクライン博士のサナトリウムに着いた。そしてズデンカはヤナーチェクの死の次第を聞かされ、ホテルに引き払ったカミラと会いに行った。誰にとっても不幸な対面であった。死の直前にヤナーチェクはカミラが有利なように遺書を書き替えており、決着は法廷に持ち越された。
その頃、ヤナーチェクの死の知らせはブルノの街に広がっていた。しかし最初は誰も信じようとしなかった。「若い老人」のかくしゃくさは、街で知らぬ者がいなかったからである。夕方、ブルノ歌劇場でその報を聞いた指揮者フランチシェク・ノイマンは、スメタナの『売られた花嫁』第2幕の後で、ヤナーチェクの死を満員の聴衆に告げた。聴衆はすぐに起立して、亡き作曲家に弔意を捧げた。
オペラの上演が終わると、ベートーヴェンの第3交響曲の第2楽章が追悼のために演奏された。舞台の上ではヤナーチェクのオペラの役を何度も初演した歌手たちが、頭を垂れて立ちつくしていた。
やがて棺はブルノに運ばれ、旧ブルノの聖アウグスティノ修道院の聖堂の祭壇に安置された。こうしてヤナーチェクは、幼い聖歌隊員として音楽家としての第一歩を踏み出した場所で、地上での旅を終えたのである。
その日の夕方、ガラス窓の付けられた棺から、ヤナーチェクの最後の姿を見た人の回想が伝わっている。
「もう夕方だった。最初は白い小さな手しか見えなかった。両手は組まされ、十字架を握っていた。大変に小さく、まるで婦人の手のようだった。近ずくと、彼の美しい高貴な額と、濃い眉毛と、かつて情熱的な表情を映し出した、特徴的な突き出た頬が目に入った。瞼は強く閉じられ、唇には苦い微笑が浮かんでいた...誰も礼拝堂に入ってこないのは不思議だった。少なくとも、彼の生きているような雰囲気を乱そうとする者はいなかった。彼のラシュスコ方言の口早な喋りかた、奇妙な、体を揺らしながらの足取りと身振りが生き生きと目に浮かんだ。あれほど多くの作品に命を吹き込んだ彼が死んだとは信じ難かった。」
8月15日の朝8時、修道院長が遺体に聖水を注ぎ、棺はブルノの歌劇場に運ばれ、花束と蝋燭が山のように捧げられたホワイエに安置された。朝10時半に葬儀が始まり、オタカール・オストルチル,マックス・ブロート、オスカル・ネドバルといった著名な芸術家が大勢参列した。
歌劇場オーケストラは、アーノルド・フレーゲルの独唱、フランチシェク・ノイマンの指揮で、『利口な女狐の物語』の猟場番のエピローグを演奏した。かつて『女狐』の初演の見事な演奏に感激したヤナーチェクが、「私が死んだら、あのエピローグを演奏して欲しい」と言ったのを、彼らは思い出したのだった。「人々は頭を垂れて、悟ることだろう。 天の息吹が周りを吹き渡ったことに...」
弔辞が読み上げられた後、スタニスラフ・タウバーらの独唱と、ベセダ合唱団、ブルノ歌劇場オーケストラが、ドヴォジャークの『レクイエム』の前半を演奏した。
それから棺は、ソコルのメンバーが礼装して護衛する中をホルンの吹奏につつまれて運び出された。花に包まれた3台の馬車が先導し、長い葬列がパラツキー通りから進み出し、中央墓地へと向かった。
ここで、埋葬式のあと棺は墓穴に下ろされ、再度ホルンの吹奏が響き渡った。そしてフランチシェク・ノイマンが永遠の別れを告げた。歌劇場の合唱団が国歌を歌い、葬儀は終わった。
聖アウグスティノ修道院の聖堂
1928年8月15日 ブルノ歌劇場にて
ヤナーチェクの墓
人々は墓地を後にしてブルノの街に帰って行った。やがて日は落ちて、ブルノの街には明かりが灯った。
それから70年が経ち、彼の音楽はブルノとチェコの街にとどまらず、世界中で演奏されるようになっている。
ヤナーチェクの死後、彼と親しかった者たちの死が続いた。1929年2月25日、ヤナーチェクの最高の協力者であったフランチシェク・ノイマンが肺炎のために55歳で死去した。1935年には、カミラ・シュテッスロヴァーが癌のため43歳の若さで世を去った。彼の死後10年の1938年2月17日には、数奇な運命を辿った妻ズデンカも死去した。
旧ブルノ音楽院の建物の裏手にあるヤナーチェクの家は空家となった。そしてヤナーチェクの全てのスコアと書類とは、ズデンカの遺志によってマサリク大学とモラヴィア博物館に遺贈された。
この頃から、チェコスロヴァキアの歴史には暗い影が差し始める。ズデンカの死後間もなくの1938年9月、ナチス・ドイツと英仏伊によるミュンヘン会談の結果、
ズデーテン地方はナチスに割譲されて、
マサリクの創ったチェコスロバキア第一共和国は分割された。翌年には、再建された第二共和国も、ナチスに屈服し占領された。
その後にチェコを襲った運命については、いうまでもない。ヤナーチェクと親しかった者たちも、悲惨な運命を逃れられなかった。ピーセクを占領したドイツ兵はユダヤ人墓地を蹂躪し、カミラの墓も破壊された。ヤナーチェクの優秀な弟子であった作曲家パヴェル・ハースはテレジン収容所からアウシュヴィッツに送られ、生きて戻ることはなかった。彼やヴィクトール・ウルマン、ギデオン・クラインといったユダヤ人作曲家たちが、極限状況のテレジン収容所で書いた作品が日の目を見たのは、つい最近のことである。
プラハとブルノで、ヤナーチェクのオペラの舞台装置を数多くデザインしたヨゼフ・チャペックも反ナチス運動のために逮捕され、死の詳細は未だに明らかではない。
Jチャペック 「ナチス教育の大原則」1933年5月
遺作「お前たちは生きのびて、もっといい世界が
来るのを見届けるのよ」 1938年10月
第二次大戦が終わっても、チェコ、スロヴァキアの苦難は続いた。まず、むき出しの憎悪が領内のドイツ人に向けられ、250万人のドイツ人がチェコを追放された。ナチス占領下で何万ものユダヤ人やパルチザンの命を飲み込んだテレジン収容所には、今度は強制送還されるドイツ人市民が収容され、その多くが病気と飢えで死んだ。
1948年には共産党がクーデターで政権を奪取し、またも多くの亡命者を生んだ。作曲家ボフスラフ・マルチヌー(1890-1959)をはじめ、生きて故国に戻れなかった者も少なくない。
そして、1968年の「プラハの春」事件。
しかし、亡命したチェコの音楽家たちは各国でチェコの音楽を紹介し、国内に残る道を選んだヤナーチェクの弟子たちは、ブルノの音楽院と彼の音楽を後進に伝えた。その中で、最も若い教え子のひとりだったピアニスト、ルドルフ・フィルクシュニー(1912-1996)は日本にも数度来日し、晩年にも見事なヤナーチェクのピアノ曲の演奏を聴かせてくれたことはまだ記憶に新しい。
戦後、チェコの演奏家たちによって日本に紹介され始めたヤナーチェクの作品も、音楽評論家の佐川吉男、関根日出男、故石井不二雄氏らによる長年にわたる評論と研究、アマチュア合唱団による数々の合唱曲の初演、長門美保歌劇団による『イェヌーファ』日本初演(1976)などを通じて、今日では日本人の手で多くの演奏会場で演奏されるようになった。
そして彼がモラヴィアの森と大地から見つけ出し、大きく開花させた芸術が、21世紀にも残る古典としてさらに広く演奏されることを信じ、このささやかな一冊がその一助になることを祈りつつ、稿を終えたいと思う。
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