17.同時代の音楽と

ヤナーチェクはこうして次々に作品を完成させていったが、同時代の音楽に没交渉になったわけではなかった。それどころか、晩年に入ってもヤナーチェクほど同時代の音楽を積極的に聴き続けた作曲家は珍しいのではないだろうか。

若い日から、ヤナーチェクは未知の作品や新作を聴く機会を決して逃さなかった。プラハ留学中にスメタナの『我が祖国』の一部が初演されると聞くと、窮乏の中でチケットを工面しているし、ライプチッヒ留学中にはニキシュ指揮のゲヴァントハウス演奏会に足繁く通った。プラハに国民劇場が、そしてブルノにチェコ歌劇場が開設されると、ヤナーチェクは未知のオペラ作品を次々に聞き漁った。

ミルカ・ゼマノヴァーは著書「ヤナーチェクの未収録音楽エッセイ」の中で、ヤナーチェクが耳にした同時代の代表的な作品を挙げている。それを見ると、ヤナーチェクは決して田舎に孤立していた作曲家ではないことが窺える。

ブルノ歌劇場
マスカーニ『カヴァレリーア・ルスティカーナ』1892年
レオンカヴァッロ『パリアッチ』1896年

ヤナーチェクはこの他にも、チャイコフスキーやスメタナの作品を多数ブルノで聴いている。

プラハ国民劇場
シャルパンティエ『ルイーズ』1903年
ヴェルディ『トスカ』1903年
プッチーニ『マダム・バタフライ』1908年
R.シュトラウス『サロメ』1906年
-"- 『エレクトラ』1910年
(ヤナーチェクの書斎には、書き込みのある『薔薇の騎士』のヴォーカルスコアが残されている)

ゼマノヴァーは続けている。「プラハを訪問した際、ヤナーチェクはヨーロッパのアヴァン・ギャルドの作品を聞く機会もあった。1916年には彼は新ドイツ劇場で、ツェムリンスキーの指揮するシェーンベルクの『浄められた夜』を聴いた。チェコフルハーモニーの演奏会では、1916年から1926年の間にブゾーニ、レスピーギ、ストラヴィンスキーらの作品を聴いている。」

またヤナーチェクは、若き日に愛好したサン・サーンス以後のフランス音楽にも無関心ではなかった。1921年にはドビュッシーの『海』を楽曲分析したノートを書き残している。1924年、アメリカの新聞記者のインタビューに答えたヤナーチェクは述べている。
(ニューヨーク・タイムズ 1924年7月13日号)

「『ペレアスとメリザンド』はお好きですか?」
「ある程度まではね。しかし、メロディが少なすぎる。会話であり過ぎて、歌が少なすぎる。メロディは音楽作品の中で無二のものだ。それに私はドビュッシーがよりも、もっと交響楽的なスタイルと音楽的な朗誦のバランスが取れた音楽が好きだ。

私のオペラでは、オーケストラは歌手から楽句をき取って、それを拡大する。楽句はまごうことない真実のもので、楽器は人間の声が出来ないようなやり方で、それに含蓄を与えるのだ。オペラは有機的な総合体でなければならない。そして真実の披瀝と、作曲家が自分の創造的精神から生み出した歌とに等しく基づいていなければならない。」

こうしたヤナーチェクの新しい音楽への好奇心は、年を取っても衰えるどころか、かえって強くなったように見える。絶好の機会となったのは、1922年に「国際現代音楽協会」(ISCM)が設立され、ヨーロッパの各都市で現代音楽を演奏するフェスティヴァルを定期的に開催するようになったことだった。ヤナーチェクもザルツブルクの第1回大会(1923年)から招待され、自分の室内楽作品を出品した。そして他の作曲家たちの作品を熱心に聴いた。



第一回大会のチラシ


『コンチェルティーノ』は、ヤナーチェクが当時の現代音楽に受けた影響を感じさせる作品と言えよう。編成はピアノに2つのヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネット、ホルンとファゴットと風変わりだが、こうした通常の楽器の組み合わせから外れた特異なアンサンブルは、当時ストラヴィンスキーやヒンデミットらが実践して一種の流行になっていたからである。

彼はこうした楽器の組み合わせから、自分の音楽世界を新たな響きで組み立てることを試みた。この曲は1925年1月-4月にかけて、『マクロプロスの秘事』と並行して書かれたが、ヤナーチェクは4月23日にフクヴァルディからカミラに宛てた手紙で記している。「私は『春』というピアノコンチェルトを作曲した。この中にはこおろぎや羽虫や鹿や流れの急な小川が登場する。そしてー1人の男も。」ヤナーチェク版『森の情景』とでも言えようか。

ヤナーチェクはチェロとピアノのための『おとぎばなし』や『フィドル弾きの子供』の場合のように、各楽器を登場人物に見立てて、その掛け合いによる劇を描こうとしたことであろう。この曲のユーモラスな、時にはグロテスクな響きと各楽章毎に違う楽器の掛け合いは、実演で見ると様々な筋書を想像させる。

しかし、ヤナーチェクは12音技法には決して組みしなかった。晩年には、そうした現代音楽の潮流にはっきりと反対していたことが、様々な著述やインタビューに読み取れる。前掲のロンドンでのスピーチで彼は語っている。

音の響きの性質だけしか眼中にない音楽など問題外です。私が作曲家として成長し続けるならば、それは民謡と人間の言葉を通じてです...音響の性質だけの音楽で頭角を現している連中には、ただ笑ってしまいます。

音の響きの性質しか眼中にない音楽−ヤナーチェクが何を念頭に置いてたかは明らかだろう。

1925年、現代音楽協会は、プラハでの大会の後に今度は10月3日から8日にかけてヴェニスで室内楽のフェスティヴァルを行った。チェコの音楽としてヤナーチェクの『弦楽四重奏曲第1番』が出品されることになった。ヤナーチェクにとっては初めてのイタリア訪問で、彼は『マクロプロスの秘事』の筆を一旦置いて、ズデンカを連れて出発した。

彼はテアトロ・フェニーチェ劇場でのISCMの演奏会に欠かさず足を運んだ。

この時の大会では室内楽のコンペティションが行われ、出品した作曲家を列記してみると、実に豪華なものだったことが分かる。ストラヴィンスキーのピアノソナタの自作自演、シェーンベルク、ヒンデミット『室内音楽第2番』、ラヴェル『ツィガーヌ』、ルーセル、オネゲル『チェロソナタ』、フォーレ『幻想の水平線』、シマノフスキー、ヴォーン・ウイリアムス『3つのロンド』、マリピエロ、イベールなど。

ちなみに、前年に死去していたフォーレを除いて、列記した作曲家の平均年齢は約44歳、ヤナーチェクは71歳であった。


ヴェネツィア大会にて
ヤナーチェク夫妻
(左)と助手ヤン・ミコタ(右)
ストラヴィンスキーとカセッラ ヴェネツィア大会で『セレナーデ』
作品24を指揮するシェーンベルク
(B.F.ドルビンによるカリカチュア)

ヤナーチェクが帰国してから「リドヴェー・ノヴィニ」紙11月8日号に寄稿したエッセイには、彼が耳にした作品について興味深い感想が見られる。

「私はこうした現代音楽のフェスティヴァルが好きだ。28人の作曲家が多数の作品を出品したが、互いに似ている作品は一つもない...しかし陽気な音楽を書くために、無用の労力が浪費されている。」

ジャズを取り込んだ作風で、当時注目を集めていた新作を聴いて、ヤナーチェクは音楽と笑いについて思いを巡らせた。

「私はルイ・グリューエンベルク(注)の『ダニエル・ジャズ』ほど技法的に救いようがなく、粗野な曲をかつて聴いたことがない。...この曲はどうやって笑うかを知っているが、それは笑いを生まない笑いだ。機知も皮肉も、ユーモアも陽気さもない音楽...それにしても当近これほど陽気な音楽の需要があるとは!」

(注)Louis Gruenberg(1884-1964)
ロシア生まれのアメリカの作曲家。ベルリンでブゾーニにピアノを師事。黒人霊歌やジャズを取り入れた作風で知られた。

そして、共感出来ないにせよ、完成度で印象に残ったのはシェーンベルクとストラヴィンスキーの作品だったようだ。

「アーノルド・シェーンベルクが、作品24のセレナーデで物にしたのは、ウイーン風のマンドリンかギターの鼻歌に過ぎない...出品作品の長所・短所は、作曲者が作曲技法というものは排他的なものではないということを知っているかいないか、人間の思考を全体として把握しているかいないかによって分かれた。

そして「していない」方の代表はストラヴィンスキーのピアノソナタであった。ロマンチズムの作品もあった(A.M.シュナーベルのソナタ、アルベール・ルーセルの『フルート奏者』、マリピエロの『イタリアの季節』)。古典派の名残りもあった(エーリッヒ・コルンゴルドとシマノフスキーの四重奏曲)。そして何やら別の、健康的で厚かましい曲もあった。(マリオ・ラブロッカ、ヴィットリオ・リエティ)」

イタリアの陽気な聴衆とお祭り的な空気は、ヤナーチェクを時に面食らわせ、時に面白がらせたらしい。

「テアトロ・フェニーチェの観客席には、ゴンドラ競争のような雰囲気が漂っていた。バスタ(引っ込め)!バスタ!もういい!と聴衆はシュナーベルのソナタに叫び、笑い、トランペットを奏でる天使(カール・ラッグレス)に口笛を吹きはやした。しかしある高名なドイツの音楽評論家も、シェーンベルクのセレナーデを聴いて、「ベルリンのルンペン」とぼそりと言っていた。」

しかしヤナーチェクは、最後に微妙な含みのあることを言っている。

「だが私はこうした現代音楽のフェスティバルが好きだ。
バスタ!バスタ!とこうしたフェスティバルで叫んでも無駄なことで、春たけなわの自然に向かって、花よ咲くなと命令するようなものだ。たとえ彼らの音楽がいばらやアザミのトゲや野薔薇のハリだらけだとしても、私はそこに、止めようもない勢いで音楽が発展し花開いているのを聞き取るからである。」

ヤナーチェクは若い作曲家たちに伍して、「いばらやあざみのトゲや野薔薇のハリだらけの曲」を書いてみたいという「きまぐれな」衝動に駆られたのだろうか。『コンチェルティーノ』を完成して約一年経った1926年6月ー10月の間に、ヤナーチェクは『グラゴル・ミサ』と並行して、ピアノとフルート(ピッコロ持ち替え)、2つのトランペット、テノールチューバと3つのトロンボーンによる『カプリッチョ』を作曲した。

そもそものきっかけは、第一次大戦で右手を失ったピアニスト、オタカール・ホルマンが、左手だけで演奏できる作品をヤナーチェクをはじめチェコの各作曲家に依属したことだった。例えばマルチヌーの『ディヴァルッティメント』も、同じホルマンの依頼で書かれた。

私はこの曲はヴェネチアで聞いた作品の反映のような気がしてならない。『カプリッチオ』という曲名も、弦の加わらない吹奏アンサンブルが繰り広げる曲の響きは、ジャズの影響さえ感じさせる。

ヤナーチェクは、さらに彼らしい曲も書いた。それが『わらべ歌』である。この曲の最終稿もまた1926年に完成した。

この小曲集を作曲するきっかけとなったのは、『利口な女狐』と同じく今度もリドヴェー・ノヴィニ紙だった。この新聞の子供向け増刊号には、ことわざやおとぎばなしめいた語呂遊びの歌と、その情景を絵にしたヨゼフ・ラダらによるよる挿絵が掲載されていたが、その思わず吹き出してしまうような絵と詩のユーモアが、ヤナーチェクの創作意欲をかき立てたのである。

まず1925年の夏の休暇にヤナーチェクはこれらの歌のうち8つを、3人の女声合唱とクラリネットとピアノのための曲に作曲したが、1926年末までに曲を19曲まで書き足して、9人の歌手と10人の奏者(フルート2(第2フルートはピッコロ持替え)、クラリネット2(共にE flat管)、ファゴット2(第二ファゴットはコントラファゴット持替え)、それにオカリナ、おもちゃの太鼓、コントラバスとピアノ)のアンサンブルのための曲に拡大した。

冒頭の行進曲を全員が揃って歌うと、始まり始まりといった感じで小太鼓が鳴り響き、全18篇の詩が次々と違ったアンサンブルで歌われる。その各楽器がそれが詩の情景を描いたり、動物や子供が歌う歌の相づちを打ったりふざけあったりと小さなお芝居を思い思いに演じて、最後の曲では、冒頭のマーチが戻ってきて、動物と子供たちは浮かれて踊りながら退場していく。

この生き生きとした笑いに満ちた小品は、ISCMのヴェニス大会で聴いた、呆けた笑いのような曲への、ヤナーチェクの解答なのだろう。

クリスマスの直前に『わらべ歌』は完成した。そして、この多作な年の最後を飾ったのは、12月18日に国内外の招待客を多数集めて、『マクロプロスの秘事』のブルノ初演が行われたことであった。指揮はフランチシェク・ノイマンが取り、演出はオタ・ジーテク、そしてヨゼフ・チャペックが舞台装置を担当した。

1927年は、前年とは対照的なことに、ヤナーチェクは新作を発表しなかった。2月上旬から、彼は新作のオペラにかかりきりであったのである。それは彼の最後のオペラ『死者の家から』だった。

その間に、ヤナーチェクの作品はドイツをはじめとする各国で次々に演奏されるようになっていた。同年3月、国外でのヤナーチェク作品の最も熱心な紹介者であったオットー・クレンぺラーは、『シンフォニエッタ』をニューヨークで演奏し、9月にはベルリンでも演奏した。

しかし、ヤナーチェクにとってはそうした社会的な名声よりも大事なものがあった。カミラへの思慕である。

けれど、この時点ではこれは本当の意味の愛ではなかった。ヤナーチェクは日常生活からはもう生まれない自分の情熱を呼び起こしてくれる存在として、カミラを愛した。同年5月30日付の手紙で、彼は打ち明けている。「ズデンカが望むように生きることは、私には出来ない。拷問よりひどいことだ。それに私は自由に考え、感じることを奪われるつもりはない。君は私にとって大気のように必要だ...家の砂漠のような生活からは、作品は何も生まれなかっただろう。」

6月8日「私たちの間には、美しい世界しかないのは確かだ。しかし、何と美しい欲望、望み、そしてTy がその中にあることだろう。そして、全部はみせかけだけのものだ。」ヤナーチェクはこの頃からTy(親しい二人称)をカミラへの手紙に使い始めた。そして、ピーセクに行く回数も次第に多くなっていった。

この仮想の愛は、彼が老いを感じはじめるのに反比例してエスカレートしていった。それは麻薬患者が普通の麻薬に慣れてしまって、次第に濃度の高い麻薬を注射するようになるのに似ていた。

そうした最中、6月29日から7月4日にかけて、フランクフルト・アム・マインで国際現代音楽協会の第5回大会が開催され、『コンチェルティーノ』もフランクフルト歌劇場のメンバーらによって演奏されることになった。ヤナーチェクは今度も勢い込んでフランクフルトを訪れた。

彼の晩年まで衰えることのなかった音楽への熱意は、同行したブルノ歌劇場オーケストラのコンサートマスターで、モラヴィア弦楽四重奏団のリーダーでもあったフランチシェク・クドラーチェクによって印象深く描かれている。彼とピアニストのイロナ・クルゾヴァー、そして音楽院のクラリネット科の教授クルチカは、一回しかないリハーサルで『コンチェルティーノ』を演奏するために、応援として同行したのだった。

「フランクフルトでは『コンチェルティーノ』に割り当てられたリハーサルはわずか一回で、演奏当日の午前に行われたが、それは歌劇場管弦楽団の団員がこの大会のリハーサルに追いまくられていたからだった。ヤナーチェクはイロナとの夫ヴァーツラフ・スチェパーンとともにリハーサルに立ち会った。

リハーサルは波乱を含むことになった。というのも団員は大会のための休みなしのリハーサルに疲労困ぱいしていて、真剣に仕事をしようとする気などなかったからである。彼らは明らかにヤナーチェクの曲を過小評価していて、各奏者に特別の要求が課せられているとは知らず、一回通して練習するだけで事足りるだろうと考えていた。彼らは自分のパート譜にざっと目を通し、表面的には単純に見えるために、大丈夫だろうとたかをくくったのだった。

われわれはリハーサルを始めた。私の隣にいたヴィオラ奏者はのんびりと足を組み、煙草を口にくわえてふかしつづけながら、時々音を鳴らした。ほかのメンバーも大差なかった。

最初の数小節が終わると、ヤナーチェクははじかれたように立ち上がって、その不運なヴィオラ奏者のところに駆けて行った。「ああ君、いったい何を弾いていると思っているんだ。何の夢を見ているんだ。」彼は足を踏み鳴らし、大声を上げてどのように演奏するべきか何箇所かを歌って聞かせた。

驚いたヴィオラ奏者は、典型的なヤナーチェクの音型ひとつを何度も繰り返して未知の様式を理解しようとし、そのうち煙草が口から落ちたが、もう彼には吸おうという気はなかった。ほかの団員たちはその光景を目を丸くして見ていたが、私は激しい喧嘩になるのではないかとはらはらした。

しかし私はすぐ後のリハーサルで分かったのだが、彼らドイツ人演奏家たちは優れた芸術家で、音楽性への勘によって、自分たちの前に立っているのが「なかなかの人物」であることを見抜いたのだった。そして彼らは今度は熟練の腕を振るい、イロナの正確で美しい演奏に魅了されて、自分たちが演奏しているのは新鮮で美しい作品であると悟り、リハーサルを熱心に行った。

その夕の曲目には、カセッラらの現代作曲家の作品が含まれていた。自分の作品が演奏されている間、作曲家たちはみな舞台の袖でそわそわしながら足を組んで待っており、演奏が終わると舞台に飛び出していってお辞儀をした。ヤナーチェクだけは聴衆に混じって前列の席で聴いていた。彼の作品が喝采を浴びると、彼はそこから立ち上がって嵐のような拍手にこたえた。彼の美しい印象的な白髪は聴衆の目を引き、驚かせた。今聴いた曲から、彼らは反逆的な若者を想像していたのだった。」

また、大会の期間中に「諸国民の生活の音楽」という博覧会が開催され、そこにヤナーチェクはスロヴァーツコのミヤヴァ村の楽団を連れてきたが、彼らの演奏会は大変な人気を呼んだので、滞在を何度も延長せざるを得なかった。『コンチェルティーノ』の演奏の翌日にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮による管弦楽の演奏会が行われて、ニールセンの交響曲第5番とバルトークのピアノ協奏曲第一番が、バルトーク自身の独奏で演奏された。

ヤナーチェクとバルトークはスロヴァキア民謡の研究を通じて名前を知っており、ヤナーチェクはバルトークの演奏会をモラヴィアで開催しようとしたこともあった。

バルトークがヤナーチェクに献呈した『ハンガリーの民謡』。
右上に自筆の献辞が見える。


ヤナーチェクはブルノに戻ると、またルハチョヴィッエ、フクヴァルディ、プラハを訪れながら、『死者の家から』の作曲に没頭した。

その年の3月、ヤナーチェクはあるドイツの新聞から、ベートーヴェンの現代音楽への影響について寄稿するよう求められた。72歳のヤナーチェクがそれに応えて書いた文章は、青年のような覇気と熱情が込められている。

「ベートーヴェンの作品は私に霊感を与えることは一度もなく、私を夢中にすることもなかった。それらは私を忘我の域に至らせることはなかった。私はそれらの作品の根底に、あまりにも早く到達してしまったのである。私はその広大な音の流れに、空に浮かぶ雲と青い空を感じた。その旋律という太陽は、どの小さな雲の上にも輝き、すべての影を消散させた。そしてその上には、月の光が輝き渡ったのである。

しかし、それが何になるのだろう。私は雲そのものをこの手でつかみたい。空の青さでこの目を溶けこませたい。この拳に太陽の光線を握りしめたい。影のなかに飛び込みたい。私は泣きながら熱望の核心に入っていきたい。しかもすべてを心を震わせながら行いたいのだ。」

ヤナーチェクの激情と音楽への情熱は、心のなかで燃えさからんばかりだった。そして体もまだ丈夫だった。その年の9月には、妻と友人の画家フランチシェク・オンドルーシェクとともに、フクヴァルディの近くのラドホシュチ山(1129m)に登っている。そこから彼はフクヴァルディの我が家に行き、馬車を借りて周辺の村を子供のように遊んで回った。

しかし、歳月に気が付かされる出来事もあった。かつてオルガが元気だった頃に、一緒に夏の休暇を楽しんだ友人たちは多くが他界していて、夫妻は「残ったのは私たちだけだね」と言い合ったという。そんなある日、彼は馬車でブルノ・オルガン学校の第一期生で、昔民謡収集旅行によく同行した弟子フランチシェク・コラジークを訪ねた。

かつて28歳の「ヤナーチェク先生」の下で学んだ15歳の少年も、最早60歳に手の届く年齢になっていた。コラジークはヤナーチェク夫妻との久々の再会を大いに喜び、3人は楽しい時を過したが、フクヴァルディに戻って2日後、夫妻はコラジークがその夜死去したことを知らされたのだった。

ヤナーチェクは一見何も変わらなかった。休暇が終わってブルノに戻ると今度はクレンペラーが指揮する『シンフォニエッタ』のベルリン初演のためにベルリンに向かった。カミラへの思慕は相変わらずどころか、激しさを増す一方だった。その年の10月から12月にかけて、彼はシュテッセル夫妻の家に毎月3、4日を過ごしている。

しかし、老いの影は見えない所で忍び寄っていた。11月30日付のカミラへの手紙には、こんなくだりがある。「私は次から次へと作品を書き上げている。まるで人生の精算が迫っているかのように。」


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