16.自然への愛、新たな生命への賛歌


ヤナーチェクが『カーチャ・カバノヴァー』にかかり切りになっていた1921年には、『消えた男の日記』(4月)、『タラス・ブーリバ』(10月)の初演が行われ、『カーチャ』も完成するとすぐにブルノ歌劇場によって初演された(11月)。ノイマンの指揮によるヤナーチェクのオペラ初演はこれが初めてだったが、結果は大成功であった。

『イェヌーファ』のブルノ初演のように聴衆は熱狂し、第1幕の後で歌手たちは10回以上も舞台に呼ばれ、ヤナーチェクも呼び出された。彼は「印象的な優しい微笑をたたえていた。お辞儀をする時何かもごもごと口を動かしたが、聞こえなかった。若々しく、精力にあふれた老人が、彼の情熱が生んだ、魔法のような音がまだ鳴り響いている舞台に立っているのを目にするのは、実に感動的だった。」とマックス・ブロートは回想している。

7月上旬、ヤナーチェクはスロヴァキアのタトラ高地で休暇を過ごし、湖や峡谷を訪れて、変化に富む自然を満喫した。7月18日に彼は「リドヴェー・ノヴィニ」紙に自分が訪れた地について寄稿している。

「私は歌ってみたいと願う。これらの山々の荘厳さ、しのつく雨、空気を冷たくする氷、牧草の中に咲く花、雪原を。天を突くような山々の輝く頂上、幽霊がいそうな暗い夜の森、鳥たちの恋の歌、餌食となった鳥の勘高いさけび声を。昼間の夢見るような沈黙や、何千もの虫たちのハミングのトレモロを。そして、神が与えたもうた我らの国境の自然の防壁を!」

このヤナーチェクの願いは、間もなく次のオペラで実現することになった。

もうひとつ、ヤナーチェクが自然を舞台にしたオペラを書く契機となる出来事があった。この年の年末に、ヤナーチェクはフクヴァルディに自分の家を手に入れたのである。

彼は毎年一家の長年の友人のスラーデク一家の許に逗留していたが、家計に余裕もできたので、前年に亡くなった弟フランチシェクの家を未亡人から購入したのだった。
フクヴァルディの別荘

ヤナーチェクは陽の当たる地階に自分の書斎をしつらえ、かつての恩人レーナー神父に貰った書物机を据えつけて、ハーモニウムに向かって作曲した。果実園と椅子を置いた庭もあり、めんどりたちが歩き回っていた。そしてヤナーチェクは休暇のたびに帰郷して愛する故郷の地をさまよい歩き、四季の移り変わりや折々の草木を楽しみ、時には森で動物たちに出会ったりしながら作曲の想を練った。

そしてある日、ブルノの新聞に掲載された動物物語が、自然への愛をオペラにするための直接の契機となった。そのいきさつは、ブルノの新聞社の様子をありありと感じさせてくれる。

リドヴェー・ノヴィニ紙の美術部門の編集者は、当紙の売り物であった挿絵を準備するのを担当していたが、「適当な挿絵の記録的な不足」に頭を抱え、プラハの画家スタニスラフ・ロレクのアトリエを訪れた。ロレクは絵筆を取るかたわら、大の狩猟好きでもあった。

ロレクは今手元には何も無いと言ったが、編集者は床のそばの片隅に何かの絵が顔を出しているのに気が付いた。ひっくり返してみると、それはスケッチの束で、森の狐や動物たちを描いた連作のペン画だった。

彼は無理矢理ロレクから絵を買い取って、ブルノに持ち帰った。社に戻ると、編集長のアルノシュト・ハインリヒは、会社で酒盛りしていた。彼が早速買ってきたロレクの絵を見せると、ハインリヒは激怒して一喝した。しかし彼はそんなことをおくびにも見せずに、作家でリドヴェー・ノヴィニ紙のスタッフでもあったルドルフ・チェスノフリーデクに、この連作挿絵に詩を付けて欲しいと頼んだ。


しかしチェスノフリーデクはあまり乗り気でなかった。詩にふさわしい題材とはとても思えなかったのである。しかしブルノの北にあるアダモフの森を散策して、木こりの使う方言(注)を耳にした時、着想がひらめいた。そして彼は女主人公リシュカ・ビシュトロウシュカ(耳さとい女狐)の魅力的な物語を一気に書き上げた。

(注)これは非常に狭い地域で使われていた方言で、筆者の友人はフクヴァルディ出身のヴァイオリニストに見せたが、「僕には分からない」と返事されたという。かつて日本語訳を担当された千野栄一教授は、「チェコ大使館に行っても誰も読めないので、やむなく現地に行って尋ねてきた。」と述懐されていた。

こうして「ビシュトロウシュカ」は誕生し、リドヴェー・ノヴィニ紙に1920年4月7日号から同年6月23日の最終話(第51話)まで掲載された。すると編集長やチェスノフリーデクも想像していなかったほどの大きな反響を呼んだ。編集室には読者からの熱狂的な手紙が何通も届いたという。

ヤナーチェク家の長年の家政婦マリエ・ステイスカロヴァーも、ビシュトロウシュカの物語の愛読者になった。彼女はその物語をヤナーチェクに教えたくだりを、回想録の中で生描いている。

「リドヴェー・ノヴィニ」紙の朝刊は、いつも配達の少年が届けてくれました。夕刊は私がキオスクに買いに行きました。ビシュトロウシュカが掲載されるようになってからは、今日もまた載っているかしらと思いながら、帰り道で新聞を開いてみて、載っていれば家に急いで帰り、御主人に渡す前に素早く読んだものでした。御主人はいずれにせよお仕事をしていらっしゃって(注 この頃は『カーチャ・カバノヴァー』の作曲に没頭していた)新聞を読まれるのは夕方になってからでした。


ある時そんな風にして読んでおりましたら、ビストロウシュカが花を持ってズラトフルジュビーテク(男狐)と腕を組んで歩いている絵が載っていました。私は二匹が気取って歩いている姿を見て、思わず吹き出してしまったのです。

私が大声で笑うのを人が聞いているとは思いませんでした。というのも奥様は外出中でしたし、御主人は書斎にいらしたからです。ところが突然、御主人が台所の戸口に姿を見せました。

「きみ、何がそんなにおかしいのかね」
「ビシュトロウシュカです、御主人様。」
「ビシュトロウシュカった何だね」
「お読みにならないんですか。「リドヴェー・ノヴィニ」
に載っているチェスノフリーデクのお話です」

私は御主人に新聞を渡しました。御主人は絵を見て、文章を読み、笑みを浮かべはじめたので、私はこう申しました。「御主人様は動物がどんな風に話すかをよくご存知でいらっしゃいます。いつも鳥の鳴き声を書きとめていらっしますものーこれは素晴らしいオペラになりませんでしょうか」

御主人は何も言われませんでした。でも、ビシュトロウシュカが掲載された新聞を集めはじめました。それで次にどうなったと思います!御主人はチェスノフリーデクさんに会いに行かれ、チェスノフリーデクさんが家に来られて、二人は同意され御主人はビシュトロウシュカのために動物の研究を始められたのです。

毎朝6時に御主人は起きられると、カルロビ・ヴァリの鉱泉を飲んで...ルジャーンキ公園に鳥の鳴き声や木々の葉ずれ、マリハナバチの羽音を聞きに行かれました。御主人は生き生きとして満面に笑みをたたえて言われたものです。「誰も寝入っていて知らないとはね!」

チェスノフリーデクは、読者の大きな反響に半信半疑だった。そしてヤナーチェクが著者に是非会いたいと言っているのを聞くと躊躇したが、名指しの招待状を貰ったので行かざるを得なくなった。

「私の心は、冬の前の豚の屠殺の時に食料庫で捕まったビシュトロウシュカより重かった。(注 原作の一挿話のこと。)私は勇気を奮い起こして出かけた。

レオシュ・ヤナーチェクは音楽院の小さな庭で私を待っていた。彼は潅木のなかに 座っており、無数の小さな花が彼の頭の周りで輝いていた。彼の頭も同じくらい白く、一番大きな花のように見えた。彼は微笑んだ。私がすぐに悟ったのは その微笑は敵前での勇敢な行為に対して贈られる金の勲章のように、悲しみや屈辱や 怒りに勇敢に立ち向かった褒賞として、人生が与えてくれる微笑みであるということだった。

当時のヤナーチェク

その瞬間に私は信じた。ビストロウシュカは小さな庭にいる男の優しさ にすっかり手なずけられて、そこに座っていると。彼女は姿を見せないまま私たちの足元に来て座り、2人のたくらみに聞き入っているのだと。ヤナーチェクは 二言三言この物語に触れてから、私の知らないヴァラシュスコ地方の故郷の森や、鳥の歌の研究について語りだした。

こうして着想を得たヤナーチェクは、『カーチャ・カバノヴァー』を完成させるとすぐに『利口な女狐の物語』に取りかかった。

彼は1922年の10月から翌年10月までを作曲に費やした。その間にフクヴァルディに帰郷した際には、野生の狐をみてみたいと言い出して、猟場番のスラーデク一家に案内を頼み家の近くのバビー・フーラ(婆さんの丘の意)に登った。スラーデク家の若い息子の回想が伝わっている。

「ヤナーチェクは白いスーツを着て現れて、皆は爆笑した..結局彼は家に戻って、もっと目立たない服に着替えなければならなかった。オンドジェイニツェ川の渓谷とリビー川を登って、我々はバビー・ホラ山に着いた。するとあつらえむきに、狐の一家がほら穴から姿を見せてあたりをうかがい、はね回り始めた。ヤナーチェクはそわそわし始め、狐はびっくりして逃げてしまった。「なぜじっとしていないんです?ヤナーチェクさん。まだ見ていられたのに。」ヤナーチェクは嬉しくて興奮しきっていて、そんな言葉には耳も貸さずに言った。「ビシュトロウシュカだ!、ビシュトロウシュカだ!」と。」

「長い間、オペラを書く時はまったく頭痛がしていたが、「ビシュトロウシュカ」とは飼い慣らされた狐のように一緒に遊びまわった。いつも彼女の赤い毛皮が目の前で輝いていたのは不思議だった。」とヤナーチェクは回想している。

こうして何気ない生活のひとこまから生まれたオペラ『利口な女狐の物語』は、彼のオペラの中でも最も美しく、そして最も深遠な作品となった。恋をして子狐をたくさん産んだ女狐は、密猟者の一弾に息絶えるが、新しい命は森のなかではつぎつぎに生まれ、成長していく。そして年老いた森番は、自然の大いな生命の力に圧倒されて幕は下りる。森番の最後の歌は、ヤナーチェク自身が台本に書き加えたものである。

「...夕暮れに太陽が輝く時が、わしは好きだ。
その時、森は何と美しいことだろう。
妖精たちが夏のすみかに、薄い衣をまとって
帰ってくると、花はまた咲き誇り、愛もまた戻ってくる。
妖精たちは、喜びの涙をこぼしながら挨拶をかわし
サクラソウや、レンゲソウや、アネモネの
何千ものつぼみに、蜜と喜びとを注ぐのだ。
人々は頭を垂れて、悟ることだろう。
天の息吹が周りを吹き渡ったことに。」

ヤナーチェクはこうしてオペラ作品を次々に完成させていたが、合間を縫って自分の原点である合唱曲も書いている。『女狐』を書いている間に、彼はベンガルの詩人ラビーンドラナート・タゴールの詩による男声合唱曲『さまよえる狂人』を書いた。これは1921年6月、タゴールがプラハで行った自作の詩の朗読会での強い印象から作曲したのだった。

ヤナーチェクは1921年6月22日のリドヴェー・ノヴィニ紙に、偉大な詩人から受けた深い印象について語っている。タゴールが演壇に上がるとヤナーチェクは「白く神聖な炎が、椅子に座っている何千もの聴衆の頭上で湧き起こった」ように感じたという。タゴールの容貌は「言葉では言いあらわせないほど悲し気」で、口調は「どの音節も語尾を上げていた...私は喜ばしい和声を付してみたくなった」であり、人柄については「民衆の予言者を見て、聞いたように思った。」という。

ヤナーチェクが作曲したのは、次のような寓話詩であった。

ある男が、万物を黄金に変えるという賢者の石を生涯をかけて探し求め、放浪している。はかない望みであることを悟りながらも、彼は探求の旅を止めない。

ある日、田舎の少年が男に、どうやってその黄金の首輪を手に入れたのかを問う。彼はその一言で、初めて自分の鉄の首輪が、黄金に変じているのに気が付く。彼は小石を拾うと、自分の首輪に触れさせていたが、結果も見ずに投げ捨てるのが常になっていたのだ。

男は賢者の石を見つけながら、捨ててしまったことに激しい痛恨の念にかられる。そして弱々しい足取りで、失くした宝を求めるために引き返す。

この『さまよえる狂人』は、様々な点で非常に興味深い曲である。まずヤナーチェクが東洋の作家の原作に作曲した、唯一の作品であること、そして東洋の音を取り込んだと想像させる箇所が見られることである。

彼は合唱にソプラノ(少年の声)、テノール、バリトンの独唱を加えているが、冒頭部15小節でバリトンの独唱が、ただひとつの音で物語を歌う響きは、僧侶が経典を朗誦している姿を思わせずにはいられない。(あるいはタゴールの詩の朗読を模しているのだろうか?) そして、ほかのパートはささやくような声で「狂人だ」「狂人だ」と歌いながら朗唱に加わるのだが、その音は周囲の嘲りの中を一人歩む狂人の眼前にしているような錯覚に襲われる。

そこに少年の声がソプラノで加わり、男に問う。「その首の金の首輪を、どうやって手に入れたの?」男と周囲の驚きのあまり沈黙し、やがて動揺は、各パートに波紋のように広がっていく。

ヤナーチェクは1923年の10月に『女狐』を完成させると、『弦楽四重奏曲第一番』を瞬く間に書き上げ、すぐに『マクロプロスの秘事』にかかりきりになった。翌年1924年にヤナーチェクは70歳の誕生日を迎え、彼の人生で特筆される様々な出来事が起こった。

なかでも、『イェヌーファ』のベルリン初演が注目される。このベルリン上演は2年前にベルリン国立歌劇場の支配人マックス・フォン・シリングがプラハで『イェヌーファ』の上演を観てから話に上っていたが(注)、当時のチェコスロヴァキア国内のドイツ人問題などの政治的偏見のために、実現に2年間を費やしたのだった。

これは一オペラの上演にとどまらず、チェコスロヴァキアの国威発揚の絶好の機会でもあった。駐ベルリン大使は上演の実現のために奔走し、チェコスロヴァキア政府は民族衣装を寄贈した。

(注)ワイマール時代のベルリンの歌劇場は、同時代のオペラ作品を競って取り上げた。当時のドイツの時代背景や音楽については、長木誠司氏の好著「第三帝国と音楽家たち」が詳しい。

ベルリン初演の1924年3月17日は、ヤナーチェクにとっても忘れられない日となった。彼は偉大なエーリッヒ・クライバーの指揮とベルリン国立歌劇場の演奏に大感激して、長文の礼状をクライバーに書き送ったほどである。また聴衆も熱狂して上演は大評判となり、あるタバコ商は人気に便乗して「イェヌーファ葉巻」を売り出したという。

エーリッヒ・クライバーはこの年ベルリン国立歌劇場の音楽総監督に就任して、ベルクの『ヴォツェック』やミヨーの『クリストフ・コロン』などの前衛的な作品の世界初演を次々と手掛けることになる。

ニューヨーク メトロポリタン歌劇場も、同年12月6日に『イェヌーファ』初演を行った。これは英語圏でのヤナーチェクのオペラの初公演であった。ウイーン上演に続いて、マリア・イエリッツアがイェヌーファを歌い、アルツール・ボダンスキーが指揮を取った。彼はヤナーチェクの音楽に非常な感銘を受け、後に「グラゴル・ミサ』のアメリカ初演を行った。

さて、この頃ヤナーチェクは70歳を目前にしていたが、彼は老人だと言われるのが大嫌いだった。ズデンカが70歳の誕生日の祝賀会のことを話題にすると、輝くばかりの白髪を震わせて、怒鳴るように言った。『そんなことを話さんでくれ!」そして誕生日前のある日、ある合唱団が彼の70歳を祝賀して音楽院の庭でセレナードを歌うと、好意に感謝しつつも「運命を挑発するかのように」声を荒げて言ったという。「10年後も、わしはここに立っていてみせる。」

しかしヤナーチェクも彼なりのやり方で、自分の70歳を祝った。誕生月の同年7月に、木管6重奏曲『青春』を作曲したのである。

まず彼はピッコロ、小太鼓、チェレスタ、グロッケンシュピールのための陽気な行進曲『青服の少年たちの行進曲』を書き上げた。自筆譜には次の書き込みがある。「小さな歌手たちは、女王の修道院から口笛を吹きながら出発する。青い鳥のような青い服を着て。」2,3週間後にこの行進曲は大きく膨らんで、フルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットとバスクラリネットのための木管6重奏曲『青春』となり、行進曲はその第3楽章になった。

この曲は日本語では『青春』(mladi= 若さ)と訳されるのが一般的だが、実際には少年時代の思い出を描いている。初演のプログラムには次のように書いてある。「第一楽章で、彼はフクヴァルディの小学校での子供時代を、第二楽章ではブルノの駅(注)での母との悲しい別れを、第三楽章は聖歌隊員だった1866年に、プロイセンの兵士がブルノを占領したときのことを、そして最終楽章は勇気を出して世の中に飛び出していった姿を。」

実際に、祭り囃子のような旋律で始まる、この快活で楽しい曲を聴いていると、元気一杯のいたずら坊主が、友達と遊びながら胸を張って闊歩している姿を連想せずにはいられない。

印象深いアンダンテ・ソステヌートの第2楽章は少年の見た夜の修道院を描いているのだろう。フォーゲルは「クジージュコフスキーが重々しい足取りで夜の修道院の庭を巡回している。恩知らずだが早熟な才能を持った少年達は寝ているが、その部屋の窓に、彼は時々にらむような視線を走らせる。」と想像している。

そう言われると、クジージュコフスキーとヤナーチェクの「リンゴの実」をめぐるエピソードなどが思い起こされる。ヤナーチェクは父親代わりに自分を育んでくれたクジージュコフスキーのことに、しばし思いを馳せたことだろう。

(注)実際には修道院で別れた。第3章参照。

そうして1924年7月3日、彼は70歳の誕生日を迎えた。ブルノの歌劇場は、祝賀行事を何も行わない国民劇場を尻目にプラハに乗り込み、ヴィノフラディ劇場で『イェヌーファ』の見事な上演を行った。しかしヤナーチェクは家でささやかなパーティーを済ますと、フクヴァルディに逃げ込んで、購入したばかりの家で姉ヨゼフカと静かに過ごす方を選んだ。

その年の秋の楽季は、祝賀演奏会が目白押しだった。それにしても、70歳のヤナーチェクが新作を一気に発表したのは壮観であった。この楽季には2つの新作の室内楽ー『弦楽四重奏曲第一番』と『管楽6重奏のための『青春』ーが初演され、ブルノの歌劇場では、いずれもフランチシェク・ノイマンの指揮で、『イェヌーファ』の新演出、『カーチャ・カバノヴァー』、そして『利口な女狐の物語』の初演(11月6日)が行われたのである。

加えて改訂された旧作も演奏された。10月11日にはモラヴィア教員合唱団とモラヴィア女性教員合唱団が合同演奏会を、10月19日にはヤロスラフ・クヴァピルがベセダ合唱団を指揮して合唱曲『脅し』、『兵士の賭け』とカンタータ『我らの父』、『アマールス』、『ソラーニュ山のチャルターク』、『永遠の福音』などの作品を、10月21日にはブルノ音楽院が室内楽の演奏会を組んで『青春』を初演し、12月13日にはボヘミア弦楽四重奏団が『弦楽四重奏曲 第1番』のブルノ初演を行うなど、ブルノの町中がヤナーチェクの音楽でもち切りの観があった。

しかし、優秀な奏者たちが満を持してリハーサルを重ねたのに、『青春』の初演は大失敗に終わった。

暖房の効いていない楽屋と、暖房の効きすぎたベセダ会館の演奏会場との大きな温度差のせいで、クラリネットのキーが壊れたのである。クラリネット奏者は、演奏を始めた後になってそれに気付き、出ない音を外して演奏する羽目になった。

ヤナーチェクは聞きながらいらいらして体を揺すり、頭を掻きながら「あいつは一体何をやってるんだ!」と舌打ちし、苛立ちは曲が進むごとに増していった。そして演奏が終わると、激怒したヤナーチェクは楽屋に突進していき、次に舞台に駆け上がって、どぎついラシュスコなまりで叫んだ。「紳士淑女のみなさん、今のは私の書いた曲ではありません! 氏は演奏しているふりをしていましたが、実は何もしていなかったのであります。」

そんな一幕もあり、すべての演奏会が大入りになったわけでもなかったが、ブルノの人々は心からヤナーチェクの70歳を祝った。

一方プラハでは11月23日に記念演奏会が開かれた。同日のマチネーにはヤロスラフ・クリチカ指揮のフィルハーモニック合唱団と、メソド・ドレジル指揮のプラハ教員合唱団、そしてヴァーツラフ・ターリッヒ指揮のチェコフィルハーモニーの合同演奏会が行われ、『永遠の福音』、交響詩『フィドル弾きの子供』、合唱曲『マリチカ・マグドーノヴァ』、『70、000』、『さまよえる狂人』などが演奏され、『タラス・ブーリバ』で幕を閉じた。

チェコスロヴァキア共和国のマサリク大統領も演奏会に出席し、ヤナーチェクを自分のボックス席に招いた。そして演奏会は大成功だった。今や国民的英雄となったヤナーチェクに、満場は総立ちになって熱狂的に歓呼を送った。10年前には、プラハは『イェヌーファ』上演すら頑なに拒否していたことを考えると、何と大きな変わりようだろうか。

もうひとつの祝賀行事が、70歳のヤナーチェクを待っていた。ブルノのマサリク大学哲学部が1925年1月20日に、彼に名誉博士号を贈ったのである。20年前にブルノにチェコ人大学をつくるためのデモが武力で圧殺された時、ヤナーチェクは憤慨して勇気ある声を上げたのだった。ヤナーチェクは博士号に心からの誇りと感謝を抱き、それから署名する際には常に「名誉哲学博士」と添書した。

社会的な栄誉は次々に舞い込んだが、ヤナーチェクは自分の終わらせた仕事に安住するどころか、次々に新しい作品に着手した。ふとしたことに楽想を得ると、すぐに大きく膨らんでいった。ある新聞は「若い老人」と評したが、70歳を過ぎたヤナーチェクが、若い作曲家も及びもつかないようなスピードで、斬新な作品を次々と完成させていく姿はまさに驚異的だった。何しろ、同じような作品は2度と書かず、楽器編成さえ毎回違うのだから!

それにカミラへの熱情も、ブルノではひそかに有名になっていた。この人が真の老年を迎えるのはいつのことだろうかと、音楽院の生徒たちすら疑問に思うほどだった。

そんな1925年5月のある晴れた日、ヤナーチェクはシュテッセル夫妻の住むピーセクに行き、何日かを夫妻の家で過ごした。目的はその街での自作の演奏会に立ち会うことだったが、ヤナーチェクにしてみればそれは2の次だったようである。

ある日二人は街の公園に座り、軍楽隊がファンファーレを演奏するのを楽しく聴いていた。この体験は、カミラがそばにいたことと、公園という舞台もあいまってヤナーチェクの心に深く刻まれ、後でカミラに書き送った手紙で何回も触れている。そこに「リドヴェー・ノヴィニ」紙から、1926年のソコル体育協会の祝典に何曲かのファンファーレを書いて欲しいと依頼があった。

『青服の少年たちの行進曲』が膨らんで『青春』になったのと同様に、これらのファンファーレからは楽章が次々と生まれた。1926年3月29日にヤナーチェクはカミラに「ファンファーレをもつ、可愛らしい小シンフォニエッタ」を書き上げたと手紙で知らせている。ヤナーチェク自身の言葉によれば、この作品は「現代の自由な市民、その精神の美しさと喜び、勝利のために戦う力強さと勇気と決断力」を描いているという。

初演のプログラムに、彼は楽章ごとに次のような題名を書き入れた。

1.ファンファーレ 2.城 3.女王の修道院 4.路上 5.市庁舎

これだけでは意味はよく分からないが、幸いな事に1927年12月24日の「リドヴェー・ノヴィニ」紙にヤナーチェクは「わが街」というエッセイを寄せて、その意味を説明している。ハプスブルク時代のブルノの陰気さを回想した後、ヤナーチェクは次の言葉でエッセイを結んでいる。

「そして、私は街が魔術のような変貌を遂げるのを見た。陰気な市庁舎への嫌悪も、シュピルベルク城の監獄と、多くの人間が悲惨な目に遭ったその地下牢への憎悪も、街と群集への不快感も全て無くなった。魔法のように解放が訪れ、街をまばゆく照り輝かせた。1918年10月28日という再生である。私はそれを目の当たりにし、私自身も加わった。そして
勝利に輝くトランペットの高らかな響き、女王の修道院の聖なる平和、夜の影、緑の丘からの息吹、成長を続ける街の偉大な姿が、私の『シンフォニエッタ』に命を吹き込んだのだ。」

これが各楽章の題名を解く鍵である。私たちはチェコ人の独立を祝う冒頭の高らかに響くファンファーレとともに、かつてチェコ独立運動の志士たちも幽閉されたが、今やチェコ人のものとなった悪名高いシュピルベルク城と地下牢、ヤナーチェクが若き日を過ごした女王の修道院、そしてブルノの市庁舎と新しい、自由な生命にあふれる街角を目の当たりにしているわけだ。

それにしても、フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2(イングリッシュホルン持ち替え)、クラリネット2(変ホ管クラリネット持ち替え)、バスクラリネット、ファゴット2、F管のホルン4、F管のトランペット3、トロンボーン4、チューバ、トランペット9、テナーチューバ2、バストランペット2という、管楽器の大編成が繰り広げる壮大な音世界は、何度実演に接しても興奮させられる。

初演は同年6月26日にヴァーツラフ・ターリッヒ指揮のチェコフィルハーモニーの手でプラハで行われ、またたく間に国内外で圧倒的な人気を得た。

こうして、『イェヌーファ』をはじめとするヤナーチェクの作品は外国にも広まりつつあったが、それを象徴するような出来事が、『シンフォニエッタ』を書き上げた頃に起こった。1926年春のイギリスからの招待である。招待したのは、長年スラブの音楽を愛好していたローザ・ニューマーチ夫人であった。

1919年にチェコスロヴァキア政府は、独立を支援してくれたイギリスとフランスに感謝する音楽祭を開き、コヴァジョヴィッツ指揮するプラハ国民劇場管弦楽団やフェルディナンド・ヴァッハ指揮のモラヴィア教員合唱団、フランチシェク・スピルカ指揮のプラハ教員合唱団や、エマ・デスティノヴァーの独唱の演奏会が10日間にわたって開かれたが、その演奏会の広報活動に彼女は労を惜しまなかった。

その返礼として、コヴァジョヴィッツは1919年の夏にニューマーチ夫人と娘をチェコスロヴァキアに招待した。彼女たちはスロヴァーツコ地方のフォークロアに魅せられ、また『イェヌーファ』の上演に深い感銘を受けた。1922年にチェコスロヴァキアを再訪した時にはヤナーチェクの知己を得て、ブルノでの『カーチャ・カバノヴァー』の上演に招待された。

こうしてヤナーチェクの音楽に魅了されたニューマーチ夫人は、イギリスに戻ると、楽壇の有力者たちたちに呼びかけて、ヤナーチェクをイギリスに招待して演奏会を開くための会を設立し、1926年1月にロンドンのチェコスロヴァキア大使館を通じて招待状を送った。彼は初め躊躇したが、結局4月28日にイギリスに向けて旅立った。

5月1日からリハーサルが始まり、偉大なヴァイオリニストでブラームスの親友であったヨーゼフ・ヨアヒムの孫娘アディラ・ファキリが『ヴァイオリンソナタ』の弾くのを聴き、高く評価した。

それから数日はまず無事にリハーサルは進み、ヤナーチェクは疲れを知らぬ若々しさと、活発な動きで居合わせた人全てを驚かせた。彼はその場で弦楽4重奏曲と管楽6重奏曲『青春』のパート譜を訂正し、テンポを記入したのである。彼の力にあふれた身振りと声で演奏者たちには意味が通じ、初めの通しの練習の時に比べ、ヤナーチェクがあれこれと指示した後の演奏は見違えるようだったという。

しかしヤナーチェクは、時にイギリスの演奏家たちが控え目な演奏をするのに満足できず、『コンチルティーノ』の練習では癇癪を爆発させて、結局この曲は演奏会の曲目から外された。

こうしてリハーサルは5月6日の演奏会を控えて進められ、ヤナーチェクはその合間に市内観光や楽壇の有力者たちに招待されて、イングランドの田園で散策したりした。またイギリスのチェコスロヴァキア人たちは歓迎のレセプションを催し、ヤナーチェクは喜んで出席した。彼がその席で行ったスピーチが伝わっている。

「こうして、私はロンドンにおります。なぜ、どうしてでしょうか?信じて下さい、私は知らないのです。家を出て財をなす、チェコのおとぎばなしのホンザのような感じです。ホンザならお姫さまを家に連れて帰るのですがね。

しかし、理由を話しましょう。私は祖国の若々しい精神、若々しい音楽を携えて来たのです。私は過去を振り返るたちの人間ではありません。未来に目を向ける方を好みます。私たちは成長をし続けねばなりません。しかし、過去の苦しみ、苦難と抑圧の記憶を思い起こす事が、成長のために必要だとは思いません。そんなことは止めましょう。過去は忘れ、未来を見つめることだけを考えましょう。私たちの国家は、世界に確固たる地位を占めるべきです。私たちはヨーロッパの心臓なのです。ヨーロッパはその心臓を感じる必要があります...」

翌月曜日の午後、ヤナーチェクは地下鉄に乗って、市内観光をした。彼はロンドン動物園を訪れて、猿山の前に30分以上も立ち止まり、さまざまな猿の喜びや悲しみの叫び声を書き留め、アシカやセイウチの池の前に今度は20分ほど立ちつくして、セイウチが岩の上に這い上がり、単調なほえ声を立てるのを見ていた。この旅の間、彼は手帳を常に用意していた。例えば、「イエス」という声のスピーチ・メロディを20通り以上も書き留めている。

火曜日に不運なことにゼネストが始まり、市内の交通は麻痺した。その日の夕方、スラブ研究学校と英国チェコ協会は、祝賀行事付きのリセプションを、ロンドンで催した。ロンドン市の児童合唱団がバード、ウィルビー、パーセルらイギリスの作曲家の合唱曲を歌った。その後独唱者が、ニューマーチ夫人の訳したヤナーチェクの『シレジアの歌』から2曲を歌った。この後はヤン・ミコタ の筆に譲ろう。

「それからヤナーチェクは立ち上がって、スピーチを行った。語調には熱がこもっており、時に目を輝かせながら、身振りで思いを表現する姿は劇的ですらあった。イギリス人はチェコ語がそのように話される姿を初めて見たに違いない。先に書いたように、彼は尽きることのない若々しさと機敏さで皆を驚かせたが、このスピーチがいい例だった。

私は今でもよく覚えている。魔法にかけられたように彼をじっと見つめている一同の前で、仁王立ちになってスピーチを続けている彼の姿が、驚くほど若々しく見えたことを。彼の後ろには8歳から10歳の合唱児童たちが立っており、左にはチェコスロヴァキア大使館付きの温和なツィーサシュ博士がおり、ヤナーチェクの語ることを説明し、英語への通訳を行った。そして、ヤナーチェク自身も深く感動していた。」

ヤナーチェクのスピーチは、次のようなものだった。

「私は言葉ではなく、自分の作品を携えてやって来ました。私はここに来て故郷にいるように感じています。まったく突然にわたしはこの聖歌隊の小さな皆さんに会い、皆さんがこれほど美しく民謡を歌われたので、私はすぐに「お前は故郷に居るのだ」と思いました。それではなぜ「故郷にいる」と思ったのでしょう?

それは民謡のおかげです。私は子供の頃から民謡の中で生きてきました。民謡は一人の人間をそっくり含んでいます。肉体も魂も環境も、全てをです。民謡を通して成長する人は、長じて完全な人間になるのです...民謡はひとつの精神を持っています。なぜなら民謡はひとりの純粋な人間を含むからです。

民謡は神が造り給うたもので、人間に接ぎ木されたものではありません。それゆえに芸術音楽が民族音楽から育つのであれば、われわれは皆喜んで迎える事ができると思います。それは共有のものとなり、われわれを絆で結ぶことでしょう。民謡はいかにも国と国を結ぶことができます。民謡はすべての人をひとつの精神に、ひとつの幸福と祝福とに結びつけることができます。ですから私はイングランドの民謡を思いがけずも聴くことができ、大変嬉しかったのです。私はすぐにイングランドの魂に近づくことができ、その友人となることができました。

もうひとつ、私は言っておかなければならないことがあります。それは民謡だけが全てではないという事です。われわれの言葉というものがあります。私はよく英語というのは不快な言葉だと聞かされていたものです。私は一聴して美しいメロディを持っているなと思いました。そして、これらすべてのものーつまり美しい言葉に恵まれた民謡の故郷と、その言葉の背後にある健全な文化ーそれらがひとつになった時にのみ、私は本当の古典音楽が育つものと確信しております。

音符だけを書き連ねて、人間もその環境も無視するものは音楽ではありません。音の響きの性質だけしか眼中にない音楽など問題外です。私が作曲家として成長し続けるならば、それは民謡と人間の言葉を通じてです。ですから私が成長することを信じていることは、神も嘉し給うことでしょう。音響の性質だけの音楽で頭角を現している連中には、ただ笑ってしまいます。

最後に、これ以上本日のプログラムを遅らせることはできませんが、私をこれほど温かく迎えてくださった方々、そして私のみるところ、私と同じように感じ、私をよく理解して下さる方々に、御礼申し上げなければなりません。

同輩ならお互いを理解し合うとは、必ずしもいかないものです。あるとき教養あるドイツ人が私に言いました。「ほお、あなたは民謡を糧に育たれたと?それは文化の欠如のしるしですな。!」まるで太陽が輝き、月があたりを照らすのは自分のためだと言わんばかりで、われわれをとりまくすべてのものは文化の一部ではないといわんばかりでした。わたしはそのドイツ人にそっぽを向いて、好きにさせてやりました。紳士淑女の皆さん、御静聴ありがとうございました。」

「5月4日はこうして終わった。」ヤン・ミコタは続ける。「ゼネストの影響が出ており、タクシーはつかまらなかったが、私たちは駐英チェコスロヴァキア大使(ヤン・マサリク)の好意で、ホテルまで乗せてもらった。私たちは火曜日の演奏会がどうなるのか、ずっと気をもんでいた。」

5月6日の演奏会を無事に開催できたのは奇跡であった。交通が麻痺していたので、聴衆も演奏者も会場に着くのは大事だった。オーボエ奏者のレオン・グーセンスは3時間歩いて
ウィグモア・ホールに定刻にやって来た。

しかし演奏会は熱心な聴衆の見守るなかで順調に進んだ。曲目はまず弦楽四重奏曲、ヴァイオリンソナタで、その後でヤナーチェクは舞台に拍手で呼び出された。そして演奏はメインのプログラムとなった。ロンドン木管六重奏団が『青春』を演奏し、最後の曲はチェロとピアノのための『おとぎばなし』だった。

演奏会が終わると、ヤナーチェクは5月8日にニューマーチ夫人とヤン・マサリク大使らに別れを告げてロンドンを発った。こうして10日間のロンドン訪問は、波乱含みながらも無事に終わった。

ロンドンで演奏された曲目は、ヤナーチェクの作品のほんの一部に過ぎなかったが、ロンドン訪問は彼の作品を海外に広めるのに重要な意味を持っていた。しかし翌年に予定されていた『イェヌーファ』のロンドン上演は、30年後になってようやく実現したのだった。

チェコに戻っても、ヤナーチェクは相変わらず活発に動き回った。帰路彼はプラハに立ち寄って、5月12日にウムニェレツカー・ベセダ(芸術家クラブ)が主催した祝宴に出席した。

その場でも、72歳に手の届く作曲家は、ヴァイタリティと魅力にあふれたスピーチを行ったが、それは彼のスピーチの中でも特に愉快なものになった。

彼はロンドン訪問について語ったが、ハイドンやドヴォジャークといった作曲家たちの後でどうして自分が招待されたのか分からないと謙虚に認め、ハイドンは交響曲を携えてロンドンに行き、ドヴォジャークはオラトリオを持っていったが、自分はー

「あまりにも短く、取るに足りない曲ばかりでしたーある教授(注1)が書いたように、私はヴィマザルのように「楽しく一気に」(注2)作曲しますから。」ここでヤナーチェクのおどけた口調は急に鋭くなり、目は若者のように燃え上がって、拳でテーブルを思いきりドンと叩くと、満場の喝采の中で顔を上げて言った。「そう、紳士諸君、私は楽しく一気に作曲しております!」満座は喝采となった。

(注1)ズデニェック・ネイェドリー(1878-1962)のこと。
カレル大学の音楽学、歴史学の教授で政治家。当初マサリクの信奉者で後に親ソ路線に転向。音楽学者としてはスメタナを信奉する反面、ドヴォジャークとヤナーチェクの音楽を排撃し、プラハの楽壇に大きな影響力を振るった。ブロートは回想録の中で、ネイェドリーの弟子たちから、しばしばいやがらせを 受けたことを記している。

(注2)「楽しく一気に」はフランチシェク・ヴィマザルが出版した、当時人気のあった外国語の入門書の副題。後にぞんざいなやり方の代名詞となった。

ブルノに戻って少しすると、彼は今度はまたドイツから招待を受けた。ベルリン市立歌劇場が『カーチャ・カバノヴァー』をベルリン初演することになったのだった。ヤナーチェクはズデンカと共にベルリンに向かい、プリミエはフリッツ・ツヴァイクの指揮で5月31日に行われた。

「こんなに素晴らしいとは思わなかった。今度の上演で、私は自分のオペラを初めて、初めて聴き、自分でも理解したように思う。」彼はリドヴェー・ノヴィニー紙に寄稿したエッセイの中で言った。

聴衆の中には、作曲家のシュレーカーやシェーンベルク、『イェヌーファ』のベルリン上演で指揮を取ったエーリッヒ・クライバー、歌手のイエリッツァといった顔ぶれも見られた。特に「シェーンベルクとシュレーカーの賛辞は、何よりも嬉しかった。」とヤナーチェクはカミラに書き送った。

上演が大成功を収めたので、ベルリンの各歌劇場は、ヤナーチェクの最新作『マクロプロスの秘事』に触手を伸ばした。例えばオットー・クレンぺラーは翌1927年にベルリンのクロルオペラの支配人に就任すると、『マクロプロスの秘事』の上演を計画したが、結局実現はしなかった。(注)

(注)結局『マクロプロスの秘事』は、1929年にフランクフルト歌劇場(指揮 ヨゼフ・クリップス)の手でドイツ初演された。しかし『カーチャ・カバノヴァー』は、やがて政権を握ったナチスの下では好ましいレパートリーと見なされるべくもなく、1929年にアーヘンの歌劇場で上演されたのを最後に、20年近くドイツでは上演されることはなかった。この点、第二次大戦下のドイツでも盛んに上演された『イェヌーファ』とは対照的である。

しかし彼が心から喜んだのは、故郷フクヴァルディの人々のささやかな祝賀会だった。同年7月11日に、フクヴァルディの生家に据えられた彼の記念像の除幕式が行われたのである。

祝賀式は前日の土曜日から始まり、ブルノ、オストラヴァをはじめとする、全モラヴィアから客が集まった。近くの町の町長と、ヤナーチェクの旧友のフクヴァルディの村長、そしてブルノ音楽院校長のヤン・クンツがスピーチを行った。スピーチが終わると、ヤナーチェクは親しい人たちの前で立ち上がって話し始めた。

「なぜ、この生まれ故郷で自分の作品が立派に演奏されることが、自分にとって大事なことなのだろうか?なぜなら自分の作品は、自分を生んだ、この田舎の一部だからだ。

この地方の変化に富む天候、しばしば起こる嵐の後で、再び輝く太陽、かんしゃく持ちだが善良な住人、そしてこの地方の言葉と魂を知れば、自分を故郷に結び付けているものが何なのかを分かることだろう。私はチェコの国民の魂と不可分の作品を書きたい。」

「青春、コンチェルティーノ、シンフォニエッタ。私は最近の作品で、素朴な人々の心にできるだけ近づくことに成功したと思う。私は年を取ってきているが、新しい葉脈や新しい枝が、自分の作品の中で育ちはじめているように感じる。それはフクヴァルディの樹齢400,500年の樹木の場合と同じである。眼を向けると、木の幹から若い小枝が生えてきている。私の最近の創作活動も、魂からの一種の新しい芽生えであり、その魂はすでにこの世と和解しおり、今はただ平凡なチェコの人間に出来るだけ近づこうと努めるだけだ。」

その夜、2つの演奏会がほぼ同時刻に行われた。フクヴァルディではオストラヴァの音楽家たちが、ヤナーチェクの『おとぎばなし』、『ヴァイオリンソナタ』と民謡を演奏した。一方近郊の町では、ブルノの音楽家たちが『弦楽四重奏曲第1番』、『霧の中で』、『消えた男の日記』を演奏し、土地の合唱団が『夕べの魔女』、『お前が知っているなら』などの合唱曲を歌い、静かな田舎の夜の空に、ヤナーチェクの音楽が賑やかに響いていった。

翌日曜日のフクヴァルディでの祝賀会は、前日の夕方から降り続けた大雨で台なしとなり、祝賀会は宿屋ミチャニークで行わざるを得なかった。その席でもヤナーチェクは、自分の作品の名声が国外で高まっているが、たとえ会場設備などで制約があっても、故国で演奏されることの方が自分には大事であると語った。彼は続けて言った。

「人々は、私は功なり名遂げたという。芸術家の作品は滅多に賞賛されることはないし、注目を引くことすら少ないが、それでも何よりも大事なものなのだ。曲をまた書き上げて、この地から遠く離れた南ボヘミアのピーセク、西のプルゼン、北のムラダー・ボレスラフ、あるいは東かモラヴィアかスロヴァキアのどこかで演奏され愛されるのを考えると、芸術の持つ力について考える。つまり、私は国中に響く弦を爪弾いており、その音色が私たちチェコ人を結び付け、ひとつの国のように感じさせるのではないかと。

だから私は自分の芸術にも意味があると思うのだ。そして一番大切なことは、芸術は私たちを結び、私たちを強くし、苦しみに挑ませ、この世の何に対しても屈しないようにすることだ。私にとっては、そのほかのもの、たとえば音符などは二の次だ。もしも私が、このかんしゃく持ちで、喧嘩早く、団結心のないこの国民に団結心を持たせることが出来れば、無駄な一生ではなかったと思うだろう。」

雨はまだ降っていたが、一同は外に出て胸像の幕が外されるのを見つめた。ヤナーチェクは、オロモウツ大司教レオポルド・プレチャンが祝宴の最後まで臨席したことに強い印象を受けた。大司教はフクヴァルディに夏の別荘を持っていたが、宿屋の中でスピーチを聞いていただけではなく、除幕式が終わるまで、雨の中を立ちつくしていたのである。

かつて封建領主オロモウツ大司教が丘の上の城から威光を振るい、村人から過酷な税を取り立てて窮迫させたことなど、想像も出来ないような姿だった。昔日を知る老人たちは、時代は変わったと思ったことだろう。そのプレチャン大司教との出会いから、ヤナーチェク晩年の傑作『グラゴル・ミサ』が生まれる事になった。

ヤナーチェクはその5、6年前に、フクヴァルディで過ごしていた際にプレチャン大司教と知り合い、世間話をしたことがあった。その時音楽の話題になると、ヤナーチェクは大司教に、近郊の教会の礼拝に参加したが、音楽が実にひどかったと語った。

すると大司教は言った。「なるほど、マエストロ。それでは何か価値ある教会音楽を書いてみてはいかがですか?」 そこでヤナーチェクは教会音楽を書く気になったようであるが、ラテン語のテキストではなく、古代スラブ語のテキストに作曲することにこだわった。しかし友人の助力でテキストを手に入れても、彼はなかなか手をつけなかったが、ある日ルハチョヴィツェで見た嵐の情景が、彼の深い所に眠っていた感情を揺り動かしたようである。彼は後にその時の様子を回想している。


「ルハチョヴィツェでは、雨が毎日降り続けた。窓の外には、陰気なコモネツ山が見える。雲は渦巻いている。風は雲をちぎり、吹き飛ばしている。一月前にフクヴァルディの学校の窓から見た眺めとそっくりだった。私の隣には大司教が立っていた。夕闇は増していく。私たちは雷光が暗夜を切り裂くのを、じっと見つている。私は天井の電灯に明かりをつけた。私はGospodi pomilui (主よ憐れみたまえ)という言葉に死に物狂いの心の込められた、静かなモチーフを、そして喜びの込められた叫び「Slava、Slava」(神の栄光あれ、栄光あれ)のモチーフを走り書きせずにはいられなかった...

「...湿気を含んだルハチョヴィツェの森の匂いが、窓からいつも漂っていた。それは香煙であった。私は山々の壮大な広がりと、その霧の彼方に広がっていく大空に大聖堂を見た。小羊の群の鈴が、鐘の音を響かせた。

私には聞こえる。テノールのソロによる大司教の声が。ソプラノによる処女の天使の声が。そして合唱はー我らチェコ民族の声だ。高い樅の木末の星のまたたきが蝋燭だ。そして霧の彼方での典礼に、私は聖ヴァーツラフの幻影を見、聖キュリロスと聖メトディオスの伝道の言葉を聞いた。」

この『グラゴル・ミサ』を宗教曲と呼ぶのは出来ないだろう。ヤナーチェク自身、この曲を書いたことで「敬虔な老人」と評された時、憤然として否定したと伝えられている。ヤナーチェクは、後半年は大の教会嫌いだった。

では、なぜミサ曲を作曲したのだろうか?

その鍵は、上記のエッセイの「聖キュリロスと聖メトディオスの伝道の言葉」という一句にあるだろう。

遠い昔、スラブ人が深い森の中で生きていた時代に、キリスト教とともに文字(グラゴル文字)をもたらした聖キュリロスと聖メトディオスは、ヤナーチェクにとっては故郷の荒々しい自然のように民族の原点であり、スラブの偉大な過去の象徴であった。

そのスラブの後裔であるチェコ人は、近世の苦難の時代を乗り越えて、ハプスブルク帝国下の文化的圧迫も克服して、新しい生命と文明を生み出した。そして、ヤナーチェクが『利口な女狐』で描いた自然への愛と新たな生命への賛歌は、ここで『シンフォニエッタ』で描いたチェコ民族の精神的な再生と一体となって、『グラゴル・ミサ』で壮大な音世界を描くことになった。その光と生命を希求する力のなかに普遍性があるからこそ、この『グラゴル・ミサ』一民族の音楽に終わらずに、今も世界中で演奏されるのだろう。この曲は生命への賛歌であり、誰にも圧倒されるような音楽体験をもたらす曲だ。


プレチャン大司教。
第一次大戦で没収されたフクヴァルディの教会の鐘が戦後、
再度建立された時の情景。1926年



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