15.カミラとの出会い

ヤナーチェクが新たな創作意欲の源泉となったのは、ある私生活の出来事であった。1917年の夏の休暇に、ヤナーチェクは温泉地ルハチョヴィツェでカミラ・シュテッスロヴァー夫人に出会ったのである。

彼は毎年夏に学校が休みに入るとルハチョヴィツェに一人で行き、同じようにやって来る友人たちと過ごすのが常だった。彼は暑い日でも白いスーツをきちんと着込んで、プロムナードを散歩しながら作曲の想を練ったり、友人達とくつろいだ話に興じたりした。その年の夏は『イェヌーファ』のプラハ上演が大成功を収めた直後で、彼の心は高揚していた。

そして7月上旬のある日、ヤナーチェクは「飛び方をまだ知らずに、疲れ果てた小鳥のように芝生の上に座っていた」カミラ・シュテッスロヴァー(1891-1935)に出会った。彼女は夫オットー・シュテッセル(1889-1982)と共にルハチョヴィツェに来ていたが、夫は一足先に軍務に戻らねばならず、残された彼女は幼い子をかかえて悲嘆に暮れていた。

2人は知り合って世間話をしたが、カミラは夫のことを思い出すと、「涙が頬を下った」という。その姿に強い印象を受けたヤナーチェクは、帰宅するとシュテッセル夫妻に、家に遊びに来るよう招待状を送った。

夫妻は招待に応じて、1917年8月4日にヤナーチェク家を初めて訪問した。ヤナーチェクは当時、『イェヌーファ』のプラハ公演でコステルリチカを演じたホルヴァトヴァー夫人とただならぬ関係にあり、ズデンカとの仲は冷え切っていたので、ズデンカは夫が家に客を呼んでくれたことが嬉しかったという。

当日ズデンカはシュテッセル夫妻を出迎えたが、「2人とも一目でユダヤ人だと分かって驚いた」と回想している。確かにカミラはピーセクのゲットー出身で、夫オットーはポーランドのガリツィア地方の出身のユダヤ人だった。ズデンカの回想によると、当時の25歳のカミラは中背で豊満で、浅黒い顔立ちに黒い目が光っていた。頭の巻毛はジプシーを思わせたという。ズデンカはすぐにカミラと打ち解けた。「若く陽気で、おしゃべり好きで、笑いが絶えなかった。」生き生きとした明るい気性で、ヤナーチェクもズデンカも魅了された。

特にズデンカは、彼女が機転を利かせてヤナーチェクの書斎のにあったホルヴァトヴァー夫人の写真を持ち去ってくれた事で大きな好感を持った。またダヴィト・シュテッセルは軍のつてを生かして、ヤナーチェク夫妻にしばしば食料を工面して贈った。後にヤナーチェクはチェコスロヴァキアの独立後、シュテッセル夫妻が外国人として国外追放されないように定住許可を確保し、戦時中の恩に報いた。

こうしてヤナーチェク夫妻とシュテッセル夫妻の間には親しい付き合いが生まれた。そして両夫婦がその後も何回か招待し合って顔を会わせるうちに、ヤナーチェクはカミラに以前新聞で読んだ詩の「ジプシー女」の面影を見るようになっていった。

「消えた男の日記」の成立は、それ自体謎めいた劇である。

1916年5月14日と5月21日の日曜日、ブルノの新聞「リドヴェー・ノヴィニ」は「独学の農夫の筆になる」と題する匿名の連作詩を掲載した。詩には編集者の注記が付いていた。

「少し前の事だが、東モラヴィア高地の村で、J.D.という法を遵守する、勤勉な、両親の期待を一身に背負っていた若者が、不可思議にも失踪した。最初は何か事件に巻き込まれたのではないかと思われ、村はその話題でもちきりになった。しかし数日後彼の部屋から日記が見つかり、謎は明らかになった。

日記には短い詩が何編か書かれており、それが事件を解く鍵となったのである。若者の両親は、当初その詩を民謡か兵士の歌を書き写したものだと考えた。しかし裁判所の調査で、詩の真実が明らかになった。これらの詩の心を打つ真率な内容は、法廷のほこりと忘却から救い出す価値があると考える。」

この注記の後に、計23編の詩が掲載されており、(但し第14番の詩は、ただのダッシュの連続である)ヴァラキアの方言で、真面目な農夫と若いジプシーの娘の情事が物語られている。

最初若い男は、彼女の瞳の無言の誘惑に抗していたが、ある日、牛の引く鋤の心棒止めが外れた時、新しい止め木を枝から作るために薮の中に入っていく。彼は娘の誘惑に負けないことを確信して、連れている牛にも同じ事を言う。しかし薮にいたゼフカは、ジプシーの辛く悲しい運命を歌う。そして私を怖がらないで、とねだりながら、「私は貴方が思うほど浅黒くはない。太陽の光が当たらないところは、もっと白い肌をしているわ。」と言って彼を誘惑する。そして「ジプシーの娘が、どのように床を作るのか」を歌う。そして彼は身も心もジプシー娘の虜となってしまう。(ここでピアノの間奏が入る)

純真な若者の運命は決まった。毎夕彼は良心の呵責に苦しみつつも、薮の中へ急ぐ。妹の服がジプシーに盗まれても、真実を口にできない。ついに若者は、誰も気が付かない内に家を出て、二度と戻らない。ゼフカは腕に彼の息子を抱いて、彼を待っている。

ヤナーチェクはカミラに出会ったルハチョヴィツェから戻ると、早速彼女に手紙で書いている。「毎朝午後にジプシーの恋の美しい詩のモチーフがいくつかひらめく。素敵な音楽による小さな物語が書けるかもしれないーそしてあのルハチョヴィツェの雰囲気も少しだけ込められるかも。」そして彼女への思慕が燃え上がった1927年になって、告白している。『消えた男の日記』を書いている時には、君の事しか考えていなかった。君は私のゼフカだ!」

舞台が故郷に近いヴァラキア地方であり、ヴァラキア方言が使われていることも、ヤナーチェクには魅力であったに違いない。そして1919年11月に全曲は完成した。しかしヤナーチェクは箪笥にスコアをしまい込んだまま忘れてしまったが、弟子ブジェチスラフ・バカラが見つけ出し、彼のピアノとブルノ歌劇場のメンバーによって、1921年4月にブルノで初演された。

ヤナーチェクは上演にあたって演出上の指示を与えている。「暗がりのなかで、可能ならば赤い照明を使って、エロティックな雰囲気を高めて欲しい。コントラルト(ゼフカ)は、第7番が歌われる間に舞台に現れてもらいたい。同じように第11番が歌われている間に、気付かれないように舞台から消えること。3人の女声は、運命の時の若者の行動を描くのだが、それは舞台外で殆ど聞こえない位の大きさで歌うのがよい。」

この曲集は、ヤナーチェクが民謡収集と編曲(ピアノ伴奏付)から発想を得て、現代の精神で民謡を創造した作品ともいえよう。モラヴィア民謡から得た語法は、彼の中で完全に咀嚼され、彼自身の個性としてこの曲集で息吹いている。

朗誦のような声部にもそれは窺えるが、とりわけピアノパートはツィンバロンの響きを完璧に模している。ただ、響きをピアノで再現するだけではなく、ヤナーチェクはそこから新しい可能性を切り開いている、伴奏は声のドラマを引き立てて、合いの手を入れるだけではなくて、時には心の葛藤を描き、時には森にいる二人を取りかこむ自然の物音や情景を描写している。例えば第3曲の飛び交うホタル、第4曲のつばめのさえずり、第11曲では森に漂って若者を魅了する花の香りを音化している。それが若者の心理描写と見事に一体になっている卓抜さには感嘆するばかりだ。




当時のシュテッセル夫妻
ヤナーチェクと弟子・協力者たち。

前列左からルドヴィーク・クンデラ、ヤナーチェク、フランチシェク・ノイマン。
後列左からヴィレーム・ペトルジェルカ、ブジェチスラフ・バカラ、
ヤロスラフ・クヴァピル、ヴァーツラフ・カプラール

『消えた男の日記』初版の表紙。
ヤナーチェクの希望で、女性の
姿はカミラを模しているという。

ヤナーチェクはカミラに次々と手紙を書いた。知り合ってから死去するまでの11年間に、720通を越える手紙や葉書を書いているが、特に最晩年は毎日書いている。カミラはたまに返事を書き、まれに演奏会などの招待に応じた。彼女は本能的にヤナーチェクと親密すぎる関係になることを避けていた。

ヤナーチェクは1924年3月10日の手紙で書いている。「君は天空をめぐる星で、私は別のところにある星のようだ。私は近づこうと思って走り続けるが、全然近づけない。私たちの軌跡はまるで重ならない。お互いに微笑みあって、それで終わりだ。」

カミラは陽気で機転の利く女性だったが、手紙は綴りや文法の間違いだらけだった。音楽の話になると、何も分からなかった。

それでもヤナーチェクはカミラの気性を愛し、2人の息子に恵まれた彼女を羨んで、自作の進み具合や上演、そして時には心情を吐露する手紙を書き送った。ただ、最後の数年を除けば、それほど頻繁に顔を会わせていたわけではない。それでも彼女の面影はヤナーチェクの脳裏に深く刻まれ、次の作品の霊感を生む触媒となった。

1919年10月頃、ヤナーチェクはロシアの劇作家アレクサンドル・オストロフスキー(1823-1886)の戯曲「嵐」を知り、オペラ化の構想を練りはじめた。

何よりもヤナーチェクを動かしたのは、主人公カーチャにカミラの面影を見たことだった。そしてヤナーチェクは1920年初頭から翌年一杯をこの作品の作曲と推敲に費やした。旧作の改訂や編曲を除いて、彼はその間にほかの曲を書いていない。

1921年10月29日に彼はカミラに書き送っている。「君は知っているだろう。初めて君にルハチョヴィツェで大戦中に知り合った時、私は初めて女性が夫をどれだけ深く愛せるかを知った。ー君の涙を思い出す。あの涙こそ私が『カーチャ・カバノヴァー』を作曲した理由なのだ。」

舞台がロシアであることも、彼の尽きせぬ思い出を呼び起こしたに違いない。まだ娘オルガが元気だった頃、彼は胸を膨らませてロシアを訪れ、このオペラで描かれている舞台を見たのだった。「カーチャの魂のように、月光の中で白く輝く」ヴォルガ川、かつてノヴコロドで見た、川岸に住む人々の生活などである。革命の動乱の中で、今や訪れるべくもないロシアを彼はこのオペラの中で描いたのだった。

こうしてヤナーチェクは『イェヌーファ』から25年以上も経ってから、もう一度自分の音楽にふさわしい完成度を持つ原作に巡り会ったのである。『運命』と『ブロウチェク氏の旅行』の台本をめぐる苦い経験から、彼は『イェヌーファ』と同じく戯曲を原作として選んだ。

そしてヤナーチェクが作曲したあらゆる台本の中でも、『カーチャ・カバノヴァー』は最も求心力があり音楽的な台本になった。そしてヤナーチェクの力強い劇世界を支えるとともに、清冽な叙情を引き出している。

66歳の作曲家が新しい領域に挑戦して、愛の世界を水々しく描き出した表現意欲には感嘆させられるばかりだ。


1922年 プラハ国民劇場初演時の舞台装置

このオペラを書き上げた後、ヤナーチェクは『利口な女狐の物語』に取りかかった。そして1922年初頭から1923年10月までそのオペラに没頭している間にも、次の作品の着想が次から次へと浮かんできた。

1923年3月23日に彼はドナウ川沿いのスロヴァキアの首都ブラチスラヴァに『カーチャ・カバノヴァー』の上演を観に行き、その公演に魅了された。そして彼はブラチスラヴァ滞在を何日か延長したのだが、この滞在の間に彼はドナウ川に深い印象を受けて、交響詩を作曲することに決めた。しかしこの曲は結局未完のまま残された。

同年7月にヤナーチェクはタトラ高地への旅行の途中で、カレル・チャペックの新作の空想的喜劇『マクロプロスの秘事」を読んだ。ヤナーチェクはこのチャペックの戯曲の上演を、8ヶ月前の1922年12月にプラハで観ていたのである。「マクロプロスの秘事」に深い印象を受けたヤナーチェクは、読みながら楽想を書きとめ、オペラ化を決意した。

一方で、70歳を目前にしたヤナーチェクには、親しい知人の死にも見舞われた。かつて『イェヌーファ』を国民劇場で上演するために奔走したヴェセリー医師はこの1923年に死去した。そして7月には、妻の父でかつての師範学校校長エミリアン・シュルツがブルノで亡くなった。彼は大戦後のウイーンの混乱と窮乏の中で妻を失い、息子と別れてブルノに一人戻ってきていたのだった。

知らせを受けたヤナーチェクは、タトラ高地の旅を切り上げてブルノに駆けつけた。87歳の元校長と、69歳の元教員の対面は心を動かす光景だった。ヤナーチェクは変わり果てたかつての上司の姿を一目見ると窓辺に走り、涙を流した。その後姿に向かって老シュルツは言った。「君とは上手くやれなかったが、君の成功の報をいつも喜びをもって聞いていたよ。」そして二人は和解して別れた。その後数日して老シュルツは死去した。

ヤナーチェクは1923年10月に『女狐』を書き上げたが、『マクロプロスの秘事』にとりかかる前に、斬新な室内楽をわずか10日あまりで書き上げた。トルストイの小説「クロイッツェル・ソナタ」に霊感を受けて書かれた『弦楽四重奏曲 第1番』である。

『弦楽四重奏曲第1番』は厳密には第1番ではない。ウイーンに留学していた学生時代に弦楽四重奏曲に着手し、初めの3楽章だけを完成させたことがズデンカへの手紙から判明しているが、消失した。

またヤナーチェクがトルストイの「クロイッツェル・ソナタ」に基づく作品を書いたのも、これが初めてではなかった。彼は1908年末に、同じ小説に基づくピアノトリオを作曲して、翌1909年4月にブルノで試奏されている。しかしこのピアノトリオも消失したので、その内のどれくらいが弦楽四重奏曲第一番に転用されたかは明らかでない。

ヤナーチェクはマックス・ブロートに「いくつかの楽想が使われた。」と語った。一方、ピアノトリオの初演でヴァイオリンパートを弾いたパヴェル・ジェデチェクは、後に友人への手紙で、「弦楽四重奏曲第一番に、ピアノトリオの楽想は殆ど使われていない」と言っている。

その手紙によれば、第1楽章は1/2拍子で、弦による活発な6連符の音型で始まり、主旋律はピアノパートにあったという。ヤナーチェクはそれを「走っている列車の轟音」だと説明したというから、トルストイの小説の冒頭の列車の場面を、音で再現しようとしたのだろう。第二楽章は変イ短調で三拍子であり、「大変メロディアスで美しい楽章」だったというが、これ以上の詳細は分からない。

この『弦楽四重奏曲第1番』は、1907年に計画され、第1幕のスケッチだけで終わったオペラ『アンナ・カレーニナ』に始まる、精神的関連を持つ一連の作品の最後を飾ることになった。前述のピアノトリオや『カーチャ・カバノヴァー』もこの流れに属するが、とりわけ後者の室内楽版という言うことも出来よう。これらの作品では、女主人公はみな不幸な結婚に苦しんでおり、幸せを求めるあまり、つまらぬ男に身を任せ、悲劇的な死を迎えるのである。

事実、この曲には『カーチャ・カバノヴァー』とよく似た楽想がそこかしこに現れる。しかし弦楽四重奏という、室内楽でも最も抽象度の高いジャンルで描かれているために、主人公の心の苦しみはより鋭い音で表現されている。時折現れる素晴らしく叙情的な旋律が、かきむしるような音で何度も遮られて、愛を求めるあまりに罪を犯す主人公の心の葛藤を描く。その曲想が高揚して主人公が破局に向かっていく姿を描く最終楽章は、何度聴いても強烈な印象を与える。

トルストイの原作では、猜疑心深い老人が、妻とベートーヴェンの「クロイッツェル・ソナタ」を共演したヴァイオリニストが不倫の仲にあると思い込み、殺害するに至る心理に主眼が置かれているが、ヤナーチェクは罰を受けようとも、命を賭けて幸福を追い求めようとしたその妻の姿を共感を込めて描いた。はからずも、次の弦楽四重奏曲では、ヤナーチェクはそうした自分自身の姿を描くことになった。

『弦楽四重奏曲 第1番 クロイッツェル・ソナタ』は、翌1924年10月17日にボヘミア弦楽四重奏曲によって初演された。第二ヴァイオリンを弾いたのは、ドヴォジャークの娘婿で作曲家のヨゼフ・スークであった。

こうして『弦楽四重奏曲第1番』を書き上げて、わずか4日後の11月11日にヤナーチェクは新しいオペラに着手した。強い意志を持ち、周囲を支配する女主人公を描いた『マクロプロスの秘事』である。ヤナーチェクの創作意欲は、尽きることがないかのようだった。その頃、カミラへの思い入れはズデンカの嫉妬を買うまでになっていたが、彼は全く意に介さずに毎日手紙を書いた。そして次々に作品を完成させながら、常に脳裏にはカミラの姿があった。

1927年1月にはヤナーチェクはカミラを『マクロプロスの秘事』の上演に招待し、手紙にこう書き添えている。『冷酷なヒロインを見に来なさい。君は自分の写真を目の当たりにすることになる。」

同年6月8日にも彼は書いている。「君は『消えた男の日記』の子供をかかえたジプシー娘だ。可哀そうなエリナ・マクロプロスだ。そして私の最近の作品(注 『死者の家から』のこと)のアルイヤだ。私はズデンカに、私たち2人を結ぶ絆が切れてしまったら、私の命の糸も切れてしまうと言った。ズデンカはこの事も、私たちの11年間の謎々のような関係も分かってくれると思う。」

こうしたカミラへの思いは、作品を完成させるたびに強くなっていった。まるで彼の思いと作品は、蔦の2本の枝が互いに絡み合って、天を指して登っていくかのようだった。『マクロプロスの秘事』はそのひとつの到達点であった。

ヤナーチェクはこの戯曲がプラハで上演されるのを観ると、すぐに原作者カレル・チャペック(1890-1938)にオペラ化を打診した。1923年2月にチャペックは当惑まじりの返事を書いた。「私は音楽を−特にあなたの音楽を−高く評価しておりますので、「マクロプロスの秘事」のような会話体の、詩的
ならざる饒舌な戯曲が音楽に結びつくとは思えません...」

しかしヤナーチェクの決意は揺るがず、著作権の問題を片づけるとすぐに作曲に熱中した。彼はまず台本を書き上げた。ヤナーチェクは知人に語っている。「そう。かなり難しい仕事だった。思うような台本が出来るまでに、三回書き直した。」

ヤナーチェクは戯曲の登場人物たちが語る、人間の長寿の意味をめぐる長々とした論議から、主人公エミリア・マルティの悲劇的な姿を描くことに重点を移した。冒頭のエミリアは、男たちを謎めいた美しさで魅了し、破滅に追いやる冷酷な女性である。しかし、筋が進行するにつれて彼女の冷酷さの陰にある秘密が明らかになっていく。そして最後に彼女は周囲の畏怖と同情のなかで、悲劇的な生を終える。

このオペラ『マクロプロスの秘事』は、ヤナーチェクの「スピーチ・メロディ」の探究ー話し言葉の音楽的な抑揚と、それに込められた心理の相互関係ーが結実した作品である。同時代のオペラの、大編成のオーケストラが咆哮し、登場人物が甘美なアリアを繰り返し歌う美しさとは、何と遠い世界にあることだろう。まるで何気ない会話が交わされるだけのように響きながら、その断片のようなモチーフから、どれほど陰影に富む音楽が姿を現すことだろうか!



カレルの兄、ヨゼフ・チャペックによるプラハ初演時の舞台デザイン。(1928年3月)
プラハ初演のカーテンコールにて。
左から演出家ヨセフ・ムンクリグル、
ヤナーチェク(74歳)、指揮者オタカル・オストルチル


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