14.チェコスロヴァキア共和国の誕生


  『イエヌーファ』がプラハの街の話題をさらっていた頃、チェコスロヴァキア独立運動は大きく展開しつつあった。ロンドンに亡命していたマサリクはその年の2月にE.ベネシュ、M.R.シュテファーニクらとともに「チェコスロヴァキア国民会議」を設立して、ハプスブルク帝国に対する抵抗運動を組織した。

また大戦前に各連合国に移民していたチェコ・スロヴァキア人は、捕虜と志願兵による「チェコ軍団」を組織して、東部・西部の各戦線で枢軸国側の軍隊と戦った。


  一方で、チェコ国内では厭戦気分が広がっていた。1918年1月には停戦と自由を求める大規模なゼネストが行われ、帝国軍のチェコ人、スロヴァキア人の反乱も頻発した。オーストリア・ハンガリー帝国の旧体制は、マサリクらの生み出した新しい秩序の前に落日を迎えつつあった。

  そうした最中に『イエヌーファ』が帝都ウイーンで上演されたのは、政治的な思惑も働いていたのだろう。事実ドイツ愛国主義者の国会議員たちは、宮廷歌劇場でチェコ人によるオペラを上演することに抗議したのである。しかし前年11月に死去したフランツ・ヨーゼフ帝を継いだ、ハプスブルク朝最後の皇帝カール一世の宮廷が仲裁し、上演が決定した。そして初演のポスターには、'Auf allerhochsten Befehl'(皇帝陛下の命による)の一文が麗々しく刷られることになった。

  一方、ウイーンの聴衆は1918年2月16日の初演から、『イェヌーファ』を熱狂的に受け入れた。ヤナーチェクは20回もカーテンコールに呼び出されたという。残念ながら、チェコスロヴァキア分離独立によって、ウイーン宮廷歌劇場(敗戦後は国立歌劇場)での『イエヌーファ』上演はしばらく途切れてしまうが、ヤナーチェクの音楽は政治的な思惑を越えて、音楽上の価値だけで世界への道を切り開きつつあった。

  その間にも、チェコスロヴァキア独立運動は新たな段階に入っていた。決定的だったのは、ロシア革命の内戦の中、ウラジオストックに向けて移送中のチェコ軍団が、1918年5月にシベリア鉄道沿線を武装占拠した事件だった。各連合国はチェコ軍団をボリシェヴィキに対する重要な戦力とみなして、それを指揮する「チェコスロヴァキア国民会議」をチェコスロヴァキア国の政府と見なして次々に承認した。そしてチェコ国内の反ハプスブルク勢力も「民族委員会」を組織して、亡命勢力と呼応し始めた。

  そして1918年10月28日朝、オーストリア・ハンガリー政府が連合国の和平案に同意したことが報じられると、ヴァーツラフ広場は歓喜した群衆であふれた。そして群集は民族委員会とともに同日のうちに軍隊と行政組織を平和裡に手中にした。こうしてチェコスロヴァキア共和国が誕生したのである。

マサリクと、アメリカに移民したチェコ人子弟による義勇軍『チェコ軍団』 1914年10月28日 プラハ、ヴァーツラフ広場

この報はまたたく間にブルノに届いた。10月28日の朝、ヤナーチェク家の家政婦マリエがパン屋で第一報を聞きつけて夫妻に知らせると、ヤナーチェクは「コートをつかんで、街に飛び出していった」という。やがて彼は顔を輝かせて帰宅すると、朝食もそこそこに聞きつけた情報を2人に話して聞かせた。やがてズデンカも外出してみると、ブルノの中央広場(現在の自由広場)も群集であふれていた。チェコ系市民はチェコの象徴の三色旗を織るために布地を争って買い求め、すぐに品切れになった。
  その頃のヤナーチェク家の情景を、ズデンカは楽しげに回想している。

「みんなが浮き浮きしていた。天国が来たみたいだった。戦争は終わり、もう飢えなくてすむと、私とマージャ(家政婦マリエの愛称)は笑ったーあの頃は誰もが食べ物のことばかり考えていた。レオシュは友人ヤン・ヘルベンから聞いたことを全て話した。そしてもう、ある考えを思い浮かべていた。オルガン学校を音楽院にすることを...彼はいつもその事ばかり話したり考えたりしており、有力者たちと交渉を始めていた。本当に上機嫌で、始終街へと走って出ていった。」

  彼が戦後最初に作曲したのは、独立を得るために命を捧げた兵士たちへの挽歌である男声合唱曲『チェコ軍団』だった。原作はアントニーン・ホラークが新聞に発表した詩で、ヤナーチェクは原作を目にすると、11月15日から18日のわずか4日で書き上げた。初演は活動を再開したヴァッハ指揮のモラヴィア教員合唱団の手で行われた。
  
  ヤナーチェクは祖国の音楽教育に、一層の熱意を注ぐことになった。オルガン学校を音楽院に拡大するという彼の提案は、新しい共和国の同意をすぐに得て、オルガン学校は1920年3月から国立ブルノ音楽院として生まれ変わることになった。彼は大いに喜び、1919年を開校準備や打ち合わせなどで費やした。結局その年完成した作品は2年越しの歌曲集『消えた男の日記』と交響詩『ブラニーク山のバラード』だけであった。

しかし音楽院校長に任命されたのは弟子のヤン・クンツであり、ヤナーチェクは衝撃を受けた。もっともヤナーチェクは作曲科のマスタークラスの授業を受け持ち、引き続き裏庭の校長宿舎に住み、音楽院の精神的な支柱であった。

この年音楽院は186人の学生が在籍して活況を呈したが、その中には当時8歳のルドルフ・フィルクシュニーもいた。母親に連れられて学校に来るルダ少年を、ヤナーチェク夫妻はとりわけ可愛がったという。当時66歳のヤナーチェクにとって、37歳の校長ヤン・クンツは息子、生徒は孫のようなものだった。

  ブルノ歌劇場の新指揮者の選出にも一悶着があった。この歌劇場はチェコスロヴァキア独立とともに、ドイツ人劇場(ナ・フラドヴァッハ(市壁跡)劇場、現マーヘン劇場)を接収して粗末なナ・ヴェヴェジ劇場から移転したのだった。歌劇場の出資者たちから相談を受けたヤナーチェクは悩んだあげく、当時プラハ国民劇場の『ブロウチェク氏の旅行』の上演をめぐって頻繁にやりとりのあったコヴァジョヴィツに相談している。

最終的に選ばれたのは、前フランクフルト歌劇場の指揮者で、旧知のフランチシェク・ノイマン(1874-1929)であった。


ノイマンは海外の歌劇場での経験が深く、オペラに精通した有能な音楽家だったので、ヤナーチェクは彼の下で面目を一新したブルノ歌劇場に、自分のオペラの初演を一任することができた。そうして『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロスの秘事』が次々とこの劇場で初演された。

  ノイマンはヤナーチェクと厚い信頼関係を結んだ。ヤナーチェクは後に「私は世界中の歌劇場で自分のオペラが上演されるのを観たが、やはりノイマンの指揮が最も素晴らしいといわざるをえない」と言っている。

フランチシェク・ノイマン(1874-1929)

ヤナーチェクはリハーサルにしばしば立ち会った。演奏に耳を傾けながら、歩調を速めたり遅めたりして袖席を黙ったまま歩いたり、深く瞑想しているかのように思いに沈んで立っている姿を、出演者の誰もが畏敬して見た。そしてノイマンは時に演奏する立場から有益な助言を行った。また2人はブルノに交響楽の演奏会が無いのを憂いて、定期的に歌劇場オーケストラの演奏会を始めて、若いモラヴィアの作曲家たちに演奏の機会を与えた。

ノイマンの音楽への情熱には、ヤナーチェクもたじたじになることがあった。ある日『カーチャ・カヴァノヴァー』のリハーサルの時、ノイマンは写譜が間違いだらけなのに激怒して、床に譜面を叩き付けた。ヤナーチェクは黙ってそれを拾って家に持ち帰り、その日は徹夜で譜面を訂正したという。ほかの指揮者が同じ事をしたら、ヤナーチェクはどんな癇癪を切らしていたことだろう!

こうしてブルノの街の音楽生活は、若き日のヤナーチェクが夢見たような姿が実現しつつあった。音楽院と若い学生達、チェコの立派な歌劇場、交響楽の演奏会と新しい作曲家たちの作品の上演と、そのほぼ全てがヤナーチェクの奔走によるもので、担い手はヤナーチェクの弟子たちであった。

さて、ブルノ音楽院が大勢の学生を迎えて賑やかに開校したころ、プラハとブルノの街でヤナーチェクの新作の上演が行われた。ひとつはオペラ、もうひとつは交響詩であった。

まずプラハ国民劇場で初演されたオペラ『ブロウチェク氏の旅行』であったが、このオペラをヤナーチェクは1918年にコヴァジョヴィッツに売り込んでいたが、コヴァジョヴィッツは長い間躊躇していた。まず戦時中で、舞台装置や衣装に必要な資金が無いと彼は返答したが、実際には彼はおよそ上演向きでない作品だと思っていたのである。それに広い声域を必要とするので、歌手達も反対した。しかしヤナーチェクは再三上演を要望したし、『イェヌーファ』の大成功の後では『ブロウチェク氏の旅行』を拒絶し続けるのは難しかったが、コヴァジョヴィッツは生返事を続けた。

1919年11月になって、コヴァジョヴィッツは病に倒れ、副指揮者のオタカール・オストルチルに上演を委ねた。そしてこの作品は1920年4月23日にプラハの国民劇場で初演された。

初演の舞台写真から


そのシーズンに『ブロウチェク氏の旅行』は10回上演されたが、聴衆は熱狂するよりも当惑した。ヤナーチェクは初演の後で、数人の友人と空席ばかりのビアホール 'ウ・ブンブルリツカー'に行き、弟子フルブナたちとともにささやかな祝杯を上げたのだった。結局この作品は、国民劇場では1944年まで再演されなかった。

その直後の1920年12月6日、コヴァジョヴィッツは癌で死去した。

ヤナーチェクはかつての敵対者が重病に倒れたことを、痛ましい思いで見ていた。病気のためにコヴァジョヴィッツが『ブロウチェク』の指揮をオストルチルに托したと聞くと、彼は1919年11月22日にコヴァジョヴィッツに手紙を書いた。「自分の健康を、半分君にあげられるならーそれは大したことではなかろうがー喜んでそうしたい。』そしてコヴァジョヴィッツが死去すると、ヤナーチェクは後継者のオストルチルに書いている。

「感無量だ。長い間の私たちの絆を、いつまでも忘れたくはない。コヴァジョヴィッツとはブルノ時代からの知己だった。最初の出会いは幸せなものではなかった。そして私たちの間には、時として暗い影が差した。『ブロウチェク』での一件は貴君も御存じのはずだ。しかし、そんなことはもう忘れよう。彼は死の時まで働き、国民劇場の誇りだった。私も最後には『イェヌーファ』の成功で彼に感謝していた。私は彼の良かった点だけを思い出したい。

ブルノでは1920年3月21日に行われた交響詩『ブラニークのバラッド』の初演が、同じような当惑まじりの反応を呼んだ。理由の大半は、この並外れて難しい作品を演奏するには、オーケストラが力不足だったからだった。この作品はチェコの古い伝説に取材したヤロスラフ・ヴルフリツキーの詩に基づいており、筋書きは以下の通りである。

イーラは学のある農夫である。彼は聖金曜日に教会に行く代わりに、ブラニークの丘(プラハの南東) に散歩に行くことを思い立つ。ブラニーク山で聖金曜日に受難曲を歌うと、山の秘密が明きらかになるという伝説を思い浮かべて、彼はほくそ笑みながら歩いていく。

突然目の前の岩の表面が二つに割れる。彼はその割れ目の中から漏れている不思議な光を追って中に入っていく。長い間歩くと、岩の広間に行き当たる。そこには伝説のいう通り、チェコの守護聖人、聖ヴァーツラフとブラニークの騎士たちが、救国の戦いに赴く軍列を敷き、足元に武器を置き、聖ヴァーツラフの旗印を
かざしたまま立って眠りに入っている。

イーラが茫然としていると、背後の岩の割れ目が轟音を立てて閉じる。イーラは気を失って眠りに落ちる。目覚めると遠くで誰かが受難曲を歌っているのが聞こえてくる。騎士と馬は変わらずに戦列を作っている。しかし騎士の足元にあるのは、物騒な武器ではなく、すきやくわである。

イーラはブラニークの丘を逃げるように後にする。しかし水を飲もうと小川に身を乗り出した時、水面に写ったのは老翁の姿だった。村人は誰もイーラが誰であるか知らない。ー変わっていないのは、美しい田園で楽しげな歌を奏でているひばりだけであった。

ヤナーチェクは、武器がすきやくわといった平和な農具に姿を変えるという詩の内容に魅かれたのだろう。第一次大戦が終わり、チェコが独立を勝ち取ったとなれば、それも納得がいく。曲想も『タラス・ブーリバ』のような熱血調のものではなく、抒情味のまさったものである。

しかしこれらの作品は、すぐに光芒を放つ晩年の傑作によって影が薄くなってしまった。ヤナーチェクはある女性と知り会い、その出会いによってかきたてられた霊感が、次々と新しい作品を生み出す原動力となったのだった。


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