9.失意と奮起


オルガの死は夫妻には大きな打撃だった。ズデンカの顔からは笑顔が消え、下を向いて押し黙っているばかりになった。ヤナーチェクも痩せ、頭には白髪が目立つようになった。そんな中で彼は『イェヌーファ』第3幕のオーケストレーションを完成させて、上演を求める手紙を添えてプラハ国民劇場に送った。ブルノの歌劇場では、ヤナーチェクが求めるような質の高い上演は望むべくもなかったからである。

ヤナーチェクはじりじりと返事を待った。毎日ポストの前に立ちつくし、家に帰ると真っ先に返事が来ていないか家人に尋ねた。しかし1ヶ月経っても返事は来ず、ヤナーチェクは意を決して、国民劇場のオペラ部門責任者カレル・コヴァジョビッツに返事を求める手紙を書いた。返答はかねてから不和のコヴァジョビッツからではなく、国民劇場総裁のグスタフ・シュモランツから届いた。

妻ズデンカは回想している。「レオシュは私にその手紙を開封して読んでくれと頼んだ。私はがたがたと震えながら読んだ...部屋はまるでオルガが死んだ時のようだった。夫は椅子に座っていたが、両手で頭をつかんで号泣した...私は彼の頭を強く抱いて、自分も泣きながら彼を慰めた。」50歳を前に一人娘を失い、自分の作品さえ否定されたヤナーチェクの落胆は深かったが、彼は黙って耐えた。

その年の夏の休暇を、彼はお気に入りのルハチョヴィツェの湯治場でひとり過した。その地での新しい出会いは、ヤナーチェクに少し元気を取り戻させたようである。「彼女は実に美しい女性だった。その声はヴィオラ・ダモーレのようだった。」70歳を過ぎてから、彼は情熱をこめて回想している。それはカミラ・ウルヴァールコヴァーという夫人で、二人は打ち解けて、互いの身の上を語ったという。その話をもとにヤナーチェクは次のオペラ『運命』を作曲することになった。

当時のヤナーチェク(1904年、50歳)
カミラ・ウルヴァールコヴァー
(1875-1956)

ブルノの人々もヤナーチェクを支えた。ヤナーチェクの友人達は「プラハの連中はブルノを見下している」と憤慨し、ブルノの歌劇場は『イェヌーファ』を是非ブルノで上演したいと願い出た。ヤナーチェクは自信喪失に陥っていたが、妻の説得に負けてOKを出した。こうして1903年の秋から『イェヌーファ』のリハーサルが始められた。

チェコ歌劇場は、限られた設備と資金の中で出来るだけのことをしたと言えよう。指揮はヤナーチェクの才能ある弟子のシリル・フラジラ (1868-1926)が取り、ソリストにはプラハの国民劇場でもこれ以上は望めぬ顔ぶれが揃えられた。問題はオーケストラだったが、歌劇場は木管パートに軍楽隊員のエキストラを呼び、アマチュアのヴァイオリン奏者も加えられて、質はともかく29人編成にまで仕立て上げた。


初演時の主なメンバー。
左から指揮者キリル・メトジェイ・フラジラ(1868-1926)、イェヌーファ役のルージェナ・カシュパロヴァー、
コステルリチカ役のレオポルジナ・スヴォボドヴァー・ハヌソヴァー

リハーサルは波乱含みだった。ヤナーチェクの馴染みのない作風に演奏者たちは悪戦苦闘し、初日が迫ったある日のリハーサルでは「演出家と指揮者が不愉快な口論を始め」、オーケストラの団員にも、叱られた後の憂さばらしに、一杯ひっかけていたトランペット奏者のふてくされた態度が伝染して、「初演は大いに危ぶまれた」という。しかし出演者の熱意がトラブルを乗り越えた。

こうして『イェヌーファ』の初演は、1904年1月21日にブルノのナ・ヴェヴェジー劇場で行われた。一般客だけでなく、ヤナーチェクの友人や学校の生徒、そして招待を受けたプラハとブルノの評論家たちが狭い劇場につめかけて満席となり、幕が開くのを待ちかまえた。そして指揮者フラジラが拍手の中を顔を紅潮させて入ってきて、指揮棒を振り上げた。

「すぐに、耳慣れないシロフォンと弦の音が響き、幕が上がった。」弟子ヤン・クンツは回想している。ヤナーチェクの斬新な作風は、すぐにクンツの注意を引いた。「オーケストラの力強い交響楽は聞こえず、ただアリアに色合いを与えている。舞台の上では本当の生活に密着した、美しい心のこもった歌が歌われている」シュテヴァが徴兵されなかったという知らせは、「聴衆の背筋を震わせた。」やがてシュテヴァと新兵たちの場面になると「生き生きとした楽しい雰囲気が、すぐに真実のモラヴィアの人々の生活が演じられていることを納得させた...」

第1幕が終わると、袖席にいたヤナーチェクは熱狂的な喝采を浴びた。彼は青ざめ、神経の高ぶった顔で聴衆に会釈した。第2幕の喝采は更に大きかった。そして「第3幕でドラマが最高潮に達し、婚礼の場面、赤ん坊の遺体が見つかったと知らされる場面、そして最後にラツァがイェヌーファに愛を告白する場面と続き、幕が下りると「劇場を揺るがすようなどよめきになり、拍手はいつまでも鳴り止まなかった。ヤナーチェクと原作者のガブリエラ・プライソヴァーは何度も何度も舞台に呼び出された。」

幾重もの花輪がヤナーチェクに贈られた。そして独唱者たちは、舞台衣装のままでヤナーチェクを肩にかついでベセダ会館まで運んでいき、そこで祝宴が開かれた。
その一方で教え子たちは「先生の新しい作品」の斬新さに、夜遅くまで賛否両論に分かれて論議を戦わせていたという。

ブルノの新聞は『イェヌーファ』を手放しで絶賛したが、とりわけブルノの音楽批評家は、真実のモラヴィアを描いたオペラがようやく生まれたと論評した。プラハの批評も好意的で、ある新聞の批評家は、聴衆が馴染みのない作風にやや当惑したと指摘しながらも、「有無を言わせぬ成功」だったと賞賛した。もっともマサリクらの活躍していた雑誌「チャス」には、ヤナーチェクを「地方的な作曲家にとどまる」と論評する記事が載った。

もっともヤナーチェクは「チャス」の批評には屈しなかった。彼はリハーサルが始まった頃から、ルハチョヴィツェで知り合ったウルヴァールコヴァー夫人と文通を続けていたが、その中で書いている。「この作品を多くの人が好み、それゆえ生命を得た。舞台の上のどの台詞も鋭く効果的だった。私が音楽で強調した通りだった。聴衆は私の劇音楽の作曲家としての才能を認めたのだ...」

自信を取り戻したヤナーチェクは、2月19日にもう一度コヴァジョヴィッツに上演を求める手紙を書いた。 コヴァジョヴィッツは返事を書き、『イェヌーファ』を上演しないのは不当だという非難について反論したが、なぜ上演しないのかについて、はっきりとした理由は明らかにしなかった。しかし彼はブルノに上演を観に行くことを約束した。ヤナーチェクはじりじりと毎公演待ち続けた。しかしコヴァジョヴィッツは遂に姿を見せなかった。

そして『イェヌーファ』は同年4月15日の9回目の上演をもって、その年のブルノでの上演を終えた。(ただしこの後南ボヘミアのチェスケー・ブデヨヴィツェとピーセクで一回ずつ巡業公演が行われた)ヤナーチェクはシーズン終わりの公演を観た後、友人に憤懣やる方ない手紙を書いている。「ブルノの劇場のオーケストラは、どんどん楽員が欠けていきます。新任の音楽監督は、ホルンとトランペット奏者に解雇の予告を出しました。夏のシーズンには必要ないからという理由で。...劇場には決して近づきますまい。自分の作品をあんな状態で聴くなど耐えられません。私をよく思っていないあの客人が、あんな演奏を聴いたらどう思う事でしょうか。」

失意のヤナーチェクに追い討ちをかける出来事があった。親友のドヴォジャークの死である。その時彼はワルシャワで、音楽院の院長就任をめぐる交渉に臨んでいた。この年の2月に日露戦争が勃発しており、ワルシャワ音楽院をはじめとする教育施設は反ロシア運動の渦中にあったため、ロシア人は親ロシアの音楽家ヤナーチェクに白羽の矢を立てたのである。ヤナーチェク自身も当初は乗り気だった。

ワルシャワ総督との会談の翌日(5月2日)、ヤナーチェクはワルシャワ・フィルハーモニーの演奏会に出席した。すると「指揮者が、アントニーン・ドヴォジャークが死去したと場内に伝えた。プログラムに序曲『フス教徒』が急遽加えられた。茫然としたまま、私はほかの聴衆たちと共に起立した。彼が死んだなんて本当なのか?」長年の親友ドヴォジャークは、その前日に62歳で世を去ったのだった。ヤナーチェクはポーランドを去り、故国に帰った。そしてこの件は流産に終わった。

ナ・ヴェヴェジー劇場内部 ドヴォジャークの死(1904年5月1日)

1904年冬のシーズンには、『イェヌーファ』は2回上演されることが決まったが、ヤナーチェクはもうブルノの上演の反響には期待していなかった。彼はプラハが駄目ならいっそウイーンに売り込もうと考え、ウイーン宮廷歌劇場監督のグスタフ・マーラーをブルノの上演に招待している。マーラーは儀礼的な返事を書いた。

拝啓
プラジャーク男爵(注 ブルノ・チェコ劇場の総裁)には御説明致しましたが、小生は現在ウイーンを離れることは出来ません。しかし貴殿の作品を是非知りたいと思いますので、ドイツ語によるヴォーカルスコアを送って頂ければ幸甚です。

ウイーン 1904年12月9日 グスタフ・マーラー

敬具


この時、ドイツ語の台本など存在していなかったので、結局この話は立ち消えになった。
12月7日、たて続けの招待状に根負けしたコヴァジョィッツはとうとうブルノにやって来たが、否定的な態度を変えることはなかった。


11月14日にプラハではフランクフルト歌劇場の指揮者フランチシェク・ノイマンが序曲『嫉妬』を指揮し、11月18日にはカンタータ『主の祈り』がフラホル合唱団によって上演されたが、コヴァジョヴィッツ の態度は変わらなかった。おそらく、どちらの演奏もあまり成功しなかったことにもよるのだろう。「序曲と『主の祈り』の演奏にはがっくりきた。」とヤナーチェクは知人に手紙で漏らしている。

ブルノ歌劇場の指揮者フラジラは、それでも孤軍奮闘した。彼は1906年9月にオストラヴァで『イェヌーファ』を上演し、10月にはブルノでさらに2回再演した。しかし彼が1907年に辞任すると、『イェヌーファ』は1911年までレパートリーから降ろされてしまった。翌1908年にブルノの友人たちが基金を集めて、ヴォーカルスコアを自費出版してくれたことが、せめてもの慰めだった。

こうしてヤナーチェクは、ほとんど唯一の理解者であったドヴォジャークを失い、40代の10年を費やした『イェヌーファ』はプラハに拒否され、意気消沈せざるをえない状況にあった。しかし彼は奮起した。1903年秋には師範学校に辞職願いを出して、より多くの時間を作曲に割くことにした。(オルガン学校校長のかたわら、ここで週に10コマ教えていたという!) まず彼が取りかかったのは、オペラ『運命』であった。

彼は『イェヌーファ』のブルノ初演のリハーサルが始まった頃、彼はウルヴァールコヴァー夫人に書いている。「今度は新鮮で、現代的で、生と優美さにあふれた台本に作曲したい。誰か書いてくれる人がいるだろうか?」そして彼が選んだのは、オルガのかつての親友で女教師のフェドラ・バルトショヴァーであった。

フェドラ・バルトショヴァー(1884-1941)

ヤナーチェクはウルヴァルコヴァー夫人から聞いた話をもとに自分で筋書きを立てて、韻文の台本を彼女に依頼した。ヤナーチェクは20歳そこそこのバルトショヴァーが書いた「流れるような、音楽的な韻文」に大喜びし、翌年の6月には完成させた。

しかし、この『運命』もまた悲劇的な運命をたどった。ヤナーチェクはこの作品に何度も改訂を加えた末に、プラハに新しく完成したヴィノフラディ劇場に売り込み、一時は上演の予告が劇場から出されたが、すべて空約束に終わった。ブルノでの公演は第一世界大戦で中止となり、結局ヤナーチェクの意図した通りの形で上演が行われたのは、何と死後50年、1978年のことであった。

今聴いても『運命』の音楽は素晴らしいのだが、なぜだろうか? 理由は明白だった。台本が弱すぎたのだった。まさに学芸会なみの内容と言えよう。それでもこの『運命』は、ヤナーチェクの作風の発展を見る上で重要である。なぜならこの作品は現代のチェコの市民が登場する最初の作品であり、ここから『ブロウチェク氏の旅行』、『マクロプロス事件』といった作品が生まれることになる。

温泉地の夏、再会する恋人たち、行楽客たちの戯れ...ここでは確かに新しい風が吹いている。ヤナーチェクが、ここで初めて諧謔味のある曲を書いたことも注目される。1907年には、彼は今度はロシアの小説家トルストイの小説によるオペラ『アンナ・カレーニナ』を計画した。

その1907年のオルガン学校での授業の情景を、弟子のひとりが伝えている。
「...ヤナーチェクはその授業で、古いオペラの序曲と最近のオペラの短い序奏の違いについて説明していた...彼は言った。「今日は私のオペラ『イェヌーファ』の序奏のスコアを例として持ってきた。このスコアは印刷に出されていたのだが、何とか持ってきたから、君たちに弾いてみせよう。」そう言うと、彼は第1幕の序奏を楽曲分析しながら弾き始めた。

「私たちは息を殺して彼の音楽と言葉に聞き入ったが、皆その音楽の素晴らしい独創性に驚嘆した。それはかつて聞いたことのない音楽だった。まるでヤナーチェク先生が目の前で霞と化して、新たな音楽を創造する偉大な作曲家として立ち現れたかのようだった。最後に彼は言った。「イェヌーファはやがて認められるだろう。君たちは皆若い。だからこれだけは言っておきたい。真実に従いなさい、人生だけでなく、芸術についても。」そう言うと彼は教室を出て行き、授業は終わった...私は死ぬまでこの日の授業のことを忘れない。」

ヤナーチェクは不遇のなかでも、自作への信念と誇りを失うことはなかった。50代に入っても、彼はブルノ以外の地ではほとんど無名のままだったが、彼は限られた上演の機会の中で次々と新境地に挑戦して、自分の作風を深めていった。


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