10.抗議の音楽

ヤナーチェクは、この頃にもモラヴィアの民謡収集旅行を行い、フォークロアを愛し続けていた。しかしヤナーチェクは同時にチェコの人々が変貌しつつあるのを目の当たりにした。

当時チェコにはドイツ・オーストリアの資本が流入して、ピルゼンの兵器工業をはじめとする鉱工業が躍進していた。都市の周辺に建設されたそれらの工場には、農村出身の労働者が流入し、ブルノ、プラハ、オストラヴァといった都市は急激に人口が膨張した。

一方で農村の若年人口は減り、遠い昔から受け継がれてきたフォークロアは急激に衰退しつつあった。そしてドイツ系資本による工場の劣悪な労働環境は、ドイツ人とチェコ人との対立に油を注ぐ結果になった。こうして社会的な問題と民族的な問題とが相乗して、チェコ国内の情勢は緊張を増していった。

ブルノにおいても、チェコ人とドイツ人の対立は、もはや避けられない段階まで進んでいたが、1905年10月に遂に流血の惨事を招いた。契機となったのは、ブルノにチェコ人の大学を設立したいというチェコ系住民の要望に、ドイツ人住民が強硬に反対したことだった。

1905年10月1日、ブルノのドイツ人住民は、全ハプスブルグ帝国のドイツ人に呼びかけて、ブルノのチェコ人大学設立に反対する政治集会を組織した。チェコ人はこれに猛反発し、同じ日に抗議集会を開いた。両者は街路で衝突し、ドイツ系の市評議員の要望で、翌10月2日に軍隊が出動する事態となった。

軍隊はベセダ会館で行われていたチェコ人の集会を解散させるよう命じられた。軍がその命令を強行した10月2日、当時20歳のチェコ人労働者フランチシェク・パヴリークは兵士の銃剣で重傷を負い、その後病院で息を引き取った。

ヤナーチェクはこの事件に激しく心を動かされ、机に向かうと『1905年10月1日、路上で』と題する、3楽章からなるピアノ曲を作曲した。当初第1楽章は『予感』、第2楽章は『悲歌』と呼ばれており、後に『死』と改められた。第3楽章は葬送行進曲だったというが、詳しいことは分からない。

それにしても、ピアノソナタという古典的なジャンルにこれほど社会的な問題が取り上げられたのは、かつてなかったことだろう。オステヌート音形が、つぶやくように何回も繰り返されて静かに消えていく第2楽章は、死に面してすべての生の希望や消えていく姿を、冷厳なリアリズムで描いている。

初演はブルノで1906年1月27日に行われる予定だったが、ヤナーチェクは作品に満足できず、初演前の最後のリハーサルの際に第3楽章の楽譜をピアニストから奪い取り、その場で燃やしてしまった。

2回目の私的な演奏はプラハで行われたが、その後でヤナーチェクは両楽章の楽譜をヴルタヴァ川に投げ捨てた。「楽譜は水になかなか沈まなかった。紙が水を吸って膨らみ、水面を漂っているのさまは、白鳥の大群のようだった。」しかしピアニストが1、2楽章の写しを作っておいたので、この作品は消失せずに済んだ。後に彼は出版に許可を与え、次のような献辞を寄せている。

「ブルノのベセダ会館の白い大理石の階段。無名の労働者フランチシェク・パヴリークはそこに倒れ、大理石を血で染めた。彼はより高い教育を受けたくてデモに加わったのに、残忍な殺人者どもに殺されたのだ。レオシュ・ヤナーチェク。ブルノのチェコ人大学のデモに参加し、銃剣に突き殺された労働者の追憶に。」

当時のベセダ会館。現在でも使われている。 後にベセダの壁面に飾られた
パヴリークの追悼碑

やがてヤナーチェクの社会的な不正義への憤りは、ブルノという一都市を離れて、社会的な抑圧を告発することに向けられていった。

直接の契機となったのは、ヤナーチェクと同郷の詩人ペトル・ベズルチの詩集『シレジアの歌』との出会いである。シレジアは歴史的にドイツ系、ポーランド系、チェコ系の住民が混住し、古くから領土をめぐる紛争の絶えない地であったが、この地が炭坑地帯だったために、特に近世の産業革命以降はさらに激化した。三者の内、最も少数派だったのはチェコ系であった。

ヤナーチェクとベズルチは同郷というだけでなく、精神的にも深い連帯感を持っていた。それはヤナーチェクが1924年10月31日に、70歳の祝賀の返礼として書いた手紙で見て取れる。「貴殿には一度もお会いしたことはないのに、大変近しい存在に思えます。貴殿の詩はまさに待ち望まれていた時に発表され、私はその詩の怒り、絶望、苦悩などを音楽で表現しました。私たちはずっと同じ事を考えておりました。私たちを分ける事は出来ません。」

彼らは思想だけではなく、技法も共有していた。意味深い言葉やイメージを、告発するかのように間断なく繰り返すことで、深い力を生み出す技法である。その技法によって、このベズルチの詩による3部作(『ハルファル先生』、『マリチカ・マグドーノヴァ』、『70、000』)は無伴奏の男声合唱曲という枠を超えて、未曾有の劇音楽を作り出している。

この3部作で最初に作曲されたのは『ハルファル先生』である。ベズルチの詩は実際の出来事に基づいているらしい。ヤナーチェクはハルファルの兄と、民謡収集を通じて面識があった。

 「ハルファル先生」(160KB)

ハルファル助教員は善良で物静かな人だった。彼のただ一つの過ちは、チェシーンでチェコ語を話したことだっ た。それは「マーキス・ゲーロ」(注)の治世下では許されな いことだった。そのために正教師への任命は叶わず、婚約者は去っていく。しかし彼は、上司たちが学校をポーランド人の学校にすると決めても、「神の定めたもうた通りに」チェコ語で教えると言って聞かない。ある夕暮れ、彼はリンゴの木に首を吊っているのを発見される。自殺者として彼は墓地の罪人用の片隅に、祈りも捧げられずに埋葬される。

(注)ゲーロ公爵は、1000年前のドイツの将軍で、ラベ川畔のスラヴ民族にたいして暴力的にキリスト教とドイツ語を強制した。ベズルチは、チェコ人に外国語(ドイツ語とポーランド語を暴力をもって強制したオーストリアの貴族をこう呼んだ。

ヤナーチェクはハルファル先生の死を告げる部分を、テノールとバスの対話劇のように描いた。テノールが夕暮れの鐘が鳴っているのを表現しているところに、バスが「少女が暗い部屋に駆け込んできた」と歌って割り込んでくる。するとテナーは「先生は木に首を吊っている」と告げる。この箇所でヤナーチェクはバスに「先生が?ハルファル先生が?」と繰り返させて、劇的手法の冴えを見せた。あるチェコ合唱指揮者の表現によれば「まるで酒場でパイプをくゆらせている男たちが、一斉にドアの方に振り向いたようだ。」そしてハルファル先生が埋葬され、最後にピアニッシモでイ長調のトニックの和音に終止する箇所は、片隅の墓に一条の光が差したような強烈な感動を呼ぶ。

次に書かれたのは『マリチカ・マグドーノヴァー』で、3部作で最も長く、詩としても最も感動的な作品である。第1稿は1906年秋にさかのぼり、第2稿は大幅に改作され、1907年春までに書かれた。

「マリチカ・マグドノヴァー」(260KB)

ヒロインのマリチカ・マグドーノヴァーは鉱夫の娘だが、父はある日仕事の後に居酒屋に足を運び、「家に帰る途中で、みぞに足を取られて、頭蓋骨を割って死んだ。」彼女の母もトロッコにひかれて死に、みなし子になる。彼女は幼い弟や妹を養わなくてはならなくない。子供たちは飢えと寒さに泣き叫び、マリチカは「マーキス・ゲーロの森」に薪を拾いに行く事を決心する。彼女は憲兵に捕らえられ、フリーデクに連れて行かれようとするが、恥辱と嘲りを うけまいとオストラヴィツェ川に身を投げて死ぬ。

ヤナーチェクはこのバラッドを民謡のように節で区切り、各節はリフレインで区切られるようにした。そのため各節の終わりでは『マリチカー・マグドーノヴァー』と彼女の名前が繰り返されるのだが、この響きはまるで罪の印が彼女の体中に焼印されたかのように脳裏に焼き付く。第二稿の後半では、テノールは到底出せないような高音まで駆け上がり、苦しい息でわめき、怒鳴り、荒れ狂う。これは恐ろしいドラマである。またヤナーチェクは『ハルファル先生』の死が伝えられる場面のように、もとの詩では自問自答の場面を対話体に変えて、緊迫した対話劇の一場面とした。

ベズルチの詩
「村長のホッホフェルダー(注)は、お前が森で薪を集めるのを見ていた。あの男は黙っているだろうか?」

『マリチカ・マクドーノヴァー』
マリチカ 「村長のホッホフェルダーは、私が薪を集めているのを見ていました。」
問いかけの声「何と言った?ホッホフェルダーがお前が薪を集めるのを見ていたと?」
マリチカ 「あの人は黙っていてくれるかしら?黙っていてくれるかしら?」
問いかけの声「あいつがお前を見ていただと!」


三部作の最後の作品は、『70,000』である。これはポーランド人・ドイツ人・チェコ人が混在するチェシーン地方に住むチェコ人の数を指しているが、彼らは数的に劣勢なために、(「ドイツ人は100、000、ポーランド人も100、000」とベズルチは言う)ハルファル先生と同じようにチェコ語を捨てることを迫られている。この悲劇的なジレンマを表現するために、ヤナーチェクはさらに手の込んだ手法を展開した。合唱に加えて、いわば群集の声を代弁し、救いを求める人々の魂を表現するために、男声四人の重唱を加えているのである。歌詞の第二番の短調による中間部で、この男声の四重唱は最初に現われ、苦悩に満ちた問いかけをピアニッシモで歌うのだが、効果は驚くほどである。

この曲は3部作の集大成と言えよう。『マリチカ』で見られた名前のリフレインは、この曲では「マーキス・ゲーロ」の繰り返しとなって深く刻まれている。そして困難な時代を生きる姿のように、曲は先の見えない不協和音に落ち込むが、その中から「ただ生きよ」という叫びが立ち上り、生への永遠の希求を描く。

この3部作の緊張感は、聴衆を釘付けにして放さない。ヤナーチェクの合唱作品の最高峰のひとつといえるだろう。しかし輻綜した声部に加えて、器楽の支えの一切ないこれらの曲は非常な難曲である。

ヤナーチェクはこうして外国人による社会的な抑圧に抗議したが、次に彼は貧しい者を差別したり、無為徒食に陥ったチェコ人を描いた作品の想を練り始めた。そして生まれたのが、スヴァトプルク・チェフの原作による交響詩『フィドル弾きの子供』と『ブロウチェク氏の旅行』である。

ここではまず『フィドル弾きの子供』を見ていこう。原作の詩の内容は次のようなものであった。

ある年老いたフィドル弾きが死ぬ。村人は遺されたものを引き取る。それは壁に掛けられたフィドルと、ゆりかごの中にいる赤ん坊である。村の老婆が、赤ん坊の番をするように言いつけられる。ある日の真夜中、彼女は奇妙な幻影を見る。死んだフィドル弾きがゆりかごのそばに立ち、フィドルを弾いて子供をあやし、あの世に誘おうとしているのだ。あの世では飢えて死ぬことも、父親のように魂を悪魔に売り渡すこともない、と幻影は子供に言う。そして子供にキスしようとする時、老婆は十字を切って幻影を追い払う。それから老婆は眠りに落ちる。翌朝村長が来てみると、フィドルが無くなっており、ゆりかごの中の赤ん坊は息を引きとっている。

ヤナーチェクは、村の哀れなフィドル弾き、病気の赤ん坊、貧窮した村人、尊大な村長といった群像を、オーケストラの各楽器の音色に仮託して歌い上げた。その結果、この交響詩は各楽器のアリアが淡々と綴られるという形になっている。例えば、年老いたフィドル弾きはヴァイオリンの独奏、病気の子供はオーボエというように。

それにしても、差別と貧窮に苦しむフィドル弾き親子の死という、およそ後期ロマン派の交響詩とは異なった現実的な題材を、愛惜を込めつつ独創的な手法で描いたこの作品は、もっと上演の機会があってもよいのではないだろうか。



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