8.オペラ「イェヌーファ」と娘の死


こうしてヤナーチェクは第3作のオペラ『イェヌーファ』に着手したが、相変わらず教員としての公務で多忙だった。

「私は時間を盗んで作曲しました。合唱指揮者、オルガニスト、師範学校での音楽教師、オルガン学校の校長、ベセダでの指揮−死の床に臥す愛娘、それでも生活しなければなりませんでした。そのために作曲は難事でしたし、書けたのはわずかでした。」  彼は後年回想している。

あちこちの学校で教えるために、ブルノの街を足早に駆けずり回っている彼の姿は、当時の市民には親しい光景だった。。というのも彼は市街電車の掲示がドイツ語で書かれているのをひどく嫌って、1918年のチョコスロヴァキア独立後にチェコ語に書き替えられるまでは、決して乗らなかったからである。

前章で触れた民謡の収集も、学校が休みの間に行ったいわば余技仕事であった。彼は公務のかたわら民謡のフィールドワークを行って採譜して出版し、なおオペラを含む作品を書いたのだ!

この頃、妻ズデンカとの仲はまずまず落ち着いていた。『イェヌーファ』の作曲を始めた1895年にはズデンカも30歳になり、一家の主婦として経験も積み、夫の激しい気性にも慣れてきた頃であった。


当時のズデンカとオルガ

夫妻の一人娘オルガは12歳で利発で愛らしい女の子に成長していた。ヤナーチェクは娘を溺愛していたが、いつも厳しい父親として振舞い、ズデンカは心を痛めることが多かった。しかしズデンカも、普段はおとなしいオルガが、時に思いがけない強情さを見せることに驚いて、やはり父親の血は争えないと思うことがあったという。

オルガは幼いころから病気がちだった。彼女は音楽の才能はなかったが、利発で優秀な生徒だった。幼い頃から演劇の才能をみせていて、声は弱々しかったが、本を朗読したり演じたりすることが何よりも好きだった。

両親は、ヤナーチェク家の長年の伝統に従って、オルガが教師になるか、せめてロシア語の家庭教師になることを望んだ。「しかし運命はむごい仕打ちをした。」とズデンカは書いている。

幼少時の病気で、彼女の心臓は弱かった。そのためかけっこ、スケート、水泳といった遊びは固く禁じられていた。元来は活発な子だったオルガは、友達が夢中になって走り回って遊んでいるのをうらやましげに見ていたという。その姿をズデンカは生涯忘れず、最晩年の自伝に書き残している。

1895年の年末、ヤナーチェクは『イェヌーファ』の序曲『嫉妬』を完成させた。この作品は民謡を自作に引用した最後の曲となった。元になった民謡(バラッド)は、次のような歌詞で、ヤナーチェクは7年前にも同じ歌詞を用いて合唱曲を書いたことがあった。

死にゆく山賊が恋人に、愛剣に写るお前の顔を最後に見たいから、剣を手渡してくれと頼む。彼女はその願いを聞き入れるが、殺意を察して剣の届かない所に身をかわす。死にゆく山賊は、あきらめて言う。

誰がお前にそんな忠告をしたのか知らんが、
心からお前を愛していた。
俺が死んだあとに
だれか他の男がお前を愛するならば、
むしろ、お前の首を切り倒したかった。

恐らくヤナーチェクは、バラッドの「山賊」と『イェヌーファ』のラツァに相通じるものを見て、このバラッドを引用したのだろう。両者は共に嫉妬にかられて愛する女を傷つけようとするのだから。しかし、『イェヌーファ』全曲を完成させたころにはヤナーチェクの作風は一変していて、この序曲は遂に使われなかった。

だがこの曲はヤナーチェクが民謡を自分の作風の中に取り込んで、独自のドラマを描くことが出来るようになったことを示している。こうしてヤナーチェクは前作のオペラ『物語のはじまり』の作品世界と決別し、確固とした自分の語法を持つオペラの作曲家として第一歩を踏み出した。

本当の苦労はそれからだった。ヤナーチェクは当時のオペラの常識を破って、散文で書かれたプライソヴァーの戯曲から直接作曲した。これは非常に先駆的な試みだったが、ヤナーチェクは前作『物語のはじまり』で、モラヴィアの農民が韻文の台本で話すことがいかに不自然であるか、痛切に感じたのだろう。

彼は一人で道を切り開かねばならなかった。散文のテキストを使う事で曲が散漫に響かないように、彼は登場人物の台詞の心理的に強調すべき箇所を繰り返して歌わせることにした。劇的な直感と集中力が必要になり、彼は学校から帰ると、時に徹夜で作曲した。

この年ヤナーチェク家の召使いになり、ズデンカの死(1938年)まで忠実に仕えたマリエ・ステイスカロヴァーは、当時のヤナーチェク家の様子を印象深く伝えている。「ご主人様はどこにも立ち寄らず、世間の人が帰宅してベットに入る頃、椅子に座って作曲にかかられた。私は朝になると、パラフィンを一杯に詰めたランプを書斎に運び入れていたが、翌日にはパラフィンは空になっていた。それを見て奥様はいつも言われたものだ。「また徹夜で作曲したのね」。

「 時には、御主人様は『イェヌーファ』と格闘されているように思えた...夕食の席から立ち上がられると、立ったまま少しの間思いにふけられて、独り言より大きな声で、ため息まじりに言われた。「主よ、聖母マリアよ、われを助けたまえ!」

ヤナーチェクはしばしば『イェヌーファ』について情熱を込めて語ったので、ズデンカ、オルガとマリエは、ヤナーチェクが作曲にかかると、音を立てないようにつま先立ちで書斎のドアの前まで行き、息を潜めてヤナーチェクの弾くピアノの音に聞き入ったという。こうしてオルガは、少女時代を『イェヌーファ』に苦闘する父の姿を見て過した。

一家には楽しい出来事もあった。1895年にプラハで「チェコ・スラヴ民俗博覧会」が開催され、ヤナーチェクはモラヴィア支部の代表として出席した。彼はこの博覧会のために数年前からモラヴィア・シレジアの村々を走り回り、プラハに行くのを尻込みする村の楽士たちを説得して参加させたのだった。

8月15日にモラヴィアの楽士たちは民族衣装をまとって、ヤナーチェクの先導でプラハの通りを賑やかに演奏しながら行進した。ズデンカとオルガはプラハの橋の上で行列を眺めて、「パパを本当に誇らしく思った」という。オルガはその日がちょうど13歳の誕生日で、初めてプラハを見ることができて、家に帰ってからもずっとはしゃいでいた。しかしブルノに戻ると彼女はまたも病に倒れ、その冬はベッドに寝たきりだった。

翌1896年の6月、ズデンカはオルガに新鮮な空気を吸わせるために、幼い頃から夏休みを過ごしていたフクヴァルディに連れていった。オルガは田園の中で健康を取り戻した。ヤナーチェクは7月に学校が夏休みに入ると合流し、元気になったオルガを見て大いに喜んだが、すぐにロシアのペテルスブルクに向かって旅立った。そこに定住していた弟フランチシェクを訪ね、ノブコロドで開催されていた民俗博覧会を見学するためであった。

ロシアは当時唯一のスラヴ民族の独立国で、ロシア音楽にヤナーチェクは傾倒していたから、長年の夢をかなえての旅行だった。(彼は出発前に『イェヌーファ』の手を休めてロシア正教会風の作品『主の祈り』を作曲しているほどだ。)そして2週間後、彼はぺテルスブルク、モスクワ、ノヴゴロドといったロシアの都市に魅了されてフクヴァルディに戻った。

父の旅行中、オルガは村の子供たちと仲良くなり、ある少年と淡い初恋を経験している。そして休暇の終わりには、二人とも涙を流して別れたという。様々な思いを味わいながら、この頃の一家は幸せだった。

ブルノに戻ると、ヤナーチェクは友人らと語りあってロシア愛好者協会を結成し、自ら会長となった。やがて彼はロシア語の勉強に熱中して、流暢に話せるようになった。

しかし、モラヴィアでも高まりつつあった反ハプスブルク運動の中で、スラヴの文化を愛好する団体を組織したことは、一種の政治的行動と受け取られるのは避けられなかった。実際、この数年後にロシアはヤナーチェクを親ロシア派の有力者とみなし、ロシア人とポーランド人の間で紛争の絶えなかったワルシャワ音楽院の校長に招聘しようとするのである。

この半年後の1897年春、チェコは「パデーニ言語令」の公布によって、領内のドイツ人とチェコ人が激しく対立する事態となった。このチェコ語とドイツ語を公用語として完全に対等にしようとする法律は、圧倒的にチェコ人に有利だった。というのも高等教育を受けたチェコ人は例外なくドイツ語を習得していたが、ドイツ人はチェコ語を習得するわけではなかったからである。官吏への道が狭められるとして、ドイツ人は猛烈に抵抗した。

世情が騒然とする中、ヤナーチェクは『イェヌーファ』の第1幕を書き上げたが、一旦筆を置いてカンタータ『アマルス』に取り掛かった。

この作品は詩人ヤロスラフ・ヴルフリツキーの原作に基づくもので、ヤナーチェクはある日、夜更けまで原作の詩に読みふけった。そして数時間まどろむと、すぐに「数え切れない音符が耳の中で響き」飛び起きて楽想を書きつけたという。

アマルスは母の不義により生まれた子で、それ故に幼い頃から修道院で僧になることを強いられていた。ある月夜、彼は自分の人生に絶望して、神に自分の死期を教えてほしいと嘆願する。すると天使が現れて彼にささやく。「祭壇のランプにお前が油を注ぐのを忘れる時、死が訪れる。」

年月が流れる。ある春の夕方、アマールスは教会で祈りを捧げる恋人を目にする。自分がランプに油を注ぎに来たことも忘れ、彼はうかされたように教会の外まで追って行き、二人が教会墓地の花咲くライラックの下で抱擁しているのを見る。アマルスは顔も思い出せない母のことを思う。翌朝僧たちは祭壇のランプが消え、アマールスが母の墓の上で息絶えて横たわっているのを見つける。

ヤナーチェクがこの詩に強く惹かれたのは、詩に自分の若き日々を感じたからだった。ヤナーチェク自身、彼は1924年に友人に宛てた手紙でそれを認めている。「アマールス?旧ブルノの女王の修道院、陰気な回廊、古い教会、庭、飢えにさいなわれた若き日々、孤独とホームシック。アマールスもこんな思いを骨身にしみて感じていただろう。ヴルフリツキーの詩には若き日のあこがれのすべてがある。その中で春と若さが出会っている。」

この曲には、深い抒情と共に、これまでの作品には見られなかったオーケストラと合唱の大胆な響きが聞こえる。そして人間の内奥の感情を、成熟した手法で描き出すことがことが出来るようになった事を示している。ヤナーチェクはスコアをドヴォジャークに送って意見を求めた。5月21日付の手紙で、ドヴォジャークは「もっとメロディーを」と条件を付けながらも、「興味深い和声があり、真実の発展を示している。」と賞賛した。

この年の夏も一家はフクヴァルディで過ごした。一家は毎年そこで友人達とともに「アカシアの木陰」という村の親睦会に加わって、遠足に行ったり合唱曲を歌ったりして楽しむのが常だった。この頃の楽しい思い出は、後の失意の時期に書かれたピアノ曲集『草陰の小道』に反映されている。

ブルノ・ロシア愛好者協会。中央にヤナーチェク
当時の遠足の記念写真(1900年夏)
後列右から4、6人目がオルガとズデンカ


一方で、世情は相変わらず混乱が続いた。11月末、パデーニの言語令は撤回され、パデーニ内閣は辞職に追い込まれた。プラハでは歓喜したドイツ人学生が「ラインの護り」を高吟して街を練り歩き、それに憤激したチェコ人がヴァーツラフ広場に集まってドイツ劇場のガラスを残らず叩き割り、暴徒化してドイツ人とユダヤ人の商店を打ち壊して略奪した。そして遂に軍隊が導入され、プラハは戒厳令下に置かれた。

ヤナーチェクはプラハで老境を迎えつつあるドヴォジャークの身を案じたことだろう。そのヤナーチェクも、やがてブルノで同様の騒乱を目の当たりにし、激しく心を動かされることになる。

翌1898年、オルガは中学校を卒業した。両親は娘をロシア語の家庭教師にしようとし、ブルノ在住のロシア婦人のもとでロシア語を習わせた。そしてオルガはベセダのロシア語、そしてフランス語のサークルに入り、母とともに女声合唱団に加わった。オルガは長い銅色の髪と青い瞳をした、身の細く、愛らしい少女に成長した。アマチュア人形劇の上演に加わった彼女は、子供からも大人たちからも愛された。しかし、その青い瞳には、笑っている時でさえ不吉なものを感じさせた。

成長したオルガは踊ることが許されたので、彼女は舞踏会に出席するようになった

1900年1月11日に、オルガとズデンカが参加していた婦人団体が、ベセダ会館で舞踏会を催した。オルガもスラヴの国々の民俗舞踊を踊り、ヤナーチェクがオーケストラを指揮した。

その夕べ、ヤナーチェク夫妻の古い知り合いの息子の医学生が、オルガを熱く見つめはじめ、オルガもまんざらではない様だった。しかし夫妻は評判の良くないその青年を嫌い、オルガにその青年と会うのを禁じた。オルガはひどく傷ついたが、彼がウイーン留学に発ってしまっても、まだ忘れられないでいた。しかし一年半が立つと、もうすべてを終わりにしたいと手紙を書いた。その結果は恐ろしいものだった。逆上した青年はブルノに戻って彼女を打ち殺すと脅したのだった。

そこでヤナーチェクは、1901年の休暇をフクヴァルディで過ごしていた兄フランチシェクの招きを幸い、オルガをフランチシェクの住むぺテルスブルクに送ることにした。それは国家試験の前にロシア語に磨きをかける絶好の機会でもあった。しかしオルガは出発前に体調を崩し、ズデンカは出発を止めるように懇願したが、ヤナーチェクは妻と娘の願いに耳を貸さず、1902年3月22日にオルガを連れて出発した。

出発前に撮られたオルガ生前最後の写真

数日後にヤナーチェクは一人で戻り、すべてはうまく行ったように見えた。しかし1月が経った頃、オルガがチフスで入院したという連絡が入った。彼女は徐々に回復したが、6月になると再び悪化した。ヤナーチェクはその頃民謡集の仕事を終えて、『イェヌーファ』第2幕を完成させようとしていたが、すぐに妻と共にぺテルスブルクに向かった。7月中旬にズデンカはオルガを連れて帰途につくことができた。ヤナーチェクはワルシャワまで二人を迎えに行き、一家はフクヴァルディに直行した。

帰途オルガの病状は悪化し、列車を乗りかえる時には、夫妻はオルガを抱きかかて運ばねばならなかった。彼女の心臓は弱まり、内臓の機能不全が悪化していた。それに加えて、リューマチ熱が再発して歩くことも出来なかった。そうした病状で彼女はフクヴァルディに帰りついたのだった。夏の終わりには、悪性の気管支炎にかかった。そして医者は夫妻にもう回復の見込みはないことを告げなければならなかった。

その年のクリスマスは物悲しかったが、オルガはまだツリーに飾りつけすることはできた。しかしオルガは手を休めて言った。「これが最後になるかもしれないのね。」

クリスマスが終わると、ヤナーチェクはイェヌーファを完成させるための英気を養いにフクヴァルディに行った。その不在の間に、ズデンカは両親を呼び寄せてオルガに会わせることができた。しかしそのすぐ後に彼女は水腫が悪化して、苦痛のために立つことも横になることも出来なくなった。ズデンカはプラハから専門医を呼んだが、その医者ももう手の施しようがないことを告げた。

窓の外はまたカーニバルの季節で、ベセダでは舞踏会が開かれようとしていた。そして夜の静けさは、山車が陽気に通りをがたがた走る音で破られた。その音を聞いて悲しみながら、オルガは死の病と最後まで戦った。しかし苦痛のあまり金切り声を上げることもあった。「死にたくないわ、助けて、助けて。」ズデンカはそれを聞くと台所に走って「獣のように泣き叫んだ。」という。ヤナーチェクは手帳には、娘の叫びが旋律として書き残されている

2月22日の日曜日、オルガは彼女の希望で、神父から最後の秘蹟を受けた。

「その日の午後、私たちはみんなオルガのベットの周りに座った。」召使いのマリエはその時の情景を回想している。

「ご主人はずっと『イェヌーファ』を書き続けておられた...オルガちゃんはとても興味をみせて懇願された。「パパ、お願い。私のために『イェヌーファ』を弾いて。上演されるまでは生きていれそうもないから。」...御主人はピアノに座って『イェヌーファ』を弾かれた...オルガちゃんは身じろぎもせずに、全曲を落ち着いて聞いた。御主人の手は震え、死人のように青ざめていたが、全曲を弾き通された。ピアノから立ち上がると、オルガちゃんは言った。「美しい曲ね。劇場で観れないのが残念だわ。」

次の日からオルガは、友達と忠実なマリエに別れを告げて、ひとりづつに思い出の品を托した。ヤナーチェクと折り合いの悪かったシュルツ一家もウイーンから呼ばれた。死にゆくオルガの最後の願いに、頑ななヤナーチェクも拒むことは出来なかったからだった。ヤナーチェクの「ドイツ化したチェコ人」シュルツ家への憎しみ(彼らはウイーンに移住していた)は近年ますます強まっていたが、オルガの前で彼らは和解し、彼らはベットの周りで一晩中オルガに付き添った。

2月25日、オルガは危篤に陥った。オルガは苦しい息の下で言った。「パパ、ここは美しいところよ。天使に囲まれているみたい。」ヤナーチェクは力を込めて答えた。「お前が一番美しい天使だ。」「パパ、天使たちにそんなことを言ったら、笑われるわよ。」少し間を置いて、オルガは言った。「ウラジミールもあの中にいるわ。私を待っているの。」

やがてオルガの意識は無くなり、呼吸は不規則になった。死を目前にした娘を目にして、ズデンカの意識は錯乱した。彼女はペテルスブルクに無理矢理オルガを連れていった夫を憎み、「狂女のようにレオシュにつかみかかって」叫んだという。「あの子を返して、オルガを返してよ。あなたがあの子をあんなにしたのよ。あなたのせいよ。」

ヤナーチェクは立ちつくして、涙を流した。ステイスカロヴァーの回想は続いている。

「感受性の鋭い彼は、オルシュカ(オルガの愛称)への心痛を作品へ、自分の娘の蒙る災難をイェヌーファのそれへと感情移入した。そして、コステルニチカの強靭な愛情を彼も持ち合わせていた。この役には彼自身の性格が沢山入っている。」

そして、『イェヌーファ』第三幕のコステルリチカのアリアに、
ヤナーチェクの思いを感じることも許されるだろう。

「私を許しておくれ。お前だけは許しておくれ。私はお前よりも、もっと自分を愛していたのだ...私は今、お前から力を得て耐えていきたい。救世主様、私にもお目をおかけくださいますように。」

翌2月26日木曜日の明け方、オルガの呼吸は乱れ、朝6時半に彼女は息を引き取った。彼女は21歳を目前にして逝ったのだった。

その週の土曜日、全市をあげての葬列が、ブルノの修道院から市の中央墓地に向かった。この修道院はかつてヤナーチェクが、ブルノでの第一歩を踏み出した場所であった。棺は壁沿いにある一角に埋葬された。墓地から戻ると、昨日までオルガのいた家には、夫妻と召使いのマリエだけが残された。ヤナーチェクはオルガの部屋に閉じこもり、声を殺して泣く声が聞こえた。やがてヤナーチェクは部屋から出てきた。そしてヤナーチェクは妻に優しく言ったという。「さあ、二人でこの世を生きていこう。」

その年の4月、ヤナーチェクはオルガの思い出のために、オルガのロシア語の教師だったヴェヴェリッツア夫人のロシア語の詩をもとに、混声合唱とピアノのための作品『娘オルガの死に捧げる挽歌』を作曲した。

ヤナーチェクは、イェヌーファはオルガをモデルにしていると自分の口から語ったことがある。そして、『イェヌーファ』のヴォーカルスコアの初版に、ヤナーチェクはロシア語で書いている。「1903年3月18日。オルガよ、お前の思い出に。」

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以上は、ズデンカと家政婦ステイスカロヴァーの回想から再現した情景である。それから今年(1999年)で96年が経った。そして『イェヌーファ』のプラハ国民劇場による来日上演を控えたある日、私はトラムに乗ってブルノの中央墓地を訪れた。入口で花輪を買い求め、管理人の事務所にある墓誌台帳で調べてもらうと、オルガの墓は32区の144番にあるという記録があった。

墓地の中央にあるヤナーチェクの墓(オルガ、ズデンカとは別葬)を横に見ながら、私は32区に行ったが、オルガの墓はついに見つからず、草木に覆われた墓域があるだけだった。

しかし彼女の面影は『イェヌーファ』の中に今も感じることができる。



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