その後の八右衛門家     トップ 

八右衛門家の居所
 明治初期には北島町と呼ばれるようになった旧八丁堀の組屋敷にそのまま住んでいたと考えられる。 記録によればその後、日本橋浜町に移り、明治16年当時は日本橋青物町25番地となっている。 さらにこの履歴書を書いた大正5年の住所は東京府荏原郡大井町1192番地となっている。 
 その後、昭和に入ってからは日暮里渡辺町140番地に屋敷を構えていた。 
 写真は、その日暮里渡辺町に送られて来た小包の宛名書。 送り主は幽纂堂本山豊實(東京市芝区芝公園5号地)、日付は昭和5年6月18日付で、左上に「柿沼氏に御譲りせしおひな様の写真目録入り」とある。
 何年か前に柿沼氏に売却した仁杉家の雛道具を柿沼氏が売却することになり、その写真と目録を旧持主である仁杉家にも送って来た時の小包である。  明治初期には北島町と呼ばれるようになった旧八丁堀の組屋敷にそのまま住んでいたと考えられる。

日清戦争出征の時の土方伯爵 左の写真の裏書

土方伯爵との交遊
 
明治維新の時、官軍の代表として奉行所の引き渡しにあたった土方久元はその後正二位伯爵まで昇進したが、当時関係のあった与力達との交友が明治後期まで続いたようだ。
 下の写真は明治27年、日清戦争に出征する途上の土方伯爵が仁杉家の律(博の妻)に送って来たもの。 広島で撮影し、後に高知で複写したものという事が裏書されている。

魚市場との意外な関係

 仁杉家は江戸時代から何代かにわたって日本橋の魚市場と意外な関係があり、これに関する文献を魚市場と仁杉家に紹介した。

その後の仁杉家

英の妻・歌
 英は大正10年11月10日に没したが、妻・歌は80才の長寿をまっとうした。
  桂勝院蓮台妙歌大師  昭和1011月8日 没
 英・歌夫妻には長男・幸一がいたが早世している。
      蓮葉禅■子  明治8年7月23日 没
 このため寅を養子に迎え家督を相続している。 寅の妻・律は藤井源蔵の娘。
 寅・律夫妻にも男子がいなかった模様で、博が養子となっている。
 英(ひで) ⇒養子 寅(とら) ⇒養子 博(ひろし) ⇒ 力(つとむ)
 妻 歌子      妻 律       妻 美代     現在の当主
と続き現在に至っている。

 各当主の戒名、没年は下記のとおりである。
賢忠院殿慶林幸昌居士 仁杉八右衛門幸昌 明治10年12月 没
英勝院殿勿軒無一居士 仁杉 英     大正10年11月 没
最勝院乗中恭寅居士  仁杉 寅     大正 6年1月  没
賢峰博道居士     仁杉 博     平成 3年7月19日没 80才
    
 寅氏は日銀、博氏も商工中金と金融関係に携わりそれぞれ要職を歴任した。
 博氏は地方支店転勤での転居も何回かあったようだ。
 博氏の妻、美代さんは東京世田谷区に健在であり、今回も貴重なお話を聞かせていただいた。ご子息が世田谷と日野市に住んでいる。
 現在の当主力(つとむ)氏は某外車販売会社の社長を勤めている。
 原胤昭氏が賞賛した「仁杉家の雛飾り」(仁杉家の雛飾り参照)や江戸時代から伝わる貴重な家財や文書の大半は関東大震災や戦災、それに博氏の度重なる転勤で散逸してしまったという。

与力仁杉家の菩提寺
 菩提寺は小石川の喜運寺である。文京区白山二丁目にある。菩提寺喜運寺参照
 現在残っている墓石は八右衛門家3代の幸昌が安政年間に建立したもの。

八右衛門家のお宝
 おそらく与力仁杉家から引き継いだ家宝も含めて数々のお宝があったが、明治になって売却したり、関東大震災、第二次世界大戦の空襲などの混乱ですっかり散逸してしまったということである。
 それでも江戸時代から続く旧家だけに興味深いお宝がある。 仁杉家の「お宝」参照