仁杉家の雛道具     トップ

 八丁堀の名物だった「仁杉家の雛道具」は、天保時代の製作で、その後仁杉家の持ち物になったと考えられるが、その後、幾多の人たちの手から手にわたって現在にいたっている。
 明治期には綿糸業で財をなした柿沼家、昭和初期には「わかもと」で巨万の富を築き、小説や芝居にもなった女傑・長尾よねが所有していた。 また一時、海外に渡っていたこともある。
 この間、安政の大地震、明治維新の混乱、大正の大震災、昭和の大空襲など幾多の災害があったが、いずれも持ち主の努力でその難を免れ、現在は伊豆のある資産家のもとで保管されている。
 この「流転の雛道具」がたどった数奇な運命と、これに関わった人たちの事跡を紹介する。
 このページを作るにあたっては雛道具研究家の川内由美子氏に助言や、資料の提供をしていただいている。

1)八丁堀名物

 幕末まで町奉行所与力をつとめた原胤昭氏の著作に、八丁堀の名物だったという仁杉家の雛道具について述べている。 原氏は明治になって数々の著作を残しているが、明治後期の「江戸時代文化」という雑誌に掲載した「江戸町方与力家庭の年中行事」の雛祭りの項に次のように紹介されている。 これは中央区郷土史同好会の平成14年1月19日に行われた講演会、「八丁堀与力の年中行事〜雛祭り〜」で紹介された。

(前略)
仁杉(ひとすぎ)の雛道具、原の台所道具、という名物があって、諸方から伝手(つて)を求めてお雛様を拝見に来た。
仁杉氏は先年、日本橋区長もし、また日本橋区選出の東京市会議員でもあった仁杉英氏の家である。英氏の祖先が数寄(*風流)で、古来家蔵の小雛道具を、追年工夫を凝らして、種々な道具を製造させたものだ。
原の台所道具も、やっぱり同じ時代に造らせた小雛道具であった。
糸柾(まさめ)桐の箱で、前扉を左右に開くと、幅4尺(約1.2m)高さ1尺(約30cm)奥行8寸(約24p)の台所となる。料理場、上は流し、下は、流し、水桶・手桶・小桶・半切り、米びつ、かまど・銅鈷(く)七輪、戸棚・膳棚に、膳部椀(わん)・皿・茶碗、茶器・重箱・食器かご、庖丁、笊(ざる)かご、また料理台に載る魚類、野菜類の模造品、一切のものが造られてあった。
(中略)
両家の珍品が現存してあったら、江戸研究の先輩方には嘸喜んでいただけようと思いますが、残念なことには、私方のは、先年私が旅行中、託しておいた人の不注意で悉く散失してしまいました。
この稿を書くにあたって、仁杉氏の珍品の存否を探し出し、ご所有者・柿沼石蔵家に伺いましたら、すぐご婦人のお電話で、あの震災(関東大震災)にも無難であったと承りました。私は死んだ子に会ったようにうれしく感じました。いずれそのうちにはお飾り付けを願って拝見したいと存じています。

この雛道具の写真だけが世田谷の仁杉家(八右衛門家の子孫)に保存されており、これをホームページに紹介した。 


 写真を見ると、この雛飾りは三人官女などを揃えたいわゆる「雛人形」ではなく、刀、鏡、楽器、食器などあらゆる道具100点以上を揃えた「雛道具」であり、精巧に作られた美術品であることがわかる。 
 上段の内裏雛は有職(ゆうそく)雛である。      

川内由美子氏の講演

この写真を八丁堀の中央区郷土史同好会が取上げ、そのホームページに掲載したところ、雛道具研究家の川内由美子氏の目にとまった。 
 この写真が川内氏の知っている雛道具と同一であることがわかり、現存していることが明らかになった。
 平成15年8月16日、中央区郷土史同好会の月例会でこの「仁杉家の雛道具」がテーマとして取り上げられ、川内由美子氏の講演が行われた。
 このホームページで紹介した写真がきっかけとなり、この雛道具の数奇な運命が明らかになったのだ。
 川内由美子氏の講演会風景

 講演では仁杉家雛道具について、実際の写真を見せながらその美術的、歴史的な価値が紹介された。

詳細は中央区郷土史同好会のホームページ
    特報      現存していた、仁杉家の雛道具
    第89回講演会 その後の仁杉家雛道具 
 に紹介されているので、ここではその概要を示す。

2)雛道具の製作年代

仁杉家
  幕末、八丁堀の名物のひとつで、各方面から伝(つて)を求めて見に来たというこの雛道具の持ち主は仁杉八右衛門家が持ち主だった。 

 川内由美子氏によれば、この雛道具は天保期(天保12年頃)の作品としている。
 その根拠は下の写真に見られように、雛道具を構成する屏風の署名である。

 
 屏風は左隻、右隻から成っているが、その双方に「行年六十六可菴武清筆」とある。
 「可菴」は絵師・喜多武清の号。 武清は安永5年(1776)江戸に生まれ、谷文晁に学んだ。 八丁堀に住み、花鳥人物画をよくした。
 羽黒山の「於竹大日如来縁起」の絵巻の画家の一人でもある。 安政3年(1856)に81歳で死亡した。
 この屏風にある署名の「行年六十六」とある事から、この絵が描かれたのいは天保12年(1841)と考えられる。
  
 
 もうひとつ、下図の巻子からも年代を推定できるヒントがある。漢詩瀟相八景図巻である。
 

 この巻子は、2巻からなり、1巻は瀟相八景の図を、もう1巻には八景を読んだ和歌がしたためられている。
 図の方には末尾に林斎筆とあり、和歌の方には巻末に
    「応仁杉氏之需 蓬月書之」 仁杉氏のもとめに応じて蓬月これを書す
とある。
 さらに「竹腰兵部少輔正富正筆也 古了伴」と書き添えられている。

 林斎は岡島林斎の事である。八代洲河岸火消屋敷の与力でありながら、狩野素川に学び、富士山を描くのを得意とした。慶応元年8月15日死去。名は素岡。字は独慎。通称は武左衛門、別号に半仙。
 蓬月は尾張藩附家老の竹腰兵部少輔正富の号。 竹腰正富は文政元年(1818)、尾張藩の附家老、竹腰正定の嫡子として生れ、天保8年(1837)に家督を継ぎ、尾張藩附家老となった。詩文、和歌、書道、茶道にも通じていたといわれる。
 岡島林斎が金沢八景の絵を書き、竹腰正富が「仁杉氏」のために、和歌をしたためた。 これを古筆了伴が、竹腰正富の正筆(真筆)であると鑑定している。
 古筆了伴(古筆家第十世。了意の子。嘉永6年(1853)64才で没)は、この時代を代表する鑑定家。仁杉李院(最近、八右衛門家2代目幸雄と特定できた)が著した扇譜書に序文を寄せているので、八右衛門とは交友があった事がわかったいる。 

 以上のように、屏風は天保12年頃の製作、巻子は関係者の年表(下9)から、竹腰兵部少輔正富が家督を相続した天保8年(1837)から、古筆了伴の没年である嘉永6年(1853)の間の製作と推定できる。 

生年 家督相続   没年
仁杉五郎左衛門幸信 天明7年(1787)
家督 享和元年(1801)
天保13年(1842)
仁杉八右衛門幸雄
家督 文政12年(1829)
安政3年(1856)
竹腰兵部少輔正富 文政元年(1818)
家督 天保8(1837)
明治17年(1884)
岡島林斎 慶応元年(1865)
古筆了伴 嘉永6年(1853)

    

 この雛道具を入手したのが、本家の五郎左衛門か、分家の八右衛門か、は未だ特定できていない。 しかし、いずれにしてもこのような高価な雛道具を町奉行所の与力でしかない仁杉家の者がが製作したとは考えにくい。
 さらに、天保12年といえば、大御所家斉の薨去の忌があけると、老中首座の水野忠邦が「改革」を宣言、特に倹約を旨とし、贅沢品の製作、使用を禁止する法令(触)を矢継ぎ早に出していた年である。 町奉行所はその徹底をはかるべく、市中見廻りに躍起となっていた頃であるから、その先兵でなければならない与力が、このような贅沢品を手にすることはできななかっただろう。
 
 推測できるのは、どこかの大名家が姫の嫁入り道具として作らせたが、姫が死亡したか、婚礼が中止されたかして不用となった雛道具が、「代々頼み」か「御用頼み」で出入りしていた町方与力の仁杉家に譲られたと考えるのが順当であろう。
 各大名家は、多くの家臣を江戸屋敷に抱えており、これらが何か問題を起こすと、町奉行所の取扱いとなる。 このため、各大名家は、江戸で起きた事件を穏便に解決してもらう、あるいは事件そのものをもみ消してもらうため、それぞれ有力な町方与力と特別な契約を結んでおり、そのま与力は相当の対価をもらっていた。

 製作年代が天保でも、仁杉家が手にしたのは、「天保改革」が失敗に終わり、水野、鳥居が相次いで失脚した後の弘化年間(1844-1847)以降ではないだろうか?   とすれば五郎左衛門はすでに死亡しているので、この持ち主となったのは八右衛門幸雄という事になる。
  
3)雛道具の遍歴

仁杉家
  八丁堀の名物のひとつで、各方面から伝(つて)を求めて見に来たというこの雛道具は仁杉八右衛門家が持ち主だった。 

この当時、与力仁杉家は2家あった。 仁杉五郎左衛門幸信が9代目当主の与力仁杉本家と、八右衛門幸雄が2代目当主の分家八右衛門家である。
 八右衛門幸雄はまだ平与力、本家の五郎左衛門幸信は年番方をつとめる支配与力で全盛期であった。 家作一軒分にも相当するという雛道具の価値からして、本家の五郎左衛門が入手したが、天保13年の本家断絶の時に他の家宝類とともに八右衛門家が引き継いだのかも知れない。原氏の文章に書かれた幕末から明治にかけての当主は3代目八右衛門幸昌である。 幸昌は南町奉行所の与力で明治維新を迎え、そのまま東京市の役人に転じている。
 その後、維新の時は与力見習であった五郎八郎あらため英(ひで)が家督を継ぐ。
 英は嘉永6年(1853)生まれ、維新後は東京市役人、代言人(現在の弁護士)、日本橋や麹町、深川などの区長を務め、後に東京市会議員、議長、短期間であるが衆議院議員も務めている。

柿沼家
 どのような経緯があったかわからないが、明治後期にこの雛道具は実業家柿沼正蔵の手に渡っている。 柿沼は繊維業で財をなし、英とは同じ日本橋区選出の市会議員仲間でもあった。 ところが、柿沼家も家業が傾き、昭和6年(1931)に所蔵していた美術品490点とともにこの雛道具一式も芝区愛宕下町の東京美術倶楽部で売り立て(競売)されることになった。6月20,21日が下見にあてられ、翌22日に入札が行われている。  
 札元は芝区芝公園5号地の幽篁堂本山豊実であった。
 この時の目録(下の写真)につけられた写真が冒頭の写真(白黒)である。おそらく柿沼家が前の持ち主である仁杉家に「売り出します」という連絡とともに写真を送ってきたのであろう。
 小包の日付は昭和5年6月18日付、売立の直前であった。
 左上に「柿沼氏に御譲りせしおひな様の写真目録入り」という添え書きが見える。

    目録 目録と写真が送られて来た小包

長尾家

 現在の所有者によると、この売り立てで雛道具を手にいれたのは有名な「わかもと」で財をなした長尾よね女史であり、戦後は旧長尾美術館で展示されていたとのこと。
 旧長尾美術館は「わかもと」の創業者長尾欽弥・よね夫妻の別荘であり、よねは当時、骨董界で有名だった。
 白崎秀雄著「当世畸人伝」によれば、わかもとの製造は、昭和4年(1929)芝大門脇の寺の庫裏で、13人のパート女工を使って始められた。畳に卓袱台のような台を置き、その上で作業が行われ、よねが割烹着、襷がけで女工達を監督し、薬が出来たら風呂敷に包み、担いで売りに出た。原料はビールの絞り粕で、乳幼児の栄養不足を補い消化を助ける薬として雑誌「婦人倶楽部」に広告を出したのがきっかけで爆発的に全国で売れるようになった。
 一年後には巨額の利益を出し、世田谷に広大な邸宅を買い、美術、骨董、刀剣を買うようになった。 雛道具の売り立てが行われた東京美術倶楽部は会社の近くで頻繁に出入りしていた。
 「なにかを美しい、面白いと感ずる感覚の卓抜さと決断の速やかさにおいて、彼女はほとんど稀有の人だったのではあるまいか。無論財力がなくては買えないが、財力があり古美術骨董が好きではあっても、内容の粗末な収集は世に挙げて数えるにたえない」。(当世畸人伝) その対象は特定の分野にこだわることなく、専門家やその道の目利きに相談することも怠らなかった。よねが手に入れた物の中には、現在MOA美術館所蔵のあの仁清の藤壷(国宝)もある。 この雛道具も昭和6年(1931)に東京美術倶楽部でよねが買ったと想像することに無理はない。

その後の変遷
 昭和19年(1944)、空襲で「わかもと」本社を焼失する前に多くの美術品は鎌倉の別荘(13万坪)の地下に移され難を逃れる。
 戦後は財産税が新設され、それを避けるために別荘を財団法人長尾美術館として国宝級・重文級の品もたくさんあったといわれている美術品、骨董品を展示した。 この中に雛道具もあったのだ。

 東京の工場が焼け、敗戦で中国国内の工場がなくなり、会社運営資金のため、収集した美術品はやがて、美術商の手を経て売却されるようになり、各地の美術館やコレクターに収まった。
 この雛道具は東京・青山の古美術店の話によると長尾家から東京・板橋の弁護士の手に渡り、更にその後、青山の古美術店が弁護士から買取ったが、昭和58年(1983)には雛道具の中の櫓時計のみがドイツ人の時計コレクターの手に渡った。

昭和59年(1984)5月12日、店を訪ねた伊賀上まり氏が、この雛道具を見て一目で気に入り、4日後の16日、購入代金を用意して店を訪ねたが既に遅く、フロリダのアメリカ人夫妻が購入してしまった直後だった。 あきらめきれない伊賀上女史はフロリダに手紙を出し、「もし手放す時は是非知らせて欲しい」と書き送った。
 3年後の昭和62年(1987)、ドイツの時計コレクターが心臓病で櫓時計を手放したことを雑誌広告で偶然知った伊賀上女史は早速これを手に入れ、その2年後の平成元年(1989)にはフロリダの夫妻がその櫓時計を見に来日している。
 また3年後の平成4年(1992)、突然フロリダから「手放す事にした。博物館や美術館からも話があるが、貴女が今も欲しいなら貴女に譲渡する」という手紙が来て、ようやく18年ぶりの雛道具の里帰りが実現、その後は伊豆の伊賀上邸で20数年の歳月を送った。 
 平成6年(1994)、フロリダの夫妻が飾られた雛道具を見に来日した。 実はフロリダでは一度も箱から出して飾ったことがなかったという。
 平成27年(2015)、三島の佐野美術館に収蔵されることになり、まさに流転の運命をたどった雛道具が「安住の地」を得た。

  柿沼家の売り立て時の写真

    長尾美術館の写真








伊賀上女史が撮影した写真

専門家の考察

詳細は中央区郷土史同好会のホームページの仁杉家の雛道具に譲るが、川内氏によると有職雛が武家や公家でない家にあることは非常に稀であり、この雛人形の男雛の装束は小直衣(狩衣直衣)立烏帽子、女雛は小袿、袴だという。


 
 雛道具は数が多く下記のものが含まれているが、分類すると次のようになる。    

七澤屋製
 屏風 香道具類 小箪笥 姿見 伏香 髪台 火鉢 食籠 重箱類 懸盤 見台 菓子重
大きめの一式
 三宝 菱台 刀かけ 花手桶 貝桶 机 書物箪笥 冠台 文台 百人一首 三 棚  台子 茶道具 煎茶道具 衣桁 箪笥 長持 挟箱 定家文庫 唐櫃 藤葛 枕 砧  柄鏡 鏡立 手拭掛 角盥 耳盥 盥 三面揃 莨盆 提莨盆 台火鉢 行器 櫛台  蝿帳
どちらでもない?
 卜占道具 几帳 銚子 犬筥 螺鈿雲形盆 楽器 扇子 行灯 櫓時計?

これらの雛道具の中で、特に卜占道具、櫓時計、煎茶道具、楽器などが珍しいという。海を越えてドイツまで渡った櫓時計は一丁天符で、実際に動き点鐘もチンと鳴る。

 

     櫓時計
時計が雛道具に入っていたのは幕末・明治の短い期間だけ。
もしかしたら特別に時計屋に注文したのかもしれない。

       楽器類

署名があるので雛道具というより極上の細工物、楽器の雛形として作られた物ではないか。