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福岡県ミヤンマー戦没者慰霊巡拝団に随行して 

城南区支部 井上京子

 

私は福岡市役所在職中に第二次世界大戦の激戦地ミャンマーを訪れる機会を得ました。 参加者は福岡県遺族連合会の方21名、福岡県北九州市、福岡市の職員3名、添乗員1名の計25名。平成2312日から118日、この間3か所の慰霊碑を訪れ、追悼式を行いました。私の大きな仕事は、市長の追悼文を慰霊碑の前で代読することでした。


 一行は、ミャンマー最大の都市ヤンゴンに降り立つ。そこからさらに飛行機やバスなどを乗り継ぎ、バガン,カロー、ヤンゴンの三か所で追悼式を行った。追悼式では、ご遺族の方々が、戦死された方のお写真や戦地からの手紙、故人が好きだったものなどを祭壇に備えられていた。代表の方が言葉を読み上げられる。顔も覚えていない父親への思い、戦地から幼い子にあてた父親の手紙のことなどが語られ、私は涙を止めることができなかつた。

当時、戦後66年。 一番若い方が66歳。戦争中は母親のお腹の中であったという。最高齢は82歳。皆さんとても元気で明るい。普段は楽しい会話が弾む。しかし、言葉少なに父親のことなどを語られるときには、私などにはわからない深い思いがあることを感じた。

 
 
 ここミャンマー(旧ビルマ)には、328千余人の兵士が送られ、実に19万余人が戦死した。航空機を使ってさえ遠く感じるこの地に、船で何日もかけて上陸し行軍したことを思うと『こんなところにまできて戦争をしたのか』というのが最初に抱いた実感である。


 旧ビルマはイギリスの植民地であった。ビルマ戦線はイギリス軍を主力とした連合軍との間で昭和171月から終戦まで37カ月続いた。昭和192月から7月、無謀と言われたインパール作戦が実施される。インパールはインド北東部の都市。連合国から中国への主要な補給路の拠点で、この補給路の遮断を目的とした作戦であった。日本軍は乏しい物資の中、食糧や兵器の補給もなく惨敗した.ビルマ戦線で戦死した人の多くが餓死や病死であったという。山岳地帯やジャングルをさまよう中、多くの人が息絶えた。今は滔々と流れるイラフジ川の河畔にも川を渡り切れなかった多くの兵士の遺体が重なり合っていたという。その悲惨な光景を今の私たちは想像することすらできない。

 天国と地獄はこの世の現実の中にある。戦争はまさにこの世に地獄を出現させる。75年前、そんな事実があったことを忘れてはならないと思う。