■ 「2011年年末」に想う 平成23年12月9日 |
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今年も12月になった。歳月の経つ速さばかりに目を奪われてしまうが、その感性が年を重ねる毎に拒みようもなく鋭敏化していくのは、人間特有の性であり必然な習いなのだと思う。だから、いちいち歳月の経つ速さやそれを愚痴る安易な表現は極力使うまいと決心したはずなのに、ここにきて、ありきたりの言葉では表現できない加速度を増す光陰の速さにたぶらかされると、自分だけは別だとか今年だけは別だとか、とかくの言い訳を用意し、禁じ手の愚痴をたんと宣わりたくなるのである。 今年は定年後3年目になるので、サラリーマン時代の生活から完全に抜け切り、文字通り徒然なるままに自由気ままに生活していくことを予定していたのだが・・・・・。 近年冬になると風邪ひきの状況が長引くようになった(特に乾燥がいけなく、肺炎の症状に陥る)ので、好きな嗜好品を辞めたり、ジムに通うなど万全を期してきたつもりだが、何の因果か昨年末風邪に見舞われてしまった。 そもそもその顛末は、子どもが折角だからと言って家族団欒の旅行計画を立ててくれたことに始まる。 年末から年始にかけて3泊4日の沖縄旅行を満喫する予定であったが、出発の前日に風邪をひいてしまい、おまけに沖縄が何十年かぶりの寒い冬に見舞われたこともあって、暖かいところで風邪を治そうとした目論見が見事に外れ、より重症化してしまったのである。 原因を探れば、忘年会が続き飲み過ぎた挙句に体調へのフォローを怠ったことにあると思っているのだが、そういうふうに仕向ける風邪の神の巧みなたくらみに歯ぎしりする思いがする。彼の神がたやすく見逃してくれるほど甘くはないことを思い知らされ、激震の走った20011年が明けた。 思えば、私にとって今年ほど哀楽の落差が激しかった年はない。正月早々から体調を崩してしまうなど身から出た錆とはいえ先行きが案じられる思いが、正月の幕の内が取れたばかりの頃に的中するとは思いもしなかったのである。 郷里の従兄から電話があった。彼の母上が亡くなったとの連絡であった。彼の母上は私の母の妹で98歳と高齢ではあったが元気だったこともあり不意打ちを食らった思いがした。従兄とは同い年で、近所に住んでいたこともあり母親同様おばさんには大変良くして頂いたので、寂しさもひとしおのものがあった。お別れの日、厳冬の1月の郷里は、母親の姉妹が全ていなくなったせいもあるのだろう特別に寒かった。 それから1年、今年はことのほか親しい方との別れが重なった。元上司だったYさんとは6月に、Nさんとは11月に。さらに本社やその後分身会社で勤務を一緒にした後輩のI君とは11月にそれぞれ永遠の別れをすることとなってしまい、何とも遣りきれなく寂しい年になった。 元上司のYさんには、府中事業場勤務の折に一方ならないご指導を賜った。Yさんは当時の事業部の主要な方達にも好かれ、当ホームページの<■我が事件簿の「なんでもサービス株式会社出向発令事件」>で主役を演じられており、私にとってはかけがえのない先輩のお一人であった。 Nさんの口癖であった「段取り八分」というご指導のもとで、部員が活き活きと業務改革や新たな業務に挑戦した日々が思いだされる。当時(昭和40年後半から50年前半)は正に激動の時代であったが、常に進取で先駆的な考えで我々を牽引していただいたことを忘れるわけにはいかない。権威主義を最も嫌われ、理で説きつつも人情味あふれる指導に部員が燃えないわけがなかった。だからMビルの19階にはいつも喧騒とした声と笑い声が絶えなかった。 そのNさんが6年前に手術を受けられその後入退院を繰り返されていたが、今年の1月に職場の先輩だったKさんとOさんとの4人で食事会を行った。地元の小さなホテルでの食事会はピアノの演奏も我々の話を引き立たせ、久方ぶりに往年を懐かしむ話題に華が咲いた。これからまだ検査が続きケアをしていかなければならないことをお聞きしたので、我々3人は精一杯の激励をさせて頂いた。まさか今生のお別れになるとは・・・・・。 11月に訃報に接し何ともやりきれない思いがする。 I君の訃報を聞いたのは、Nさんの訃報を聞いた直後であった。さらに彼はNさんが陣頭指揮をとっておられた昭和50年代の初頭(我が部門が最も活性化していた頃)に入社してきたぴかぴかの新人であったことを思い返すと何とも何とも切なく、本当にやりきれない気持ちになってしまう。 この歳になって、ご指導を頂いた先輩方との別れにあうことはやむを得ない摂理なのかもしれないが、今年は特に親しくご指導を頂いたり、仕事で汗を共に掻いた仲間であっただけに寂しさが募る年となってしまった。頂いたご恩に感謝を捧げるとともに、改めて心からご冥福をお祈りするばかりである。 年の初めにまさかこのような事態に遭遇するとは・・・。 3月11日の東日本大震災は筆舌に尽しがたい事態となった。60有余年生きてきた私の人生の中でこれほど悲惨なことは初めてで、これからの生き方を考え直させられた年でもあった。この件については、当ホームページの<■愚ッ痴ィ−の広場「東日本大震災」に想う>で我が思いを書きとどめた。今なお、遅々として復興が進まないことに持っていきようのない怒りと苛立ちを感じながら年を超えなければならないことに忸怩たる思いがする。 今年はことほど左様に哀楽の振幅は哀しみ側に大きく振れたが、一方で、誰の意図なのか新たなボランティアに巡り合わされたことで、その振幅を楽しみ側へと引き戻すことが出来た年でもあった。 横浜市民ギャラリーで初めてある作家の絵画にキャプションを作成し、「鑑賞サポータ」として活動したボランティアや、横浜JAZZプロムナードでのボランティア活動は今まで生きてきて経験したものとは全く異質なものであり、感動や喜びにはひとしおのものを覚えたが、何と言っても横浜トリエンナーレでのボランティアは特別のものとなった。 まさか、ベトナムの作家の作品製作に参加しようとは、そのために横浜市内をGPSを担いで夏の盛りに走り回ろうなどとは思いもよらなかったが、1外国人がこれほどまでに我が国の被災者を思い、救いの手を差し伸べようとする熱い気持ちを持っていることに心打たれなかったものはいないであろう。 1アーチストとして「何をしてさし上げられるのか」との心からほとばしる言葉とその熱い行動に、未だかつて経験したことのない心の揺さぶりを覚え、ハツシバ教の信者になってしまったのである。そして、挙句には自称使徒ペテロを演ずることとなったが、私にとっては大変貴い感動を極めた活動となり、今年一番の収穫となった。 <***本プロジェクトで懸命の走りをしている風景はこちらから覗けます***> @「ハツシバ・プロジェクト」に参加して A「参加アーティスト、ジュン・グエン=ハツシバ」の出品作品制作サポート活動 出来あがった桜の花びらは223箇とのことだが、その内の7つに参画できたようである。暑さの盛りをGPSを担いで実に50km以上は走ったことになる。その一つひとつの花びらに東北地方の皆さん方に早く元気になって欲しい、共に頑張ろうと心からのメッセージを込めた。 この作品を見にこられた方が大変多かった。そしてその方達と花びらの一つひとつからほとばしる走った者たちの心情を語り合えた時に、人間愛の貴さが共有され感動が倍加した。今年私の生き方に新たな指針が芽生えた瞬間でもあった。 今年は誠に重苦しい幕開けなった。目を転ずればヨーロッパやアフリカ・中近東あたりでも未曾有の事態が起こっており、世の中の状況はますます暗くなっていく予感がする。人間がそれぞれ強欲を捨て、その縛りから解放(ときはな)されなければ解決しないのかもしれない。全く因業なことだがこれしかないのではないか。今年外国の1アーチストの作品創造に参加させて頂き改めて思い知らされた。11月6日に、私にこのような崇高な人間愛の貴さを示唆した横浜トリエンナーレは閉幕となった。 予感が現実になる確率がきわめて高いと言われている。我々が何もしなければそのような経過を辿るのであろう。だから、11月6日に、経験で得た思いを信じ人間愛に軸足を置いた生き方に徹していかなければならないと思った。我々の年代になって気付くのは遅いかもしれないが、今までやれなかった社会への恩返しを今こそやるべきなのだと思う。 それは、愚直に人間愛に徹していくことで、そしてその活動の輪を広げていくことで世の中を変えていけるとの確信をボランティア活動を通じて得たからである。その意味では、今年はこれからの我が人生を考え直させた意義深い転換の年になった。気付きを与えてくれた見えざる主(ヌシ)に感謝をこめて年を越したいと思う。 □ TOPへ戻る |