- 坤寧山藤岳蕗峰 - 塵外荘 - 登登站 - 辛卯盂蘭盆行
辛卯盂蘭盆行 2011.8.14〜16 静岡・愛知・岐阜・三重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初日 静岡駅近くにてレンタカーを調達。静岡浅間神社を目指す。ここは国の重要文化財である建造物が建て並ぶ。 鎮座地の賤機山(しずはたやま)には古墳も点在し古代より信仰の場所であることを証明している。 ここには一六書碑があるというので立ち寄ってみたところほかにも十数碑が境内地のあちこちに林立していた。また山上の公園にも一碑あるとは旅行後の発見。
午前9時前とはいえ真夏のことでもありすでに汗ぐっしょり。近現代の碑ばかりなので適当に切り上げて市内の小梳神社へ。商店街の中(静岡駅近くらしい)の小社でちょうど古物市の最中であった。古社ではあるが静岡城の建築のため当地へ移転したとか。 ここの『新庄道雄石文』の碑は天保7年、町人学者新庄道雄の追悼のために建立。その師平田篤胤の撰文・矢代弘賢の書丹。和文の碑である。碑陰に戸塚柳齋の撰文がある(碑像MAP112471 )。 市内にはほかに中村敬宇旧宅に「尚志」の碑(碑像MAP33029)があると聞いていたが大正物なのではしょって藤枝市を目指す。いつぞや落手した拓本『蘿径記碑』の所在を知って今回の訪碑行となったわけである。目的地は藤枝市岡部町の坂下地蔵堂。山間の地に国道一号線が走って旧道の地蔵堂への道順は複雑であった。
ここの『能化』(碑像MAP112475)とある額は「六鵬」とあれば郷里の書家沖氏である。『蘿径記碑』(碑像MAP)は覆屋に守られて健在である。もとは宇津ノ谷峠近くに建てられたという。車の着ける所でよかった。 蘿径とは、すなわち「蔦の細道」のことで、その荒廃を嘆いた駿府代官の羽倉簡堂が文政13年(1830)に建てたもの。市河米庵の書丹。 ネットで調べると島田市観光協会は碑をクローズアップしてるようなので立ち寄ることに。「山本拝石翁 鉄筆碑」というのも気になる。ちょうど移動時間なのか一号線はやや渋滞気味。およそ一時間かかって島田市に到着。
詳細な住所がないのでカーナビも役ただず。市内の人にはわかりやすいんだろうけど最初の二つを見つけただけで、碑も新造だし厭になって次を目指すことに(その後街道歩きで二基発見)。 今回の旅のもう一つの目的は石川鴻齋の撰文を収集すること。鴻齋は明治の文人、晩年を見付(磐田市)で過ごして、その墓もあるので、当地にその足跡を探ってみた。 牧之原市(榛原町)の円成寺に画家平井顕斎の碑があり、これは明治29年鴻齋の撰文、寺西易堂の書丹・篆額。お庫裡でお願いして拓本を取らせていただく。強風と日差しによる乾燥と苔の影響で紙がはがれて手拓難航。易堂はそれなりに名のとおった書家なのに碑文の字はどうも?かな(碑像MAP48821)。 袋井市にはかつて静岡鉄道駿遠線が施設されており、開通後芝駅(袋井市浅羽)を新設したことを記念して碑が建てられている。大正4年石川英こと鴻齋83歳の撰文書丹(碑像MAP46788)。 見付のある磐田市は1年ぶり。新幹線でお財布落として用も果たせずとぼとぼ東京へ帰ったのは2010年の黄金週間。午後の4時半ともなると市内は帰宅の車が混んでいる。大見寺は中世の今川氏見附端城にある。日本で始めて空を飛んだ鳥人・浮田幸吉の墓がある寺としても有名だそうだ。
省光寺墓地は街の西の高台にあり、その見晴らしの良い所に『雪泥菴漸譽鴻齋居士』とて鴻齋の墓石が残されていた(碑像MAP112536、東京にも墓所あり)。 車は浜松へ返還予定であったのでついでに三方が原へ出かけてみる。鴻齋に「犀ヶ崖古戦場」題詩というのがあるそうだが碑は見当たらず。作詩のみのらん。
翌日に備えて名古屋で一泊(2016.12、2017.1加筆)【続く】 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||