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辛卯盂蘭盆行 2011.8.14〜16 静岡・愛知・岐阜・三重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二日目 ホテルの隣がレンタ・カーなんてすばらしき立地。といっても6時以前に車を借りると割増なのでそこはじっと我慢。で名古屋市内を南下。熱田でうっかりして一方通行だらけの街中に入ってしまうも何とか復帰して東へ。到着したのは桶狭間古戦場。 ここには文化5年秦鼎撰、中西融書丹の『桶峽弔古碑』がある。秦鼎は尾張藩明倫堂の教授。中西融も尾張藩士で大阪天満の藩邸に住んだという。この二人にはまた『八橋碑』がある。八橋は知立にあったようで現に無量壽寺には秋本嵎夷の撰による『八橋古碑(亀甲碑)』が残るそうであるが前者とは異なる。拓本は早稲田大学に残るが八橋碑の存在は未詳。 ふたたび名古屋市内を高速にて通過、江南市の富士塚を探す。小牧長久手合戦のとき付近の城主不在の小折城を危惧した徳川家康と織田信雄が訪問、その帰路この富士塚に登って戦況を視察したという。のちに城主の子孫生駒利勝は、林信篤(羅山の孫)に碑文を依頼してここに碑を建立する。 富士塚の碑は亀扶に立つ六角柱、亀扶の下の台石には地鎭の銘などもあった。 江南から西に向かえば岐阜三重と今夜の宿泊予定地であるが、東の犬山へも脚をのばすことに。入鹿池に関する碑がその堤防上にまとまっているらしい。
入鹿池といえばその湖畔に明治時代の建造物を集めた明治村があり何度か訪問しているが、その堤防と碑がどこにあるのか走らず湖畔を往復。
犬山は市内にも碑があるようだが午後もいい加減な時間になったので再び西へ。途中の一宮の大江川緑道には森春濤の書を刻んだ碑があった。岐阜県に入り羽島市に。木曽川対岸の起(おこし)からの渡船の停泊地にある石灯籠には龍公美の銘がある(碑像MAP69)。龍公美ははじめ彦根藩儒、のち帰京して著述にはげむ。詩書画に長じた。 これより薩摩藩士の築いた堤防沿いに南下。海津市の油島の治水神社にて関係の碑を見る。
『寳暦治水之碑』はさらに南。明治33年4月建立 山縣有朋蒙額 小牧昌業撰文 日下部東作書 井龜泉刻。陽のどっぷりとくれた中を見物。そのまま南下して桑名の常宿へ【続く】 |
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