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北門の玄関  樺太大泊町

大泊の歴史


 当地は旧幕時代すでに運上小屋や請負小屋が存在し、クシュンコタン(久春古丹)と呼ばれていました。久春古丹を中心に北方にハツコトマリ、南方にポロアントマリが連なっていました。
 久春古丹は現在の楠渓町で、明治3年には樺太開拓史が、樺太千島交換条約締結後の明治8年には日本領事館がこの地に設けられました。 ハツコトマリはアイヌ語で「小さな港」を表し、現在の山下町です。 ポロアントマリは「大きい港」の意で、現在の「大泊」の名の基となりました。現在の栄町一帯にあたります。

明治8年からのロシア領時代にはコルサコフと呼ばれ、帝政ロシアの典型的監獄が置かれました。

明治38年、日露戦役後のポーツマス条約により、樺太南部が日本領土に復帰すると翌年コルサコフに樺太民政署が置かれ、さらに明治40年には樺太庁になりました。また、復帰後4年目の明治41年にコルサコフより大泊に名称が変更され現在の名前になりました。
 明治41年、 樺太庁は豊原へと移転します。大正4年、樺太町村編制が布かれ大泊町誕生。
 大正12年鉄道省 稚泊航路(稚内港駅〜大泊港駅)開設。 昭和4年には樺太町村制により、一級町村となりました。

 先史時代    母子川、記念川、大泊川の川筋に石斧、石鏃、土器等が見られる。
 延宝7年 1679年   松前藩士、厚谷四郎重正、久春古丹に来航し、陣屋を設ける。貞享年間(1684-86)中に勤番終了。
寛延4年  1751年  加藤嘉兵衛、松前藩主の命を受け樺太へ渡る。翌年クシュンコタン外2カ所に漁場を開く。樺太に於ける漁場解説の濫觴。
  寛政2年  1790年  楠渓に荷物小屋が開かれカラフト場所が運営されるため、再び勤番開始。
     
     
 明治3年  1870年  樺太開拓史、久春古丹に置かれる。
 明治8年  1875年  樺太千島交換条約締結。樺太全島がロシア領に。日本領事館設置。
 明治38年 1905年  日露戦役集結。ポーツマス条約により北緯50度より南の樺太は日本領に。 
樺太民政署設置。コルサコフ-ウラジミロフカ(豊原)間に軍用軌道敷設。 
 明治40年 1907年  コルサコフに樺太庁設置。
 明治41年 1908年  3月31日。久春古丹、函泊(ぱっことまり)、ポロアントマリの各地域の総称をコルサコフから大泊に変更。 
8月、樺太庁、各種機関が豊原へ移転。樺太の政治の中心地からは外れる。
 大正3年 1914年 亜庭神社創建。
 大正12年  1923年  5月1日、鉄道省連絡船稚泊航路運航開始。
大正13年  1924年  大泊市街軌道、栄町から楠渓町駅前までガソリンカー運転開始。
 昭和3年 1928年  樺太拓殖軌道株式会社線大泊喜美内間開通。
  昭和4年   1929年  樺太町村制施行、一級町村となる。樺太庁大泊林務署開設。