ほんなら・・・
  ほんでも・・・


     26回目 
    『樹村みのり』さん。
・・・]X
      ・・・・・2005年1月29日・・・・・


 前回、今回そして次回も昨年中に作成しています。

 知人のわんこさんが、基督降誕祭と大晦日に亡くなったと知った時 『猫の木』は書き終えていました。
 この本を御仏前のお供え物とも思いましたが、一人の方は別の本にしました。
 どちらが好かったのか?
今もって量り兼ねています。


『少女探偵事件ファイル』
少女探偵事件ファイル

砂田 弘 著
樹村みのり 画

岩崎書店

1994年1月
初版発行


少女探偵事件ファイル


 すみません。
途中まで読んでやめましたんですわ。
 と言うのは・・・
『少年探偵事件ノート』の姉妹編だそうです。
でも、こちらの挿絵は高橋透さんです。


『女性学・男性学・・・ジェンダー論入門』
女性学・男性学
・・・ジェンダー論入門


伊藤公雄 著
樹村みのり 著
國信潤子 著

有斐閣

2002年1月30日
初版発行

1994年1月
初版発行

女性学・男性学・・・ジェンダー論入門


 1970〜80年代のウーマン・リブ運動が盛んな頃、イリイチ著『ジェンダー・・男と女の世界
(岩波書店・1984年発行)・・・(性差を先天的・身体的・生物学的なもの(セックス)から後天的・文化的・社会的・構成的な環境要因へと転換して行く為に使われだした用語が”ジェンダー”なんだけれど、イリイチは性差決定論者としてこの概念を用い理論武装して書いちゃったら、批判と非難の集中砲火を浴びたと言う名誉な本。脱学校の可能性・・・学校をなくせばどうなるか(東京創元社 現代社会科学叢書・1979年10月発行)シャドウワーク・・・生活のあり方を問う(岩波書店・1982年9月発行)の次に眼を通した)・・・を眺めたものの、阿呆な私は、やれウーマン・リブだ、それフェミニズムだ、ほれジェンダーだ、って言われても「?・・・何のこっちゃ〜」

 その後、適当な本を眺めていて、女性問題の現状分析よりも面白く思えたのは、『脱男性の時代』・・・・・・・・


 『
<男であれ>という強迫を斥け、セクシズム文明に最後の一撃を!』の帯文句に加え、『序論 男性問題の時代を迎えて・・・男と女の新たな深層』の冒頭文『最初に一つの予言をさせていただきたい。それは、二十世紀が女性問題の世紀であったとすれば、二十一世紀は男性問題の世紀になるだろう、ということである。

 単純に『
フェミニズムを”女性の自由・平等・人権を求める思想”と定義(大越愛子著『フェミニズム入門』筑摩書房・新書・1996年3月発行)に拍手し、もろ手をあげて賛成すると言う事も「ほんなら、女だけそんな世界になりゃ良いのかね?」って・・・思う。
 機構・装置としての社会に組み込まれた女も男も、言わば戦友で、共通の敵にはお互いが手を結んでこそ・・・と思う。
 何よりも「あんたは、○○○だから」と餓鬼の頃から言われるのが嫌だった者としては、○○○に”おとこ”と言う文字を入れられた場合「けっ、やめてくれよなぁ〜”男子たる者”って、何でしんどい思いを無理してせなあかんのんかいな」

 で、この『女性学・男性学・・・ジェンダー論入門』は、これまでジェンダー論は女性からの視点で書かれた物が多いのだけれど、珍しく「男も一杯、問題、おまっしやろ」との視点を持つ。

 惜しいのは、例えば米国の文化人類学者 M・ミードの研究を取り上げていながら、彼女の著書『男性と女性・・・移りゆく世界における両性の研究
(東京創元社 現代社会科学叢書 1983年11月発行)『家父長制(男性支配)による女性の抑圧の問題を、資本主義の仕組みとのかかわりで分析する』と書きながら『家父長制と資本制・・・マルクス主義フェミニズムの地平(上野千鶴子著 岩波書店 1990年10月発行)等々を『読書案内』に記載されておらず、もう少し深めても良いと思う事。

 綿々と続いている社会が構成されているにはそれなりの事由があるわけで、それを無条件に否定する事はそれまでのジェンダー文化の破壊につながる。
 これは、人権・自由・平等を求める結果、逆に個人の内面に存在するモノの破壊にもつながる事にもなる。
 ここでのジェンダー否定派と文化尊重個人的自由制限保守派とのせめぎあいが融和する事は・・・・まぁ・・・・。



 掲載されている樹村みのりさんの漫画は三編。

 
『第一章 女であることの損・得、男であることの損・得
  第二章 作られる<男らしさ><女らしさ>
  特講一 女性学って何?  女性学とフェニミズムの不可分な関係』

に続けて

あなたとわたし
 女子大二年生の真面目な”女”と、在校生は男が多い大学のこれまた真面目な二年生の”男”、それぞれのまだいない異性の友人に対する思いを描く。


 『第三章 ジェンダー・フリーな教育のために
  第四章 恋愛の女性学・男性学』

 
特講二 男性学って何? ごく短い男性学と男性運動のスケッチ
 
第五章 ジェンダーと労働』

に続けて

花子さんの見た未来?
 就職も決まった大学四年生の花子さんが卒業旅行のスキー場で雪崩に遭い二日間昏睡状態におちいった時に視た四十八年後
(2050年)の”日本”


第六章 多様な家族に向かって
  第七章 育児はだれのもの

に続けて

今日の一日(ひとひ)の幸(さち)
 年頃になれば結婚するものと思っていたので、女子短大
(保育科)を出て会社勤めをしている時に結婚、子供は会社員の長女と大学生の長男、八十才の義母と同居。二年前から幼稚園でパートタイム勤務でそこの園長から「通信教育で幼稚園教諭を取れば」と勧められたものの悩んでいたら、子供二人は独立して気楽に見えたが、旦那は二ヶ月前にリストラされていたものの嫁はんに言えず、知った嫁はんは旦那を心配し「定年が早くなったと思えば良いじゃん」と言った姉に「今の仕事 やめてはいけない」と言われ、通信教育を受講する事に決めた女。


 続けて
『第八章 国際化のなかの女性問題・男性問題』『特講三 平和の思想と<男らしさ>』『第九章 ジェンダー・フリー社会の見取り図でおしまいの本。


 漫画の出来栄えは・・・悪い。
これはもう仕方のない事で、啓蒙漫画で面白いものなんて今だ見た事がない。

 
♪とけない謎を さらりとといて この世に仇なす 者達を
   でんでんどろりこ やっけろ でんでんどろりこ やっけろ
   ななつの顔の おじさんの 本当の顔は どれでしょう

   夢は七色 きれいな虹の みんな呼んでる 幸せを
   でんでんどろりこ もってくる でんでんどろりこ もってくる
   ななつの声の おじさんの 本当の声は どれでしょう ♪
           (『七色仮面』川内康範原作・作詞)

 ジェンダー的には、七色仮面の小父さんも問題が有りそうですが、それは横に置いといて・・・・。
 
とけない謎をさらりとといて、と言うには程遠い『あなたとわたし』だし、夢は七色 きれいな虹のみんな呼んでる幸せを、にも違和感を覚えてしまう『花子さんの見た未来?

今日の一日(ひとひ)の幸(さち)』は仏蘭西民謡『一日のおわり』の歌詞 ♪なごりはつきねど まどいははてぬ 今日の一日の幸 静かに思う♪を思い出す作品名。
 ”まどい”を”惑い”と思っていた二十代前後なのだけれど、”円居””団居”と書くのが正しいと知っている今でも、事の内容によれば”惑い”の方がしっくりするように思う。

 多くの初期作品からにも言える事なのだけれど、樹村みのりさん自身の結論を描かない。
描いているのかも知れないが、私には読めないモノが多い。
 茫洋としたモノしかとらえる事が出来ない。
読み手の感性に訴えると言えば聞こえが良いけれど、コトこの本に関しては、クッキリハッキリスッキリと描くべきだと思う。


 ところで、昨年の春頃に届いたメール。
男尊女卑。男女平等・・と言葉にすると難しいんですが、コレがホントになくなる日・・・なんてものは来ないような気もします。いろいろな意味で。
結局は・・・というか簡単な事は、お互いに何かをしてもらったなら「ありがとう」・・・・なんですよね。
「当然でしょ」という態度。この些細な態度というか考え方が「男尊〜」やら「〜平等」などという、フェミニストばりの難しい話に発展していくんですよ・・・。
 これに異を唱える事が出来る学者さん達がいるのだろうか?
「その程度で済まないのが現実でしょ!!」って言いまくるのだろうか?
 でもねぇ、事の始めはここからのように思う。
          
          (メールの転載は了解を得ています)


『猫のファンタジー・・・猫と一緒の冒険物語』
猫のファンタジー
・・・猫と一緒の冒険物語


樹村みのり著 『猫の木
他九作家作品掲載

玄冬舎

2004年2月24日
初版発行

猫の木

 四匹の猫さんを飼っていたトモコさんですが、飼い出して十年も経つと次から次へと亡くなり、おかげで末期でのお世話に忙しく悲しみに落ち込む事はなかったんだけれど、ある日、猫用の食器を見つけた時、悲しくて懐かしくて涙がとまらなくなった。
 名も無い草花でさえ冬には枯れてしまうけれど、春には芽を出す。
なのに猫さんは戻って来ない。甦らない

 フリーマーケットでお婆さんが「あなたの猫に会えます。”猫の木”の種一袋二百五十円也」を売っているのを見たトモコさんは、冗談半分で買って帰り、庭に種を植えるとネコヤナギに似た葉のを持ち見る見るうちに大きくなり、四つの実が成長したと思ったら実が割れ、それぞれを初めて愛した時の猫さん達が現れた。
 
『また一緒に みんなで暮らそうね』と木の上に居る猫さん達に手を差しのべたとたん、トモコさんは正気に返りネコヤナギの木の傍に立っていた。
 フェンス越しに見ていたお婆さんが「どないだ。生き返りましたやろ。何やったら、もう一袋、要りまへんか?」
 トモコさんが望んでいたのは、もう一度猫さん達と暮らす事だったのに、お婆さんは
『もう一度 一緒に暮らしてどうしようっていうんです?』
「今度はもっと気をつけて、可愛がって・・・」と言うトモコさんに「充分貴女は充分してきた。でなければ、種は芽を出さないのよ」

「猫さん達との幸せやった時を忘れたら、またおいで。ほな、さいなら」お婆さんはお空に浮かんで去っていった。


 沢山の大切な楽しい猫さん達との出来事を思うと、少しずつ愛玩動物喪失から回復して行くトモコさん。




「浮と游が亡くなると、お前はきっとペット・ロスになる。しかも重く深い」と、まぁ何人もの人から言われた阿呆坊です。
 なるかならないかその時が来ないと分からないが、餓鬼の頃、家に居た”クロ””ハチ””クマ””ブゥー””コロ”・・・他にも居たなぁ〜・・・
にしても、芸のない名づけやのう。九官鳥なんて”キュウちゃん”やったもんね・・・そのどの犬が亡くなった時も「死んだか」そう思ったぐらいで別に喪失感はなかった。
猫にしても数匹居たし、小鳥も何種か居たけれど・・・なかった。
 でも、浮と游は生活を共にしている意識がこちらには有る以上、これまでの愛玩動物とは異なるので・・・なるかもね?

 思い出作りに精出して、てんこ盛りの楽しい思い出を心に取り置きして有るのなら、それ以上の何を亡くなった者に期待するのか?
 とは思うものの、まぁ、時間薬が処方箋でしょうが・・・・


『猫のファンタジー・・・猫と私の幸せ物語』
猫のファンタジー
・・・猫と私の幸せ物語


樹村みのり著
おかあさんがいない
他七作家

玄冬舎

2004年8月24日
初版発行

おかあさんがいない

 心太のおかあさんがいない。
心太は家中をさがしまわったがいない。
 主人のトモコさんは時どきへんてこな小さな箱を前にして泣いている。
 お姉さんの愛ちゃんは
『おかあさんは別の世界に行ったのよ。だから待っていても もうここには帰ってこないの』と言い、トモコさんに甘える。
 つよくて、やさしかったおかあさんと、まだまだ一緒にいたい。
おかあさんがよくのぼっていた本だなのてっぺんに行くと、かすかにおかあさんの匂いがした。
 下を見るとトモコさんがおしごとをしている。
きっとおかあさんもこうして見ていたんだろうね。
 そうするうちに、だんだんおかあさんが帰ってこないことがぼくにもわかってきた。
 もういちど、おかあさんのにおいをすいこんだ後、トモコさんのそばに行きニャ〜ゴ
・・・とよぶと、トモコさんはぼくの名前をよんでだきしめてくれた。
 ぼくはトモコさんに言ってあげたい。
おかあさんがいなくなっても ぼくたちがいるよー』
『みんなで一緒に生きようよー』




 別に取り立てて書く事はありません。
 ただ、人間以外の動物の多くは”仲間”や”兄弟”はたまた”親子”関係で、例えば心太さんのように母親が亡くなっても、あっけらかんとしているようです。
 まぁ、猿の母子の例等もありますが、犬に関してはどうも亡くなった後「母親を捜して・・・泣き叫んで・・・」と言うのは聞きませんねぇ。
 猫の場合は・・・どうなんですかねぇ?
 と言うような、実もふたもない事を書くとこの漫画は成立しませんね。

 生き物、人間も生き物ですが、ここで言う生き物はまぁペットと言う事にして、ペットと人間との共存関係は、保護者と一方的に被保護者にさせられているペットとの関係だと思う。
 保護者の独断と偏見でどないにでもなるのがこの関係にはある。
時には、隔靴掻痒もどかしいものでもあるけれど、実は便利な疎通関係でもある。
 だって
おかあさんがいなくなっても ぼくたちがいるよー』『みんなで一緒に生きようよー』なんて猫が思う事などないはずなのに、保護者の思いのままに猫の”思い”を創り出せるんだもんね。
 この創造的な物語を保護者が作り出し、耽溺するのは好ましいとは思えない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 玄冬舎発行の同じシリーズの『猫のファンタジー』には『ひとりと一匹の日々』が、『風と雲と犬たちに』には『犬・けん・ケン物語』が載せられています。
 また、講談社発行の漫画文庫の『マイ・ダイヤモンド・・・ロマンチックLOVE』には『40−0』が載せられています。
 これらの表紙写真は載せませんでした。


ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
27回目も、 
『樹村みのり』さん
・・・]Y 
です。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


アイコン・阿呆坊。 全面ページで見ています方に。
左の画像をクリックしますと
「表紙」へ行きます。

文責は当HP管理者に有ります。


そんなこんなで、取りあえず、本棚で眼についたのを適当に拾い上げると

男と女・・・東京大学公開講座18

 (東京大学出版会 1974年発行)

増補 新しい女性の創造

 (ベティ・フリーダン著 大和書房 1977年10月発行)

性差・・相互存在としての男と女

 (服部百合子著 ユック舎 1981年12月発行)

男が崩壊する
     
 (ハーブ・ゴールドバーク著 PHP研究所)

女の自立・男の自立・・・性別分業の解体を求めて

 (菅孝行著 毎日新聞 1984年8月発行)

フェニミズムはどこへゆく・・・女性原理とエコロジー

 (日本女性学会’85,5シンポジウム企画集団編 松香堂 1985年9月発行)

脱男性の時代・・・アンドロジナスをめざす文明学

 (渡辺恒夫著 勁草書房 1980年4月発行)

フェニミズムの現在と未来
日本女性学研究会フェニミスト企画集団編 松香堂 1986年10月発行)
フェミニズム・入門
(執筆者は江原由美子・大越愛子・上野千鶴子・小倉千加子・織田元子・加納実紀代等 
 別冊・宝島・85 JICC出版 1988年12月発行

私は女性にしか期待しない

 (松田道雄著 岩波書店・新書 1990年2月発行)

90年代のアダムとイヴ

 (上野千鶴子著 日本放送協会 1991年2月発行)

女性学・男性学・・・ジェンダー論入門』以降では
ナショナリズムとジェンダー

 (上野千鶴子著 青土社 1998年3月発行 彼女の著書はかなり眺めた)

つい最近に出た
なぜフェニミズムは没落したのか

 (荷宮和子著 中央公論社 新書 2004年12月発行)

                             等々。



 自分の”身体”は自分で良く知っておこうと、1977年6月に中山千夏さんが『からだノート
(ダイヤモンド社刊)を出し、80年には『ウーマンズ・ボディー(けっこう良い本を出版していたけれど、倒産してしまった鎌倉書房刊)
この後、『ウーマンズ・ボディー』は翌年に『マンズ・ボディー』を更に翌年には『チャイルド・ボディー』と広げた。

 『からだノート』『ウーマンズ・ボディー』『マンズ・ボディー』は、まず身体を知る所から自己の身体が置かれている方向性と異性の性差を認識すると言う事でジェンダー論の基本となる。
                            
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