第三部 労働者の東大闘争=臨職闘争の支援 (1971年~74.5.24)、地震研闘争~74. 5.24総長室坐り込み闘争
見出し
労働者の東大闘争=臨職闘争
地震研・石川さんの闘いと臨職闘争の全学化
応微研の臨職闘争、71年の「5.25事件」と当局の弾圧
加藤、林両総長による総長室弾圧体制
74.5.24 総長室座り込み闘争
この「労働者の東大闘争」という見出しは、東大闘争digitalarchive>最首資料、0001_F0228ーS01-0003-001~0001_S01-0003ー0017、パンフレット、東大病院ストライキ実行委員会編「東大病院労働者3名の11月10日以来の無期限ストライキから訴える―学生の東大闘争から労働者の東大闘争へ」70年1月5日、から借用したものである。
このパンフレットによると、69年11月10日より、東大の(反戦派)労働者3名が「安保粉砕、沖縄闘争勝利」を掲げて無期限ストを闘っており、さらに12月には、この「無期限スト」に連帯して、医師・看護婦・技師・事務職員の27名が、「北病棟移転阻止・総定員法粉砕・公務員スト権奪還・不当処分反対・七項目要求貫徹」のスローガンの下、2日間時限ストを闘っていた。
冒頭の檄のなかで、「侵略の70年代」に対置すべきものとして、「69年1.18、19安田闘争から全国学園闘争、さらに佐藤訪米阻止闘争を闘った戦闘的学生とともに10・11月闘争を闘った反戦派労働者の闘いの流れこそ、現在の日本における階級闘争として、われわれが受け継ぐべき、唯一のものではなかろうか」と書いているように、この東大病院スト実による闘いは、全国の反戦派労働者の闘いの流れに与するとともに、東大における(学生の)全共闘運動を受け継ごうとする闘いだった。
スト実は「総定員法」との闘いを主要な課題としており、「7項目要求」の一つとして、「東大病院のすべての臨時職員を正式職員とせよ」を掲げていた。
病院当局は反戦派職員の無期限ストで提起されていた問題を黙殺しつつ、3名に対して賃金カットの弾圧を加えた。
他方、総長(加藤一郎)は(前年の)10.21国際反戦デーで官憲に逮捕起訴された5名の東大職員に対して休職処分を行い、また(この時点で)文学部では授業再開強行に反対する闘争で、文教授会が告訴し逮捕・起訴させた助手の大西さんに対し、休職処分を行なおうとしていた(後に、実際、行なった)。
病院スト実は、総長・加藤のもとでのこうした弾圧体制を見て見ぬふりをする東職(東大教職員組合)を批判しつつ、「東大教職員処分白紙撤回共闘会議」を結成し、全学の闘う教職員、院生・学生に対し結集を呼び掛けている。
他方、12月23日 病院皮膚科医局研究室の助手で臨職の大津康子さんは、研究室の医者から、研究室の都合によってそれまで週3日勤務体制であったものを5日に変更させてもらいたいが給与は据え置き。不満ならやめてもらいたい、という不当極まりない通告に抗議、雇用継続を求め、ストライキを行っていた。
大津さんは、正式職員にし身分を保障すること、賃上げ、研究室体制改悪反対を掲げていた。彼女は、彼女の雇用問題の責任は病院長、文部大臣にあるとする研究室長の責任逃れを許さず、闘う決意を表明している。
この東大病院ストライキ実行委のパンフレットには、拘置所にいた山本義隆が「投稿」しており、三名の東大病院の労働者の無期限ストは「学生の闘争が市民社会の深部を揺るがし労働者に受け継がれることにより階級支配に地殻変動をもたらしている」ことのあらわれと確信し「そういった確信を込めて東大病院ストに結集し、----3名の労働者に心から連帯を表明したい」と言い、また「私たち学生戦線は大学の再編近代化粉砕の闘いの構築を通じて、全共闘のさらなる飛躍を勝ち取りつつ、全学の諸兄に、病院ストを守り抜き、反戦派労働者への処分粉砕に決起することを、自ら闘いに起ちあがりつつ、職場で研究室で討論を起こし、闘いを作り上げることを訴えたい」と言っている。
3月に作成された駒塲共闘会議編オリエンテーションパンフレット『全世界を獲得するために』p33 に掲載された(「東大病院スト実ニュース第100号70.3.13より転載された)
「病院スト実からのアピール」(digitalarchive 0018_F0028-S01-0006-020 では看護婦等の不足状態にもかかわらず増床を行い、しかも病院の営利化を行おうとして計画されている北病棟移転に反対する闘いを提起しつつ、大津さんの不当解雇撤回、病院の臨職の定員化を要求している。
6月には、医学部で、ロックアウトを行って、機動隊を事前に配置しつつ、北病棟への移転が強行され、この阻止闘争で63名が逮捕され4名が起訴された。『資料・裁判闘争』年表、p277、「東大裁判闘争ニュースNo.10、p316
総長加藤一郎の警察力を使った日常的な弾圧体制にもかかわらず、学内の闘いは続いていた。
臨職闘争の全学化は、70年8月に地震研の臨時職員であった石川良宣氏が、直接の雇用責任者であった宮村教授に、定員化(正規の職員になること)を要求して立ち上がった時に始まった。
共産党員であった宮村教授は、身体障碍者であった石川氏を愚弄し、足蹴にし、さらに空手二段の腕前で額に裂傷を負わせた上、足首をつかんで部屋の外に引きずり出した。
これが契機となって、研究所の職員組合は、臨時職員の不安定な地位に特に配慮するようになり、「非常勤職員を定員化するよう東京大学総長に交渉せよ。」との要求を掲げ、同年九月中旬頃から研究所所長等を相手として団体交渉をもつようになつた。
9月28日、研究所当局の態度に抗議して石川氏は研究所の玄関前でハンガーストライキに入つたが、地震研当局は賃金カットで弾圧をくわえた。
このことを知った労働者や学生が、石川氏を支援し、当局に抗議しようと地震研前で集会を開くなどすると、宮村は逃亡。また、全学から結集した人びとを排除しようと加藤総長と所長の力武教授は地震研をロックアウト。そして敷地内に入って抗議集会を開こうとした職員、学生に、完全武装の百数十人の機動隊を襲いかからせ、殴打をくわえ、逮捕、起訴するなどした。「東大裁判闘争ニュース」15号、70.12.25
以後、応微研(応用微生物研究所)、農学部、病院の精神科病棟でも臨時職員の定員化要求闘争が開始され、臨職闘争は全学化した。
ref.
丸山さん他1名が原告、東大総長を被告とする東京地裁裁判(休職処分の取り消しを要求する)、昭和47年判決、3「本件起訴事件〔5.25事件〕発生に至るまでの経緯」を参照
応微研では、1968年末から、職員有志(後に「六月行動委員会」)により、臨職の定員化あるいは定員並み待遇など要求する闘争が開始され、院生らの応微研共闘会議が支持。応微研職員組合も臨職の待遇改善を要求して研究所側と交渉をおこなった。
だが所側は言を左右にするばかりで不誠実な対応を続けるばかりだった。1970年6月以降、「六月行動委」、「応共闘」などが、応微研の教授らに対する追及を行なうようになると、教授たちは応微研から逃亡してしまう。
大学院農学系研究科、農芸化学修士課程に在学していた根守克己氏は、指導教官である応微研古賀教授の臨時職員問題に関する対応を批判して修士論文提出を拒否。71年年3月、在学期間が切れて退学となり、採用が内定していた就職も取り消された。
そこで、彼は、同年五月中旬、応微研の研究生として入所したいという願書を提出したが、応微研教授会は受理しようとしなかった。理由は臨職闘争をやっているからというものだった。
71年5月25日、応微研職組と応微研所長および数人の教授との間で行われた臨職問題に関する団交終了後、臨職闘争を主要に闘っていた「六月行動委」により根守氏の研究生入所問題での追及が行われた。しかし、口論から生じたつかみ合いを所長・教授側は針小棒大に言い立て、傷害罪で告訴。丸山、山根氏と支援者(東大闘争時の全闘委)岡本靖一氏は逮捕され、2か月以上拘留されたのち構内立ち入り禁止の条件付きで保釈となり、丸山、山根両氏は所長らに面会ないし面会要求をしてはならない、また(裁判所の許可ない時に)研究所内に立ち入ってはならない、という不当な保釈条件付きで保釈された。丸山、山根両氏は、保釈後、応微研玄関前に「就労小屋」を建て、「就労闘争」を行った。(二人は起訴され、ただ1回の公判で「暴行・傷害」の罪で有罪となった。)
丸山氏も山根氏も所側の告訴によって、逮捕、長期勾留されたのだが、さらに、保釈後(所長の上申により)、加藤総長は二人を休職処分にし、丸山氏には減給、臨職山根氏には全面賃金カットを行った。だが、それだけではない。「休職処分」を受けているということを理由に、3.31の一斉解雇(*)を利用して、山根氏を解雇した(再雇用の拒否)。
自らが下した休職処分を受けていることを理由に、3.31の一斉解雇(*)を利用して、解雇する(再雇用しない)という「二重処分」であった。総長室と応微研教授会は警察権力を利用して逮捕・長期勾留・起訴の弾圧を行なうともに、彼らの持っている雇用者としての権限・権力を濫用・悪用してさらなる弾圧をくわえたのである。「東大裁判闘争ニュース」24号、71.9.20「資料 東大裁判闘争」p357 「 〃 ニュース」25号、71.12.5、「資料 東大闘争」p.361,「 〃ニュース」26号、72.3.15 「資料 東大闘争」p367
(*)臨時職員は、正規の職員と同じ労働条件で仕事を行なっているが正規の職員と違って、教官や研究者の「研究費」によって雇用され、4月1日から翌年の3月31日までの一年契約で、毎年度末にいったん解雇される形をとっていた。
山本義隆は69年9月に(東大闘争に関連して不当に)逮捕・起訴されて、70年の10月末まで長期にわたって勾留され、ようやく保釈になった。彼は大学の研究室には戻らず、70年夏に始まっていた地震研の臨職闘争にかかわった。
70年秋以降、71年にかけて、地震研では、石川氏を支援し、所長、所員の責任を追及するために、全学から労働者-職員、学生院生が結集。これを排除するために、当局は金網を張り巡らしロックアウトを行ったが、これを突破する実力闘争が闘われた。
加藤総長は、71年3月9日、入試ロックアウトにかこつけて、臨職闘争の弾圧のため、山本を個別的に狙い撃ち逮捕した。山本は同年6月まで勾留され「建造物侵入」で起訴された。山本、「1960年代」p.295~297
「1・18・19闘争 入試ロック粉砕闘争 ― 私の公判報告」山本義隆1972.12.30「もぐら」第28号、『資料・東大裁判闘争』p382
73年4月、東大総長は加藤一郎から林健太郎(77年3月まで)に代わった。応微研臨職闘争に関わりでっち上げ逮捕起訴された、岡本靖一に対して73年3月14日加藤の名で、山本義隆に対して4月21日に林の名で、 「学外者」だとして「当分の間東大への立ち入りを禁止する」という告示を行なった。「もぐら」29号、73.6.25、『資料・東大裁判闘争』p387
両総長とも、岡本、山本両名を東大からパージ(追放)し、二人が臨職闘争にかかわるのを妨害しようとしたのだ。
当時、政府により保安処分を含む刑法改正案の国会上程がもくろまれており、二人に対する「立ち入を禁止」措置は、支配秩序に適応しない人物に「犯罪を起こす恐れが顕著にある」、「精神障碍者」などのレッテルを貼って「行為に対してではなく、人物の存在そのもの」を社会から恣意的に排除しようとする、一種の「魔女狩り」であり、「保安処分」の先取りであった。
また、加藤が総長になって以来、機動隊導入、ロックアウト、退去命令、職員処分等、学内の管理・支配=闘争弾圧に関わる権限は、総長と少数のブレーンからなる総長室に集中し、すべて、総長の「専決権」となった。こうした中央集権的な管理・支配体制は、新設された筑波大学において典型的な、そして他大学に押し広げられようとしていた「筑波型」大学管理の体制であり、東大の加藤はこうした「筑波=新大管法」による大学再編の先兵でもあった。
加藤は、臨職の定員化要求に応えず逃亡しあるいは闘争を弾圧していた地震研、応微研の教授会に加担し、処分権限を行使して闘争を弾圧した。林も総長の職にあった4年間、臨職闘争を闘っている人びととの話し合いには決して応じようとしなかった。加藤も林も、労働者の要求を問答無用と切り捨て、闘いを弾圧し続けた。
74年5月24日、山根(応微研臨職)、飯塚(工学部職員)、温品(応微研助手)、丹羽(農学部助手)、塩川(農学部助手)の5氏によって、林総長との話合い=団交を求める総長室座り込み闘争が行われた=「5.24闘争」。しかし、林は導入した機動隊によって5人を逮捕させた。5人は起訴され、一審で、建造物侵入で有罪となった。
74年の4月、私は人文系大学院の修士課程に進学したところだったが、文学部に学士入学した72年頃から、臨職闘争にかかわり、応微研における教授会追及や集会などに参加していた。
5.24闘争が闘われた日、私がたまたま銀杏並木から安田講堂前の広場に入っていったときに、山本義隆が一人で、ハンドマイクを使ってアジッているのを見た。職員らの総長室座り込み闘争が闘われたが、警察力導入によって逮捕されたこと、総長室に対する抗議闘争に決起せよ、ということだったろう。
少し離れたところでやはりハンドマイクを持って民青らしい学生が「総長室に侵入して、機動隊を導入させた大学の自治を破壊する行為を許すな」などとアジっていた。私はそいつに顔を近づけ「臨職闘争を何だと思ってるんだ。職員との話し合いを拒否している総長はどうなんだ」等々、大声でどなりつけた。その学生はアジテーションができなくなって、退散した。
それから私は山本の近くに戻って、彼のアジテーションに耳を傾けた。広場を通るものはいたが、立ち止まって聞くものは他にいなかったように思う。
この5名の職員による5.24総長室座り込み闘争は、前総長の加藤一郎に少しも劣らぬ、強権的で、タカ派の人物、林健太郎を擁する総長室体制の硬い壁にぶつかって砕けたように思われる。この闘争は全学的な反響、総長室に対する抗議闘争の高まりを呼ぶことがなかった。だが、地震研、応微研(応用微生物研究所)、病院で臨職闘争を闘い続けていた人々による、総長室に対する抗議の意思を示すための、時計台前の座り込み、病院と応微研の間を往復する「昼休みデモ」が数年間続いた。
「昼デモ」、「時計台前座り込み」の常連は、地震研闘争、応微研闘争を闘ってきた山本義隆、岡本靖一、根守克己らの諸君で、私はこの昼デモと座り込みに加わった。また、それまでの臨職闘争支援の中で知り合った応微研、新聞研の研究生、法学部の学生、文学部の院生などに呼び掛けて「反弾圧連絡会議」(反弾連)というものを立ち上げ、ビラを撒き、また逮捕・起訴された5名の職員の裁判闘争を支援するために、(農学部)弥生キャンパスと本郷キャンパスの職員の支援者を回ってカンパ集めをした。
臨時職員は、正規の職員と同じ労働条件で仕事を行なっているが、正規の職員と違って、教官や研究者の「研究費」によって雇用され、4月1日から翌年の3月31日までの一年契約で、毎年度末にいったん解雇される、差別的で不安定な雇用に置かれていた。以前から、少しずつ定員化(正規の職員となること)は行われていた。
だが、「総定員法」が1969年に制定された。これは、「行政機関の職員の定員」の合計の最高限度を規定している日本の法律である。総定員法の成立以後、臨職を定員化することが、雇用責任のある大学当局=総長室にとっては、以前よりも難しくなった。
しかし、大学に割り振られる定数を、研究者・教官を増やすために使うか、それとも、これまで劣悪な処遇の下で仕事をしてきた臨職労働者の定員化につかうかどうか、が問題であった。多くの場合、当局は研究者・教官を増やすことを優先し労働者の待遇改善を後回しにした。
そして地震研の宮村教授や、また応微研教授会メンバーのように、労働者に対する差別意識むきだしにして、臨職の定員化要求を拒み、研究者層の利害を貫徹しようとした教官も多くいた。(政府が大学の独立法人化政策を進める現在では、研究者の処遇も不安定になっているが。)
*「臨職問題」について詳しくは、第二ステージ第四部「東大百年祭闘争関係資料」A-1 4.12百年祭糾弾 全学実行委「五月祭企画―『立川移転・総合大学院新設』を問う」の「第一章 東大の移転再編と中教審路線 及び70年代中期以降の高等教育政策」「第4節 大学労働者から見た移転・再編」を参照.
74年5月24日の5名の職員の総長室座り込みは、職員の雇用の責任者であり、「職員の処分」の専決権を持つ総長に対して、臨職の定員化を求める応微研闘争を闘った職員の解雇・休職処分撤回のための話し合いを求めた行動であった。「座り込み」という手段は、それまでに再三再四あらゆる形で話合い要求し、それらが一切拒否されたうえでのやむを得ない手段だった。
これに対して、林総長(当時)は、問答無用とばかり、ただちに機動隊を導入し、この5名の職員を逮捕させるに至った。そして応微研当局の検察への協力もあって、5名は起訴され、一審では全員有罪となった。
総長室は労働者の抗議の声には一切耳を貸そうとしなかった。
5.24総長室座り込み闘争は、臨職闘争の行き詰まりの結果とられた玉砕戦術のように見えなくもなかった。だが、時計台前の座り込みと、安田講堂前から工学部を通って言問い通りの上にかかった橋を渡り、農学部を通って応微研玄関前まで行く、連日の昼休みデモにより大学当局に対する労学の抗議の闘いが続けられた。
そして、76年後半以降から、学内情勢が大きく変化した。百年祭糾弾闘争が始まり、学生は東大の「研究(者)至上主義体制」を批判するなかで、臨職問題を闘う労働者と連帯しようとしたからである。
私は、74年からの2年間は修論を書いていて、大学に来るのは大学院の授業のある日ということが多く、週に2,3日だったろう。大学に来た時には昼休みデモに参加し、会議があれば参加した。
時計台前の座り込み闘争と昼休みの学内デモは続けられたが、はっきりした展望があったとは思われず、臨職闘争も5.24闘争被告の裁判も手詰まり状態に陥っていたのではなかろうか。
私は応微研労研のメンバーで研究生の根守、佐々木、臨職闘争支援中に教授会によるデッチ上げ「暴行事件」で逮捕起訴された岡本靖一氏、そして山本氏らとともに時計台前座り込みを行なった。岡本、山本両氏は73年3月、4月、加藤と林、二人の総長により「立ち入り禁止処分」を受けていた。
座り込み中にはしばしば雑談をかわしたが、遊びに行く金も暇もなかったせいだろうが、誰とも遊びの話をしたことはなかった。
ドイツ語の原書(もう忘れたが、カッシーラーの著書ではなかったか)が、文学部の図書館にしかないので借りてくれないかと山本に頼まれ、借りてやったことがあった。彼は昼間東大に来て臨職闘争にかかわりつつも、夜は科学史、哲学の研究を続けていたようだ。
労研のメンバーとは、年に1回か2回だが、コンパをして一緒に呑んだ。しかし山本はアルコールも飲まなかったようである。
このころアラン・ドロンとダリダの「パロール」という曲がラジオなどでよく流れ、私が話題にすると、ほかの連中は知らなかったが、山本は知っていて、フランス語で一部、歌って見せた。
また、私はそのころ口の周りにひげを生やしていたが、彼は私のひげを見て「ほんまに情けないひげやなあ」とけなした。彼は一時、(少しでも人相を変えて)逮捕されないようにとひげをきれいにそっていたことがあった。その時以外、常にひげを生やしていたが、彼のひげはまるでライオンのようだった。私のひげは逆にひどく薄く、何年か後にはひげをやめたが、私がひげをそったのに気が付かなかった人がほとんどだった。
夜遅く帰るときに根津に下って地下鉄の駅の近くの飯屋で二人で食事したこともあった。
山本氏の通称は「長官」であった。彼が、全学のスト実組織とともに多くのセクトを束ねた全学共闘会議議長を務めたことから、かつて太平洋戦争時の連合艦隊司令長官・山本五十六にちなんで、つけられたあだ名だという。この臨職闘争時代には彼を本名で呼ぶものはほとんどおらず、皆、彼を「長官」と呼んでいた。
一方、岡本氏の通称は「フクロウ」であった。誰がつけたかは知らないが、確かに彼の丸顔とゆっくりしたまばたきの仕方が鳥のフクロウに似ていた。私が思うには、ヘーゲルの『法哲学要綱』序文に「ミネルヴァの梟は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめる」という有名な文があるが、ミネルヴァ(ギリシャではアテーナー)は学門・芸術等をつかさどる女神で、その手に持つフクロウは知恵を象徴する。ヘーゲルは哲学をミネルヴァのフクロウにたとえたのである。
ただし、最近、かれの口から直接聞いた聞いて知ったのだが、彼は1969年11月の佐藤訪米阻止闘争に加わり逮捕された。彼は 氏名を含めて黙秘したためか、長期間、中野刑務所に未決勾留されたという。彼が釈放され、安田講堂前の集会に参加して、山本義隆らと再会した時、集会の主なテーマは、既に石川五右衛門のハンスト支援になっていた。彼がフクロウーと言われたのは、事情が分らないまま活動を再開して、毎朝出すビラの作成をやる作業を引き受け、夜作業を行たために、フクロウ部隊と言われたためだという。
だが、私には、岡本氏は、ミネルヴァのフクロウだと、思われた。実際、のちの反百年祭闘争を支援してくれたが、闘争の様々な局面で、重要なアドバイスを与えてくれた。彼の知恵は闘うものにとっての強力な武器であり、彼は一生を、権力を持つ支配層と闘う者、搾取・抑圧を受けている労働者、専横な管理支配を行う当局と闘う学生などの側に立って支援することに捧げているように見える。彼は現在、80才を越えており、しばらく前から足が弱くなっていると言っているが、にもかかわらず、個人加盟の労働組合を作り、組合員の労働条件の改善のための交渉を引き受けるなどの活動を行っている。
私は、地震研の石川氏(通称五右衛門)とも親しくなり、彼と二人でやはり根津駅の近くの中華料理店で一緒に食事をしたことがある。私はレバ炒めを注文したのだが、実際にはレバではなくマメ(腎臓)が使われていた。私は一口食べて、これはレバじゃないねと調理場に向かって言い、食べるのを止めた。
そのあと、たぶん他のメニューに変えたと思うが、店の側は謝っていた。この時の五右衛門の反応に驚いた。
彼は目を丸くして私を見ると、須藤さんはすごいね、よく文句を言ったね。俺はとっても言えないよ、と言うのである。
私は、注文したのと違うのが出てきたら文句を言うのは当然だと思っていたが、彼はそうではないのである。彼は不満を感じたり、文句を言いたいことがあっても、めったに表てに出さない、ひどくおとなしい内気な性格の持ち主だったのだ。だから、彼が宮村教授に対して定員化の要求をだした時の行動は、長い間じっと我慢を続けてきて、耐えきれなくなって決断した結果だったのだろうと、思った。
5.24被告の丹羽さん、塩川さんとも、個人的に親しくなった。丹羽さんのあだ名は「オトッチャン」、塩川さんのあだ名は「総長」であった。農学部か応微研での会議のあと、国電・お茶の水駅か地下鉄・本郷三丁目まで、大橋君、三浦君など臨職闘争に関わった他の職員と一緒に歩いて帰る途中、何回か、本郷三丁目付近の雀荘で「終電まで、ちょっとやっていこうか」ということになった。もしかしたら、土曜の夜で徹マンもあったかもしれない。
そして、夜遅くなって他の客がいなくなると誰かが歌い出し、それに合わせて皆で大声を上げて歌った。
一つは「心のこり」
私バカよねー、おバカさんよねー、後ろ指、後ろ指さされても、あなた一人に命を懸けて、耐えてきたのよー、今日まで。秋風が吹く港の町を船が出ていくように、私も旅に出るわ、明日の朝早く。
私バカよねー、おバカさんよねー、大切な大切な純情を、悪い人だと知っていながら、あげてしまった、あなたに。秋風の中、枯葉がひとつ、枝を離れるように、私も旅に出るわ、あてのないままに。
私バカよねー、おバカさんよねー、あきらめがあきらめが悪いのね、一度離れた心は二度と、戻らないのよもとには。秋風が吹く冷たい空に鳥が飛び立つように、私も旅に出るわ1人泣きながら。
もう一つは「ラブユー東京」だった。
七色の虹は消えてしまったの、シャボン玉のようなあたしの涙、あなただけが生き甲斐なの忘れられない、ラブユー、ラブユー、涙の東京。
いつまでもあたし、めそめそしないわ、シャボン玉のような明るい涙、明日からはあなたなしで生きてゆくのね、ラブユー、ラブユー、涙の東京。
幸せの星をきっとみつけるの、シャボン玉のような夢見る涙、おバカさんね、あなただけを信じたあたし、ラブユー、ラブユー、涙の東京。
これらの歌が臨職闘争にかけた想いと無関係ではないと私は心の中で思いつつ、一緒に声を張り上げて歌った。
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