第二ステージ第四部「東大反百年祭闘争」 

第四部 東大反百年祭闘争を闘う 第1章 77年4.12東大創立百年記念式典粉砕、募金反対400署名と山本文学部長10.26「文学部募金非協力声明」まで


百年記念事業と「百年祭糾弾全学実行委員会」の結成

======================================================================================= 74年5月24日、不当に解雇された臨時職員を含む5名の職員らによるって、林総長との話合い=団交を求める総長室座り込み闘争が行われた=「5.24闘争」。しかし、林総長(当時)は導入した機動隊によって5人を逮捕させた。5人は起訴され、一審で、建造物侵入で有罪となった。

5.24闘争は、職員の雇用の責任者であり、「職員の処分」の専決権を持つ総長に対して、臨職の定員化を求める応微研闘争を闘った職員の解雇・休職処分撤回のための話し合いを求めた行動であった。「座り込み」という手段は、それまでに再三再四あらゆる形で話合い要求し、それらが一切拒否されたうえでのやむを得ない手段だった。

74年の4月、私は人文系大学院の修士課程に進学したところだったが、文学部に学士入学した72年頃から、臨職闘争にかかわり、応微研における教授会追及や集会などに参加していた。

この5名の職員による5.24総長室座り込み闘争は、前総長の加藤一郎以上に強権的な人物、林健太郎を擁する総長室体制の硬い壁にぶつかって砕けたように思われる。この闘争は総長室に対する抗議闘争の全学的高まりを呼ぶことがなかった。だが、地震研、応微研(応用微生物研究所)、病院で臨職闘争を闘い続けていた人々により、総長室に対する抗議の意思を示すための、時計台前の座り込み、病院と応微研の間を往復する「昼休みデモ」が数年間続いた。< 私はこの昼デモと座り込みに加わった。また、それまでの臨職闘争支援の中で知り合った応微研、新聞研の研究生、法学部の学生、文学部の院生などに呼び掛けて「反弾圧連絡会議」(反弾連)というものを立ち上げ、逮捕・起訴された5名の職員の裁判闘争を支援するため、ビラを撒き、弥生キャンパス(農学部)と本郷キャンパスの職員の支援者を回ってカンパ集めをするなどした。

一方、 東大当局は70年代半ばに、東大が創立100年を迎える1977年に、記念式典を行い「東大百年史の編集・刊行」などもろもろの記念事業を行う、という計画を発表していた(「募金趣意書」)。

東大百年記念事業は ①記念式典の挙行、②東大百年史の編集・刊行、③記念建造物の建設(ゲストハウスその他、所要経費約60億円)④学術奨励資金(約40億円)の設置、そして所要経費の総額百億円を卒業生、および企業から募ること、を内容としていた。

記念事業後援会会長は、東大闘争で問われた国大協路線=教授会自治による学生管理を開始した当時の国立大学協会会長で東大学長の茅誠司であった。また募金担当は、経済学部卒で、経団連副会長の花村仁八郎で、経団連を通じての自由民主党への企業献金システム作りを担当し、「財界政治部長」の異名を取った人物(Wikipedia)であった。

このような状況の中、 76年7月駒場で、東大の百年は果たして祝われるべきものか、東大の歴史とは何かを問う連続的シンポジウムが開かれた。 「腐臭がする」と東大を去った、地質学者生越忠和光大教授、東大闘争で全共闘を擁護し大学当局を批判した折原浩助教授らが講師として招かれた。
そして10月から10回にわたる安田前水曜集会において反百年祭闘争の呼びかけがなされ、12月には文学部生、教養学部生の協力で安田講堂前「百年祭糾弾」テント闘争が闘われた。「東大の歴史を糾弾する連絡会議」、「東大百年を告発する会」などが中心であった。彼らの呼びかけで、77年2月、百年祭糾弾全学実が結成された。

77年2月16日に、東大の歴史を糾弾する連絡会議、東大百年を告発する会、全学職員連絡会議、百年祭糾弾全医実(青医連、精医連、病院反戦)、反弾圧連絡会議(反弾連)、演習林職組、医学部自治会、三鷹寮自治会、公開自主講座『大学論』の諸団体によって、百年祭糾弾全学実行委員会(以下「全学実」)を結成し、総長に対して「公開質問状」を提出するとともに、糾弾闘争の宣言を行なった。

4月12日に予定されていた記念式典は当初、安田講堂で千人規模で行われる予定であったが、規模を300人程度に縮小したうえ、学外・神田学士会館に会場を変更した。
全学実は式典予定日1か月前の3.12に、大手町の経団連会館と神田学士会館に百年祭糾弾のデモを行い政府・財界中心に招かれた参加者は180人にとどまった。

「東大の立川移転再編・総合大学院新設」計画について

われわれ百年祭糾弾全学実は、五月祭企画として、『「東大の立川移転再編・総合大学院新設」を問う』と題したパンフレットを作成。そのなかで、東大百年祭の挙行は、ただ単に「百年」を“お祝い”するだけでなく、これまでの業績を誇ることにより、立川への移転再編によってさらに東大を膨張・拡大させることを意図していることを示し、この移転再編計画の分析によってその問題性を指摘し、批判した。
このパンフレットの全体は「資料、1」として末尾に掲載したが、その「序 基調に代えて」の一部をここに引用する。 「もしも移転計画が全然存在しなかったとすれば「百年祭」も単に「米寿の祝いと同じもの」(山本文学部長)、「百年たったという区切り」(池田応微研所長、記念事業評議員)であったかもしれない。だが、実際には新キャンパスの獲得・移転に向けた巨大な意思が存在していたのである。4月の式典を目前にして、立川移転計画を評議会で駆け込み的に決定したのは、まさに式典に、そして今後の事業に移転推進の機能を持たせるためだったのである。

後の章で明らかになるような現在の減速経済の下で、百億円もの募金と1兆円にも及ぶであろう移転統合のための巨大な資金を政府あるいはブルジョアジーから引き出すには、これまで東大がどれだけ忠実に国家あるいは資本の要請に応えてきたか(そしてこれからもその期待に応えていこうとしているか)をはっきりと示す必要がある。
募金の趣意書における、東大がこれまであげてきた「業績」、社会に送り出してきた「人材」の宣伝、あるいは記念式典における向坊総長の式辞、事務局長の報告にある同様の宣伝と資金不足の訴え、新キャンパスの必要性の宣伝。(これらは政府や財界という限られた層を対象とした直接的な“情宣”であるとすれば、他方で一般国民向けの間接的“情宣”、世論作りが東大の歌を吹き込んだレコード、あるいは絵葉書の発売、等である。)

そして、こうした宣伝のうち最大のものが「百年史」の編纂であろう。その中でも、ひょっとしたら、第二次大戦に対する関わりの責任の問題(自己批判的に)や戦後の一時期におけるポポロ事件等、大学の自治の問題(外からの介入に”抵抗”したと誇らしげに)等が数行書かれるのかもしれない。だが、1万ページに及ぼうという膨大なその「百年史」のほとんどは各学部、研究所のこれまでの「業績」の競い合いの場となるだろうことは明らかだ。「新たな学問分野」「学際領域」に関連した部局では、ここぞとばかりその必要性が力説されようし、またスクラップされる危険を感じている分野ではこれまでの業績を最大限に書き立てる(ことにより、延命を図ろうとする)であろう。

そこでは「東大の歴史」のごく一面だけを取り出したうえでの一方的美化がなされるにすぎない。日本の社会が資本制生産の下で、支配し収奪する者=これをブルジョアジーと呼ぼう=と支配され収奪される人民から構成されてきたし、いまもそうであることは明白である。そのなかにあって東大は、支配階級が人民を駆り立て、侵略戦争に乗り出していったとき、何をしていたのか。哲学者、法学者、経済学者、歴史学者はどのようなイデオロギーをばらまいていたのか。戦後の日本資本主義復興期、成長期を通じて、理工系研究者が産み出した公害垂れ流しの技術はだれのために役立ったのであり、また誰を殺し、かたわにしてきたのか。脳外科や精神外科の医者の行ったロボトミー手術、人体実験はどのような立場であるいは誰のために”無害な”植物人間を作り出し、研究成果をあげたのか。こうした問題が具体的事例に即しつつ、しかも社会的・総体的視点から記述されるということはまずありえないことなのだ。」

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反百年祭闘争は全学実に加わった諸団体の協力の下で進められたが、とくに、東大の歴史を糾弾する連絡会議、東大百年を告発する会などのメンバーが多くいた文学部学生の間に「百年祭」「百億円募金」に対する問題意識が広がり、反対運動が強く起こった。

その結果、77年秋の学友会選挙では、東大闘争以降8年間、文・学友会を牛耳ってきた日共=民青の執行部に代わって反百年派の執行部が樹立され、また翌年には反百年祭を議題とする学生大会が、東大闘争以来10年ぶりに、定足数を大きく上回る結集で開催され、数波のストライキを背景とする文教授会に対する団交要求が決議され、また「団交実」が結成され、文学友会としての闘争態勢が確立された。

以下、まず、百年祭糾弾闘争の最初のほぼ1年半(76年7月~78年3月)について述べる。 詳しい経過については、資料2.文学部学生・院生有志のパンフレット『文学部長室座り込み闘争を貫徹し、企業募金阻止に向け共に闘おう』(78年4月)第二章「文学部における百年祭糾弾闘争の経過」を参照のこと。

山本学部長との話し合い=公開団交

77年4月、百年祭・百億円募金に反対する運動が次第に高まり、文学部の学生たちが、地震研、応微研で定員化要求を掲げ弾圧に抗して闘いを継続してきた職員たちの「臨職闘争」、また、とくに5.24「総長室への座り込み闘争」で逮捕・起訴された5名の職員に連帯し、昼デモ、総長補佐追及等を行いつつ闘うことを宣言していた。

また、4月はじめ以来、私を含む院生有志と学部学生の有志は山本学部長との公開交渉で、百年祭に対する文学部としてのかかわり方を話し合っていた。5.24弾圧に関する問題についてもその中で、話し合われた。

山本学部長は、職員の話合い要求に耳を貸さず機動隊を導入して逮捕起訴させた(当時の)林総長のやり方を批判し、向坊新総長に対して、職員の有罪解雇を防ぐために、総長が高裁へ向けて「無罪上申書提出」を行なうよう進言する、と約束し、実行した。 そして、学生・職員の要求に一切耳を傾けようとしなかった林前総長とは違って、やや柔軟な姿勢をしめした向坊総長との間で5.24問題についての交渉の道が開かれた。
統一交渉団との間で行われた7月の2回にわたる交渉の中で、総長は、不十分ながら、弾圧に関して自己批判を行ない、5.24問題の警察力導入の責任が引き継がれていること、臨職の定員化・待遇の改善には総長に責任があることなどが確認され、高裁へ向けて総長からの「無罪上申書提出」がおこなわれることになった。

(後に見るように、向坊総長は、78年6月に管理強化を求めた政府に喚問されたときに、座り込みは不法な「占拠」ではなく、話し合いを求める一つの手段だ」と述べた。また同年、山本学部長に代わって登場した今道文学部長が、文学部学友会が「今道退陣」要求を掲げて行った連続ストや、有志の学部長室への座り込みなどを理由に評議会に「処分」案を提出したときに、処分規程の整備を行う必要があるとし、結局、結局処分は行わなかった。) われわれは4月始め、山本学部長に対して、

  1.「百年祭記念事業」全体の中止要求を当局に行え。 2.「記念式典の」への出席を中止せよ。 3.「百億円募金」に対する文学部としての協力をやめよ。 4.「百年史編纂」に対する文学部としての協力をやめよ。 の4項目をつきつけた
。 2回目以降の話し合い・交渉の中で、山本氏は「式典」の挙行には何一つ積極的な主張を行なうことができず、「式典は知的に見てあまり上等でない」とか、「個人としては(出席せず)寝ころんでいたい」とか言いつつ、「学部長としての職責上」「しきたり」で出席するのだと、居直り続けたが、結局、「式典には疑義もあるので出席しない」ことを認め、また67年の文学部処分についても、今後話し合うこと、百年祭についての次回の話し合いに、募金委員、百年史編纂委員の出席を要請することを確認した。 なおほぼ同じころ医学部長、応微研所長も、百年祭に反対する労・学の要求で、式典に不参加を表明した。 哲学教授の山本氏は、雑誌掲載論文の中で、先進的な科学・技術が公害のような深刻な問題を引き起こし、また大学の研究者が委託研究などによって公害企業に加担しているケースもあり、科学・技術の研究が無条件に肯定されるわけでないと論じていた。

山本氏は、話し合い・公開交渉において、記念事業の企業募金ではどうやってそうした問題を防ぐのかと問われ、答えられなかった。 募金委員の早島教授(仏教哲学)は当初「仏教でいうところの喜捨を受けるようなものだ」などと、産学協同がはらむ問題点(研究者は資金が潤沢に提供される研究をやるように飼いならされていくのであり、資金を提供する側の企業は企業の利益になるよう研究者を誘導するのは必然)に対する無知をさらけ出し、交渉参加者の失笑を買っていた。

彼は募金の使い方、もらい先について大石募金委員長に尋ねることを約束させられ、実際に尋ねたところ、大石委員長はそういう問題は茅後援会長の所にもっていくようにとはねつけたという。早島氏はこの大石委員長の対応に納得できなかったようで、募金委員を辞任した。

山本学部長は、6月29日、第8回の公開交渉では、次のような確認を行った。
「公害・労働者への労災・職業病等を考えれば、企業の中には企業(資本)の論理だけで動いているものもあり、それは生産(利潤)を自己目的とし、人間・労働者を手段として扱うものであって問題がある。このような企業からは大学として募金を行なうべきではない。ゆえに無差別な企業募金はやるべきではない。文学部長は、向坊総長、大石募金委員長など然るべき筋に進言し、上の内容が実現されるべく努力を行っていく。」

ところが、9月19日、夏休み明け、第9回公開交渉で、われわれが向坊総長らへの「進言」についてのい報告を求めたのに対して、山本氏は、「そういった(自分が積極的に働きかけるような)状況になかった」などと理由にならない理由を持ち出し、何もやっていなかったことを認めた。それどころか、募金委員会に文学部の事務員を派遣するなど、明らかな確認違反を行っていいたのである。また早島氏が正式に募金委員を辞任していなかったことも若田。われわれの断乎たる追及の前に、彼は9月22日やり直し団交を承認せざるをえなかった。 9月22日の公開交渉では、
6月に行っていた確認を踏まえて、早島募金委員の正式辞任を総長に、また病中の早島委員の代わりに大石募金委員長に、届ける。また募金委員会には事務の人を出席させないようにする、と約束した。

br>< 「6.29確認が3か月にもわたって空洞化され骨抜きにされてきた責任は、当然ながら学部長にあり、またその責任は重大であり、一片の確認さえもその遂行がなされるか否かは、我々の闘い抜きにはあり得ないことが明らかになった。
われわれはまた「いかにして無差別企業募金を止めさせるのか」と追及したが「総長に話してみる」と答えるのみであった。しかし、それまでの経過を見るならば、我々はこの言葉を当てにすることはできないのは明らかであろう。
それまで我々は「批判的募金委員の選出」と「無差別企業募金を止めさせるための学部長からの働きかけ」という積極的な問題提起の姿勢を評価し、これに期待をかけてきたのであったが、この二つがいずれも頓挫して、全く展望がないことがはっきりと示されたのである。今や文学部としてとるべき道は、消極的ではあるが、「募金活動には協力しない」ことしか残らないはずである。
われわれはこのままでは、山本学部長の「総長への働きかけ」の美名に惑わされ、一連の「確認」の一切が空洞化されてしまう危険をはっきりと感じ取ったのである。
かくしてわれわれは山本学部長に対し、明確に「文学部の募金非協力」を確認させるべく、募金反対署名への断乎とした取り組みを開始したのである。」(文有志「座り込み闘争貫徹」パンフ、第2章「文学部における百年祭糾弾闘争の経過」より)

 

「百億円募金反対」文学部生400署名と、10.26「募金非協力」文学部長声明

こうして、百年祭・百億円募金に反対する文学部の学生たちは9月26日から「百億円募金」に反対する署名活動に取り掛かった。その内容は
①文学部として百億円募金への協力を中止すること
②以上の旨、文学部長は全学に対し明確な声明を行なうこと

であった。

そして文学部生の大半をなす400名の署名が1か月以内に集められた。(後の追及で総長補佐の富永教授が、自分の独断で、400署名の名前と数、各学科ごとの人数、院生の数を詳細に調査した。そして署名は有効であることを確認して総長に伝えたと、と言っている。)

そして10月26日の交渉ではこの400署名を突き付けられた山本学部長は


「募金にはいろいろ問題があり、百億円募金に反対する文学部生400の署名を尊重して、募金には協力しない。この旨学内広報、文学部掲示板に表明し、向坊総長、大石募金推進委員長に文書で伝える」

ことを確認。そして、確認通り、文学部掲示板に学部長長名で掲示がだされ、また時計台内の広報委員会にこの旨の記事が提出された。

当局が混乱したのは当然であった。後に、漏れ伝わってきたところによると、広報委員会ではこの記事を載せるかどうかでもめ、広報委員会では決定できかねると、総長室の判断に一任することになったという。

11月初旬に大場学生部長の口から明らかになったことだが、77年に開始予定であった企業募金は来春以降に延期された。

こうして、4月の「百年記念式典」が、文学部長はじめ3部局長が欠席し、しかも学内安田講堂で行なうはずであったものを学外に場所を移し、規模を縮小して行わざるを得なくなっただけでなく、今度は百年記念事業の一環であるとともに、事業の実施に不可欠な「百億円募金」が「文学部非協力」声明によっておおきく躓いたのであり、「東大百年を祝う」ことに対する強い異論・批判が学内にあることを広く知らせたのである。

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