(B4版、35ページ)

資料A1 4.12百年祭糾弾 全学実行委「五月祭企画―『立川移転・総合大学院新設』を問う」五月祭企画1977.5.20

資料A1 4.12百年祭糾弾 全学実行委「五月祭企画―『立川移転・総合大学院新設』を問う」五月祭企画1977.5.20                                  

目次

序  基調に代えて
(1)百年祭と立川移転の関連について
(2)このパンフレットの全体構成と要旨
第一章 東大の立川移転再編と中教審路線、及び70年代中期以降の高等教育政策の展開
第1節  東大の「改革」と立川移転
第2節 70年代の大学再編と筑波大攻撃
第3節 70年代後期の高等教育政策
第4節 大学労働者から見た移転・再編
1)国家公務員合理化政策と大学の移転・再編
2)再編成を射程に入れた東大(演習林)における先取り的管理支配の強化
第二章 総合大学院計画と資本の要請
第1節 現段階における「資本の要請」
(1)経済的側面から見た資本の要請 ―産業構造の転換・技術革新の問題を中心に、及び医療産業の例
(2)社会的側面から見た資本の要請―環境問題を中心に
(3)政治的側面から見た資本の要請編
第2節 総合大学院設置計画における各「系」の分析と批判 
(1) 情報システム科学系
(2) 地域環境科学系
(3) 生命科学系

「東大百年祭闘争を闘う」<目次>へ

序―基調に代えて

(1)「百年祭」と立川移転、総合大学院新設との関連について

われわれ4.12百年祭糾弾全学実行委員会は「百年祭」、「百年記念事業」を立川移転・総合大学院新設という、東大の決定的再編―そしてこれは中教審路線の80年代版ともいうべきものの突破口として、日本の全大学の研究・教育体制の再編を意味する―へ向けた一環として把握する。われわれは以下の章で、この移転・再編の内容分析を行うが、それに先だって、まず、「百年祭」、「百年記念事業」と移転・再編の関連について簡単に述べておきたい。

逸見広報委員長は朝日新聞の記者とのインタビュー(3/30夕刊)の中で、「百年祭」、「百年記念事業」は移転推進の一環であると語っている。どうしてそうなのか。
民青諸君によれば「百年祭の計画はずっと前からあり、立川移転はつい最近〔2月の評議会で〕決まってことであって、両者は無関係」とされる。また文学部学生・院生有志との団交の中で山本文学部長がはじめに言っていたところに拠れば「両者は偶然の一致」である。

しかしこうした見方は、ものの見方、考え方がオソマツだということを措くとしても、全くの認識不足に基づくものである。
戦後、一貫して「基礎的学問だけでなく、応用研究や専門家養成についても重要な役割を演じるべきである」と「大学の傘の下」に可能な限りの研究所(附置研)を抱え込み、「膨張策」をとり続けてきた結果、すでに60年代末、東大闘争時において「大学の適正規模の問題---を真剣に検討する必要」に迫られていた(69/10『大学改革準備調査会第一次報告書』)のであり、71年にはキャンパス問題検討のためのワーキンググループを設けて、本郷・駒場の「収容能力」の洗い直しを行い、翌72年夏には「大規模敷地移転統合」試案が出され、73年秋には移転先の「参考として」立川の名前が登場してくる。(『改革フォーラム』No.22,25、『学内広報』No.219)

もしも移転計画が全然存在しなかったとすれば「百年祭」も単に「米寿の祝いと同じもの」(山本文学部長)、「百年たったという区切り」(池田応微研所長、記念事業評議員)であったかもしれない。だが、実際には新キャンパスの獲得・移転に向けた巨大な意思が存在していたのである。4月の式典を目前にして、立川移転計画を評議会で駆け込み的に決定したのは、まさに式典に、そして今後の事業に移転推進の機能を持たせるためだったのである。

後の章で明らかになるような現在の減速経済の下で、百億円もの募金と1兆円にも及ぶであろう移転統合のための巨大な資金を政府あるいはブルジョアジーから引き出すには、これまで東大がどれだけ忠実に国家あるいは資本の要請に応えてきたか(そしてこれからもその期待に応えていこうとしているか)をはっきりと示す必要がある。募金の趣意書における、東大がこれまであげてきた「業績」、社会に送り出してきた「人材」の宣伝、あるいは記念式典における向坊総長の式辞、事務局長の報告にある、同様の宣伝と、研究施設、資金不足の訴え、新キャンパスの必要性の宣伝。(これらは政府や財界という限られた層を対象とした直接的な“情宣”であるとすれば、他方で一般国民向けの間接的“情宣”、世論作りが東大の歌を吹き込んだレコード、あるいは絵葉書の発売、等である。)

そして、こうした宣伝のうち最大のものが「百年史」の編纂であろう。その中でもひょっとしたら、第二次大戦に対する関わりの責任の問題(自己批判的に)や、戦後の一時期における、ポポロ事件等、大学の自治の問題(外からの介入に“抵抗”したと誇らしげに)等が数行書かれるかもしれない。だが、一万ページに及ぼうという膨大なその「百年史」のほとんどは、各学部、研究所のこれまでの「業績」の競い合いの場となることは明らかだ。「新たな学問分野」、「学際領域」に関連した部局では、ここぞとばかりその必要性が力説されようし、またスクラップ化される危険を感じている分野では、これまでの業績を最大限に書き立てる(ことにより延命を図ろうとする)であろう。

そこでは「東大の歴史」のごく一面だけを取り出したうえでの一方的美化がなされるにすぎない。日本の社会が資本制生産の下で、支配し収奪する者=これをブルジョアジーと呼ぼう=と支配され収奪される人民から構成されてきたし、いまもそうであることは明白である。
そのなかにあって東大は、支配階級が人民を駆り立て、侵略戦争に乗り出していったとき、何をしていたのか。
哲学者、法学者、経済学者、歴史学者はどのようなイデオロギーをばらまいていたのか。戦後の日本資本主義復興期、成長期を通じて、理工系研究者が産み出した公害垂れ流しの技術はだれのために役立ったのであり、また誰を殺し、かたわにしてきたのか。
脳外科や精神外科の医者の行ったロボトミー手術、人体実験はどのような立場であるいは誰のために“無害な”植物人間を作り出し、研究成果をあげたのか。

こうした問題が具体的事例に即しつつ、しかも社会的・総体的視点から記述されるということはまずありえないことなのだ。


こうした意味で、逸見の発言はそれが私的なものであれ、どうであれ、客観的に「百年祭」にこめた東大当局の意図をありのままに示しているのである。

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(2)このパンフの全体構成と要旨(及び基調)

さて、われわれがこのパンフで行なおうとしているのは、(百年祭をその一環とするところの)立川移転、総合大学院新設へと邁進しつつある東大の再編のありかたを、日本資本主義の高等教育政策及び経済社会政策の全体連関の中でとらえつつ、分析し批判することである。それは以下の様になされる。

◆まず、第一章では立川移転の性格を中教審構想との連関、および筑波中教審モデル大学との異同が明らかにされる。

(ⅰ)その第1節においては、東大闘争以降の東大当局の「改革」の動きのなかから移転・総合大学院新設計画が出てくる経過をたどり、東大再編の方向を明らかにする。そこでわかることは
▼「研究に根拠をおく教育」、「教育への繁栄を直接目的にするのでなく、学術の発展に寄与する」ことを目的にする研究、つまり研究のための研究、研究至上主義体制が強化されようとしているということであり、そのために、研究教育機能と管理運営機能とは分離されるが、逆に、研究と教育は密接に結合されるということ
▼教育という側面から見れば、研究者の要請が第一目標となるが、純粋に大学院大学化することまでは考えられておらず(学部卒の)職業人も養成される。だが、専門家であるという側面が強化される方向にある。
▼大学の自治とは「研究の自由、自律性を保障するもの」に純化される。従って、また当然ながら、学外からの介入は拒否される。
学生の自治活動も“緊急事態”が生じない限り許容される。(民青的おしゃべり、ボス交路線は保証される。)言論、思想の自由が保障されないところでは「研究の自由」も存在しにくいから(と考えられている)。
▼他方、学内労働者への差別・抑圧が強化される危険性は大きい。かつて応微研教授会は「一般職のみならず、研究者の空きポストを用いても定員化を行え」という臨職の要求に対して「研究者ポストは人類に貢献するためにあるのだから」と拒否した。
それと同様の、労働者への差別・抑圧を当然のこととする研究至上主義イデオロギー、体制が強化される危険性が大きく、移転に伴う首切り、雇用条件の劣悪化(臨職→パート化など)の危険が大きいと言わねばならない。

国家公務員合理化政策の下、教育大、国立研究機関の「筑波研究学園都市」への移転にともなって、労働者にどのような攻撃がかけられたかを、調査し得た限りで明らかにするとともに、研究至上主義体制と合理化策の下で、東大内で労働者に対する攻撃がどのように進行しているかを、演習林の職場から報告してもらう(第4節)。

(ⅱ)次に第2節において、60年代後半から70年代前半にかけての日本の大学教育の再編が中教審答申に基づいて進められていることを筑波大に即して明らかにする。
中教審の目指す大学再編は
▼(戦前の大学が目指していたところのリベラルアーツ、一般教養を重視した「良き市民」の形成という目標を)科学技術政策・労働力政策に見合った、高等教育機関の目的別類別化、さらに教育課程(内容)の多様化によって“社会的要請に応える”人材養成という目標に転換すること、そしてそれに伴い
▼(直接的な“社会の要請に応える”教育=筑波大における、社会工学、情報工学などの学類には、専門分化した研究を直接持ち込めないがゆえに)教員組織と研究組織=筑波大では学群と学系=は分離される。分離された研究と教育は、権限の集中された管理運営組織によって“結合”される。教育においても、研究においてもまた(教官)人事においても、管理が強化される。
▼さらに「開かれた大学」というスローガンの下、学外者が大学の管理に「参与」し、また、企業に就職した人々の再教育機関としての役割をも果たすことになる。

そして、こうした中教審構想を一つの大学に前部担わせようとして生み出されたものが筑波大である。(管理強化という点では過剰にさえ実現した。)だが、現在までのところ、政府およびブルジョアジーは筑波大に関して、否定的“総括”を行っているとは言えないにしても、少なくとも、はっきりした積極的“総括”は出せないでいる(はずだ)ということが示されるであろう。

(ⅲ)第3節では、70年代後半における高等教育政策の展開が分析される。
そこでは筑波移転についての消極的“総括”を踏まえ、政府ブルジョアジーが
▼物質的基盤が十分でなく、研究の立場に純化しきれないでいる地方国立大学に対しては、研究と教育の分離をてことして、管理強化を押し付け、あるいは、「地域社会の要請」に応えさせようとしており、
▼「経営危機」と「キャンパスの狭隘化」に“悩む”私立大学に対しては、法規制(大学設置基準)の運用を厳格に適用することを通じて、あるいは財政措置による誘導を通じて、管理強化・類別化(ほとんどが「総合領域型」へ)をおしつけつつも、
▼筑波におけるようなゴリ押し路線は一定後退して、各大学の「自主改革」を尊重し、類別化・多様化を各大学の機能分担として、ヒエラルヒッシュな分業・協業体制として貫徹しようとしている。

(ⅳ)以上を通して、東大の移転・再編が(第二章で見るように、資本・国家の要請に一致した内容をもつものであるとともに)総体としての中教審答申の構想実現化の一翼というよりも、その「頭部」としての役割を担うものであるということが明らかにされる。

それと同時に、筑波大とは異なって、学生、研究者(労働者は別!)に対する相対的に“寛容な”管理体制になる可能性が相当高いということに注意を払わねばならぬ。われわれが筑波におけるような大学(を構成する諸階層)全体の管理強化を立川移転においても問題にするとすれば、運動は重大な陥穽に落ち込むことになろう。(文字通り同一の課題での労働者と学生の共闘を考えるなど)。
日共=民青のように研究者利害を守ることを(大学における闘いの)第一義的目標とし、学内労働者の(差別・抑圧の)問題を切り捨てていくというのでなく、研究至上主義体制粉砕の戦いを拡大強化していくために(それには労学共闘のあり方が問われよう)も、まずもって東大の立川移転の性格をはっきりと見極めていく必要があるのである。

だが他方、東大の移転再編は(東大の学生や研究者の特権的エゴに関わる問題としてとらえられるのではないことは勿論だが)また、学内労働者に関わる問題としてのみならず、より一層普遍的な全人民的課題として捉えられる必要がある。
そしてそのためには、研究教育体制という「形式」にとどまるのではなく、「内容」そのものが分析される必要がある。即ち、移転に伴う研究、教育の内容を問わねばならず、それが一体「誰のためのものか」を研究内容に即して問わねばならない。日共=民青諸君の様に、抽象的、一般的に「国民のための研究」という言葉をお題目として唱えているのでなく、果たしてそういう研究(とはいえ、「国民のため」というのは全く無規定だが)が、実現される方向をもっているのかどうかを明らかにしなければならない。

◆そこで次に第二章で、総合大学院設置計画の分析を行う。
(ⅰ)政府・文部省の教育政策に沿いつつ、しかしやはり、「自主改革」によって東大当局はすでに専門重視、英才教育、差別・選別体制の強化に向けた改編を推進しつつある。

75年10月には、前年の大学院設置基準の改訂に「伴って」、東大大学院学則を改正、第一種(修士二年+博士三年)、第二種(五年一貫)のコースをはっきり制度化するとともに「優れた研究業績を上げ、所定の要件を満たした場合」には「三年で終了」しうるという特別コースを設けている。(『学内広報」No.301、なおこの改正に関して、設置基準では特別コースを設けることができるとなっており、“ねばならぬ”とはなっていないことに留意すべき。つまりこの「改正」は“自主的”なものなのである。)

同年12月には、教養課程のカリキュラムを改訂し、教養課程への専門科目のくり込み数の増加、専門課程への進学要件としての専門科目履修の義務付け等、「四年生一貫たて割り」教育が強化されている。

こうした再編によって視野狭窄的専門白痴の生産を強化するということは、ブルジョアジーの支配を受容し、それに従属しやすい人間を生み出すという意味で、重大な問題である。だが、それは全体の支配あるいは支配総体の問題から見れば、統合すべき一億の国民の、他と異なるところのない一部分たる東大生の統合に過ぎず、また、もろもろの統合方法と並ぶ、一つの方法に過ぎないという意味で、東大の研究・教育再編の持つ本質を捉えたとは言い難いであろう。

またそれは、分業体制の拡大、深化であり、しかも国家独占資本主義体制の中枢を担う部分の分業体制への組み込みの強化であるという点からすれば、生産力の拡大、資本蓄積の強化の極めて重要な条件である。したがって、その議論は、大学の再編は資本主義社会にあって、常に資本の要請と一致するという(にとどまる)議論に比較すれば、多少具体的である。

しかし分業体制の強化ということは近代以降の(ブルジョワ社会の)歴史一般に妥当することであり、それ自体として全く正しいとしても、やはり、一般論にとどまるものと言わねばならない。
ブルジョアジーが外枠的条件(支配機構)を整備し、分業様式を強化しつつ、その根本的目的、すなわち、利潤の獲得、資本の蓄積を貫徹するのは、分業によって種別化された生産領域のどこにウェイトをおき、それを発展させるために、どの領域の基礎研究・応用研究を開発し、研究者・技術者を養成しようとしているか、ということこそが、大学の研究・教育のあり方を問う我々にとっての積極的、実質的な問題であり、また、(はっきりと転換点にあるがゆえに、一層、その方向が見極められなければならない)現段階の分析にとって、不可避の問題なのである。

そして、東大がこれまで、研究機関としての日本の大学の中で重要な役割を果たしてき(これを否定する人もいる。ex.宇井純氏)、国独資体制を支える高級官僚とともに、独占資本の中枢を担うエリート技術者を生み出して来たということが本質的機能だったとすれば、ますますそうである。

われわれは第二章で、70年代の日本の独占資本が迫られている産業構造の転換を主軸にした“資本の要請”あるいは“社会の要請”に総合大学院の計画がぴったり「一致する」ものであるということを示す。

「一致する」というのは、その計画が筑波大の場合と異なり政府やブルジョアジーによって“押し付けられた”ものではなく、東大の“自主的”“自律的”な意思に基づいて産み出されたものだからである。とはいえ、その計画がブルジョアジーもまた必要とするところを先取り的にあらわしたものであり、計画推進派の研究者の多くが体制側に立っているがゆえに、ブルジョアジーの必要を、自己の恣意、自由として選択したものであるかあるいは計画の実現が可能となる(つまり金を出してもらえる)ような領域を選び取ったに過ぎないものである限り、まさに「資本の要請に応えた」ものと言っても何ら正確さは損なわれないであろう。

このことはまず、次のような“傍証”によっても一定明らかとなる。(第一章で見るように)総合大学院構想は移転統合問題が取り上げられ始めてから後に登場する。そして、『広報』No.240(74、1/11)ではまず「---総合大学院を構想することの可能性をキャンパス問題をも考慮しつつ検討する」と言われている。
No.250(74、7/19)になると、改革室委員は、東大改革との関連が不明だというある教官の意見に対して「既存の学部制度を変革することが困難だった。他方、大学院の条件の不備も指摘されていた」と問題をはぐらかしたうえで、「既存の大学院の拡充は困難だが、総合大学院が現状打破の突破口となる可能性がある」と応えている。そして各学部、研究所等から「講座、施設等の新増設要求が出されている」が本郷キャンパスにおいてはむりである。しかし、「これらの要求や新しい学問的要請をおさえることは---学問の発展を阻害する。改革室としては本構想が将来の望ましい発展を組織化する一つの主軸となるものと考えている」とも言っている。さらにNo.271(75、1/24)になると、もっとロコツになって「総合大学院を一つの新キャンパス内に設ける」ことは「本郷のキャンパス問題の解決にとって有利である」と言っている。

つまり東大当局は既存の大学院、研究所等の拡充整備を政府に要求しているのだが、予算措置は要求通りには認めてもらえないでいる。また“過密”になりつつある本郷を脱出して、また分散したいくつかの研究所を統合して移転をおこなうには、巨大な費用がかかり、既存の研究施設の拡充というだけではとても実現しそうにない。そこで総合大学院を呼び水にしてあるいは目玉商品にして、移転を実現しようというわけである。

だが、総合大学院が呼び水なり、目玉商品なりになり得るということは、国家あるいはブルジョアジーが、それにいわば“とびつく”であろうような魅力ある内用をそれが有しているからに他なるまい。従来の東大の研究は資本にとっては、単なる拡充のために巨額の投資を行うほどの位置を持っていない。だが、総合大学院でなされようとしている研究はブルジョアジーの新たな投資意欲を大いに掻き立てるであろうようなものであり、また東大がそれに力を入れ、それを発展させるために全体を再編しようというのであれば、全体の移転、総合のための巨大な投資もいとわないであろう、そのような性格のものなのだ(と大学当局には考えられている)。

だが、以上は総合大学院計画が資本の要請に応えたものであるということの単なる“傍証”に過ぎない。資本の要請に応えたものであることが内容的に明らかにされる必要がある。

(ⅲ)われわれはそれを次のようなやり方で実現されると考える。
(1)まず、70年代以降の資本の必要が何であるかを示すこと。そしてそれは産業構造の転換の必要を中心にした経済的側面、環境問題への対処の必要を中心にした社会的側面、および人民管理の必要を中心にした政治的側面の三つの側面においてなされる。
(2)次に、総合大学院でなされようとしている研究内容を明らかにし、それが資本の必要にと事実上一致していることを示すこと。【計画されている4つの系(物質科学系、生命科学系、情報システム科学系、地域環境科学系)の全てについてそれが必要であるが、残念乍ら今回は、物質科学系についてはそれがなし得ていない。】
(3)さらに資本の必要としているところと事実上一致しているそれらの研究が「資本の要請に基づくものではなく、学問自身の内在的発展の結果必要になったものだ」という、大学側の主張を覆すこと。

そして、それは一方で「従来の学問の分化と深化」のみによっては対処しきれぬ環境問題などの「社会問題を解決するため」と称されている「総合的学問」なるものの内実のデタラメさを暴露するとともに、他方で計画されている研究領域が「新たな学問領域」の中から全く恣意的に選ばれたものである(=資本の要請に適ったものである)ということを明らかにすることによって満たされるであろう。【ただし(3)の前者は各論でなされることになり、後者はなされていない。】
以上のような考えかたに基づいて第二章の分析はなされている。

◆第一章、第二章の全体を通して、分析の筋道を示しながらなされていない箇所が存在することも含め、今回の分析はまだ決して十分なものではない。
われわれは現在、百年祭糾弾闘争(当局の百億円募金や百年史編纂事業は、これから本格的に開始されようとしている)を継続中であり、更に一層強化するために努力している。またわれわれは臨職闘争の一環としての74年5月24日の対総長室闘争への弾圧に対する反撃の戦いを強化しつつある。また全学実に結集するメンバーの多くは三里塚を闘い、狭山を闘っている。
かくして、3月以来、われわれが(多少とも理論的な)分析作業に割くことのできた人員と時間は極めてわずかなものであり、ここに提示した分析結果は暫定的なものに過ぎない。われわれはこれを手がかりにし、再度、討論と分析作業に努力し、できるだけ近い将来、今秋にも次の報告を行なおうと考えている。

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第一章 東大の立川移転再編と中教審路線、及び70年代中期以降の高等教育政策の展開

第1節 東大の「改革」と立川移転計画

この節では、現在、計画が具体化しつつある立川移転、および総合大学院新設がどのような性格を持ったものになる(はずである)かを見るために、東大闘争以降の大学側の「改革」の動きをたどっていく作業がなされる。
「改革」の動きは、ほぼ次の様な3つの段階を経ている。

(ⅰ)の段階は東大闘争中69年1月に設置された「大学改革準備調査会」(以下「改準調」と書く)の活動時期(~70年1月)、『 改準調 第一次報告書(69年10月)および(第二次)『 改準調管理組織専門委報告書―東京大学と国および社会との関係』、『改準調研究教育組織専門委報告―新しい総合大学を求めて』(70年3月)に集成されている。
この段階での「改革」案は東大闘争において突き付けられた批判を踏まえつつ、問題点を管理者として又研究者としての教育のあり方の問題を含め、多くの側面を析出し「大学の概念」を復興する方向で「改革」を考えていくというもので、それなりにマジメな姿勢がうかがわれる。
(ⅱ)の段階は「改革委員会」(70・1・30~73・3・30)、〔および、「改革室」(71・6・22~)〕の活動時期で、報告は逐次『改革フォーラム』(No.1~No.28)でなされている。 前記の作業が主に”理念派”によってなされたとすれば、この期には向坊(改革委員長)を中心とする”近代派”が、前記の方向性を覆し、研究至上主義イデオロギーに基く、現在に至る基本方針を確立する。
(ⅲ)は73年春の林健太郎の総長就任以降、現在に至るまでの段階。この時期には「改革」作業は大幅に縮小され、(それまで「改革」と関連して考慮の必要があるとされていた)キャンパス問題、すなわち、移転・統合問題が前面に出され、また、総合大学院構想が打ち出されてくる。 以下でこの三つの段階を順にたどりながら、当局による東大「改革」の動きを見、その中から東大の移転・再編が持っている性格を見極めて行こう。

(ⅰ)改革準備調査会の活動時期における「改革」の構想 (1)『報告書』はまず、「紛争」の原因・背景を、大衆化し、関心が多様化した学生の、専門的研究者による専門化され細分化された教育に対する不満、学生の政治活動の制限、権利の「欠如」、処分手続きのズサンさ、講座制に基づく教授会自治の無責任体制、学生に対する権威的支配、委託研究等を通じた研究者の「社会との結びつき」のあり方、の問題性に求めたうえで、専門教育と一般教育(の分断と後者の軽視を反省して、両者の)関係を再検討する必要性、「学生を独立した人格と認める」必要性、「教育的処分」の撤廃、研究・教育と管理・運営の分離、前者の重視、そして研究者(教官)の「自己規律」強化の必要性、等を述べる。
(2)そしてそれらについての具体策を打ち出すに先立ち、「大学の自治」の概念「大学の使命」を再度明確化する必要があるとする。
すなわち、大学の使命は「既存の学説や一般社会の常識を批判的に検討して、---真理を求め、---優れた知的創造力をそなえた人材を育成すること」であり、「さらに新しい真理や価値を探求してゆく知的活動は、本来、既存の観念や体制を疑い、それらを変革してゆく契機を内包」しており、「しばしば、時の政治権力と相いれない側面を持つ」(!)と言われる。そして、(戦前からの国家との関係を忘れているが)「社会から隔絶した”象牙の塔”にとどまるべきでない」と言い、「一般社会の要請と、特定の政治権力---企業をはじめ、ある利害関係のために、その利益を図る目的での大学に対する要請」とを区別して、「経済的貧困、公害---など---の解決という〔一般的な〕社会的要請に応えることは重要な使命の一つ」となる。
だが、他方で「学問はそれ自身の自律的な法則性を持つ」が故に、「現実的問題関心」によって直接「左右されることはなく」「それ自身目的として行われることが是非とも必要」とも言われるなど、現実逃避の姿勢も各所に現れる。
結局、先になされた社会の要請と、国家や資本の要請は「それらを明確に区別することは容易ではない」と対置され、学問のための学問と、社会の要請との矛盾は解決されずにとどまっていることに注意を払っておこう。
(3)改革の具体的提案 具体的試案の主軸は東大の「総合カレッジ」化にある。それは「知的創造性と自主的かつ総合的判断力」「批判力」を「そなえた人格の形成」のための一般教育を大学の中心的機能とするもので、特定の専門学部や学科への学生の所属は廃止され。修業年限も自由であり、卒業制度も廃止する。教官団は、専門研究者として学部学科に所属するが、全学的な教育運営局の下で綿密な計画を立てて教育に当たる。(教育と研究は「組織的には分離される」が「教官の職務としては分離されない」という。)これらは、外観上、筑波大のそれと似ているが、教官・学生の自主性が強調されている点が異なる。
こうした全体の総合課程化は困難だということで、専門課程が一般課程と並存し、大学院も存在することになっているが、前者については「専門的知識を広い視野に立って吸収し得る能力を有する者が進学することが望ましい」とされ、後者も修論制度が廃止され、スクーリングだけを行うとされているなど、全般的に、リベラル・アーツを重視した構想になっている。
管理・運営組織については、まず学部教授会自治をはっきり否定。「従来の各部局の利益代表」の集まりである評議会に代わって、総長(+補佐機関)のリーダーシップの下での「全学的視野」にたつ評議会が最高決定機関とされる。また研究・教育機能と管理運営機能は、教官が前者に専念できるよう、分離される。「学生参加」については「学生側の意見を大学当局が受けとめる正常なルートの制度化が必要とされる(中央委交渉として実現!)。改革の進め方については外部のイニシヤチブよることを断固拒否し、大学の「自主的な」改革であるべきことを力説している。

以上が改準調報告の概要である。ここでなされている提案のうち、研究・教育の内容に関係するものは以後の過程の中で全面的に放棄されていくが、管理・運営組織についてのものはだいたい実現されるということを見ておく必要があろう。つまり、大学のあり方のうち、近代的で”ソフトな”管理体制という形式に関わる側面は、反省や自己批判の契機を捨象して、採用し得る。だが、研究教育のあり方という内容的側面は、それらの契機抜きでは、合理化と手直ししかなし得ない。以後の「改革」の過程は、研究・教育の合理化、拡充、手直しの過程となるのである。

(ⅱ)向坊、近代派による「改革」路線 70年に入ると、東大闘争は完全に圧殺され、東大は「正常化」される。それに伴い、「改革」の動きは研究・教育体制の近代化・合理化、そして拡充の動きへとはっきり傾斜されていく。それは教官内部からさえも「改革」姿勢のロコツな転換に批判がなされるほどのものであった(フォーラムNo.8,9の改革議事録参照)。

(1)研究教育体制専門委作業グループの報告はフォーラムNo.13(70.12.14)に載っている。 改準調は専門課程と教養課程の分離が、後者を形骸化している現状を反省し、教養を充実させるという意図のもとで、両課程の統一を説いていたが、ここでは、その形式だけを採用し(四年一貫性)、しかも学生が初めから専門学部に所属するという「たて割り」を提案している。そこでは教養科目は四年間に「くさび型」に配分される。(つまり教養課程のなかへ専門科目を大幅に繰り込む。―これは専門重視の立場からの教養課程の合理化策である。)従って、改準調の提案していた全学の総合課程化、全学的な教育運営は退けられ「各学部が責任を持つ」ことになる。 そして教育機関としての大学を否定して、「研究に根拠を置く教育」、「教育への反映を直接目的とするのでなく、学術の発展に寄与する」研究が強調される。つまり大学は研究機関として位置づけられる。「狭い範囲に限定されたプロジェクトとしてなされる研究による第一次情報の獲得」を行なう研究所(附置研)の存在意義が積極的に認められ、そもそも教官は「学生からの新鮮な刺激」を受けて、よりよい研究を行うために教育担当を行うに過ぎないから、研究所教官の学部教育への参加は「研究に差し支えない限り」で行うが、「研究面では学部との協力をいっそう促進」すべきだとされる。
改準調が教官の権力者的あり方、学生の隷属化のゆえに問題としていた講座制、指導教官制も、ここでは、「学問の固定化」「学生が創意を十分に発揮できない」こと等の側面のみが問題となる。大学院に関しては「研究条件の不備」「拡充の必要」が説かれる。

(2)ここではっきり近代版「大学の使命」が確立された。 改準調では(「真理の探究に基づく」)「総合的判断力・批判力・知的創造力」をもった「幅広い教養人」の育成が大学の使命であった。ただ、現実社会からも逃避すべきでないと、無視すべくもない「社会の要請」にどう応えるのかはあいまいなままに残されていた。
ここでは、学問・真理の追求が大学の使命だという前提を保持しつつ、「社会の要請」を「長期的な社会の要請」に限定し、これに応えることを「人類に貢献すること」と≒(ニアリー・イコール)で結び、さらに、学問・真理の探究=人類に貢献することであるがゆえに、「長期的な社会の要請に応えること」と「真理探究」が結び付けられる。そしてこれを現実に結合するものが基礎研究なのである。大学は研究所(及び大学院)を中心とした、基礎研究を行う場なのである。こうして改準調に見られたアイマイさをいちおう、払拭して、また研究と教育を分離して、後者を通じて直接的な社会の要請に応えさせ(るべく、外部からコントロールし)ようとする中教審路線に対抗しうる、研究の論理で一貫させた”大学論”を組み立てたのである。

この研究至上主義的”大学論”によれば、大学に対する外からの直接的干渉は退けられねばならない。学問は自由に研究されねばならない。だが、他方、全くの虚学ばかりを行っていては大学は存在しなくなるであろう。従って長期的に見れば結局資本の必要にも(直接的・短期的応用研究よりも一層?)役立つであろうような、基礎研究を行うのがよい。ここでは、研究者は自己の自由を享受しうるとともに、良心の痛みを感ぜずに済まし得ると言うわけである。

(3)「フォーラムNo.17(74・4・1)に載っている管理運営組織専門委作業グループも、この”大学論”に基いたものである。
それは、国家の行財政を通じた介入を桎梏と受け止め「自治の確立」を訴える。そして、それには「内部的責任体制の確立」が必要であるとし、従来の部局のカベ、全学的な無責任体制を廃し、権限配分を明確化すべきだという。こうして、教官団を管理から切り離し、「研究・教育に専念させ」、管理のための「意思決定と執行の効率性」を高めなければならないとする。ここで総長室(総長+補佐)が「リーダーシップのための機関として編成され」、「評議会その他部局に基礎を置く機関」は「チェックのための機関として再構成」されることが、制度的に確立される。〔改準調の案よりも、権限集中が強まっている。ただし、補佐は筑波大の副学長(ラインである)とは異なって「スタッフ的なもの」、つまり、たての権限をもたないものとされている。また管理担当者は、研究・教育のあり方には関与しない。〕
我々は、当局による「改革」にもともと幻想はもっていないが、ここで「改革」と言う語は、研究・教育体制の再編と同義語になるのであり、処分問題、「教官自己規律」の問題など、はじめの「改革」が含んでいた目標は、はっきりと欠落させられることになって行くのである。

(ⅲ)立川移転・総合大学院新設計画の登場
すでに、前記、加藤総長時代に、四年生一貫(たて割り)教育計画に関連して、本郷キャンパスの収容能力の洗い直し作業が始まり(71年)、次いでキャンパス問題一般が検討され、移転・統合の「試案」も出され(72年)、さらに移転先の「参考として」立川の名前も出ていた(73年)。そして「改革」作業が大幅に縮小され、73年12月には「改革室では当面取り上げるべき課題」を「二つに焦点をしぼ」り、一つは「「具体的改善をはかる課題と関連して進学振り分けの問題」、「もう一つは「長期的な課題として東大の研究教育体制の将来計画」とすると言われる(「学内広報」No.223)。
この研究教育体制の拡充・発展という「改革」路線が具体的に煮詰められていくのは、林総長時代であり、74年4月林が就任するとまもなく、「総合大学院構想専門委員会」が設置され、ごく簡単ながら「構想」が発表される。翌年3月には「立川基地跡地を関係機関に要望すること」を評議会で承認、7月には「新キャンパス問題委員会」が設置されて、「接触」が開始される(「学内広報」No.356「キャンパス問題の経過について」特集号)。
ここで、我々が、あらためて移転の趣旨が何であるかを問う必要もあるまい。大学院の比重の増大・研究設備の老朽化、キャンパスの制約、統合による諸研究間の連絡、協力体制の改善の必要、等々であり、要するに研究を充実させるということである(「学内広報」No.356参照)。
そして、それについてはすでに(ⅱ)で検討してきたし、移転計画の”目玉商品”(序の(二)を参照)たる総合大学院計画については第二章で詳しく分析する。ここでは、当初の移転・統合案では文科系を含む全ての部局が移転され、それによって「総合大学の実を上げる」と言われていたものが、この時期には、文科系はすべて残して理工系だけが移転することに決定された(75年6月)ということを見て置けば十分だろう。
当初の総合大学院構想(これは前記の産物ともいえる)で「総合」の概念が云々されているように、まだ前期には「学問」の概念についての多少の配慮がみられたのであるが、この時期にはそうしたものは一切かなぐり捨てて、理工系研究者の利害に百パーセント依拠して、(そして資本の要請にはっきり応える形で)「東大」の発展と拡充にむけ一路邁進せんとするのである。

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第2節 70年代の大学再編と筑波大学攻撃

はじめに
総資本の要請に沿って「研究と教育の機関」たる大学の社的期機能、および研究・教育・管理の諸形態を「再検討」し、系統的かつ全面的に編成替えしようとする動きは、1960年代末から70年代初頭において、政府・文部省の「基本構想」次元ではほぼ完了したといってよい。もちろんそれは「基本構想」=アウトラインの域をでていない。その現実化にあたっては、(1)日本資本主義の発展を制約する内外の諸条件―そこから来る財政的問題、(2)「研究・教育」を専門的に担う「研究者」、「教育者」の「自発性」、ならびに個別大学当局の利害を誘導し、効果的に動員する問題、(3)更には社会的高等教育欲求(実は階級統合の一環として機能してきた「上層ルート」幻想なのだが)への対処、等の諸要因が介在し、これらにそれなりに全面的に対応しない限り、政府・文部省の構想と言えども平板に貫徹し得るものではない。
73年10月に開校された筑波大学は、こうした多くの制約条件をかかえながらも、68ー69年の全国学園闘争の昂揚に危機感を募らせた政府・文部省が全面的な再編の突破口を求めてシャニムニ突っ走った産物として生まれた。それは政府・文部省のプランに忠実な「モデル大学」であったが、逆にまさにそのことにより、全体的な大学再編途上の矛盾を体現せざるを得なかった。
70年代初頭の大学再編の特質は、このような政府・文部省のそれなりに体系的なプラン作成の完了と、「モデル大学」による着手として歴史的おさえられる。そしてその執行過程に浮上する諸問題が、現段階における東大再編の客観的位置を規定している。

(1)中教審路線―高等教育「改革」の基調
政府・文部省の一連の教育「改革」の一環としての、(高等教育機関たる)大学の再編構想は、63年1月の「大学教育の改善について」~75年4月の「当面する大学教育の課題」に対応するための方策」を経て、(明治初年、第二次大戦後に次ぐ)「第三の教育改革」と称される71年6月「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的な施策について」によって、一応の完成を迎えた。
その基本的発想を一言で要約すれば戦後新制大学の理念と制度的枠組を「高等教育の普及」=「大衆化」と「社会の複雑高度化」に伴う「複合化した要請」からとらえ直すこと、すなわち、日本資本主義の現段階の要請に見合った労働力の質と量の形成・配分機構として、大学をふくむ高等教育機関を体系的に整備するとともに、「大衆化」を下から支えてきた「進学熱」(大学=階級上昇ルートという幻想が基底)を「生涯教育」「高等教育の多様化・柔軟化」で方向づけ、吸収するというものである。換言すれば、63年「経済発展における人的能力の開発の課題と対策」以来のハイタレント・マンパワーの選別・養成の課題を、技術革新に伴う全社会的な労働力の流動化、再配置、「福祉社会」に名を借りた国民統合と結びつけ、統一的に遂行せんとするものである。
その具体的内容は、第一に「大衆化」を踏まえた高等教育機関の目的別類別化であり、そこにおける「将来の進路に応じた」教育課程の分化である((1)大学、(2)短大、(3)高専、(4)大学院、(5)研究院の五類型)。
大学においては(a)総合領域型―一般職業人養成、(b)専門体系型―専門的研究者養成、(c)目的専修型―専門的職業人=医者など=養成の三コースに分かれる)労働力の形成、配分機構としての機能的分化の徹底であり、この分化に即して教育内容も再編成され(従来の「一般教育」、「専門教育」の区別に代わる各コースの目的に見合った「総合」)、また、教育組織の研究組織からの分離―目的別教育の効率化が要求される。
第二に、高等教育の「開放」の支点の導入である。教育欲求の「進学熱」への収斂を放送大学、卒業資格制度などで分散する一方、大学の再教育機能を積極化し(「大学院」―現行の修士課程)、「能力と適正に見合った高等教育」「生涯教育」の名の下、能力主義的な選別教育と「ライフ・サイクル」の中での再教育の二重の回路で、生涯を通じて資本に効果的に適応できる状態を創出することである。
第三に、研究と教育の分離を踏まえ、両機能を独立させながら、前記の「社会的要請」に沿って効率的に大学全体を運営するための管理形態の要求である。伝統的な教授会自治に替わる中枢的管理機関の強化、権限の集中(副学長制)、ならびに学外者をふくむ管理責任体制への移行(「新しい形態の法人」化、「学外有識者を加えた新しい管理機関」の二案)が、そこから提案されてくる。


(2)科学技術、学術政策からの研究の位置付け
中教審最終答申による、「教育」の側面からの大学再編の基本方向の提起と対応して「研究」の側面における大学の位置付けも70年代初頭にはほぼ明確になった。
69年の「大学における学術研究体制の整備についての基本的考え方(中間答申)」(学術審議会学術研究体制特別委)において、研究の効率性の観点からの研究と教育の分離の必要が言われるが、かく分離された研究をどのように方向づけるかは、71年「『一九七〇年代における総合的科学技術政策の基本について』に対する答申について」(科学技術会議))の中で明確になっている。
その特徴は第一に、「科学技術への社会的要請の変化」として、高度成長期の矛盾に科学技術の側から積極的に対応していく姿勢であり、「生きがい」「変化に対する適応能力」といったそれ自体矛盾を隠蔽・糊塗する人間管理技術への志向である。第二に以上の目標遂行のための大学、国公立研究機関、企業の役割分担の明確化であり、大学は基礎研究部門を前記の大枠の中で担うべく位置づけられる。「社会的要請」に科学研究の独自性において応える枠組みの形成であり、大学の基礎研究はその方向で拡大されるのである。

(3)筑波大学の位置
中教審答申、科学技術審議会答申等で示された構想は、総じて(1)研究と教育の分離―教育課程編成の目的別化、能力主義の徹底、(2)研究の「社会的要請」に沿った組織化(学際領域の開発、目的志向的研究管理=プロジェクト方式、コンピューター処理)、(3)以上を合理的に運営する中枢的管理機関の創出(「学外者」をふくむ)などをめざすものであった。筑波大は、文字通り「モデル大学」としてこれらの全てを一大学で体現すべく構想され、それにより(「既存の大学との競合」を通じて)全体の大学再編の引き金たるべく期待されたのである。
筑波のモデル性は、管理機関(副学長、参与会)や「学群」「学系」の区別と言った次元のみではない。例えば「学群」編成をみればわかるように、きわめて網羅的であって(基礎学群―専門体系型、文化生物学群、経営工学群?総合領域型、体育、芸術、医学専門学群―目的専修型、大学院修士、博士課程の別建て)、筑波はほとんど独力で実験にも等しいことをやらざるを得ず、その成否が筑波方式の直接的波及の条件であった。 だが開校以来、三年余で、筑波大の弱点は明かに暴露されつつある。
第一に、研究者、教員の動員の失敗である。国大協(とくに東大)の反発(強引な教育大の移転決定、学外者参与など)により既存大学との協力関係が作れないという初期の事情に加え、教官管理の一面性(副学長の論功人事、教育組織の恣意的運用?75年6月の中国人講師解雇問題)、ウルトラ反共イデオロギーによる教職員、学生へのロコツな反動的支配などによる「悪評」ふんぷんの中で、思うように教員が確保できず、うたい文句とはうらはらに研究教育体制の整備の立ち遅れが解消されないまま現在に至っているのである。
第二に、このことは新設大学に不可欠な「社会的評価」のひき上げになかなか成功しないという結果を招いている。つまり、文部省が目指す構想の社会的浸透が不十分ななかで、あえて、筑波を優遇することの困難性であり、しかも第三に、石油ショック以来の財政的危機は、既存大学費用の自然増に加えて、特に筑波の条件づくりに巨額の予算を投入するという方策を許さないものにしているのである。
こうして、全面再編の突破口として位置した筑波は、しかしながら、全面展開を担うことなく、突破口としての任務を担っただけで、その歴史的弱点を露呈し、新たな再編戦略にバトンを渡すことになる。

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第3節 70年代後期の高等教育政策

日経新聞75年12月17日付紙上で、編集委員の黒羽亮一は、高等教育懇談会の「高等教育の計画的整備について」の基本線を次のように評している。
すなわち、昭和48〔1973〕年度の懇談会報告に比べると、経済情勢への対応という側面?「低成長下の高等教育像」と、高等教育の大衆化のあり方への批判の側面の二点があるのだと。
黒羽の評の根拠となる数字をあげると、次のごとくである。48年度の懇談会報告では、昭和60年までに必要な入学定員増を国公立9万、私立10万としていたのが、今回のものでは、55年度までの入学者増を約3万としており、12年で19万増と4年で3万増の比較とすれば、大学定員増の予定を、半減させている点である。
高度成長期のように大学は増やせないという面と、役に立たない大学出を増やしてどうなるという面という、黒羽のこの分析は、たぶん、的を射ているだろう。
70年代後期高等教育政策を貫く基本的な問題意識は、ここにあると言ってよく、これとの連関の上で70年代初頭の中教審多様化路線が新たな形で貫徹されようとしているのだ。
さて、「高等教育の計画的整備について」での方針は、大学入学者の増加を抑え、大学類似機関の活用という形で現われる。前者は「質的充実」というスローガンで語られ、後者は「高等教育全体構造の柔軟化・流動化」というスローガンで語られる。
以下、前者においては戦後の入学者拡大を担ってきた私立への統制、後者においては放送大学、専修学校について若干紹介する。
昭和50年〔1975年〕に私立学校振興助成法が成立し、今後5カ年間は特別な事情がない限り、私学の創設が認められないことになった。更に、予算配分に当たっては、実員が定員の5倍以上の大学に対しては補助がおこなわれない。
こうして、私学による大学入学者増に歯止めがかけられるわけである。 次に放送大学であるが、昭和44年以来検討されてきていて、51年度からは、実施調査ではなく、実施準備の段階に進むとされている。放送授業と印刷教材及び地域センターにおける演習・指導の組み合わせという形で構想されている。
また専修学校制度は51年4月1日に発足している。51年3月に約8千あった各種学校のうち、高卒者を対象にした約800校を格上げしたものである。専門課程、高等課程、一般課程の三種の学校に分類されており、複線型の教育課程版として注目される制度である。
高等教育全体の構想の柔軟化・流動化ということは、現行の大学、短大、高等専門学校が認知されている高等教育という領域に、放送大学、専修学校を組み込もうという試みである、と言える。
さて、以上のことを中教審多様化路線との関係でみるとどうだろうか。
新構想大学(筑波を先頭として)を既存の大学と競合させ、文部省主導によって、中教審目的別多様化路線を貫徹するという方針を全面化させ得ないことが、オイルショック以降の経済危機、筑波のイメージダウン、という中で明確化し、そこで、新たな形での貫徹が企図されるようになっていることは疑いない。実は、中教審路線自身、初等・中等教育課程を一定程度掌握したブルジョアジーが、複線化―多様化方針の完成に向けて構えたものであり、階級支配への憎しみの屈折した表れであるところの教育欲求の高度化を統御せんと言う野望をひめたものであった。筑波的に一大学が目的別に多様性を保持するという試みは、その一つの表現だったのだが、全高等教育構造の多様化をもっとストレートに、だがしかし、もっと巧妙に問題にすることを必要とした。このことは、「市民としての教育?個人の全面的発達」というたてまえのもとで、実質上の能力主義を貫いてきた彼らが、「国民としての教育―有限の能力を通しての社会への貢献」という公然たる能力主義へと教育基調の転換を企てざるをえなくなっているということである。
では、その戦略は何か。それは、大学院の位置の強調(エリートは欧米のように、修士号ぐらいはもつ時代が来る、という趣旨の、伊藤正巳〔法学部長、総長特別補佐、80年~最高裁判事〕の発言が率直に物語っているだろう)を伴った”総体としての大学の位置の押し下げ”が一つの柱であり、これに踏まえた「高等教育全体の構造の柔軟化・流動化」がもう一つの柱である。こうした、大学の新たな再編が展望され、推進されているのである。その方向は筑波のなかにも見られた目的別多様化を全高等教育の規模で各大学etc.の誘導により、実現するというものとして押さえられるだろう。
先に挙げた私大への助成ということも、私大への”経営難”に対処し、定員超過を抑え、”実質的充実”を図るという表向きの理由を超え、財政的パイプの把握を通した一定の方向(総合領域型)への再編が一つのポイントである。また「高等教育の計画的整備について」の一つの柱になっている地方国立大学の整備・充実ということにしても、学部構成(ex.文学部と教育学部、教育学部と工学部)のあり方の検討から、地方ブロック別の連合大学院構想をふくんで地域社会との結合という再編の方向があることは見落とせない。さらに総合大学院をふくみ、研究者層を養成するものとして”多様化”の頂点に位置付かんと、東大立川移転が画策されているのだ!
こうしてみると、「低成長下の高等教育像」「高等教育の大衆化批判」という70年代後期高等教育政策の基本的問題意識は、中教審多様化路線の新たな形での貫徹を戦略的に準備するものであると言えるだろう。

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第4節 大学労働者から見た移転・再編

1)国家公務員合理化政策と大学の移転・再編
他の箇所で明らかにされるように、東大の立川移転は日帝・ブルジョアジーの要請に見合った、研究・教育政策の再編として、治安対策・地域人民管理としてあるばかりでなく、移転を通じて労働者への合理化攻撃を強め、パート・臨職のみならず、定員内職員をも解雇していく攻撃としてあり、移転を通じた合理化攻撃が先行的に開始されていることを、はっきり押さえておかなければならない。
 <臨職体制の拡大>
最初に公務員合理化の背景を簡単にみておこう。’65年の不況を赤字国債発行による財政投融資で乗り切った結果、「財政危機」がもたらされた。政府・自民党は ”人件費など当然増経費が新規行政需要を圧迫している” として ”財政硬直化” をキャンペーンし、公務員合理化攻撃を推し進めた。国家公務員のうち三公社五現業職員や自衛官等を除いた ”行政機関” の職員について見ると業務量の増大にもかかわらず、表 1のごとく定員職員の増加は抑えられ、労働条件の劣悪な臨時労働者が多数雇用された。


表1                                      
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー          1964年       1968年       増加率        
定員内職員   490,011       508,760       1.04         
定員外職員   161,094       192,743        1.20        
臨時職員     2,462        7,436   3.1
(常勤的非常勤)                               
  うち文部省             5,360                 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー人事院調べーー

 表2        1976年度の増員             
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    増員(人) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   国公全体              6,817       
   文部省               3,270       
     国立学校            3,209       
   大蔵省                769       
   法務省                578       
    (他は略)



とりわけ “常勤的非常勤” と呼ばれ、定員職員と全く同様に8時間労働で同じ仕事をしていながら “定員外” とされ、身分的にも経済的に様々な差別を受ける「臨時職員(臨職)」の増加が著しい。
定員外職員と呼ばれる臨時労働者の中には8時間労働の臨職のほか、より劣悪な労働条件を強いられているパート労働者が多数雇用されている。

 <削減合理化>

69年に至り、政府は「総定員法(行政機関職員の定員に関する法律)」を制定し、行政機関の職員定員の上限を506,157名に定める一方、閣議決定により定員削減を強行した(第一次’69~’71、5%;第二次’72~’74、5%;第三次’75~’77,3%;第4次’77~’80、3.2%)。
総定員法、定員削減は単に「人減らし」を目的とするものではない。定員管理の元締めである行政管理庁は総定員法・定員削減の目的について次のように説明している。“限られた予算の中で新規行政需要に応ずるため、業務の見直しを進め、不要な人員を減らし、必要な部署に回す” と。
即ち、既設部門から定員削減によって吸い上げたポストを国家独占資本主義体制の維持に必要とされる既設部門に重点的に振り向け、日帝の海外侵略に見合った、公務員の再編合理化の推進を目的としている。(実際、この間新設された省庁は「国土開発政策」を遂行するための環境庁、国土庁である。)
この国家公務員合理化攻撃の中で、文部省、とりわけ大学の再編、合理化が大きな比重をしめている(表2,1976年度の「増員」)。
大学における「増員」は学科、講座の新設、地域医療センター→国民総背番号制を射程に入れた一県一医大計画による医大の新設、筑波大、科学技術大学の新設などにあてられている。まさに日帝・ブルジョアジーの要請に基づく研究・教育政策、地域人民管理体制の一環として大学の再編がなされているのだ。
こうした中にあって、筑波大、科学技術大学、医科大学など73年以降新設された新構想大学の職員を総定員法の枠外とすることが今国会で決定された(国立学校設置法及び総定員法の一部「改正」)。このことは総定員法の破綻を示しているが、総合大学院構想もこうした動きと無関係ではない。
 
 <大学における合理化攻撃の現状>
左のグラフから明らかなように、大学職員(文部省職員の大部分は大学職員)のうち、行(二)労働者は著しく減少し、行(一)労働者数は頭打ちであり、教官が増加している。すなわち、教官の増加によって業務量は増加しているにもかかわらず、労働者数は減少し、労働強化がもたらされている。
東大当局もまた、”定員削減割り当てをこなすまでは欠員補充させない” 旨の事務局長通知にもみられるように、積極的に削減に協力してきた。削減の集中した行(二)部門では、68年から75年までの7年間に35%もの労働者が削減され、用務員・運転手などの外注・下請け化が進行している。

また「限られた人員・予算に見合った業務の見直し=合理化・再編」が進行している。
東大は、日本の大学のなかで最大の研究費を背景に大量の臨職を雇用し( ’62年206名→ ’67年1,110名)、規模拡大と合理化を図ってきた。しかし、全学臨職闘争を経るなかで、合理化の形態は変化している。

現業部門である病院では、この8年間の削減に見合って64名の臨職と、31名のパートが雇用されている。しかし最近では病院当局も「予算ひっ迫」を理由に、臨職退職後の不補充、あるいはパートへの切り替えの方向を取ろうとしている。全学的にも臨職は6百余名へと減少し、より劣悪な労働条件のパート、下請けに置き換わられつつある。

教室事務の統合、分析部門の統合が図られる一方、従来研究補助労働者が行っていた業務を研究者が行ったり、あるいは自動機械の導入などにより、研究補助労働の仕事を干し上げ、配転・退職を強要するなどの攻撃がかけられている。

またコンピューター合理化の進行と労働強化により、頸肩腕・腰痛症などの労災・職業病が多発し、労働を通じて健康まで破壊されつつある。合理化の矛盾はすべて労働者にしわ寄せされている。

 <教育大の筑波移転>

こうした合理化攻撃は移転を通じて、より過酷に労働者に襲いかかってくる。東京教育大の筑波移転の例を見てみよう。
当初、教育大の「自主移転」という形で検討された移転計画は、69年に「筑波移転」が評議会決定されると共に政府の「新構想大学計画」に組み込まれた。
73年の筑波法案の国会上程以降、労働者への攻撃がはっきり現れてきた。
附属学校を除いた教育大の臨職は、71~72年181人、73年173人、74年158人、75年128人、76年118人と大量に人員整理され激減している。そのうえ日々雇用の者の多くがパート化されて来た。 理学部応用数理学教室の例を見ると、72年まで事務員は臨職が増え続け、定員4人、臨職8人の計12名がいた。ところが72年から定員削減と筑波へ向けた人減らし、その準備要員確保のため、まっさきに教室の事務定員が減らされ、新たに臨職を雇うことにも本部の圧力が加えられてきたのである。 73年9月、法案が可決されると、いっそう、この方向は強化され、教官がコピー作業を自分でやるといった形で仕事の干し上げが進み、人員削減の条件が整備されるとともに、「雇っても後の面倒を見切れない」、「これからは、やめたら入れない方向だ」ということで、事務員は減らされる一方で、74年春にはわずか5人(臨職3人)になってしまった。

73年以来、筑波大学への移籍、他職への転任希望などについて職員一人一人に「意向調査」がなされた。76年の意向調査では「転職希望」者に対して、「転任不可能になった場合」に「筑波大学に勤務する」か、「やむを得ず○年○月○日退職する」かの二者択一を迫った。
教育大職組は法案成立とともに「筑波移転反対」から「筑波の民主化」に路線転換し、就職あっせんを当局に要求した。76年6月の調査では事務職員350名中、170名が「移転困難者」であり、うち定員外は90名あまり(50名はパート)に上っている。

移転者・転任者ともに、斡旋の際「組合活動をやらない」ことを約束させられ(ちなみに筑波大には組合はない)、臨職は「定員外でも我慢する」ことを確約させられている。臨職で移籍しても公務員宿舎には入れず、宿舎はない。過去3年間かかってあっせんできた職員は110名とされているが、就職あっせんを餌に組合は切り崩され、就職あっせんの現状も十分把握できない状態にある。
オイルショック以降の経済情勢により筑波建設は大幅に遅れ、人員、施設設備などの面で教育大に大きく依存せざるを得なくなり、毎年度末には筑波で使いきれなかった予算が教育大に振り替えられるなど、教育大の人員、施設を何らかの形で残さざるを得ない状態にある。しかし形式的には今年(1977年)3月末をもって理・文・体育学部が廃学部となり、来年3月末には教育大が廃学となる。

今年3月末をもって理・文・体育学部では臨職が解雇されたが、73年以降に採用された臨職は、採用時にすでに廃学部時での解雇を承認させられている。73年以前に採用された臨職も大部分は昨年度の「雇用更新」に際し、同様の確認書を書かされ「依願退職」の形を取らされている。理学部応用数学教室の臨職岩崎さんはこうした中で「解雇を撤回させる会」の仲間とともに、断乎として不当解雇撤回闘争を闘っている。
筑波移転にともなって解雇されたのは臨職・パートのみにとどまらない。用務員組合は当局の攻撃に真っ先にさらされ、73年夏に解体させられた。教育大の「定年」が67歳なのに対して筑波大の「定年」は61歳に下げられており、年配者の多い用務員は筑波大への移転もできず、就職あっせんもままならない。
国公法78条4項は「官制もしくは定員の改廃または予算の減少により廃職または過員を生じた場合」「(職員の)意に反してこれを降任し、または免職することができる」と定めている。廃学となる教育大の職員の身分は制度的にはなんら保証されていないのだ。

    <立川移転阻止に向けて>

大学における合理化・再編攻撃は研究至上主義イデオロギーを背景として進められる。「(立川移転は)たんに2DKがせまくなったから3DKに引っ越すというような単純なものでない。そこでは同じ場所にいてはできないような思い切った改革を行い、さらに理想的な大学を作ろうと考えているからである。----キャンパスが全体として同一の目的の下に精進する聖域的な雰囲気にあふれていることが望ましい」(学内広報No.362、近藤前工学部長)との言葉に見られるように、移転を通じて合理化は一層強化される。合理化・再編を進めることにこそ移転の意味があるのだ。

また総合大学院構想は既設の大学院・研究所に手をつけない前提で出されている。しかし、東大だけが政府、日帝ブルジョアジーの合理化攻撃の埒外にいるわけではない。教育大の「自主移転」が政府の「新構想大学」計画に組み込まれ、その突破口となったように、総合大学院は既設研究所の改廃を伴うものと考えるべきであり、臨職、パートのみならず定員内職員の解雇を含めた、ドラスティックな合理化・再編攻撃として労働者にかけらているのだ。

立川移転は決して10年、20年先の問題ではない。移転に向けた合理化攻撃は総定員法、定員削減を軸として、すでに日常的にかけられている。移転再編阻止の闘いは、こうした日常的合理化・再編攻撃を 粉砕する闘いとして闘われねばならない。

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2)再編成を射程に入れた東大(演習林)における先取り的管理支配の強化

◆1 演習林再編成に向けてのこれまでの動き

立川移転をテコにした再編攻撃は、すでに演習林においては露骨な形で現在進行しつつあるが、これまでの再編攻撃の動きを記しておく。
1。69年、大蔵省が「大学演習林の共有化」を打ち出す---各大学ごとに持っている演習林を各校の共有とし、国立学校特別会計一本にまとめて各校の実習の内容、必要度に応じて貸し付ける。
2。70年、農水産関係学部長協議会に、文部省から「適正規模」提示要求---各大学の規模がアンバランス、これを是正する必要がある。提示されるまでは、新規特別要求予算はつけない。
3。71年、学術会議第六部会「全国立大学附置共同研究教育林」構想打ち出す----大学間の規模較差、地域的な偏差の解消を図り、日本全土的に再配分を行い、共同利用の研究機関とする。
4。72年、全演協(全国官公私立26大学の演習林によって構成)総会に学術会議第六部会案かけられる---東大演習林職員会(東大演習林職組の前身)、絶対反対の方針の下、同総会に介入闘争貫徹。
5。77年、学術会議総会、政府に「生態学研究所の設置」を勧告、現在皆無の生態学研究所として、共同利用の施設を千葉演習林に想定して。 

すでに立川移転問題が話題に上る以前から、大学演習林の統合再編成の動きが政府サイドからの圧力のもとで、全演協、学術会議等を舞台に進行していたのである。この背景には言うまでもなく、70年代初頭からの林業政策の転換がある。すなわち「林業基本法」(64年成立)に基づく60年代中・後期の林力増強政策=乱伐から、アジア侵略による資源収奪外材依存政策(そのシェアは65年28.5%→72年66.8%)への移行は、国内林業の縮小合理化を激化させ、(とりわけ国有林に集中)、その一貫として大学演習林の統廃合が必然的に俎上に上ることになるのである。 

なおここで若干付言しておけば、前の林業政策は、今後東南アジアからの外材「輸入」(収奪)とのからみで立てられるわけであるが、フィリピンをはじめとした輸出規制もあって、ジグザグせざるを得ないが、基本的には、外材依存策(当該国の林業破壊という非難をかわすために、「造林技術協力」をもって植林―伐採の全過程を掌中に収めようとしている)を基軸に国内林業は徹底的な省力化をもって林業労働者への合理化・労働強化の犠牲のもと、一定の生産体制を再編してゆくであろう。 

移転の場合、トップをきるであろうと目されている農学部のなかでも、林学科はその縮小再編の危機感から、ここのところ急ピッチに動き始めているが、それはあの林学闘争(69年)による「権力失墜」を挽回するため、論文製造の大量生産を可能とする態勢を早急に作り上げるための管理面の強化が図られしているのである。即ち、東大林学科の「権威復活」をもって立川移転の際の再編切り捨ての趨勢から逃れようとしているのである。このような林学科(近代派グループが実権を握っている)の動向から逆規定されて、こんにち演習林の利用目的が一方的に改変されようとしている。これまでの演習林は、事業(造林、生産)、試験研究、学生実習の3要素によって運営されてきたのであるが、上記の林学科近代派グループの志向により、もっとも大きな比重を占めてきた事業面を切り捨て、狭義の試験研究の場に演習林を切り縮め、業績中心の論文製造のための試験研究林へと持ってゆこうとしているのである。この演習林縮小計画は、言うまでもなく国の政策、そして東大再編の目的とも合致するがゆえに、すでに先導試行されているのだ。

◆2 再編成にむけての臨時労働者切り捨て攻撃 

さてこの演習林の(狭義の)試験研究施設への切り縮めは、いうまでもなく、事業面で働いてきた林業労働者(季節・日雇の雇用形態をとった最も劣悪な労働条件にある)の整理を意味する。73年以来演習林職組は、季節・日雇労働者闘争を一貫して戦闘的に闘い抜いてきた。そして昨年の林長団交において、その過渡的待遇改善の一貫として、臨職甲発令(月額賃金だけで、一切の諸手当が保証されていないがゆえに、臨職「甲」への格付けは、相対的には一定の改善になる)を77年中に行なうことを確約させた。
76年以降の時計台をバックにした当局側の臨職の定員並み待遇の破壊攻撃の真の狙いは、定員並み待遇を破壊し、差別賃金体系の制度の中に、季節・日雇労働者を法的に封じ込めてしまい、組合要求の内実を骨抜きにしてしまおうという策動に他ならない。唯一この問題を焦点化して、組合との攻防戦が実力闘争として激化の一途をたどってきているがゆえに、時計台、農学部当局は、林学・林産両学科、時計台から派遣された事務官僚を手先として使い、組合つぶしのための非合法的手段をも駆使して、弾圧攻撃をかけてきているのである。

全国大学演習林の統廃合 → 東大再編過程での、農学部・林学科・演習林ひとつながりになった改変→ 演習林の試験研究施設への縮小→事業面切り捨てによる林業労働者の整理------以上の脈絡の中で、季節・日雇労働者の闘争を圧殺することは、政府、大学本部、農学部当局、林学科・演習林にとってその目的を遂行していく上で不可欠の要素をなすものとしてある。昨秋来の臨職の定員並み待遇破壊攻撃は、本年2月段階で、組合側の勝利をもって、破綻していった。当局側はその攻撃のかけ方の不十分性(?)を総括してか、ついに2月末からよりあくどく卑劣な手段をもった攻撃へとエスカレートしてきた。この形態は再編成に歯向かってくる組合の戦いを振り払うと同時に、再編後の管理体制を先取り的に作り上げるものとしてあるので、その内容を述べておきたい。

◆3 非合法的地下管理体制への移行

これまで演習林の管理運営は、予算、人事一切を含め、諸会議は公開の原則に立ち、民主的形態をとって開かれてきた。その結果、一握りの教官層の専制的支配の空洞化をもたらし、必然的に労働者ヘゲモニーが確立されてきた。とりわけ、人件費を優先させた予算配分は、臨時労働者の要求圧殺を企てている当局側の桎梏となり、会議の公開性破壊を隙あらばと策するところとなってきた。そして遂に、2月末から当局側は演習林規定を無視して、会議を秘密裏に開くという暴挙を行なったのである。
とりわけ3月の追加予算の配分は、人件費の一方的吸い上げ(660万円)を含め、季節・日雇労働者の諸要求をゼロ査定し、怒りにかられた組合との直対応を避けるため、当局側メンバーは全員地下に潜り、大学に登場しなくなったのである。そして地方演習林職員への業務命令は早朝もしくは夜中に自宅に電話で行うという非常識をあえて行ない、どのような不評を買おうがお構いなしの徹底ぶりであった。

そして3月24日、あのクーデターにも等しい農学部教授会での「演習林規定」の抜き打ち的上程をもって、試験研究施設への移行、農学部長の統括責任の明確化をもっての直接的介入、事務官僚の権限強化、一切の会議からの職員、労働者の排除、地方演習林自主管理破壊のための地方林長制度の導入、等々を網羅した、管理体制の徹底的強化を一挙に行おうと企てたのである。しかし、組合側の事前察知により当日の教授会粉砕闘争で、農学部長の「上程断念」の言質をとり、ひとまずは敵の策動を打ち砕いて行った。

しかしこれまでの団体交渉(あるいは諸会議)での合意→実行→慣行化といった一定のルールにのっとった労使関係は、今や、当局側から一方的に破ってきており、非合法地下体制による強権的管理支配方式へと移行している。そしてその内容は研究と管理の分離をもって、後者は時計台に直結している演習林本部(時計台から派遣された官僚によって占められている)が担い、演習林長は大半の業務内容は事務官僚の言いなりに任せ、どのような批判も封じる暗黒支配を行なおうとしている。
すでに他大学においては、組合の交渉相手は事務官僚が応対し、教授会は実質上管理面での当事者能力を失っている。東大の中でわが演習林においては、この他大学方式(その典型は筑波大である)がすでに先取り的に導入されているのである。
内容は事務官僚が起案し、形態は教授会が権力的に責任をもって権威付けを行う―この形態が現在の演習林の管理支配の実態である。具体的な例を一つ記しておこう。3月の追加予算の配分は、各演習林からの要求を無視して一事務官僚が配分案を作成し、それを「(秘密)運営委員会」(教授会)が一字一句の修正もせず儀式的に追認していった。
70年以来の職員・労働者の闘いによって、林学科の植民地的支配、そして、地方林長の領主的経営のもとでの差別と分断に基づく労働者支配体制が決定的に打ち破られ、地方演からの管理者の一掃による労働者自主管理態勢の構築ががっしりと打ち立てられてきた。今回の管理体制の再編強化は以上の職員労働者の圧倒的前進に対する一大反動としてあり、そのことは、70年代後期の労働運動が、従来の団交等を中心とした労使関係に依存し得ない段階に突入しているということでもあり、闘う主体の新たなる飛躍が要求されているということでもある。それはあらゆる制約を大胆につき破った実力闘争の時代への突入を知らされているということでもあろう。

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第二章 総合大学院計画と「資本の要請」

第1節 現段階における「資本の要請」

この節では(東大が移転・再編を通じてそれに応えようとしていると思われる)「資本の要請」が(1)産業構造の転換を中心に経済的側面、(2)環境問題を中心に社会的側面、(3)人民管理の問題を中心に政治的側面から明らかにされる。

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(1)経済的側面から見た資本の要請―産業構造の転換・技術革新の問題を中心に、及び医療産業の例

オイルショック以来3年半を経過した日本資本主義経済が長期にわたるであろう「低成長」「減速」の時代に決定的に突入したという認識は、左右を問わず広く共通のものになっている。われわれはここで、現在、日本資本主義がどのように方向転換を遂げつつあるかを若干分析することにより、これまで日本の大学の”頂点”として”社会に貢献”してきたところの東大に対する資本(主義社会)の要請がいかなるものであるかを示したい。

◆米国からの様々な援助、朝鮮戦争における米軍特需により、また、財政投融資、貿易為替管理など、国独資政策によって「復興」した日本資本主義は昭和30年代(1955年頃~)から成長期に入る。そして財投によって補完されつつ、民間設備投資の拡大によって、重化学工業、基幹産業を育成し、膨大な労働予備軍(農村の過剰人口)の存在による低賃金労働力を利用しての輸出促進等によって、強蓄積・急成長を成し遂げ、帝国主義世界体制に「復帰」した。
がだ、この成長・発展は同時に矛盾の発展でもあり、工業生産力の拡大は労働力不足を引き起こし、重化学工業化は中小企業、農業等の低生産性部門の矛盾を激化させ、国際市場への参入は「資本の自由化」という外的圧力を高めることになり、弱小資本に矛盾がしわよせされることになった。こうした中で、景気循環とあいまって、民間設備投資が沈滞、’64年~’65年には深刻な不況が起こった。
この矛盾を日本資本主義は、対外的には東南アジアをはじめとする途上国に対する経済侵略(「援助」による市場支配、資源収奪、資本輸出による労働力搾取)、対内的には農業・中小企業の選別的育成(切り捨て、独占資本への系列下・下請け化)により、独占資本分野での部分的撤収(石炭)、スクラップ&ビルド(繊維)、大型合併による独占・寡占体制の確立(鉄鋼)あるいは官民を通じた合理化策、そして体制的合理化などによって切り抜け、世界的な「経済大国」としての地位を確立する。

◆このようにして確立された昭和40年代(1965年~)の日本経済は、輸入原燃料多消費型重化学工業中心の産業構造をもつものと特徴づけられる。
これをややくわしく輸出品の構成で見ていくと、鉄鋼・化学肥料・セメント・プラスチック・金属・合繊などの低付加価値・大量生産型基礎素材と、船舶・トラック・農業機械など組立加工型生産財、自動車・家電・カメラ・時計・オートバイなどの耐久消費財(1975年でも鉄鋼、自動車、船舶が三大輸出品である)、それに繊維品、陶磁器、タイヤ、紙などの軽工業製品から成り立っている。
これを図式的にまとめなおしてみると、安価な石油などの原燃料→安価な大量生産型鉄鋼、ナフサなどの基礎素材→(安価な労働力)→(組み立て加工型)機械、耐久消費財、(成型加工型)軽工業という連関からなる産業構造だと言える。 この日本の産業構造を米国の航空機、原子炉、兵器、コンピュータ等、技術独占的、知識集約型重化学工業中心のそれと、また、西独の金属加工機、化学プラント、重電機器、染料・触媒等の高度加工・高付加価値・必需的生産財中心のそれと比較して、みれば、その特徴はいっそうはっきりするであろう。ただし多少一般的な産業構造、生産力の問題としてよりは、それの根幹にある技術格差の問題としてある、ということを付言しておく。

◆ところで、戦後世界の先進資本主義国の経済体制は「国家独占資本主義体制」とも呼ばれる。それは(IMFという国際通貨機構によって支えられつつ)国内の管理通貨体制を前提にして、財政投融資を通じて通貨供給量を調節しつつ、経済成長を維持していく体制であって基本的に通貨膨張策をとるものであり、本質的にインフレを随伴するものだと言われる。(大内力など)

だが、60年代中期ごろまでの日本経済は技術革新による生産性の上昇、新規参入による企業間競争などにより支えられ、インフレは相対的にゆるやか(クリーピング)なものであり、賃金上昇は容易に吸収し得たし、企業利潤も保証し得た。しかし60年代後半には、全般的な技術革新の停滞に伴い、生産性上昇がストップするとともに、新規参入が減少し、独占・寡占体制に移行する。他方、労働力予備軍の縮小により、労賃の上昇傾向が強まる。だがこの上昇分は生産性上昇による吸収が困難である以上、価格に転嫁せざるを得ない。独占資本、大企業にあっては、市場の寡占状態のゆえに価格への一定の上乗せが可能である。中小企業、小売部門では生産性の引き上げは(大企業よりいっそう)困難であり、独占部門の生産である原材料や設備材の値上がりによって、価格を引き上げざるを得ない=コストプッシュ・インフレ。ここでは国土改造論をはじめとする景気刺激策によるデマンド・プルインフレの側面については割愛する。

かくして、インフレは加速度的に進行(ギャロップ)する。それを抑えようとすれば、長期にわたる金融引き締めが必要であり、すでに生産活動が不活発になっているから、引き締めは直ちに不況につながる。こうして一方では「狂乱物価」「消費者パニック」など治安にかかわる問題にはならぬ程度にインフレを許容して経済活動を続けながら、他方で成長策を取ることもできず、引き締めを続けるという具合にインフレとスタグネーション(不況)が同時的に存在することになる(スタグフレーション)。 この傾向は、直接的原因に差はあれ、アメリカ、イギリスでは60年代末にはっきりと現れていたし、70年代に入るころには先進資本主義国すべてに現れ、日本においても同様であった。

◆こうした日本経済の構造に決定的なショックを与え、路線転換を迫ったものが73年の石油危機だとしばしば言われる。
オイルショックが日本経済に与えた影響は確かに深刻なものであった。現在為替ルートがフロート制になっており、やや長期的には物価水準全体の上昇を相殺する働きを持っているがゆえに、石油値上げの影響はエネルギー供給における石油依存度(例えば日本は78%、西独は55%)に比例するものではなく、業種によっては、かえって有利になる場合もある(経済白書によれば、日本の自動車はそうだ)という。

だが、生産コストのうちでエネルギーコストに占める割合の大きいものほど石油値上げの影響が大きく、輸出競争力が小さくなり、利潤も縮小するということは原理的に明らかであろう。日本の鉄鋼、化学、非鉄金属、紙、パルプなどすべて輸出競争力が大幅に低下している。日本経済がエネルギー多消費型の重化学工業(製品の輸出)に依存しているからには石油値上げは死活問題を意味するのである。

だが、日本経済を圧迫している国際的要因は決して石油だけではない。ここでその他の要因 ”国際環境” を見ておこう。

▼一次産品の高値安定。72年の世界的な異常気象による農産物の減産、その後の穀物の高価格、さらに米国の大豆、綿実関連品の輸出規制措置などにより(ほかの途上国と同様に)米国の過剰農産物処理体制に依拠し、食料自給率を低下させてきた日本にとって、食料問題が極めて深刻になっている。
またOPECの石油値上げ以降、鉄・銅などの鉱物資源・木材・天然ゴムなどの農林産物などにおいて、輸出国機構が成立し、国有化の動きが強まっている。ロメ協定、UNCTAD第4回総会での「一次産品総合計画」決議、第5回非同盟諸国首脳会議での「経済宣言」の採択。これらにより、すべての原燃料、食料を含む一次産品が値上げされつつある。
▼先進国の構造的インフレ。現在欧米諸国のすべてがインフレを抑えるために、成長率の抑制策をとっている。それは当然輸入の抑制を伴う。だが、このことは日本の輸出の40%が欧米先進国向けである以上、輸出主導型日本経済がはっきりと壁にぶつかっていることを意味しよう。

▼国際通貨体制の崩壊等。71年のニクソン・ショック(ドル・金交換の停止)に始まり、変動レート制への移行に至る国際通貨体制の崩壊は安定した長期的な貿易取引が不可能になったことを意味する。

等々、日本経済にとって、国内環境も国際環境も極めて不利になっている。

◆それでは、こうした危機的状況に、日本のブルジョアジーはどのように対処しようとしているのか。 まず、一方で、労務管理の徹底的強化を含む合理化を推進し(利潤を確保し)ようとするであろうが、他方で、経営への労働者の参加の一定の許容を行うなど、「労使協調」路線によって、労働運動を抑え込み、賃金上昇を食い止めようとするであろう。 また「狭隘化」した国内での工場新増設に代わって、発展途上国への資本投下を進めようとするだろう。等々。

われわれはここでは、東大の移転・再編、総合大学院新設の性格を明らかにするために、技術革新の必要という視点からアプローチしよう。

◆上で見たように、日本の経済成長を支えてきたのはエネルギー多消費型・大量生産型・基礎素材および組み立て加工型、耐久消費財機械産業であった。

ところが、まず、大量生産システムによるコスト低下がもはや期待できない限界点にまで大規模化がなされてしまっている。これに加えてエネルギー・資源価格の上昇によって、また、公害・環境コスト増によって、大規模化が逆にコスト・アップにつながりかねなくなっている。 また自動車やカラーテレビなどの耐久消費財は必需財ではないがゆえに、不況・インフレの時代には輸入規制を受けやすい。
低加工度の生産財(トラック、農業機械、建設機械)は品質や性能に多少の違いはあっても大多数の国で生産できるものであり、輸出の伸びが期待できない。(繊維産業で日本が世界市場から撤退しつつあるように。)
したがって、日本資本主義は、すでに60年代後半から官庁エコノミストなどが主張していた「省エネルギー・知識集約的・高付加価値産業」構造への転換を、今や焦眉の課題としているわけである。しかもそれらを支えるあらたな技術を自前で開発しなければならなくなっている。
これまで経済成長を支えてきた技術の主要なものの多くはアメリカをはじめとする先進国から導入されたものであり、それを組合わせるなり、改良するなりしたものであった。だが最近では技術導入の条件が厳しくなっている。例えば、導入した技術による製品の市場の制限が条件になり、また、資本参加や合併会社設立が条件になる。さらにはクロス・ライセンス(導入と交換に新技術を輸出しなければならない)が条件となる。

◆では資本が必要としている技術革新は具体的にはどのようなものか。 ここでは多少煩雑になるが『エコノミスト(77.1.25)』誌上における東レ・新日鉄・富士通の「技術系経営者」の座談会―司会は三菱総合研究所専務ーを材料に取り上げ、まず、ほぼ順にページを追って引用し、そのあとでまとめをおこなうことにする。

「技術革新がまだ進んでいるのはエレクトロニクス分野ではないかと思う。」「電子工業は家庭用---は別としてコンピューターはまだ成熟どころか技術が成長している真っ最中だ。」「IBMと比較してよく言われるのは、ハードのギャップより、ソフトのギャップが大きいということです。」(ソフトのギャップに関する問題のひとつとして)「メーカーがソフトを開発するための人間をどれぐらい抱えられるかの問題がある。その負担力如何でその企業の開発力がきまる---。」国家的なプロジェクトとして育てる政策が必要だ。」(ハードに関しては)「近未来的に言うと超LSI、さらに長期的には光メモリーとか光集積回路という研究開発テーマがあります。」

「化学工業の場合、ファインケミカルはマーケットは小さいが付加価値が大きくて儲けが大きい、そういう小物を積み重ねていくという考えがある---」「ただ、その場合、需要先との縦のテクノロジー、トランスファー(技術移転)をどのようにやるかが一番の問題じゃないか。例えば超LSIなんかの電子材料とか感光材料とかは、われわれ化学屋がどうアプローチしていいか、戸惑うようなところがある。」「繊維でも、例えば、熱に非常に強い繊維だとか、伝導性のある繊維だとか、イオン交換の繊維だとか、そういう特殊なものは非常に出る可能性がある。プラスチックについても同じだ。」「従来の巨大な分野はベースとして置いておいて、その上に利益率の高いファインケミカルを狙っていく。」「最近化学工業で注目されているのは、バイオ・ケミストリー(生化学)。製品を作るのでも直接発酵で行く。しかも遺伝子の組み換えなんかも可能になるから、空中窒素の固定も根粒バクテリア以外でできるようなものが発見されうる。」「いままでの高温・高圧でやる化学工業---(は)もう行きつくところまで行っちゃって、あとは常温での反応。結局、触媒です。」

「鉄は---材料化学の面はわからないことだらけ。これから---青年期に入ろうという学問だ。ディスロケーション・セオリー(転移論)である程度理解できるところまで来ているが。」「材料の行き方としては、次の二つに両極化していくんじゃないか。つまり、非常に純度の高いものと、非常に高合金化されたような材料。」「鉄鋼業のこれからの方向として、素材メーカーからエンジニアリング会社になっていく。」
技術が単一の専門分野だけのものではやっていけなくなってきた。---周辺、関連領域までもカバーするようなものでなければならなくなってきた。---プラント・エンジニアリングとか、システム化技術など---技術者は単一の領域に浸りきった硬直化した頭脳でなく、より柔軟な頭脳構造が要求されている。」「工学の本当の専門教育をどこでやるのか、非常に大きな問題だ。」(日本の現状では)「理学と工学のバランスがとれていないという問題がある。」

以上を要約すれば、1) ソフトウェアを中心としたコンピュータ技術、2) 特殊な性質を持った繊維、プラスチック、触媒、金属材料(とくに原子炉、ロケットなどのための高温、高圧に耐える金属)の開発技術(と結びついた理論)、3)遺伝子組み換え等を含む、特殊な微生物の開発(ここには食料、人口問題と関連したものが含まれるであろう)などが、重点的に技術開発が追求される分野であり、同時に、単一の専門的分野だけでなく関連領域までカバーし得る頭脳を持った技術者が必要とされており、そのような技術者の養成(及び技術・研究の推進)が国家あるいは大学に求められている、ということである。

これを後の箇所で示される総合大学院計画と比較してみると、情報システム科学系、物質科学系、生命科学系の設置構想は上の1)、2)、3)にそれぞれ対応しているし、また「学際領域」「総合的学問」の推進という構想もよく対応している。ここで取り上げた材料はおそらく必要とされている技術的開発のすべての領域については語っていないであろうし、1)~3)と総合大学院計画との一致は「偶然」なのかもしれない。そして、われわれの対応付けの仕方には多少の単純化もあるだろう。だが、それにしても、あまりにもよく対応していることに驚かざるを得ないのである。(文責・反弾連)

参考資料 76.6.15『エコノミスト』古川論文、76.8.15『エコノミスト』三井銀行調査部長の「予測」、76年版「経済白書』、77.3.25『エコノミスト 臨時増刊』佐藤論文、対談「限りなく不透明な世界景気」藤原論文、77.1.25『エコノミスト』座談会。広重徹『科学の社会史』(中公)、向坊隆、岸田純之助編<講座日本の将来>第7巻『科学技術と社会』(潮出版)、その他。

◆医療産業の動向

以上において、現代日本資本主義の課題及びその各界への要請が一定明確になったと思う。その根本は技術上の自主独立であり、それをテコとしたところの資本主義的生産力の発展、帝国主義的海外進出、国民管理体制の合理化・強化であろう。今ここにその現実化の一例を、医療システム化及び医療産業の動向の中に見ておきたい。

東大においてはかねてより、病院の合理化(コンピューター合理化)が進められており、それと闘ってきた病院の医師・看護婦・臨職・学生たちがこの問題を真剣に検討してきた。以下、その内容を若干展開してみたい。(くわしくは、コンピュータ合理化粉砕実行委員会と医療システム化公開討論会実行委員会発行のニュース、ビラ、パンフ等を参照のこと。)

病院、医療分野へのコンピューターの導入は、約10年前から始まり、現在の普及率は約30%である。また7~8年前から政府、財界による医療のシステム化が推進され、74年7月には、厚生省と通産省が軸となって「医療情報システム開発センター」が設立された。

この間、成人病やがん、そして公害、薬害などによる疾病が増大し、医療供給体制のあり方が問われてきたが、コンピューター導入と医療システム化はホスピタル・オートメーション(病院自動化)による病院合理化、管理強化と地域医療システムによる医療―人民管理強化と、国民総背番号制を意図するものでしかないことは明白である。すなわち、一つには、60年代の大規模化・中央化に伴う第一次合理化を引き継いで、各部門の集中化・効率化をコンピューターによるシステム化で達成しようという第二次病院合理化であり、また一つには、患者登録、病歴管理システムを出発点として、病院情報システムそしてデータ・バンクを完成し、地域医療システムの確立と病院・地域センターの結合の中で国民総背番号制の導入をはかる、というものである。そのモデル実験が、東大、千葉大、阪大、京大などで続けられている。

そしてこの背景には、政府―独占資本による省資源・省エネルギー産業構造への転換と知識集約型産業の育成によるコンピューター産業・医療産業の急成長がみられる。60年代の高度成長の後、政府は産業構造の転換と知識集約型産業の育成を打ち出した。74年9月、産業構造審議会から「我が国産業構造の方向」なる報告が出され、省資源・省エネルギー産業構造への転換の道が展望された。このような動向の中で約10年前から、徐々にコンピューター産業や情報科学産業とともに「医療産業」とくに、医療機器さらにその中でも医用電子機器(ME)産業の育成、強化がはかられてきた。

電子機器等の生産額は1967年の285億円から1975年には1740億円(年平均25%の伸び率)になると予想され、医用機器は同じく355億円から2163億円(年平均25%の伸び率)になると考えられており、医用電子機器は1980年代に黄金期を迎えるとともに、飛躍的な伸びが期待され、知識集約型産業の一翼を担うものと予想されている。

このようなME、医療機器とともに、医薬品、医療材料の分野も急成長しており、その背景には医療需要の拡大と医療費の急増(72年に3兆円を突破し、75年には6兆円になる)があり、「医療部門」が産業としてのひとつの市場として形成されつつあると言える。

そして近年、従来の医療機器専門メーカーに加えて、医療に直接関係のなかった弱電、コンピューター、機械、カメラなどの大手メーカーや大手商社がこぞって医療産業に進出してきている。医療産業の系列化も進んでおり、70社以上に上る医療機器、情報処理機器の中小メーカーが、今後次の5つのグループのいずれかと業務提携を結ぶものと見られている。①東芝、②日立、③日本電気、④三菱電機、⑤富士通ー島津製作所。総合商社もすべて医療事業部を設立しており、資本による系列化が進みつつある。またその背景で、医療産業に対する政府の直接、間接の助成も活発化しており、大企業の進出と、研究開発投資の増加によって、医療機器とくに医用電子機器、医療産業の市場性は急速にしかも確実に強まっている。そのため、研究開発としてのモデル実験がいろいろな分野で進められており、ホスピタル・オートメーション=全病院情報システム(HAS)の確立と、広域医療=病院用ネットワークシステム(その中には救急医療システムやへき地医療システム、広域健康管理システムなどが含まれる)の確立が目指されている。この研究開発を促進するため74年7月「医療情報システム開発センター」が財団法人として設立されモデル実験等が進められている。

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(2)社会的側面から見た資本の要請―環境問題を中心に

1)「高度経済成長」に伴う公害・環境問題の激発
水俣病、新潟水俣病、富山イタイイタイ病、そして四日市公害を頂点として、60年代後半から70年代にかけて、公害問題、環境問題は一挙に社会問題化した。これ以降、環境汚染の問題抜きに、企業活動、開発事業(=国内の再編)を推進することはできなくなってきた。
当初「奇病」として地域において差別され、切り捨て―抹殺といった状況に追い込まれながらも、粘り強く資本の責任を追及し続けた被害者を中心とする闘争によって、社会的問題となるに至った。資本家―行政一体となった闘争圧殺、公害隠ぺい策動をはねのけなければ、実態が明らかになってゆかぬということは、今もなお続いている。

だが、様々な形での公害隠ぺい工作にもかかわらず公害の激発は人民を震撼せしめ、環境汚染処理、環境保全についての広範な要求は無視できず、次の言葉にもみられるごとく、公害対策は日本資本主義にとって死活問題になっている。すなわち「地域開発計画が公害の未然防止に十分の考慮を払わないで経済性の追求に主眼をおくときには、表面的な地域の発展、および所得の増大がみられるとしても、それは決して住民福祉の増進には結びつくものではなく、出発点を誤った地域開発と言わなければならないであろう。」(『特定地域における郊外の未然防止の徹底の方策についての中間報告』72.12.18中央公害対策審議会防止計画部会)という反省を公にせざるを得なくなってきたというわけである。

2)公害・環境問題への行政の対応策―被害者間への差別・分断の持ち込みと福祉幻想への取り込み
四大公害訴訟において示されたものは、従来の法律の限界内で被害者側の主張を認めることと、公害を引き起こした加害企業の事後処理パターンであった。すなわち因果関係については疫学的立証と、加害企業の間接的反証責任が課せられることによって、立証の困難性は緩和され、企業への安全管理義務が義務づけられた。 
だが企業側は非を認め、上訴権を放棄し、判決に服するポーズの下、経営には響かぬ補償金を支払い、それ以上の補償要求をはねつけ、居直りを決め込んだ。それに拍車をかけ、被害者の闘いを困難にしていったのが、マスコミを挙げての「裁判勝利」のお祭り騒ぎであった。
確かに、裁判は加害企業を追い詰める武器とはなった―現在でもそれは有効である―が、進行する病と生活の不安を抱える被害者にとっては、恒久補償こそが勝ち取らなければならぬものなのである。この獲得に向けた自主交渉は、被害者内の分裂もあって、きわめて困難なものになっている。
上述した四大公害裁判判決によって、個別資本は安全義務を負い、賠償責任と汚染処理対策を行わなければならなくなり、資本の規模によっては限界が生じてくることへの対応策、そして直接対決を迫る被害者の大衆闘争への宥和攻撃として、公害賠償保障制度が登場してくる。

公害賠償保障制度(公害基金)は、そもそも経団連環境改善委員会の試案が契機となって立案されたもので、その主要な主張点は
〇1患者の認定やランク付けは厳正に行い、ずさんな認定を排除する必要がある。
②機械的な対象指定によっていたずらに地域拡大を招くことは避けるべきだ。
③給付内容は労災(平均賃金の6割)と四日市判決(10割)の中間で検討する。
④大気汚染系疾病には一定の割合で自然発生患者も含まれるので相当程度の公費負担は当然である。
等のことであり、公害基金は、これらが全面的に取り入れられて設定された。すなわち、制度の適用を受けるには、〇1指定地域であること、②指定疾病であること、③一定の曝露要件を満たしていること、等が必要条件とされている。
更に「指定地域の指定は一定以上の有症率、受診率を示している地域であること等、客観的な基準に基づいて厳格に行われるべき」として「救済」対象を切り縮める=切り捨てるばかりであり、また、大気の汚染と水質汚濁のみに限られ、生業被害(農漁業)やその他財産被害、騒音被害は対象外となっている。

こうした制度の目的は、総資本レベルでの個別企業の保護・防衛であり、また「認定」の過程での被害者の差別・分断と恒久保障を追及する闘争への側面攻撃に他ならないのである。このことの証左として、不知火湾沿岸で今、なお、表面に浮かび上がらぬ「潜在患者」の認定作業について、熊本県、「認定審査会」と被害者との間での攻防が果てしなく行われ、結局、チッソの企業責任がアイマイになっていくという現状がある。

四大公害を頂点とした60年代から70年代にかけての反公害闘争の全国的爆発に対し、「救済制度」の確定と、企業の安全管理義務の明確化、加害者負担の原則等が法的にも整えられることによって闘争への鎮静化攻撃を行い、あくまで、直接交渉、大衆的実力闘争を貫く部分には徹底的弾圧で圧殺していくという体制を資本・行政は築き上げてきた。

しかしながら「国民意識」における環境保全に対する意識の高まりによって、新全総そして三全総における開発前の処理は、公害防除費の増大として現れており、一方、大気汚染における自動車の排ガス規制も深刻な課題としてある。今後、日本資本主義にとって、環境問題は絶対に避けられぬ問題としてあるのだ。

3)三全総と環境アセスメント
72年6月6日の閣僚会議了解『各種公共事業に係る環境保全の対策について』以降、開発に伴う環境汚染の未然の防止ということ、そのための環境影響評価システムの確立が重要課題となっており、三全総推進に当たって、環境アセスメントによる住民の協力の取りつけを含めた対策が急務となっている。今や「高成長」は望めず、産業構造の大転換と海外侵略によって危機乗り切りを図らんとする日本帝国主義にとって、三全総による国内の再編は死活問題であり、その“地ならし”として環境アセスメント法制定と、そのごり押しを図ろうとしている。

環境アセスメント法案の問題点としては
1。評価対象の限定(公共事業のみ)と評価項目の限定(自然環境のみ)
②“一定期間(=30日)”のみに限定された形式的住民参加規程
③現行の環境基準を用いての「環境影響評価の指針」が予想されること
④「環境影響評価技術審議会」が従来の「審議会」の反省抜きに設定されていること
⑤開発事業主(国、自治体)自身が運用するといった「マッチ・ポンプ」化が濃厚
といったものがあげられ、環境影響評価の実施が経済効果をも考慮した総合的評価の一環として位置づけられており、また、開発事業の実施段階で行なうことに力点が置かれており、単に、開発に対する事前の住民協力の取りつけを行い、三全総を推進するための「法案」に他ならない。

2.24,弾圧とたたかう反公害住民運動集会が開かれ、全国各地での原則的な闘争への圧殺、開発推進の情況が報告されているが、三里塚空港開港にかけた国家権力を総動員しての強権的攻撃に見られるごとく、環境問題での地域住民の了解を取りつけたうえで、あくまでも闘う部分は弾圧しきり、地域開発=国内再編を成し遂げようとしてくるものと考えられる。
こうした現情勢の下での環境アセスメントは日本資本主義にとってぜひとも体系化し、体制を形式的にでも整える必要があるのだ。その重要な一環として、産業医大等、研究機関の設立を企図しているのである。福祉幻想へ取り込んだうえでの開発推進を急テンポで行なっているのである。

【追加】環境アセスメント法案 : 1981年に環境影響評価法案として国会に提出されたが、1983年に廃案となる。1984年に「環境影響評価の実施について」が閣議決定された。 1993年に制定された環境基本法において環境アセスメントの実施が位置づけられ、1997年6月に環境影響評価法が成立した。

(3)政治的側面からみた資本の要請―人民管理の問題を中心にして

今月(77年4月/5月)16日の朝日新聞によると広島県で新しい地域医療体制がいくつかの市町村で、行政、医師、住民団体による「地区・地域保健対策協議会」の形で進行中である、という。全県をカバーするというその内容として、救急協定、全がん総合健診、健康教育等が県、広島大学、県医師会を中心に住民との合意を礎に行なわれているという。

最も問題あるものとして「健康管理手帳」がある。それは自衛隊のある江田島町で3歳以上の子供に「健康の記録」なる手帳をもたせ、交換輸血の有無、薬物・食物の過敏症、血液型から病歴、予防接種、定期健診記録、運動機能まで細かく記録を取っている。同様に庄原市比婆地区でも、集団検診を受けた住民全員に「健康手帳」を渡し、精密検査の折に書き込んでもらうとしており、他の地区でも同様の動きがある。県も「プライバシー問題が起こらなければ、ぜひ全県に普及させたい」と乗り気であるようだ。

これはまさに国民総背番号制に連なるデータバンクそのものである。プライバシーの問題が起こればどうするというのか。即中止するというのであろうか。江田島町の3歳以下の子供のデータは1台のコンピューターさえあれば簡単にネットワークに乗るデータバンクなのである。

数年前から兵庫県氷上6町〔氷上ヒカミ郡6町は2004年合併して丹波市になった〕で行われている「健康手帳」は出産異常、精神異常、生理の異常、流産の数、病気、職業等を盛り込んだデータバンクであり、やはり行政当局(保健所)がその管理を行っており、似たような動きは過疎地域や島での医療システム化に、はっきりと見て取れる。

日本医師会の武見会長はコンピューターマインドの下に包括医療という名目で予防医学からリハビリまで、地域医療にコンピューターセンターを置いて地域人民管理を行う方針を打ち出している。大学レベルでは、阪大の阿部、東大の渥美〔医学部長〕、開原らの犯罪的コンピューターイデオローグが、国家企業と癒着し、患者人民のデータバンク作りにいそしんでいる。

現在の不況下で一番勢力を伸ばしているのが、製薬企業と並ぶME・コンピューター産業であり、厚生省・通産省、労働省の強力な指導の下、大病院、企業から地方行政体に進入し、人民管理をやろうとしている。それが駒込病院の処方箋、京大病院の統一カルテに見られるコンピューター導入であり中野区をはじめとする各行政体への住民マスタープランを目的とした個人コード=国民総背番号制の導入である。

70年2月行政管理庁が中心になり「七省庁電算機利用打ち合わせ会議」が「行政情報処理高度化に関する運営方針」を決めたが、その中心が「事務処理用統一個人コード設定の推進」であった。
翌年住友電工会長の北川を長としたコンピュータリゼーション委員会(委員は東大の渥美の他、松下工業重役、通産省役人、電電公社部長ら)において、1980年を座標に置いた「80年情報化社会への道標」(新しい国民目標を目指して)を出した。それによれば目標として次の10の具体的ターゲットを設定している。
すなわち、①TSS(コンピューター共同利用)、②全国情報ネットワークの形成、③行政合理化、④コンピューター志向教育、⑤医療の近代化、⑥公害の防止と制御、⑦自動車自動識別、⑧経営情報システムの利用、⑨流通機構のシステム化、⑩コンピューター・マインドの定着。これはまさに国家・企業による完全な人民管理体制であり、特に問題なのは「引き金要因」として、この中で、1。医療のシステム化、②行政データバンクを上げ、どれも社会的ニードが高く、抵抗が少ないからであると言っている点である。

昨年より、政府は「データ保護法」を持ち出しているが、実は誤ったデータ化や目的外の利用を防ぐのが主目的で、プライバシー問題は避けており、いずれにしても国民総背番号制はもう完成していると言われ、警察権力、企業内弾圧としてある刑法改「正」・保安処分の粉砕闘争をも戦い抜く中から、人民弾圧に抗して闘おう!

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第二節 総合大学院設置計画における各「系」の分析と批判

(1)情報システム科学系

総合大学院は「既存の学問的体系にとらわれず、新しい学問的要請に応じて編成され」(改革室49・2・19)「学際領域」「境界領域」の学問を「全体の学問の状況を見直しながら、個別研究教育を進めること」(報告書50・1・24)とされている。そしてその全4学系のうちのひとつに「情報システム科学」が置かれている。

1)「情報システム科学」は「学問的要請に応じた」ものか
全体の4分の1が「情報システム科学」であるというその比重の異常な大きさを問わないにしても、まず第一に指摘しなければならないのは「情報システム科学」が「学問的要請」に応じてできた「学際領域」の「学問」では決してない、ということである。
情報科学・システム工学の発生は、第二次大戦中の純粋軍事研究と戦後の米国の大企業での経営戦略の中から生まれてきたものである。統計解析、オペレーション・リサーチ、プロセス制御、データ処理、等々、ほかにいくらでもあるが、これらすべては、元来、大企業と軍の要求から生まれ、大型電算機の実用化を推進力として発展した「学問」である。そしてそれを支えてきたのは、主要に、米国の、官・産・軍・学の研究者の協力体制であった。このことは他の学問では類例がないくらい著しいものである。したがって歴史的に見ても、「情報システム科学」は学問の要請によるものではない。

2)「情報システム科学」は「学際的」か
さて「学問」が人間の社会的実践の理論的総括であるとするならば、いま必要なことは「近代の学問」が人間の労働実践と乖離し、ますますもって人間の有機的な生活と労働を分断し、技術的操作の対象としてきたことに対する反省であろう。もしも「学際」とか「統合」とかに意味があるとするならばこの乖離と分断を克服する方向においてでしかない。つまり有機的な人間の生をそれとしてとらえる方向においてである。

近代社会では、労働力が商品化され、人と人の関係が物と物との関係に、商品と商品の取り結ぶ世界であるかのようになるに応じ、近代の学問もまた人間を物と見、人間の生活を物の活動として客体化し、その個別断面を分析することに没頭してきたのである。そして、芸術から消費生活に至るまで、ますます多くの生の領域が物として商品世界に組み込まれるのに応じて、より多くの生活領域が学問対象として取り込まれていった。

そして今「情報」が「物」と「人」についで商品化された結果、「情報科学」なるものが生じているのだ。例えば日本ユニバック総研発行『総合コンピューター辞典』では次のように語られている。 「---企業体において『資材』『人』『もの』など有形の『もの』の管理の必要性は旧くから認識されていた。---これら『もの』の管理技術は『もの』の動きに伴って発生する『情報』のマネジメントを除いて考えることができない。企業体で発生し処理されるべき『情報量』は爆発的に増大し、たまたま軍事用途を目的として作られた電子計算機がこれら情報のマネジメントのためにフル活用されるようになったのは当然であろう。情報の多様化、多量化、複雑化が計算機の発達を促し、逆に計算機の進歩が情報そのものの高度化を進めてきた。 ---『情報』そのものの価値が、いまや『もの』の流れと切り離された形で認識され、そのために各企業が多額の投資をすることに逡巡しない。」

したがって人間の社会的活動を「情報」として一面的にとらえ、情報を自存的事物とみなす点で「情報科学」は「総合」よりはむしろ「細分化」の方向にしかないのだ。
ただ近代物理学の一定の成功の中で、その分析と数量化による数学的処理の方法が、あたかも学一般の理想であるかのようにみなされ、生物学から社会学や近代経済学にまで数学的処理のテクニックが適用されるに及んで、そのテクニックの汎用性が「学際的」の見かけを作っているに過ぎない。

3)資本の側からの要請
このように「情報システム科学」がいわば産・軍・官の要請から生まれ、またそのテクニックが汎用性が高いということは、裏返せば、それが「近代の学問として」利用しやすく、体系化され、またそのための高等教育が定型化されるということに対する要求は極めて大きいことでもある。
とりわけ高度成長の終焉の中で、帝国主義列強の攻撃に抗して延命を迫られている日本資本主義にとって、このことは緊急である。通産省への産業構造審議会情報産業部会の中間答申(74.9.27)は次のように主張している。「---このような変化〔つまり高度成長の終焉〕に対応して、現在わが国の産業構造を知識集約的、省資源、無公害化の方向に転換することが要請されている。コンピューター産業を中核とする情報産業は、それ自身この典型であり、かつ産業構造をこの方向に推進する成長力の強い中核産業である。」
資本自由化の攻撃の中で、世界市場の60%を占有するIBMをはじめとする米国企業に対して、通産省が最後まで抵抗を試みたのがコンピューター産業・情報産業であったが、ハードウェアについては’75年末に、情報処理については’76年4月に、それぞれ100%自由化された。その間にハード部門については、政府の強力な育成策で、日本の情報産業は一定程度のレベルアップを遂げたが、ソフト部門の立ち遅れとそれを支える高水準のエンジニアの不足は歴然としている。

「---現在わが国と米国の情報化格差の中でソフトウェアの較差が相対的に大きいと言われ、この面での是正が強く望まれている。また、我が国においては、情報処理技術者の不足が著しく、このままではソフトウェアの開発及び情報処理の発展の上に大きな隘路となる恐れなしとしない。」(通産省監修『コンピューター・ノート』1976年版)
と通産省自身、正直に認めている。

その意味では、総合大学院構想の「情報システム科学系」がハードウェア部門の講座を完全に欠落させているのみならず、「大学院教育体系の充実すなわち研究者の要請に重きをおいていること」(改革室より)はまさにこの通産省の要求に対する「前向きの回答」なのである。また大学院生の25~35%を「生涯教育」〔要するに大企業からの派遣〕に割り当てているのも、この意向に沿ったものである。

大学院生350人中、約100人が企業の人間ということはそれだけでも相当なことだが、大学院に院生として社員を派遣できる企業は大企業に限られている。(中小企業にそんなゆとりは全くない。)
また、現在、大学のポストを求める博士課程枠があぶれて、今後も改善される見込みがない中で、あらたに大学院を設置すれば、その行先を民間企業と想定しているとしか考えられない。
その場合、博士課程卒の人間を採用できる企業はこれまた大企業でしかないであろう。これらを考えあわせるとき、いったいなんのための大学院かは歴然としているであろう。(もちろん、総合大学院設置の時点で、現在すでにだぶついているオーバー・ドクターのはけ口を作ることになるのは当然で、またそのことはボス教授の地盤拡大にもつながり、このようなメリットが現存する研究者の賛同を得る上で大きな要因となっていることは疑いない。)

4)研究者からのメリットは?
ところで「情報システム科学系」の構成は
A.情報システム、B.情報処理、C.応用情報システム、D.社会システム、の4部門、全体で25講座が当てられている。このうち主に A. B.は民間企業が力を入れ、D.は官公庁からの需要が大きく、いずれも問題は原理的なことではなく、もっぱら応用のテクニックにある。C.は学問としても技術としても現在極めて低水準で、今後の見通しにおいても多分そうであろう。

いずれにせよ、これらのほとんどが「研究をする」といったところで、個々の現実の問題にどのように適用するのが効率的かというレベルの問題であり、現実にはシステムエンジニアやアナリストの養成としてしかあまり意味を持たないであろう。そのことを問わないにしても、また仮にこれらが学問として意味があるとしても、これ全体で25講座、教授、助教授、計50人とはいくら何でも法外である。せいぜいこの4部門でそれぞれ一つずつ4講座もあれば―この分類の仕方を仮に認めてのはなしだが―全く十分である。だいいち、例えば、A.のうちの「情報システム制御論」だけを研究する研究者はありえないし、またそれだけを5年間も大学院で学んだ人間などと言った者は全く現実離れしている。

そこには、一方では、通産省や文部省や民間大企業の要求に迎合しつつ、同時にやみくもに地盤の拡大を狙うボス教授のあさましい姿しかない。
    *           *         *

ともあれ、現在10学部よりなる「総合大学」が閉鎖性・排外性のなかで、何一つ「総合」に値することがなされていない中で「何のための学問か」に対する反省もなく、官庁と財界にばかり顔を向けてきた東京大学が、いまその上に総合大学院―キング・オブ・キングズーを作っても、その行き着く先は見え透いたことである。  (執筆者 Y.Y.氏)

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(2)地域環境科学系


1)地域環境科学の「要請」
高度経済成長期における資本の利潤の追求、またそのさらなる飛躍化を保証すべく各地で展開された開発行為は、環境破壊、地域荒廃を一気に顕在化させた。一方この現状を前にして住民レベルから巻き起こった住民闘争ー地域闘争の高揚により、資本による地域支配が厳しく批判されるに至った。加えてオイルショック以来の経済状勢の変化に伴い、資本の側からもこれまでの支配パターンがもはや、有効な手段として位置づけられなくなりここに新たな論理と手法の構築の必要性が重視されてくる。

国策レベルでの新全総から三全総への転換はまさにかかる状況を背景として登場するのである。しかし三全総が(その個別具体的な方向性への検討・批判はここでは割愛せざるをえないが)これまでの開発論理体系をそのまま踏襲し、ただ手法上の対策に終始したものにとどまっている。支配関係を温存したうえで、その隠ぺいを図る「福祉充実」の掛け声然り、不確定要素の中で住民の反対エネルギーの消耗化を狙う「環境アセスメント」の導入然り、である。これら手法上の巧妙化に伴い、残る開発主体者の不安は、これを支えるあらたな論理、新たな科学の欠如にある。

一方、審議会と言う名の下に、開発者の知的ブレーンを構成し、開発に積極的に参画、奉仕してきた東大教授をはじめとする「科学者」たちにとっても、理論の欠如は同様に認識されていた。彼等が、一方的に「無知」だと規定していた住民の実体験に根差した鋭い論理攻勢に対峙したとき、自己の論理が次々と破綻してゆき、ついには自己批判を余儀なくされていったことは、科学者としての存在自体を危うくするものとして、深い焦燥感を与えて余りあるものであったろう。

かかる状況への反動こそ筑波大学で、かつまた東大における総合大学院構想のなかで「地域環境科学」なるものが登場するに至った経緯なのである。

2)設立の主旨
地域環境科学系設立の主旨としては、その前段階構想に当たる環境科学系に次のような位置づけがなされている。すなわち
「現代において、人間の生存を脅かすまでに至った環境破壊の激化と、その認識不足との間隙はますます拡大する一方である。かつかかる環境問題は今後顕在化の予想される事態のほんの氷山の一角にすぎず、人類進化の極限的状況において生じた歴史的病理現象である。」(学内広№.271より抄録)

この一見、おおぞましいほどに気負いの感じられる文章に続いて、現状況が急速かつ無秩序に発展していった科学技術・産業社会の自業自得的帰結だという一定の反省がなされる。
ここにおいて、資本に一方的に奉仕し、現在の諸問題発生の原因を作り、さらにそれを隠ぺいすることに狂奔して、住民運動圧殺の原動力となってきた現状の「科学」なり「技術」なりを、その根源から問い続けることが必然的に要請されることになる。かつこうした「科学」「技術」の自己批判後のありかたは、住民の論理的反対論の中にすでにかなりの具体性をもって提示されてきているのだ。 しかし、このわれわれの期待は完全に裏切られざるを得ない。少々、引用が長くなるが、続く一文を紹介することにする。

「今や科学のなすべき重要な仕事は、現代社会が悩まされている高度に複雑な問題、とりわけ生命系の存続にまでかかわる深刻な環境問題を、人間環境系並びに地球生態系という全体観に立って、それを地域的に比較研究し、その成因と過程との究明につとめるとともに、人間環境系の発展に寄与することである。」
つまり「科学」が惹き起こしてきた諸問題・諸矛盾の解決を再び「科学」の枠内に閉じ込めたうえで「研究」を進めて行こうとする態度をここに明瞭に読み取ることができよう。これは、これまでの個々の「科学」「技術」体系では対処しきれなくなった問題を「学際的・総観的研究」により覆い隠そうとするものであり、ここに前節でみた開発手法の巧妙化を補完する論理の巧妙化が着実に指向されているのである。

3)具体的構成内容の検討
これまで見てきたように「科学」への痛烈な批判から発生したものであるべき「地域環境科学系」の設立が、実は根源的には全く無反省な「科学」の自己防御に過ぎず、かつそこに政治的意図がかなり露骨に介在しており、現状の諸問題を解決するどころか逆にそれを隠ぺいする側にあることがわかった。次にその構成内容をやや具体的に検討してゆくことにより、上記の指摘をさらに明確にしてゆきたい。

同系の構成は、基礎分野としての自然環境論、社会環境論と、応用分野としての環境管理論、地域環境計画論からなる。各分野ごとの内容を簡単に紹介すると、
1.自然環境論:環境を系統的に把握するための基礎的情報の提供としての「環境原論」のほか、大気、水、土地、海洋の各環境論、および環境と生物活動のメカニズムを探る「自然生態学」よりなる。
2.社会環境論:1.が自然科学面からの環境把握であるのに対して、環境内における人間生活の分析を主目的としており、地域の原理的把握を目指す「地域学原論」、「地域社会学」、地域の計量的分析を目標とした「地域解析学」、法的側面から「環境法原理」、その他地域活動と自然的・社会的環境の関連を追求する「社会生態学」よりなる。
3.環境管理論:より具体的に環境を把握し、「管理」していくことを目的とし、その基本的調査・解析法の確立を目指す「環境管理原論」、政策的探求として「環境政策論」、国土防災の面から「国土保全論」、生態系の管理をはかる「環境保護論」、エネルギー面から「エネルギー環境論」、物質代謝の環境への影響を考察する「物質環境論」
4.地域環境計画論:地域計画を実際に計画してゆくうえで「地域環境計画原論」に始まり、居住空間に焦点を当てた「居住環境計画論」、都市、農村、漁村の計画設計をはかる「地域環境計画論」、国土スケールからの「国土環境計画論」、さらに国際的視野からの「国際環境論」

以上、はなはだ駆け足にその内容を追ってきたが(そのより詳細な検討は次の機会に譲ることにして)これらを概観しただけでも、いくつかの問題点が浮かび上がってくる。

第一に、これらの聞きなれぬ諸分野の内容がこれまでの、そしてもろもろの問題を引き起こしてきた「研究」分野からその体質をすっかり受け継いでいるという点である。つまり地域なり環境なりを、さらにはその構成主体である人間や生物系を一貫して、研究、把握、管理、計画、更には支配の対象として位置づけていることである。

第二に、これらの管理、計画が誰のためになされるのかという点である。管理し計画する主体が、敷衍するなら「地域環境科学」という新たな科学の主体が真に地域住民の側にあるなら、まず第一に誰にでも理解できるわかりやすい形で提示されてゆかねばならない。むやみな計量化やシステム化は、単に知的欲求を満たすににとどまらず、住民対策の有効な手段となり得ることを忘れてはならない。

第三に、この点が最も重要な点であると思われるが、現存する問題点を解決してゆくには一般論の原理的追究では何ら役に立たないということである。一つの地域構造の把握は決して一朝一夕に求まるものではない。にもかかわらず同科の設置計画を見ても、原論から各論へという流れをくんでいる。(ただし、真の意味での各論び相当するものは見当たらないが。)

「地域環境学科」の設立当局も認めているように、現存する諸問題の解決や、さらにはその問題点の深化の危惧から生まれたものであるなら、各論の真摯なそして徹底的な追究の上に、崩れ去った原論の再構築が必要なはずである。かつ現状はそれを緊急に要求しているのである。

4)地域科学の確立へ向けて
総合大学院の中に位置づけられようとしている「地域環境科学」なるものの実態とその問題点の一端を、不十分な形ではあるが分析してみた。今後もさらにこの構想の持つ問題点、危険性を追及していかねばならないが、それと同時に真の意味での地域科学の確立を目指していかねばならない。その具体的プログラムはまだ模索の段階ではあるが、現場での運動の中でゆっくりとではあるが、着実な新たな「科学」への胎動が始まっている。

地域から提案されてきた問題解決の糸口は決して大学の中にあるのではなく、地域の中にこそ存在しているのであり、それを地域から学び取っていかねばならぬ限り、再び、そしてより複雑な問題を惹き起こしてゆくのだということを、最後に今一度繰り返しておきたい。    (執筆者J.U.氏)

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(3)生命科学系

あらゆる科学の近代化の過程がそうであったように、生物学の発展は、生物にかかわる諸現象の解析を通して推進された。本世紀に入って行われたホルモン、酵素、核酸などの発見と、その化学的構造や作用のメカニズムの解明は、生化学の分野において、分子生物学のはなばなしい発展をもたらした。
そして極論するならば、あらゆる生物的諸現象は結局のところ、すべて遺伝子の本体とされる染色体上のデオキシリボ核酸の直線的な配列の仕方に帰することができるし、また、デオキシリボ核酸によって諸現象が解明できれば、それで「我がこと成れり」という風潮が1960年代の生物学界を席巻した。こうした風潮から、分子生物学的手法によって、すべての生物的現象=生命現象を説明しようという学問的潮流が産み出された。これがいうところの「生命科学(Life Science)」である。

したがってここにおける生命観は、生物を外面から眺め、その諸現象をトータルに理解しようとした、古代ギリシャから近代生物学初期にかけての生命観とは異なる。生命現象にかかわる諸要因を分子のレベルまで解析し、それらよりなるシステムとして、生物を理解(というより規定)しようとするのであり、それは生物諸現象を人為的に制御(管理)するという志向性を持つ。
このような生命科学の成立が生物化学の内在的な発展によってのみ規定されたものではなく、いわゆる生物工業(食品、医薬品など)の発展と、その技術的要請からも規定されていることは言うまでもない。

総合大学院構想における生命科学系は、このような歴史的背景を踏まえて提起されている。すなわち、総合大学院専門委員会報告書(75.1.24)によれば、生命科学とは「物理・化学を基本とし、この上に建てた新しい生物学で、人間の福祉を志向するもの」とされ、「職域を意識した」(農・薬・医のような)ものでも、「アカデミックな」(形態・生理・生化学のような)ものでくくられるものでもなく、「いわば第三のヴェクトル」によってくくられる分野であるとされている。すなわち、このように学問の方向性を設定することによって、生命科学は極めてイデオロギー的に定義づけられるのである。

生命科学系は、現在までに報告されている最新案によれば、分子生命科学、生体機構学、集団生命科学、生体システム学の5分野よりなる。この分野の設定は前述した生命科学の内容をきわめてよく表している。
分子生命科学においては、生体内諸機能にかかわる物質の構造とその作用のメカニズムを解明し、そしてここで解明された機構、機能をより高次元の生体レベルにあてはめ、そこでの現象を分子のレベルで解明されたものに帰納させようとするのが、生体機構学であり、生体制御学である。
これらは究極のところ、個としての生体と、個の集合としての集団をシステムとしてとらえ、規定することを目的とする。これが生体システム学であり、集団生命科学である。そしてこの中で、生体(人間をふくむ)の機能、行動、材料、をいかに制御しうるかが検討され、集団の大きさ(人口問題を含む)、環境、生物資源などの制御が追究されるのである。

生命科学の先駆的成果としてあった、医薬品、農薬、人口食品などが、健康破壊、自然環境破壊という深刻な事態をもたらしていることは周知であるが、これは極めて限定された生命現象の諸要因から出発したモデルや見通しの不十分さと基本的な誤りを示しているものである。

総合大学院構想における生命科学の発想は、こうした技術体系が内包する欠陥への、根底的な批判から出発したものとは考えられない。ましてここで目的とされる「人間の生存と福祉」(前述報告書)が、資本の利潤を尺度として規定されている社会の現状を考えれば、生命科学がデーモンの技術を補完し、生み出すことになるのは、ある意味で必然であろう。 (執筆M.N.氏)

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