以下で東大闘争の全体像を私なりにまとめ、全共闘の闘いが正当なものだったことを明らかにしたい。なぜ「東大闘争の過程とその正当性」を書くのかについては、第二ステージ 第一部「大学に入ったけれど」の最後の節「なぜ、今、東大闘争について書くのか」を参照してほしい。
以下で述べる、1968年6月20日全学集会以降から翌年春までの「東大闘争」の経過、あるいはその中で起こった出来事のほとんどは、
東大全共闘編『砦の上に我らの世界を』(当局の配布した文書や全共闘派の人びとの配布したビラなどの資料に基づいて東大闘争をまとめたもの、以下では『砦』と略)、東大闘争統一被告団(自立社)資料編集委員会編『資料・東大裁判闘争』、東大闘争統一被告団・東大闘争統一救対・東大闘争弁護団編『東大1・18、19闘争裁判冒頭陳述書』自立社、山本義隆『私の1960年代』金曜日(以下では「山本」と略)、折原浩『東大闘争総括』未来社、小熊英二『1968』上、下;新曜社 による。
見出し
'68.6.28総長会見
「連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する」
「全共闘」の結成と「七項目要求」
医学部処分の不当性
文学部処分の不当性
「8.10告示」とその批判
医学部当局の闘争切り崩し、収拾策動と医局封鎖、そして全学バリケード封鎖へ
精神科医師連合(精医連)の結成
工学部原子力工学科の「スト実」そして私
原子力工学科のバリケード封鎖と自主講座
大河内執行部の退陣
加藤新執行部登場
林文学部長と文共闘との「8日間団交」、卑劣と傲慢が同居する林=文教授会
日共=民青との衝突、ゲバルト
暴力の行使について
反百年祭闘争に対する文教授会・今道執行部の暴力的対応
'68.11.18 全都総決起集会と加藤代行との「予備折衝」
加藤執行部の「学生諸君への提案」と文学部処分問題
藤堂文学部教授の東大裁判「特別弁護人申請理由書」
加藤総長代行、「学生諸君への提案」で文処分撤回を拒否
文学部仲野君処分についての第三者の見方
加藤執行部の収拾策動、民青と右派の「統一代表団」選出の動き
文部省と東大当局が協議、加藤「東大の危機」と煽り立て、全共闘「全国学生ゼネスト」の呼びかけ
69年1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部代表団と加藤執行部との「全学集会」
ラジオで民青と対談
1月10日夜今井澄氏とともに安田講堂防衛
当局の「退去命令」と機動隊導入、1.18~19国家権力との直接的闘いへ
1.18~19安田講堂防衛戦
安田講堂防衛戦後の闘い
原子力工学科スト実の「自主卒論」
通産省への入省
通産での組合活動?
当時の原発/反原発をめぐる状勢と私の認識/認識不足
60年代の司法の反動化 補論
小熊英二の東大闘争批判への反論 (工事中)
6.20全学集会で選出された代表団は総長団交を要求したが、翌日、拒否の回答を得た。ところが25日、大河内総長は、文学部、教養学部等においてスト体制が組まれつつある闘争の進展を看取して、28日に「総長会見」をおこなうと発表した。『砦』p79~80
学生側は「総長会見」を、処分撤回、機動隊導入自己批判等を要求する「大衆団交」に転化することを目指し、「6・28安田講堂内大衆団交要求総決起集会」をよびかけた。これに応えて、6月26日、27日、文学部・経済大学院、新聞研研究生は次々に無期限ストに突入した。同p82
だが、6月28日「会見」に現れた大河内総長は、学生側司会の質問と追及に何も答え(られ)ず、30分ほどでしどろもどろになり、付き添ってきた教授が「少しお疲れなので休憩する」といってひっこんだが、それっきりになった。山本p127f
私もこの「総長会見」の場に行き、責任逃れの弁に終始する総長の情けない姿を見た。しかしまだ私は「観衆」の一人でしかなかった。
山本によれば「総長は会見を終了したのではなく、休憩と言って退場したので、われわれは再開されるのをこの場で待つのだ」と、そのまま安田講堂に座り込むことになった。7月1日、居残った2百数十名の「10時間にわたる激論を経て、2日の昼に本部封鎖実行委員会を結成し、夜に封鎖を決行することで、全体の意思一致」がなされた。またこの「約2百数十名の本部封鎖実行委員会が東大全共闘の第一歩になった」という。
この安田講堂再占拠に先立つ6月15日の段階(*)で、山本たち「理学部、工学部、経済学部、文学部の大学院生は全学闘争連合(全闘連)を作っていた。全闘連は総長会見中断後に、講堂内無期限集会を訴え---た。」山本はベトナム反戦会議のメンバーで、彼らが「全闘連の中軸を担」っていたという。山本p129.
(*)医学部全学闘のメンバーによって最初の時計台占拠が行われたのと同日の6月15日、日比谷野外音楽堂で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する市民集会」が開かれて、1万名が参加した。その後、デモが行われたが、既成政党主催の「統一行動」とは異なった、参加団体の独自性が認められたデモであった。
東大からは、新聞研、人文系大学院、青年都市計画研究者連合有志、社研助手会有志、経院の青年研究者、東大ベトナム反戦会議、6.15理学部、法学部、文学部実行委の「九者共闘」が「銀杏並木集会宣言」を行い、上記「市民集会」に参加した。これらの団体は、医学部における闘争を支持しており、医全学闘の(第一次)時計台占拠を支持した。「九者共闘」は17日に会議を持ち、全学闘総連合(全闘連)を結成し、6月20日の全学ストを呼びかけた。『砦』p61~70
なお、この6.15の「市民集会」は「反戦・反安保行動」とだけ書かれているが、「ベ平連ニュース」第32号(68.5.1)では、
「6月を反戦と平和のために「ベトナム反戦全国行動」の呼びかけ」を行い、とくに6月9日(日)と6月15日(土)に全国各地で大規模行動を起こす。ただちに統一スローガンを決める、等としており、また、第33号の「ニュース」では
集会後、首相官邸等を通るデモを行う。集会とデモの統一スローガンは「アメリカはベトナム戦争を即自全面中止せよ」の一本だが、参加グループ、個人はこれに加えて、自由に自己のスローガンを選択し表明することができる、等としていたので、この日の「市民集会」とデモはベ平連の呼びかけによって行われたものだった。
「ベ平連ニュース」は
<吉川勇一の個人ホームページ >http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Newtopright.htm
→「リンク」→ 「旧「べ平連」運動のデータベース」 http://www.jca.apc.org/beheiren
→旧「ベ平連」運動の情報ページ >(3)「参考文献・資料集」 →「ベ平連ニュース合本」pdf(約860p)
7月3日、工学部学生大会、3日、4日、教養学部代議員大会・学生投票によって、時計台封鎖闘争は圧倒的多数の支持を得た。併せて工学部は3日~10日間の長期スト、教養学部は7月4日から無期限バリケードストライキに突入した。
「連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する」
7月3日、東洋文化研究所助手15名中10人が連名で「新たなる大学自治創出のために―われわれはかく考え、かく闘う―」というアピールを発表した。
「今回の警官導入に関してあらゆる者が「大学の自治」擁護を叫んでいる。」だが、その内実は、「現在の国家権力にとって我慢しえない程度まで危険な研究、危険な教育がおこなわれていないためにありがたくもお目こぼしの栄誉に浴しているに過ぎない」範囲の、研究・教育における「教授会の自治」であり、また、「文部省官僚と総長の牙城」であり「学内の全支配・抑圧機構の中枢」である「時計台」による「大学管理の行政面」における強権的な権限行使に他ならない。
「そしてこの学内支配機構は〔学生に対して〕事実無根の暴力行為を名目とした大量処分を一方的に押し付け、明白な事実誤認に対しても一切関知しないという徹底的な抑圧者として存在してきた。大学当局はこの行為をすら「教育者」の「被教育者」に対する「教育的関係」とする恥知らずな主張を行っているが、ここに見られるのは支配-被支配の関係以外の何ものでもない。
そしてその関係たるや、被支配者に対する刑罰が、弁護や証拠調べ抜きの秘密の審査によって定められ、不服申し立て・再審査のプロセスは全く想定されていないという、恐るべきものである。理性と合理性の府と称する東京大学の支配機構の本質は、一皮むけば、地上のあらゆる階級的支配のそれと同じく暴力そのものなのだ。
一切の話合いによる解決が拒まれ、発言の場を有さない学生にとって、最も直截的な抵抗として、被支配者の最後に残された最も鋭利な武器である暴力を用いるのは必然であり、それはまた直接民主制への志向を内包し、学内における抵抗権のありかたを生き生きと示したのである。」
中略
〔時計台占拠はこうした東大当局に抗議し処分撤回を求める医学部学生の支配・抑圧機構の中枢に対する攻撃であった。だが、当局は国家権力・機動隊の導入をもってこれに応えたのだ―須藤〕
「我々もまた、警官隊導入に端を発する今回の危機的状況によってはじめて「自治」の実態たる学内支配の腐敗と退廃を深刻に意識し、これと闘おうと決意するに至ったのである。医学生諸君の闘いを孤立させてきたわれわれの精神に、惰眠を貪っていた退廃部分があったことをわれわれは否定しえない。--------
6.17以後の過程においても必ずしも十全に闘ってこれたとは断言できない。しかしながら、この文書を発表することによって、われわれは一つの選択を行ったのである。われわれは今後学内の真に闘う部分に徹底的に依拠しつつ、大学に生きる限りでのわれわれの存在のすべてを賭けて、新たな大学自治の創出のためにわれわれに可能なあらゆる方法によって闘うべき地平に、我々自身を突き出したと考える。
完全な勝利は全体制の変革される日まで実現されず、またそこに至る途上には、国家権力との、あるいは反体制運動内部の官僚どもとの、熾烈な戦いが予想されるが、われわれはこの目標を目指して力を傾けるであろう。
われわれは連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する。」『砦』p104~109、改行、段落付けは須藤
後に有名になったこの言葉がこの時初めて登場した。小熊によれば、のちに助手共闘の中心になった教養部助手の最首さんは「ぼくらの運動観の中心をなすものは ”連帯を求めて孤立を恐れず” につきるのではないか」と述べたという。小熊、上、p719『砦』p104~109
‘69年4月に東大全共闘編『ドキュメント東大闘争 砦の上に我らの世界を』が刊行されたが、その「序文」のなかで山本義隆が次の様に書いている。〔改行は須藤〕
「-----いま東大闘争を過去形で語ることは許されない。しかし総括は常に必要とされ、その上で闘争の展望が語られねばならない。-----いまわれわれは東大闘争の真の姿と目的を、何が問われ、何が答えられたのかを、いかにして戦線が構築されたのかを、全人民の前に明らかにする必要があると考える。恐れることなく真実を語って、全国の労働者・農民・市民・学生に対して連帯を求める。
なかんずく1月18・19日の両日の血の弾圧を闘い抜き、今なお獄中で闘い続けている全国の闘う同志諸君は、全国学園闘争のかぎりない発展を込めて東大に結集した。いまわれわれは彼等の闘いに報いなければならない。われわれはここに一年間の東大闘争の本質を、それが歩んだ長く困難な闘いの軌跡をドキュメントという形において発表する。東大全共闘が、またそれに結集した学生・大学院生・研究生・助手・医局員が、その全存在を賭けて提起したものをあらためて追体験してもらいたい。言葉で語ればキザになるが、現実にわれわれは社会的・精神的生命のみならず肉体的生命までも賭けて闘い抜いてきた。われわれにとっても先は長い。さらに困難が行く手に待っている。
『完全な勝利は全体制の変革される日まで実現されず、またそこに至る途上には、国家権力との、あるいは反体制運動内部の官僚どもとの、熾烈な戦いが予想されるが、われわれはこの目標を目指して力を傾けるであろう。』
われわれもまたこのドキュメントを顧みて、いままでのわれわれの不充分性を徹底的に検討し、実践的に克服するつもりである。そういうものとして、本書に接するすべての人々は、われわれの一年間にわたる戦いが問いかけたものと真剣に対決してもらいたい。
『われわれは連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する。』
1969年2月15日 山本義隆
本部事務は封鎖されたが、講堂・会議室、総長室などは「解放された」。安田講堂の入り口にはバリケードがあったが形だけで、訪問者はだれでも入れた。この「解放」された安田講堂の中では、毎週火曜日に自主ゼミが開かれた。「高校生の集会にも会場として講堂を解放し、あるいは反戦集会を開催し、三里塚の空港建設反対同盟の人に来てもらった」。また講堂前の広場には、理学部と工学部の大学院生を中心としたテント村ができた。山本p134
7月5日には、本部封鎖支持の集会が開かれ、全学から4,000名の学生が結集した。そして、その場で東大闘争全学共闘会議の結成が大衆的に確認された。
「共闘会議ニュース」No.1末尾の(付)「薬〔学部〕を除く九学部のスト実、医学部全学闘〔*〕」の学生と「経院自治会、新聞県研究員自治会、工学系、全闘連」の院生・研究生の「四組織、計13の団体によって構成されている」とある。
*注)医学部では、1968(昭和43)年1月29日に、医学部学生4世代と、42青医連(昭和42年度卒業生)の合わせて五世代が「登録医制度反対」「研修三項目獲得」をスローガンに掲げて無期限ストに突入した。M4=医4年生クラスは卒業後に43青医連となる。このスト宣言と同時に全権が、各世代30名の執行委員からなる「全学闘争委員会」に委任された。
さらに、闘う組織として41青医連、40青医連入局者会議、そして駒場から進学してきた医学部1年生へと8世代がストに突入した。『砦』p9f、p25f
全共闘の「七項目要求」
7月15日、東大全共闘は代表者会議を開き、7項目の基本的要求を確定した。
7月16日、全共闘は、「共闘会議ニュース」第一号を発行し、その中で「七項目要求」を掲げ、全学無期限ストを提起した。
その七項目とは
1.医学部処分撤回!
2.機動隊導入自己批判・導入声明撤回!
3.青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ!
4.文学部不当処分撤回!
5.一切の捜査協力(証人・証拠等)を拒否せよ!
6.1月29日よりの全学の事態に関する一切の処分は行うな。
7.以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ。
だった。
『砦』p110~113
医学部における研修協約闘争と闘争弾圧の「処分」
医学部闘争、前史、第二次研修協約闘争
明治期以来の日本の低医療費政策、すなわち「政府が開業医を医療の主たる担い手とする一方で、診療内容及び診療費を統制することによって医療の供給とその費用に関わる政府の負担を軽減し、医療機関及び患者に転嫁する政策」の下で、全国の大学医学部では、医学生が卒業後不安定な身分のまま無給で働かされていたインターン制と呼ばれる、研修制度がとられていた。
1954(昭和29)年、全国医学生連合が結成され、医療制度の問題・矛盾の構造的解明がすすめられ、1965(昭和40)年3月卒業生は、インターン制度の廃止を目指す闘争を行ったが、「国家試験を受けさせない」という恫喝により闘争は失敗した。だがその後も、卒業生は制度の改善を求めて年度ごとに青年医師連合(青医連)を結成して大学と交渉を続けていた。
66年、東大の41青医連は、インターン制の廃止と研修先の病院を学生の自主的配置計画で決めてほしいと要求し、医師国家試験をボイコットする戦術に出た。
67年1月に、42青医連の東大支部は自主カリキュラムや病院での研修受け入れ態勢などについて協約を結ぶことを要求し、卒業試験と国家試験をボイコットする、無期限ストに入った。(第一次研修協約闘争)
67年8月健康保険特例法が国会で強行採決された。これは、重化学工業部門への資本の集中と三次防の軍事予算を巨大化し、医療部門への政府負担を減らすこと、そのために公的病院の経済的自立化・営利化を進めることを意図したもので、「受益者負担原則」による患者の負担増、また公立病院の差額ベット大幅増加など、医療の改悪をもたらすものであった。
こうした医療の改編と関連して、厚生省は、安上がりな医師労働力を確保するためにインターン制度にかわるものとして「登録医制度」を打ち出してきた。これは卒業後2年間、大学病院及び指定された大病院で臨床研修を受けることを義務付けたもので、「報告医制」と名称を変えるなど多少手直しされたが、68年3月に国会を通過した。
報告医制は、研修中は医師免許を持った医師でありながら給料をもらうことはできず「診療協力謝礼金」という名目で月に1万5千円から2万5千円が支給されるに過ぎないというもので、低賃金若年医師の確保を意図したものに他ならなかった。
こうしたなかで67年10月、翌年(昭和43年)卒業予定の医学部生は43青医連全国期成会を結成、12月に医学部自治会、41、42青医連東大支部と四者が共同で、東大病院当局に卒後研修に関する要請書を提出した。しかし豊川医学部長・上田病院長は登録医法案の推進に血まなこになっており、青医連を公認団体とは認めないと言い、一切の話し合いを拒否した。
研修協約を求める青医連・医学生は医学部全学大会を開き229:28の圧倒的多数で無期限ストを構えることを決定した。これが第二次研修協約闘争である。『東大1・18,19闘争裁判冒頭陳述書』第二章p23~27,『砦』「Ⅰ医学部闘争」 p9~27参照
医学部当局は、医学生・青医連の要求する研修協約については何も答えることなく、「新しい制度」(登録医制のこと)が決まるまで研修について具体案をしめすことはできないといった「告示」を一方的に行うのみであったため、医学生と青医連は1月29日に無期限ストに突入した。豊川も上田も話し合い要求を拒んだまま学内に姿を見せなかった。
たまたま外国人学者を案内して病院前を通りかかった上田に、学生・研修生が話し合いを要求していたところ、上田内科・春見医局員ら数名が駆け付け、割り込んできて暴力的に学生らを排除しようとした。とくに春見医局員は学生の顔面にヒジウチを食らわせ眼鏡を壊すなどの暴力を振るった。このトラブルに対して、医学部当局は、学生・研修生には事情聴取せず、医局サイドだけの事情聴取で処分を行った。
17名の「開学以来の」大量処分であっただけでなく、九州旅行中でその場にいなかったもと自治会委員長粒良君まで、含まれてれいた。この処分は一方の言い分にだけ基づき、事実を歪曲・ねつ造し、争議の過程にあった中心的活動家を狙い撃ちにした処分であり、運動をつぶすことを意図した政治的で、不当な処分であることは明白だった。
粒良君が現場におらず九州にいたことは、のちに久留米大医学部学生の証言や物療内科の高橋晄正講師、精神神経科の原田健一講師による独自調査(3月26日公表「調査報告書」)で明らかになった。『冒陳』p27~29、『砦』p29~38、
高橋・原田両氏は当初医学部教授会に調査結果を報告し善処を要望したが、豊川が教授会で一度決めたことに異を唱えるとは何事だといきり立つばかりで話にならないのでやむを得ず公表した、という。折原p171
そしてこのような事態になっても、専門部局の法学部の教員は誰一人、久留米に出向いて高橋・原田調査を検証しようとはしなかった。調査は厄介だとしたらせめてこの調査報告書と医学部教授会側の文書と比較・照合し、当否・真偽を確かめ、所見を発表するくらいのことは比較的容易にできたはずだ。しかし法学部教員では誰一人そうしようとしたものはなかった、と折原さんは指摘している。
学部長会議に提出された処分原案は、疑義が出、再考を求められたが、豊川は、そのまま評議会に提出。大河内総長も承認した。
豊川は新聞記者との会見で「疑わしきは罰せずとは英国法の常識で、わが東大医学部はそんな法理には支配されん」と豪語したたという。折原同所。
そして後に処分反対の闘争が盛り上がったときにも、豊川行平を学部長とする医学部教授会は、処分の過ちを認めて撤回(そして謝罪)するのではなく、「この処分を発表前の状態に還元する」という意味不明の結論を下したのだった。
こうした態度を貫いた豊川医学部長と医学部教授会のやり方が、学内から何の疑問も批判もされることなくまかり通った東京大学は「治外法権」の場であったと言える。
東大当局は全共闘の「七項目要求」のうち「文学部不当処分撤回」要求については最後まで認めようとせず、69年1月18日~19日の大弾圧により全共闘の闘いを圧殺しようとした。当局は、七項目のうち六項目を文字面において認めたが、「文学部不当処分撤回」要求を拒否し続けることにより、国大協自主規制路線=教授会専横支配体制を維持し続けたのである。
文学部処分については、ここでは概略を述べ、11月に行われた「8日間林文学部長団交」、及び「加藤執行部の「学生諸君への提案」と文学部処分問題」 で、より詳しく説明する。
文学部処分の概略
67年の秋、学友会(文学部自治会)と教授会の「協議会」で、教授会側が慣例を破ってオブザーバー排除を要求したことがきっかけで起こった。学生側がこの要求を拒むと教授会側は一方的に退席しようと、会場の出入り口に向かった。教官の築島は先に外に出て、入り口付近で他の教官の退出を阻止しようと立っていた学生の一人仲野君に手をかけ強引に外へ引きずり出した。仲野君は何をするんだと強く抗議した。この時に仲野君が「教官のネクタイをつかみ罵詈雑言を浴びせるという非礼な行為をおこなった」という理由で文教授会は仲野君を 無期停学の処分にした。
ところが、翌68年、東大闘争がもりあがりはじめ、文学部処分撤回要求を含む全共闘「七項目要求」が出されると、文学部教授会は、夏休み明け直前の9月4日、突然、当の無期停学処分を「解除」してしまった。
停学処分の解除には、停学中の謹慎、改悛、復学への意思が必要条件とされていた。だが、仲野君は、処分期間中の6月に登校し、学生大会の議長になってストライキを決議した。文教授会の「処分解除」は全く理屈に合わない、処分を既成事実化するという卑劣で政治的な処置だった。
七項目要求が出されて、文処分の火種が再燃し始めると、「学内広報」を通じて、文教授会は築島教官の行動を伏せたまま「処分は正当だった」とし、停学処分はすでに解除され、終わったと説明した。文学部の「処分解除」いう提案は評議会でも了承された。
しかし、こうした、学生の「非礼」をあげつらった一方的処分と全く没論理的な「処分解除」=処分の完成に学生が納得するはずがなく、9月18日の教養学部代議員大会で7月以来の無期限スト継続が確認されたのに続き、工学部では9月19日学生大会で無期限ストが可決された、そして10月12日までに史上初の全学無期限ストがきまった。
69年1.18~19安田講堂攻防戦に敗れて全学的な闘いが後退してからも、文学部では、69年秋まで1年半にわたって、文教授会による授業再開を許さず、処分撤回を求める闘争が続いた。
処分が不当であることについては、
資料35:「控訴審被告人最終意見陳述書」1977年2月8日,「控訴審における我々の最後の主張」第4章「文学部処分問題について」『資料・東大裁判闘争』p204~219、折原浩『東大闘争総括』(未来社、2019)を参照。、
68年夏の東大闘争の過程に戻る。
『砦』によれば、夏休み中も、本部封鎖実行委員会のメンバーによって、集会や自主講座等様々な活動が行われ、また安田砦を防衛するためにと駆け付けたノンポリ・ラジカルの大学院生を中心に、講堂前の広場にテント村が開かれていた。こうした夏休み返上の、かれらの熱心な活動によって、夏休み明けから始まる「全学無期限ストライキ」の高まりが準備されていたのだ。
私は、1週間か2週間、東海村で原発管理の実習に行っていた期間を除いて、おそらく1か月かそれ以上、郷里に帰って、同級生、同窓生とコンパをしたり、麻雀をしたりして遊んでいたに違いない。
8月10日、大学当局は「最終方針」だとする事態収拾の「告示」を出した。「その内容は医学部処分を撤回して再審査する。結論が出るまでの間、処分を発効以前の状態に戻す」としていた。機動隊導入は「事態をいっそう紛糾せしめた」と言いつつ「その理由の如何を問わず不法な実力行使によって、大学の機能を妨げる集団的行為が学園にふさわしくない非知性的ふるまいである」と安田講堂占拠を非難していた。この告示は、帰省中の学生の自宅に郵送された。(私は読んだ覚えがない。)『砦』p123~125
またこの告示と同時に豊川医学部長と上田病院長の辞任を発表した。『砦』p123~125
7月29日に毎日新聞のスクープでこの告示の内容を知っていた全共闘は、大学が告示を郵送した翌日8月11日に「大学当局の「最終方針」に対する我々の態度」と題する批判文を各学生に郵送した。(私はこれも知らなかった/記憶にない。)
全共闘の「我々の態度」は、「告示」が
医学部処分は「種々の疑惑を生んだ」と言っているだけで、それが不当処分であるとは認めておらず、大学側の一方的な処分権を前提したうえで、単に「再審査する」としていること、
機動隊導入を「大学機能の速やかな回復」のための(”必要な”)措置であり、その原因を学生の暴力に求め、再導入を避けるためにその抑止を要求していることは、「本末転倒」だと批判している。
また、「我々の態度」は、「告示」が語る「大学の自治」とは実際には、教授会の自治であり、学生の自治活動を抑圧するものだった。医教授会が医学部生・青医連のインターン制度の改善・研修協約締結要求を拒否し、運動を弾圧するための処分を行ったことがその表れだ、と批判している。
そして「告示」は七項目の要求に全く無回答であり、要求を拒否し、学生に「安田講堂その他の占拠、学部でのストライキという異常な事態を克服し正常な勉学生活にもどってもらいたい」と呼びかけ、われわれの運動をつぶそうとしている、と批判している。
こうして、東大全共闘は「直ちに上京せよ」「9月試験ボイコット、全学バリケード・ストに起て!」と強く呼びかけた。『砦』p126~131
助手共闘は、8月25日の長文のビラの中で、8.10「告示」を詳細に批判した。
「大学当局が告示という形式で収拾案を発表し、しかもその中で最終決定であることを再三強調したことは、今回の紛争に対する大学当局の姿勢を何より雄弁に物語っている。告示という一方的な申し渡しを行なうことによって、大学当局は従来通り学生の権利を認めないことを宣言したのであり、最終決定であることを強調した。学生の異議申し立ての機会を一切封じたのである。また大学当局がこの紛争の過程で折に触れて持ち出した学生との「話し合い」がいかに欺瞞的であり、学生対策上の一技術であったかも余すところなく示したのである。----」
「いわゆる「春見事件」から発生した処分の手続き上の問題は、量刑過重の問題とともに、処分自体が極めて政治的に行われたことを暴露する一証左にすぎない。「春見事件」の真の争点は、この事件が----むりやりにでっち上げられ、教授会と対立した学生の闘争主体中枢を大量処分した、その不当性、政治性にあり、さらにこのような「教育的処置」を引き起こした背景にある政府の医療政策と、その政策に対する大学の対応の仕方にあったのだ。」
医学部学生と青年医師連合の闘いは、69年に実施を予定されている受益者負担の大幅増加を意図する健保抜本改正と登録医制度に反対する戦いであり、政府と一体化した医学部首脳と対決してきた。
他方、政府・文部省が進めている「大学管理法」を含む、特別立法や教育改革試案は、教養課程を廃止し専門教育を充実し、社会的役割に無自覚なまま、特定の階級に奉仕する特殊な専門技術者を生みだそうとするもので、大学を解体し、大学を否定することだ。しかし、それが現在の大学当局によって内部から進められつつあるのだ。
機動隊導入は「大学の内部から呼応して行われた大学の否定がもっとも直截的な形であらわれ」たものだ。「われわれは機動隊導入によって---「大学の自治」が破壊されたことに抗議しているのではない。----警察力の導入によって、そのような「大学を守る」ことの当否を問題にしているのだ。
彼らが守ろうとする実体は何か。それは「大学の社会的歴史的使命に対する認識を持たず、したがって狭隘な職人かたぎに閉じこもり特権者としてのエゴイズム追求にのみ専念している」教授たち(家永三郎「大学の自由の歴史」)、あるいは「権力を持ち、それに対して恐るべき執念を示す人種であり、自己が蓄積した知識の名を借りて、自分流の考え方を他人に押し付け、異議をさしはさむ余地など全く与えない人間」(サルトル「五月革命の思想」)であるところの教授たちの既得権益なのである。」
「教授会メンバーの一人一人が、そしてわれわれ助手の中においても少なからざるものが、大学の内部から、その解体作業に-----参加していること、そしてこの大学内部からの大学の否定の集約が〔大学の自治=教授会の自治とする〕国大協路線であり、そのラディカルな現象形態が、国家権力との癒着に基づく警察力の導入であることを、学生諸君ははっきりと指摘し、機動隊導入に反対しているのだ。」
「「告示」という形式においても、「告示」の内容そのものにおいても、はしなくもそこに表された大学の腐敗と退廃にわれわれは深い絶望と激しい憤りを感ずる。道は遠く険しい。しかし、われわれが、真理の探求を掲げて、自ら大学にとどまる選択を行なった存在である以上、われわれにはこの道を避けて歩むことは許されないのだ」8月25日。
東京大学文書館デジタル・アーカイブ
所蔵資料>歴史資料等>教員資料>最首悟関係資料>助手共闘>s01/0001-001-F、R、002 「学生不在の大学―8.10「告示」批判 」
東大の教授たちが、あるいは少なくとも、学生処分を行うことを決めた執行部とそれに反対しなかった教授たちが「権力を持ち、それに対して恐るべき執念を示す人種であり、自己が蓄積した知識の名を借りて、自分流の考え方を他人に押し付け、異議をさしはさむ余地など全く与えない人間」だという指摘は、その10年後、反百年祭・百億円募金反対の闘いのなかで登場する文学部教授会の多数派メンバー、とりわけそのリーダーだった今道友信に再び全く同じように当てはまる。
医学部当局の闘争切り崩し・収拾策動 vs.医局封鎖、そして全学バリケード封鎖へ
8月22日、医学部生の一部がスト終結宣言を行ない、医学部当局は卒業試験に向けた動きを始めた。医学部全学闘は小林医学長に団交を要求、学部長はいったん団交に応じたが、他学部長の反対があり、話し合いを中止、そして9月9日には、スト終結宣言を行った学生たちに卒業試験を行い始めた。会場は秘密で受験者にも試験の前日に集合場所を電話で知らせるというやり方だった。
全共闘系医学生は9月16日に、小林学部長に対し卒業試験を中止するよう要求したが、教授会側は、20日、一方的に「試験再開」を通告した。『砦』p143~
8月28日には、すでに、全共闘の「全学バリケード封鎖」方針に基づき、医学部本館が封鎖されていたが、9月下旬からは、「話合い」をせず卒業試験を強行する医学部当局に対する反発から、医学部の大部分の建物が封鎖された。「全学バリケード封鎖がまず医学部から実現した形になった。」小熊p758
7月3日から無期限ストに入っていた教養学部で、9月27日、「全学集会」が開かれ、医学部学生により最初に始められた研究室封鎖の全学的な拡大を呼びかけた。
助手共闘の当日の「アッピール」で、「医学部本館封鎖によって研究の場を奪われた医学部の研究者は、医学部基礎病院連合実行委員会に結集して、学生諸君との共闘に起ちあがり、今朝、遂に自ら「赤レンガ」の医局研究室封鎖に投企し、国家権力の帝国主義的医療再編成に協力する医学部の体制内で保障された研究の「自由」を敢然として拒否するにいたった」と報告。
「研究室封鎖は、われわれ助手からも研究の場を奪うもの」であり、われわれが学内支配の末端に組み込まれ、近い将来に、体制の梯子をよじ登る存在たることを続ける限り、封鎖はまさにわれわれに敵対する暴力となるであろう。-----〔封鎖闘争を〕非難することによって体制に身を売ってゆくか、あるいは、自らを体制内からの反逆者に転化し、闘う大学を創出する主体たらしめるか、研究室封鎖は---助手層にぎりぎりの選択を迫るであろう。」と述べ、助手層に、ともに研究室封鎖闘争に参加することを呼びかけていた。東大digitalarchaive>教員資料>最首悟関係資料>助手共闘> 0001-f0228-s01-0025
この初期の封鎖に「〔教授が絶対的な権力をふるう〕講座制に悩んでいた若手研究員はむしろ協力的だった。」「内科研究棟封鎖では、封鎖する側とされる側との間には協定さえ成立した」「9月27日には医学部精神科の建物が、学生でなく医局員らにより封鎖された。」小熊p762
だが、「全学バリケード封鎖」は簡単には広がらなかった。9月16日全共闘は教養学部事務棟の封鎖を行なったが、民青の行動部隊によって解除された。工学部では9月18日に職組を中心に事務棟封鎖反対集会が開かれ、工学部学生大会では事務棟封鎖方針が否決された。ただし、文学部では事務棟が封鎖された。小熊p765
しかし、9月18日の教養学部代議員大会で、7月以来の無期限スト継続が確認された。工学部と経済学部では民青系自治会執行部が学生大会で罷免されて、反民青系執行部が誕生し、工学部は9月19日、経済学部は27日に、「七項目要求」を掲げて無期限ストが可決された。
そして9.28には民青の牙城である教育学部が民青の「四項目要求」を掲げて無期限ストに入った。10月1日には理学部、4日には農学部と薬学部が全共闘の「七項目要求」を支持して無期限ストに入った。法学部では、12日に、「七項目要求」から文学部不当処分白紙撤回を除く6項目を掲げて無期限ストを可決した。こうして、10月12日までに、史上初の全学無期限ストがきまった。小熊p782
こうした中で、全共闘運動は、学生処分を撤回させることを当初の目標としていたが、次第に「自己否定」「東京帝国主義大学解体」、さらには「70年安保闘争勝利」へと位置付けが変わっていったと、小熊はいう。
小熊は、夏休みに、安田講堂に泊まり込んでいた院生たちが、大学とは何か、学問研究とは何かなどを議論することがあった。「教授たちの学者とは思えぬ態度」、ある時は「三百代言的な」ある時は強圧的な態度に驚き、それを批判する中で、助手や院生は、学問そのもの、大学そのものにたいして疑問を感じるようになり、さらには学者・研究者になることを目指してきた自分自身の生き方への問いかけへと発展した、という。
また、小熊によれば、全共闘は8月27日に小林医学部長に団交を迫ったが、この時の記録テープの中で、医学部闘争のリーダーであった今井澄は、入局の約束を得てスト破りをやった118名について、「彼らは人民のための医療とか、国民の医療とか、あるいは健康保険がどうのとか一言も言うやつがいない。先生はそういう人間たちを採るんですか。」と言った。
今井は95年に「悪いのは相手だけじゃない。大学の在り方そのものがおかしいし、そこでぬくぬくと勉強してっ巣立っていく我々自身にも問題があるんじゃないか、というような思いがだんだん深まっていく中で、『いま自分たちが当たり前とおもってやっていること、研究だとか講義だとか、そういうものをいったんストップしてみんなで考えようじゃないか』ということがでてきた」と語っているという。小熊p755~758
また山本義隆は69年の『知性の反乱』のなかで「エスタブリッシュメントとしてある既存の大学」の「根底的な批判は、同時に告発されている大学の一構成員として教育されあるいは研究している自らに向けられる。弾劾の対象としてある現在の大学の教育をうけることによって自らが体制のイデオローグとして、企業の管理職としてなどの展望を持つ限り、そういった自己もまた実践的に否定されなければならない」と述べているという。小熊p767.
山本によれば「全学部が無期限ストに入った10月は、東大闘争そのものは膠着状態だった」が10・21反戦デーには、ベトナム戦争反対のデモに、東大本郷だけからでも3,000以上の部隊が出撃し、駒場からも同数かそれ以上の部隊がデモに出掛けた。それは7月以来4か月にわたり東大全共闘の安田講堂と各学部でのバリケード闘争があったからだ。バリケードの作り出した解放空間が日常的な闘争態勢を支えていたから可能となったのだ、という。
また「大学院生の組織であった全闘連あるいはまた青医連には60年安保闘争や62年大管法闘争の経験者がかなり中心的な役割を果たしていた」。「この時点で私は、あるいは私たちは、一方では60年安保闘争と67年以来のベトナム反戦闘争の延長上に70年安保闘争を見据えていたのであり、それゆえ中心的課題が政治に集約されるのは、ある意味では必然だった」という。
ただし彼は「誤解がないように」と、「だからといって私たちは東大のバリケードを学内闘争と無関係に70年まで維持すべしと考えていたわけではない。バリケードをどうするかはあくまで学園闘争としての東大闘争の論理にのっとって判断すべきと考えていた」と付け加えている。山本p161~163
私も、工学部で無期限ストが決まった時の学大で「自己否定」という言葉を入れて発言した。それについては、また後でふれる。
大学側は68年8月10日に出した「告示」で、医学部処分について、間違いを認め撤回するというのでなく、処分学生の「再審査」を行なうという、ごまかしの態度を示した。そして、不当処分を行ない学生の批判に耳を貸そうとしてこなかった大学自身の姿勢は棚にあげたまま、安田講堂占拠を「不法な実力行使」とし「学園にふさわしくない非知性的ふるまい」だと全共闘を非難していた。そして、大衆団交要求には応じようとしなかった。
こうした大学側の姿勢に学生・院生の怒りが爆発し、全学無期限ストが打たれ、さらに建物封鎖にまで発展したのだった。
9月16日の医学部全学集会後、大部分の医学部建物群が封鎖され、9月27日には医学部精神科の建物が学生でなく医局員により封鎖された。そして10月14日に精神科医局は解散し、10月21日に、医学部長に批判的な医師102人が、「東大精神科医師連合」(精医連)を結成した。
精神医療の分野では、人体実験を行うなど研究至上主義的で精神科の患者を研究対象としか見ない台(ウテナ)教授が精神科学会を支配していた。
10月21日に結成された精医連の設立宣言は次のようにうたっていた。「東大医学部付属病院精神神経科医局を解散したわれわれは、ここに結集し、東京大学精神科医師連合の設立を宣言する。」そこでは「現在の医学部教育はきわめて旧弊、不備であり、----卒後教育については形骸にも等しい「研修生」制度と医局制度に支えられた講座制のかたい枠組みがあるのみである。/今回の東大紛争はこのような大きな矛盾を背景として、よりよい医師になろうとする医学生、研修生の熱望から生じたものである。そしてわれわれはこの紛争解決のために努力しつつ,----旧来の医局制度・講座制・学閥の枠を打破し、自立した医師としての主体的自覚に基づいた新たな力を結集すべきであると判断した。----」、「本来、己の後継者であるべき若い医師、研究者、青医連、学生に背を向け、文部省、厚生省が代表する国家権力と無批判に手を組んでしまっている医学部教授会の権威なき権威主義を根本的に批判する」とともに、精医連は「患者の側に立つ医療と新時代に即した医学教育----を新たに創り出す」べく努力をおこなうとしている。富田三樹生「東大病院精神科の30年」青弓社、2000年、p101
精医連は青医連の研修協約闘争と東大闘争を支持し、学生・研修医に対する処分を撤回しない教授会を批判していただけでなく、旧来の医局制度・講座制・学閥の枠を打破すること、そして(精神科)医師としての教授たちの医療への関わり方・研究の在り方に踏み込んで批判・告発した。
71年には講師の石川清氏が、教授・台の人体実験を告発した。また、東大精医連が精神神経学会をリードして、当時政府がすすめつつあった刑法改正草案----この草案は治安を優先し国民生活を権力的に圧迫する危険をはらんでいた----における、精神障害者を実質的に予防拘禁しようとする「保安処分」の新設に反対する決議を行なった。(83年政府は刑法改正法案の上程を断念した。)
1969年以降2000年までの精医連の精神医療改革運動については富田・同書に詳しく述べられている。
工学部では、9月19日の学生大会で無期限ストが可決された。そしてこの工学部学生大会に、山本義隆がやってきて、スト実の提案を支持するよう訴えた。私は、それまで全共闘議長山本の名前を聞いてはいたが、この時初めて、本人の姿を見た。すごい早口でまくしたてる激烈な調子に驚いただけで、賛成、反対の野次が渦巻くなかでの演説の中身はさっぱりききとれなかったが。
私は無期限ストに賛成したにもかかわらず、他の4年生と共に、卒業に必要な実験は続けていた。3、4年生合同のクラス討論が何回か行われた。私は、A君とともに4年生のクラスの代議員になった/された。
10月末に、大河内総長が辞任し代わって法学部長加藤一郎が総長代行に就任した。また各学部長も一斉に交代した。
工学部長には向坊隆氏が就任した。彼は原子力工学科の教授だった。私は、かれが学部長になったことは知らなかったが、周りのクラスメートの誰も、そういう話しはしていなかった、と思う。
向坊学部長は、11月9日、14時に工学部大講堂で学部集会を開いた。「参加者は教官160人、学生約1,300人となり会場に収容できず、21番教室、等価、玄関前にも参加者があふれた。
向坊工学部長らは新執行部の所信表明とこの集会は正式の学部団交の下準備のものであると述べた。学生側は紛争中の処分問題等で回答を要求したが話し合いは平行線をたどった。18時、工学部集会終了。遂次解散し、午後 6 時 50分頃全員解散した」。(以上は<所蔵資料公開(特定歴史文書等) 東京大学「紛争日誌 その3(1)>P38による。)
我々原子力工学科ではこういったことを誰も知らなかったと思う。
スト実はこの学部長との話し合いが「平行線」のまま終わったことを不満として、また、全共闘がすでに打ち出していた全学封鎖方針を実行すべく、11月12日に、工学部スト実メンバーおよび共闘会議系諸セクト700名によって(上記「紛争日誌」による)、工学部本部のある工1号館の封鎖がおこなった。恐らくそのすぐ後くらいではないかと思うが、3年生の二人のスト実派代議員がやってきて、申し訳なさそうな顔で、教室や研究棟の封鎖をやることになった。4年生の卒業実験なども中止してほしい、と言った。
私は、大学当局への抗議としてストライキは支持している。しかし、封鎖戦術には反対だ。スト賛成派の多くの者を敵に回してしまうことになるのじゃないか、というようなことを言った。3年生の代議員はうまく反論できず、工学部スト実の会議が安田講堂でおこなわれていて、だれでも参加して発言できるから、そこでしゃべってくれ、と言う。
私は、安田講堂の工学部スト実の部屋だというところに行き、自治会委員長、スト実委員長、ほかに10数名の活動家がいる会議に加わった。セクトに属している学生もいたがノンセクトの学生もいた。他の学部の状況や学内の民青の動きなどの他、日本共産党の民族民主革命論や二段階革命論と党の方針など、私から見て非常にハイレベルのことも話されていた。
自治会委員長は石井といった。彼は翌年1.18~19には安田講堂に残り、逮捕された。彼は2005年に亡くなったという。おそらく60歳くらいにしかなっていなかったはずである。1.18~19に機動隊の激しい暴力でうけた心身の傷/その後遺症が彼の寿命を縮めたのではないかと、私は想像する。
スト実委員長は八十島といい、親は当時工学部長だった。どこかのセクトのメンバーだった彼が1.18~19で、あるいはその後どうしたかは知らない。あとで聞いたことだが、彼の弟は京都大学の全共闘で闘かったが、自殺したという話だった。兄弟2人は、支配階級に貢献する「帝国主義的大学」の工学部長である父親に反抗して、全共闘で闘ったのだろう。
私は、工学部スト実の中心メンバーの会議で封鎖戦術に対する私の素朴な疑問をぶつけてみた。だが、現段階で研究を続けている院生や卒業研究をやっている4年生(そこに私も入っていた)は、ストに反対してないかもしれないが、結局、闘争を傍観しているだけだ。無期限ストに対してもぶれない大学当局の強硬姿勢はこうした多数の傍観者の存在によってを支えられているのだ。こんないいかげんなストでは、政府の後ろ盾を受けた大学当局と闘えない。封鎖によって、傍観している学生・院生に本当に闘うかそれとも闘わないのかの選択を迫るのだ、たぶん、こうした反論にあって、あえなく粉砕されたのだと思う。
私は、バリケード封鎖方針に反対するために、工学部スト実の会議に出掛けて行ったのだが、会議後に原子力工学科に戻って、学科スト実の会議で話をしたときには、バリケード封鎖の方針を提起していた。私はミイラ取りがミイラになるのことわざ通りになってしまったのだ。そして、この時に私は、自分が全共闘派の一員だと考えるようになった。
私は通産省に就職することが内定していたが、通産省に就職することは、民間企業に就職するのと大してかわらず、東大生であることの特権の行使であるとは思ってなかったし、通産省に入ったからといって特権階級に属するようになるとも思っていなかった。奨学金は終わっており、不安定なアルバイト生活から脱却して、通産省でなく他のどこかの企業でも構わない、就職して、生活を安定させたいと考えていた。
一方(はじめよく知らなかった文学部処分は別として)医学部では処分を食らって学生や研修医が医師の道を断たれてしまいそうになっていた。同じ大学の仲間が困っているのを見て見ぬふりをして、自分は卒業し、就職して安穏な暮らしをしていいのか、そう思った。
私が無期ストに賛成して学生大会で発言したときに「自己否定」の語を用いた。その時には、必ずしも、(3月になっても)卒業せずに闘争を続けるという覚悟までしていたわけではなかった。ストライキは始めたばかりであり、それがいつまで続くのか、続けなければならないのか、闘争が3月以降も続けばどうなるのかということは、その時にはまだ、全く考えてなかった。「自己否定」という語は、今受けている授業を放棄し、卒業研究を中止する、というくらいの意味だったのではないかと思う。
しかし、バリケード封鎖をはじめることによって、卒業に必要な単位は取れなくなってしまう。すると、当然、予定通り3月に卒業することはできなくなる。その可能性は考えたかもしれない。しかし、その先のこと、そうなったらは就職はどうなるのか、そして、いったい、いつまで闘い続けるのか、闘い続けなければならないのか。そうしたことは、浅はかながら考えなかった。
(*)小熊によると、68年度の公務員上級試験合格者は1288人で、各省庁者内定者は625人、うち3分の1の214人が東大生だった。法学部等の「一般学生」は「留年したって僕らを採用しなけりゃ役所が困る」とスト続行に賛成したものもあったという。小熊p863~4
私は小熊が、書いている「法学部の一般学生」のように就職の心配はないと考えていたわけではない。卒業が延期になるかもしれないとは思っていたが、そうなった場合に内定が取り消しになってしまうかもしれない、というようなことまでは考えが及ばなかった。
私は、10月か11月以降、ビラに書かれるようになった「70年安保闘争勝利」というスローガンはもちろん、「東京帝国主義大学解体」という議論にもあまりついていけないでいたが、「自己否定」は自分の生き方に近しい言葉と感じられた。だが、その否定を徹底して卒業と就職の道を断ち切る覚悟までしていたわけではなかった。
私は、東大の教授たちが「教授会の自治」という一種の治外法権体制に基づき、学内で有する専制的な権力を行使して、文学部と医学部の学生活動家に行った処分は不当であり許せない。大衆団交の場で(つまり少数による密室の取引=ボス交でなく)処分を撤回(し、謝罪)せよと、いう「七項目要求」は正当だと考え、全共闘に加わって闘おうと決意した。
私は、七項目要求貫徹、無期限ストライキとバリケード封鎖という工学部スト実と全共闘の方針を原子力工学科のクラスで提起し、クラスでもその方針が認められた。原子力工学科4年も3年とともに、「七項目要求」貫徹に向け、建物を封鎖して教官たちの授業だけでなく研究もストップさせることになった。
入り口にピケを張り、やってきた学生・院生、教官・職員に我々の主張を書いたビラを渡した。ピケを強行突破するような者は一人もいなかった。授業を受けに来た学生は、我々の行動に参加するか、そうでないものはあきらめて帰るかした。
われわれも、教官に、封鎖中は建物に入らないよう求めただけで、例えば「七項目要求」を認めるのかどうか、あるいは「七項目要求」を認めるように学科教授会で討議せよ、あるいは我々の要求を認めるように工学部教授会に働きかけろ、とかといった要求や追及まではやらなかった(思いつかなかった)。そして、教官・職員の入所を阻止したのかどうか、はっきりした記憶がない。教官は我々が封鎖宣言を行ったことを知ると、登校しなくなったのではないだろうか。“平和な”封鎖だった。
われわれはそれでも、バリケード封鎖によって原子力工学科の建物を「解放」したと考えていた。そしてこの「解放空間」の中で我々自身の手で「自主講座」を開講しようと考えた。
教養学部では、すでに7月2日、自治会委員長名のアピールで「日常の-----講義、教育課程から決別し、我々自らの力によって講座を作り上げていく」ことが宣言されていた。小熊p727
7月10日付の全学闘自主講座局の「第一回自主講座」案内では「社会経済の中の大学」という企画で「産学協同路線」を批判する内容の自主講座が開かれた。同p735
10月1日には駒場キャンパスで、公開自主講座の開始予定が宣伝された。そのビラの中では「カリキュラム編成はみんなの手で!」と述べ「学内助手・院生・学外研究者を招く」としていた。『戦後日本資本主義分析』、『現代国家と教育』、『安保問題研究』、『大学論』など、多彩なカリキュラムが行われたという。同 p777f
原子力工学科のわれわれ/私は、情報集めの力不足のためか、努力不足のためか、最初から躓き、講師探しに手間取った。そして「戦後日本経済論」という題の講座では、誰がどのようにして依頼したのかはわからなかったが、経済学部助教授の柴垣という教官に話してもらうことになった。
もちろん、講座は公開で行い、大学の外の一般市民も聴きに来ていた。講義の途中で、聴講していた一人の中年の女性が、脇に立っていた代議員の私とA君に小声で「この人は共産党よ」と言った。
後で知ったことだが、柴垣氏は、全共闘に批判的/敵対的な姿勢を取っていた東大教職員組合の委員長もやった人物だった。彼が共産党員であった可能性は十分ある。だが、この女性は、柴垣氏が共産党員であると言ったのではなく、彼の講義の内容を聞いて、共産党寄りの考え方に立っていると判断して、そう言ったのだと思われた。
われわれは、「労農派と講座派」の違いも「戦後日本経済」についても何も知らなかった。外から聴きに来てくれた人に教えてもらって、我々の人選が不適切であったことを知ったのだった。
11月になって加藤執行部が登場し、全学集会を行いたい、そのために代表団を選出してほしいという提案をおこなうと、収拾派学生の間に、全共闘の全学バリケード封鎖に反対するムードが高まった。そして、理学部、法学部の学生大会に続き、11.19工学部学生大会でも封鎖反対と代表団選出を決議した。12月5日には教育、工、経、理、農、法の学部で代表団が選出された。 文学部、医学部では加藤提案を拒否し、「七項目要求」貫徹にむけ、バリケード封鎖等、闘争態勢が堅持された。
工学部の「団表団」選出が学生大会で決議されたことの記憶はない。それがなにか重要なことだと思っていなかったためだろうか。「代表団」選出が決議されても、バリケードストを否定する決議はなく、原子力工学科では、「団表団」選出が問題になったことはなかったと思う。本郷キャンパスではむしろ封鎖は拡大していたし、原子力では民青の敵対的な行動もなく、また「一般学生」が封鎖に文句を言ってくることもなく、平和な封鎖を続けていた。
後で書くが、私は工学部号館封鎖<防衛行動>に加わったことはあったが、11月12日の工学部1号館の封鎖行動には加わっていない。呼びかけはなかったのだ。したがって、その後の総合図書館封鎖行動にも加わっておらず、図書館前での共産党のゲバ部隊との衝突も私は全く知らなかった。工学部の封鎖は工スト実の中心的活動家の間でだけ意思一致が行われたのだろう。
1月9日の教育学部民青に対する攻撃にも呼び掛けはなく私は知らなかった。同じように、中心的活動家の間でだけ計画されたのだろう。これらゲバルト戦を伴う行動には、全共闘はシンパ層に呼び掛けることには慎重だったと思われる。
しかし、集会への参加の呼びかけだけでなく、ゲバルトを伴わない封鎖行動などにはシンパ層の結集を呼び掛けただろうと思われる。弥生キャンパスの原子力工学科にはどのように、呼びかけは伝わったのだろうか。
クラスのスト実に、都内在住で以前セクトに入っていたことがあるという仲間が一人いた。名前は憶えていない。かれは大人しい、いつもにこにこしている、感じのいい若者だった。彼が全共闘の行動方針はこうなってるとか、ビラではこうだというようなことを言ったことはなかったと思う。
代議員になった私もA君も、たとえば、毎日あるいは1日おきにでも安田講堂に行って、全共闘の方針がどうであるのかを確かめるというようなことはしてなかった。われわれの間で「全共闘」のビラを手に入れる方法(例えば毎日、誰かが安田講堂に行きビラをもらってくるというような)を決めてはいなかったし、クラスの特定の誰かが情報を伝達した、ということもなかったと思う。
しかし、毎日ではないにせよ、たとえば本郷3丁目方面から来て赤門を通って本郷キャンパスに入り、弥生門に抜けて原子力工学科に来るなら、当然安田講堂の前を通るから、ビラを受け取ることになる。こんな風にして、誰かがビラを受け取り、行動の呼びかけ・要請を知り、そのビラをクラスの他の仲間に見せる。するとそこで議論が起こる。そして、参加しようと思う者が参加する。
クラスレベルへの情報の伝わり方はこんなふうにloose/緩かったので、原子力のスト実できちんとした議論をするということがあまりなく、クラスとしての行動方針を決めるということもめったに行われなかったのだと思う。クラスをまとめて引っ張っていく、リーダーがいなかったことも関係していた。 4年生、あるいは3年生と合同で我々原子力のスト実メンバーがまとまって、つまり、組織的に、本郷キャンパスに行き行動したという記憶がない。
結局のところ、原子力工学科スト実メンバーと言っても、学生大会で提案されたストライキに賛成し、原子力工学科の緩いバリケード封鎖や準備不足の自主講座に参加したグループというだけだった。
私の記憶では、1月10日の夜、安田講堂に機動隊がはいるかもしれない、防衛のためにクラスで最低一人安田講堂に来てほしいという要請があって、結局私が行くことになった。しかしこの記憶は怪しい。その要請がどの様に原子力のクラスに伝えられたのか不明だからである。1月10日の夜の安田講堂防衛行動については、「七学部集会」の後の節で述べる。
10月下旬大河内総長は、収拾案として「大河内試案」を作成、28日の評議会に提案、了承された。29日には各学部教授会に下ろされた。だが、25日の朝日新聞のスクープによって知られた内容は、まったく話にならない、お粗末なものであった。そこでは、
(1)医学部処分を撤回するとしていたが、「手続き上の誤りがあり---教育的処分と言えない」ということを理由としていた。処分は医学生・青医連の正当な運動に対する政治的弾圧としておこなわれたことについての自己批判はなかった。文学部処分問題については、まったく触れず、黙殺しようという姿勢を示しており、当局は処分権を留保し続ける構えであった。
(2)機動隊導入に関しては、「学生を説得せず」に、「早急に導入したこと」を「反省し」ており、学生側の処分撤回要求に応えようとしなかった姿勢を反省しているのではなかった。そして
(3)不当な処分を行い、学生側の正当な処分撤回要求を黙殺し続けてきた「理性の場にふさわし」くない、暴力的やりかたを反省せず、学生の「スト、卒業式粉砕、等の暴力行為は強く反省を求め」ていた。
(4)また、当局は、大衆団交の要求を認めようとせず、手紙等で収拾しようとしていた。
こうして、この第二次収拾案は「8.10告示」による第一次収拾案の場合と何ら変わるところがなかった。当然ながら全共闘はこうした第二次大河内収拾案を強く批判し、この「欺瞞的収拾案を粉砕し、全学バリケード封鎖に決起せよ!」と呼びかけた。『砦』p238~243
民青の「東大闘争勝利行動委員会」もこの大河内試案に反対した。
また新聞研・荒瀬教授以下8教官も「収拾案についての意見」を発表し、大河内試案が「弥縫策にすぎず、事態の解決に役立たないどころか、一層の混乱をもたらす」と批判するなどした。
こうして大河内総長は、四面楚歌の中で、11月1日、辞任し、全評議員も辞任、各学部で新執行部が選出された。同p243~245
大河内体制の下で、工学部教授会は工スト実の団交要求を拒否し続けていたが、全共闘、工スト実300余名は、11月1日夜、工学部(工スト実の拠点、都市工学科のある)八号館、(工学部本部のある)列品館の封鎖を行なった。同p245~247
8.10告示で闘争を収拾することができず、かえって全学的な闘争の高まり、無期限ストとバリケード封鎖を招いた東大当局は、大河内総長以下学部長全員が辞任し、11月4日、加藤一郎総長代行を中心とする新執行部が登場した。
新執行部は「学生諸君へ」という短い文を発表し「11月中旬をめどに全学集会をもち、全学的な問題について学生諸君との討論を通じて紛争の解決をはかりたい」。「全学集会を開くためには議長団の構成、集会の持ち方などについてあらかじめ合意が成立することが必要」で、「この点について学生諸君は代表を決め、至急学生委員会と話し合いを始めてほしい」と述べていた。『砦』p248
新執行部は、工学部長の向坊隆、文学部長の林健太郎、経済学部長の大内力、医学部長の白木博次、等により構成されていた。向坊、林は評議員からの昇格であった。
大内力は、処分制度によって学生の自治活動に枠をはめる、国大協路線の支柱となった「東大パンフレット」の起草者として悪名高い人物であった。
加藤は69年春から73年まで総長に就く。林はそのあとを襲って77年まで総長を務めるが、加藤と林は、学生の東大闘争に続いて闘われた労働者の東大闘争=臨職闘争に対して、話し合い要求には一切応じず、徹底的な弾圧姿勢を貫くのである。
11.5教養学部代議員大会では、僅差ながら、「東大全共闘に結集し」、「七項目貫徹まで、全学無期限スト、全学部封鎖で闘おう」、当面の行動方針として、11.8教養学部長団交、11・12共闘会議主催全学総決起集会への結集、等の決議を採択した。
教養学部長団交が11月4日、8日両日開かれ、1500名の学友が結集し、大学執行部交代劇の欺瞞性を追及、団交決裂後には教職員会館・学生部を封鎖した。『砦』P249~250
林文学部長と文共闘との「8日間団交」、卑劣と傲慢が同居する林=文教授会
加藤一郎の総長代行就任に合わせ、文教授会は11月2日ひそかに執行部交代を計画した。最初に文・全支協(全学連支持協議会=民青)がこれに介入。さらに文・スト実が駆けつけ、教授会は流会になった。この時、1.文教授会は新執行部を選出する前に文学部生と大衆団交に応ずるよう努力する、2.次回教授会を学生が傍聴できるよう日時を連絡する。場所はバリケード内第一会議室とする、と約束をおこなった。
しかし、文教授会はこの約束を一方的に破棄し、秘密裏に林健太郎学部長をはじめとする新執行部を選出した。(文教授会は、嘘をつくこと、約束を破ることを何とも思わない、厚顔無恥の人間たちの集まりだと言わざるを得ない。)
これに憤激した文学部学生は、4日、銀杏並木で学生委員井上教授を追及、その後バリケード内2番大教室で、林を含む40人の教授を呼び集めて大衆団交を開始した。こうして文スト実と文・全支協(民青)との“統一戦線”による、教授会側との無期限団交がおこなわれた。『砦』P250
Wikipediaではこの8日間団交に「林健太郎監禁事件」という見出しをつけているが、そのなかで
「当時警視庁で大学警備担当者だった佐々淳行の著書によると、警視庁では5日の時点で林の救出作戦を実行する計画をたてていた。しかし差し入れに隠したメモでその旨を林に伝えたところ、林は逆に「東大全体の封鎖解除には賛成だが、私個人の救出のための出動は無用。只今、学生を教育中」と書き送ってきたため実行は見送られたのだという。」〔佐々淳行は69.1.18~19の安田講堂封鎖解除の際の指揮官でもあった。〕
この記事からもわかるように、林は、学生側の仲野君処分撤回要求には絶対に応じない考えで、かつ学生たちを「教育」する、つまり説得できるという自信をもって、団交会場に自ら登場したのである。
また、文学部の執行部も教授会メンバーも、意思に反して「缶詰」につまり監禁されたのではなく、「出入り自由」であった。『砦』p281
だが、11月6日に辻村(「社会心理学」が専門!)ら2名の教官が「陰険な記者会見」を行い、翌日から「ブルジョア新聞の論調が急変し、「人道問題化」キャンペーンを全面的に展開した」。「約300名の教官が「不法監禁抗議集会」なるものを開き、「恥も外聞も忘れて」シュプレッヒコールを」した。同p268。
それまで、学内で起こっている事態について、何の発言もしてこなかった法学部教授・丸山眞男が、このシュプレッヒコールの先頭に立っていた。大内経済学部長は「人命尊重のため機動隊導入もあり得る」と恫喝を行なった。
当初、スト実と共に教授会団交を行った民青系・全支協〔のちに共産党中央からの指示で団交から手を引いたが〕の、団交後のビラでは、学生側が「命をとるか、機動隊を導入するかだ。差し入れなんぞ認めない」と言っている、などというデマが教授会によって、学内全般にばらまかれ、「生命の危機」だとされた。実情はどうか。団交を続けている首脳部には「十分な睡眠を保証し、医師の診断も行い、差し入れないし出前によって食事をきちんととれるようにしている。さらに交渉の間に十分な休憩をちゃんとおいているのだ。----かくのごときデマとヨタとによって真実を隠ぺいせんとするやり方は断じて許せない」と書いて、教授会側のやり方に抗議した。『砦』p253
この団交の中で仲野君の処分、および学生の権利を一切否定する「教育的処分」に関する林学部長が述べた見解については後に再度ふれるが、この団交は、結局決裂した。記録の一部を引用すると、
学生:7項目要求をのまずに、とにかく収拾しようというのが、新執行部=収拾内閣の方針なんですね?
林: そうです。
学生:そしてそういった方針から出てくる「全学集会」なるものは明確に共闘会議に敵対する立場から出されてくる戦術なわけですね。
林: そういうことになります。
学生:話し合いのポーズを示しながら容れられないことは容れられないといって、我々の要求を拒否し、文学部処分問題に完全にホッカムリ(ほお被り)して、学生の消耗を待つというのが、新執行部の話し合い路線であり、全学集会がその一環としてなされるなら、そういう全学集会をわれわれが断固粉砕するであろうことは言うまでもないことですが、その点はどうですか?
林: そうだろう。
学生:それじゃ、新収拾内閣は完全に破産したことになりませんか?
林 それは諸君の認識ですね。
〔中略〕
学生:〔集まった学生に向かって〕我々はもう林から聞き出すことは何もないわけです。現在の当局の態度は、------七項目を議題にするだけで、検討するわけでも、撤回するわけでもない。何度も集会を繰り返す中で、闘争の弱体化を図ろうとしている。われわれはもうこれ以上文教授会と「話し合い」をしていく気はない。----〔以下略〕」同p299~300
11月20日、文教授会の“有志”40名は、署名入りのマル秘文書を加藤執行部あてに提出し「これまで大学当局がとってきた態度が学生の暴力に対してあまりにも寛大であった----。文学部においては研究室も事務室も完全に封鎖され、さらに林学部長の軟禁事件という異常事態まで発生し」た。「学問の自由、研究の自由を守ることが大學の自治の本質であ」り、「この自治を守るためには、左右を問わず、特定の思想、主張を暴力的手段に訴えて他に強要することを絶対に許容してはな」らない。「もし、これを許せば、もはやそこには理性的な話し合いはなく、思想の自由は成立いたしません」と、強権的姿勢を明確にしていた。 もちろん、仲野君処分についての非を認める姿勢は全くなかった。
「文学部教官有志(順不同)」には60名中40名が署名している。山本信、柴田三千雄は加わっていない。のちの反百年祭闘争で「弾圧執行部」として登場する今道友信の名が最初にあり、また辻村明の名もある。同p303
加藤新執行部は11月4日の「学生諸君へ」で、11月中旬をめどに全学集会を持ち、討論を通じて紛争の解決をはかりたい、と話し合い路線を掲げて登場した。だが、8日間団交の中で新執行部の一人林文学部長ははっきりと「文学部処分は撤回しない」と言い「二次処分はしないとは言えない」と硬直した姿勢を示していた。
全共闘の「七項目要求」に対する大学側の基本姿勢は、大河内前執行部の時と変わっていないことは明らかで、新執行部のいう「全学集会」における「話合い」とは、文処分問題を黙殺したまま、卒業・就職のために収拾を第一と考える「一般」学生と党派的利害から全共闘に敵対してきた民青をくわえた「全学集会」で「紛争の解決」行なおうとする収拾策に他ならなかった。加藤執行部は、全共闘が要求してきた12日の「全共闘を唯一の交渉団体とする全学大衆団交」を拒否した。
これに対して、全共闘はこうした執行部を追い詰めるべく全学封鎖の方針を打ち出した。そしてその第一歩が12日の工学部一号館の封鎖であった。夕方4時、安田講堂で総決起集会を行い1500人が結集した。集会後、5~600人で工学部本部事務が置かれている工一号館封鎖をおこなった。
それに続き、「闘争の進展とは無縁に、ひたすら「学問」にはげむ点取り虫の巣窟」総合図書館の封鎖に向かった。同p316、
また11月12日には、(航空学科のある)七号館の封鎖が「工学部当局の団交拒否への対決、新収拾策動路線にのった航空学科教授の欺瞞性粉砕」を掲げる、航空学科スト実によって行われた。(27:1:8)『砦』p260~261、山本p282
全共闘は工一号館封鎖に続き図書館を封鎖しようとしたが、民青が動員した「都学連」部隊とのゲバルト戦で敗れ封鎖は失敗した。また、その2日後、駒場共闘300名による教養学部第三、第六本館封鎖行動も、外人部隊を中心とした民青700名によって阻まれ、失敗した。『砦』p316~320
11月11日、全共闘は、大学当局への圧力を強めるべく、当局との交渉を打ち切り、全学封鎖にまい進する、という方針を決定した。『砦』p310
夕方4時、安田講堂で総決起集会を行い1500人が結集した。集会後、5~600人で工学部本部事務が置かれている工1号館封鎖を行なったのに続き、総合図書館の封鎖に向かった。同p316
長い竹ざおを持ったセクトの部隊を先頭にした集団は共産党の行動隊500人の反撃に遭遇し、東大では初の大規模なゲバルト戦になった。
この時の共産党の行動隊の指揮者だった宮崎という人物が後に刊行した著書で「相手を十分にひきつけておいてから一気に逆襲するつもりだった。全共闘が突入しきったところで笛を吹いて反撃の合図を出した.---その後も再三にわたって全共闘は攻撃を仕掛けてきた.---行動隊が本格的に反撃をくわえたため、その都度撤退し、最後には算を乱して逃げ出した」と得意げに書いている。小熊819~820
小熊は「ほんらい、上意下達の組織構成をとらない東大全共闘は、軍事行動には不向きな組織であるはずだった。そのため、ゲバルトの実行部隊は、----全共闘に参加していた各セクトの部隊に頼らざるをえなかった。そのため、共産党の行動隊に対抗すべく、東大全共闘は学外からセクトの応援部隊を呼び込むようになった。----だが組織力では共産党にとうていかなわなかった。」という。同p822
折原さんによれば「この時導入された民青のゲバルト部隊は「短い樫の棒を携え、黄色いヘルメットを着用した明らかに訓練の行き届いた」部隊で、「素人学生を最前列に配列し、全共闘の―‐‐‐長ゲバ棒を持つ集団と対峙し,----長ゲバ棒の第一撃が最前列の素人学生群を襲っても、すかさず背後の武闘専門家が、前面に躍り出て、長ゲバ棒の第二撃以前に数秒間滅多打ちにし、長ゲバ棒の烏合の衆を追い散らしました。流血の惨事でした」折原p203
小熊は「11月以前の東大全共闘にとって、ゲバ棒は武器というより象徴であり、一種の表現行為だった」。「初期の東大全共闘が持っていたゲバ棒は、長くて見た目は派手でも、材質のもろい杉材で、人を殴れば容易におれてしまうものだった」と書いている。小熊p822
角材の強度についてのエピソードを一つ書く。工学部の7号館か8号館の封鎖の後であることは確かだが、詳しい日時は憶えていない。
安田講堂前で、私を含め、工学部のスト実の呼びかけで100人ほどがで集まっていた時、「7号館/8号館に右翼が封鎖を解除しにやってきた」という知らせがあった。「よしっ」と角材を持ちヘルメットをかぶって隊列を組んだ。なぜか私は最前列にいた。
駆け足で工学部に向かっていくと、前から数人がこちらに向かって走ってきた。封鎖を解除しようとしていた連中だった。先頭にいた一人が、たぶん、空手か何かをやっていたのだろうが、私に跳びけりを食らわせた。列を組むために、横に寝かせて隣りの仲間と一緒に握っていた角材は、パリーンと簡単に折れ、蹴りか突きかを腹部に喰らった私は、息ができなくなり地面に突っ伏してうずくまった。メガネは飛んで、誰かが拾い上げてくれたときには縁が曲がり、片方のレンズはなくなっていた。直後のことはよくわからない。抱き起されたときにはもう連中の姿はなかった。
メガネが壊される被害はあったが、擦り傷程度で大したけがはなく、この小さな衝突は終わった。我々の部隊(?)が駆けつけたのを知って、号館封鎖を解除しようとした連中は逃げ、建物は防衛できた。しかし角材もヘルメットもこの衝突では全く役に立たなかったことは確かだ。
ゲバルトに関連してもうひとつエピソードを書く。
これも詳しい日時は憶えてないが、マスコミが盛んに全共闘の暴力を報道し始めたころだったかもしれない。あるいは69年の1月になって、近々、機動隊が導入されるということががささやかれ、安田講堂周辺ではぴりぴりしていたときだったかもしれない。
政治音痴の私は、暴力の行使に禁欲的であれ、というビラを書き、安田講堂の前で配った。大学当局と教授会による学生に対する一方的で不当な処分は、まさに権力の上に胡坐をかいた暴力的行為であり、許せない。しかし、正義が行われることを求める我々だからこそ、大学側の暴力的なやり方を批判する権利があるのであり、我々自身はできるだけ、暴力に禁欲的であるべきだ、というような、趣旨だった。その時のビラには、なまかじりで、「国独資〔国家独占資本主義〕支配下の現行教育システム云々」と他のビラをまねた情勢分析のようなものを書いた覚えがある。
安田講堂の前には、いざというときに備えて見張りに立っていた学生・院生が10人程度いるだけだった。ビラを読んだ一人が、私の胸倉をつかみ、「なんだこれは、ふざけるな」となぐりそうになった。
そのとき、「やめときなよ」と女性の声がした。モヒカン・スタイルのヘルメットをかぶっていて、私はテレビかどこかの雑誌で彼女の写真を見たことがあった。ゲバルト・ローザつまり柏崎千枝子だった。
もちろん彼女が私を知っているはずはなかった。しかし私は彼女を知っていた。というのは、そのころすでに結婚していたのかどうかは分からないが、彼女の旧姓は斎藤で夫の柏崎宏一君は、私と同じく東大YMCAの寮生で、私は彼とローザが恋人関係にあることを聞いていたからである。
柏崎君は革マルで、ローザはML派だった。YM寮では、党派が違う者同士の恋愛でうまくいくのか、などとうわさされていた。彼を寮の中で見ることはめったになかった。おそらくセクトの仲間と一緒に集まって活動し、そのまま外泊することが多かったからだろう。
68年秋にはすでに革マルと中核との間に内ゲバが始まっていたようである。あるとき、寮に戻っていた柏崎君も含め寮生数人で近所の銭湯に行った。行く手に数人の人影があらわれた。彼らが手に棒を持ちヘルメットをかぶっていたかどうかは分からなかったが、柏崎君は「アッ、ヤバイ」というと向きを変え、後方の横丁の中へと走って逃げた。「セクトに入ってると大変だなあ」などと我々は話しながら銭湯に行った。
その数年後、彼が総武線の線路上で死んでいるのが見つかった、と聞いた。2013年現在のキリスト教青年会会員名簿では、彼の名前が「帰天会員」のページにのっていて卒業年度は1972年となっている。「帰天会員」とはすでに亡くなった会員である。柏崎宏一君の線路上での死は、他のセクトとの武装闘争に疲れた末の自殺だったのではなかろうか。
学生同士でのぶつかり合いにおける暴力の行使について考えてみる。暴力の定義は難しい。手拳あるいは硬い棒で殴り、相手の身体を傷つけることを暴力だと呼ぶのに反対する人は少ないだろう。68年の闘争時点では、怒鳴ったり罵倒したりするのはもちろん、つかみ合いとか押し合いくらいまでは暴力には入らないと考えれていたことは確かだろう。
他方、医学部教授会が自治会活動家たちに加えた68年の処分、文教授会が67年に仲野君に対して加えた処分は、学生の諸権利をはく奪し人格を傷つけるもので暴力である。処分撤回を求め、戦術としてバリケード封鎖によって、闘争に反対する学生や研究者、教官が建物に入れなくする行為はどうか。人を傷つけてなくても一種の暴力であろう。
しかし、それは、大学当局に対し処分撤回を求める行為であって、その学生が当局の処分という暴力にさらされ続けていることから守ろうとする行為である。暴力であるが(学生身分を守るための)自衛の暴力である。もちろん、自衛のための暴力といっても様々な程度があり、人を傷つけたり必要なく物を壊すことは許されないだろう。
私は他者から暴力による攻撃を受けた場合には自分(あるいは自分の属する集団)が自衛のために行う暴力は許される、あるいは必要だと考える。だが、同時に可能な限りそれは抑制されるべきだと思う。
これは国家間の紛争についての憲法第9条の従来の政府の解釈=「自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められる」(2022年の防衛白書に書かれている)に似ているが、その解釈に従ったというわけではない。(9条2項における「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」を重視し、憲法の平和主義は、他国との間に紛争が起こっても、武力行使は一切しないという考え方もある。ところが安部政権のころから、憲法解釈がどんどん変更され、昨年には「敵基地攻撃能力」も自衛のために必要だとされ、軍拡政策がすすめられている。私は強く反対する。)
大学闘争において、私は今述べたような意味で、基本的には暴力行使に反対である。
1968年11月号『情況』誌によると、折原さんは8.10告示に対する批判の論文を発表しており、同誌編集部が、13ページにわたって、紹介(大部分は原文の引用)している。「東大の死と再生を求めて」がこの論文のタイトルらしい。
折原さんは、8.10告示が行っている、6.15の学生側の安田講堂の占拠を「不法な実力行使」であり、6.17機動隊導入は「理性の場」である「大学機能の回復のため」のやむを得ない措置だった、という言い訳を認めない。医学部で不当な学生処分を行い、これに対する黙殺を続けてきた「無視暴力」「黙殺暴力」を行い、そして6.17には国家暴力を用いた「当局は自らを自己批判せずに学生の暴力を云々する資格はない」という。同誌p79
他方で折原さんは「断わっておくが、私は学生の暴力を決して肯定しない」とも言っている。「ストライキ、軟禁、卒業式・入学式の阻止、安田講堂の占拠というという「不法な実力行使」に踏みきる前に、たとえば、「全学署名」というような、<理性の府>(というあるべき大学)にふさわしい手段を採用し、その正当な目的を達成する客観的可能性がなかったかどうか、と問うことは可能であるし、必要である。わたくしはわれわれの側の<無関心暴力>がその客観的可能性を著しく低めていたという事実を認め、深く反省すると同時に、なおかつ学生諸君に、右の設問に基づく反省を要望したい。そのなかで目的に対する手段の選択において、不適切な手段の採用は、目的そのものの正当性を大幅に減殺する随伴結果を伴うという問題をぜひ熟考してほしいと思う。」とも書いている。同誌p81
この論文は8月21日の日付になっている。この時点ではまだこうした主張が可能であったのかもしれない。しかし大学の側の暴力は「無関心暴力」や「黙殺暴力」にとどまるものでなく、11月の文学部団交で明らかになった、林健太郎と彼を学部長に頂く文学部教授会多数派が示した姿勢、自らの過ちは絶対に認めず、処分権限を居丈高に振りかざし、学生の権利など一顧だにしない、はるかに攻撃的な姿勢、<圧殺・弾圧暴力>が東大を支配しているのであり、学生側の<理性的>で「不法でない」手段選択を可能にする「客観的な」条件は存在しなかったと考えざるを得ない。
折原さん自身、のちに大河内に代わって登場する加藤一郎が、文学部教授会と一体となって、国家権力のむき出しの暴力を用いて、全共闘を叩き潰そうとしたことに対する、強い糾弾を行う。
10年後、文学部生は、東大当局の計画した百年祭・百億円募金に反対したとき(→第二ステージ第四部「東大百年祭闘争を闘う」)、前記『情況』折原論文がいう<理性的>で「不法でない」手段を用いた。すなわち署名活動である。
文学部生は、77年、当局が東大の創立百年を記念するとして計画した「記念事業」に反対し、4月から10回以上の話し合いを当時の山本信学部長と重ねて、東大の「業績」を誇り、企業から60億円もの金を募金することの問題性を認めさせたうえ、文学部生の大半をなす400名の募金反対署名を集め、学部長に突き付けることによって、同年10月26日「文学部募金非協力」の学部長声明を発表させた。
ところが今道評議員ら文学部教授会の策動によってこの学部長声明は「私的・個人的」なものだったと捻じ曲げられて反故にされ、山本氏は「引責辞任」の憂き目にあう。山本氏に代わって学部長となった今道は、10年ぶりに成立した学生大会決議に基づく「団交」要求には応じようとはしなかった。
こうして今道率いる文学部教授会は、いったん出された学部長声明を不法な仕方で破棄し、学生の声を黙殺し、反百年祭運動をつぶそうとしたのである。78~79年、今道は抗議闘争の中心的な活動家を「処分」しようとしたが、それに失敗すると機動隊を導入、文ホールで、抗議のためのハンストを行っていた学生らを逮捕させ、さらに、別件で活動家学生をデッチ上げ「傷害事件」で起訴させるという、これ以上「暴力的」ではありえない激しい弾圧を行なった。
文学部では、教授会が学生の活動・行動の是非を一方的に判断して処罰し大学から追放するという専制体制、最首さんの云う「抑圧的暴力」の専制支配が続いていたのだ。
第二ステージ第四部東大反百年祭闘争を闘う第1章~第4章参照
68年11月時点に戻る。
11月12日の総合図書館封鎖行動は民青のゲバルト部隊によって阻止されたが、その2日後、駒場共闘300名による教養学部第三、第六本館封鎖行動も、外人部隊を中心とした民青700名によって阻まれ、失敗した。
また、12日には理学部の、14日には法学部の学生大会で、「全学封鎖反対決議」、あるいは「全学封鎖阻止決議」が可決された。11.19工学部学生大会では、封鎖反対と、代表団選出を決議した。『砦』p320、p322、p349
危機感を抱いた全共闘は「全都の学友の支援」を要請。「18日・全都総決起集会」を呼びかけた。これに対して民青は「18日“全学封鎖”断固阻止」の訴えを出し、全国動員をかけた。
18日前夜には、全共闘側は全都動員で1千、民青側は全国動員3千が泊まり込み、民青側の数百は翌年1月17日まで教育学部を拠点として「常駐」した。
加藤総長代行は、「流血回避」のためにと、双方に「全学集会」を呼びかけ、18日には安田講堂前で全共闘との「予備折衝」を、19日には民青との予備折衝を行った。11月11日に「いったん、大学当局との交渉の余地はない、と結論した全共闘が交渉に応じたのは、民青との力関係における自己の不十分さを自覚したからである」という。
全共闘との予備折衝には、全共闘支持者を中心に8千名が集まった。民青と右翼の2千が挑発的なデモを掛けてきたが、全共闘側3千のデモではね返した。一方、民青側の予備折衝に集まったのは500人に過ぎなかった。『砦』p322、330
小熊によれば、「すでに大学側は、「七項目要求」のうち「文学部処分白紙撤回以外の6項目は受諾する方針を固めていた。また文学部で停学処分になった学生は、9月7日には処分解除が掲示されており、「白紙撤回」には大学側に自己批判を迫る象徴的意味しかなかった。
しかし全共闘側は、「七項目要求」の一括受諾を加藤代行に迫った。加藤代行は、これは予備折衝であり、評議会に持ち帰らなければ結論は言えないとしたうえで、文処分の撤回以外の6項目についてはほぼ受諾する方針であること、文処分については、「幅広い立場で」再検討したいなどとのべたが、全共闘側は「七項目要求」の一括受諾を求めて譲らず、結局物別れに終わった」という。小熊p833
他方、山本義隆によれば、「従来の制度・慣行にとらわれることなく問題を幅広く考える」と加藤は「はなはだ耳障りの良い言葉を繰り返した」が、彼が示したことは、医学部処分については「従来の制度慣行」に照らし合わせた時不備があったがゆえに撤回する(撤回できる)が、文学部処分は従来の制度慣行において何ら誤りは認められないので撤回しないというもので、文処分の事実〔築島助教授のウソも含む申し立て、本人聴取なしなど〕についてすら認識していなかった」という。『知性の叛乱』P158~9、
小熊の書いていることから、彼が文処分の内容を何ら確かめてないことが明かである。また、また、仲野君の停学解除はすでに掲示されており、その文処分の白紙撤回要求は「象徴的意味しかない」等という見方は、加藤代行よりもっと後退した文教授会の立場そのものである。
11月22日「東大・日大闘争勝利全国総決起集会」が開かれた。1万(2万とも)を越える学生が安田講堂前から正門まで、広場と銀杏並木を埋め尽くした。小熊p864f
11月末から加藤新執行部の新しい態度表明が伝えられ始めた。そして加藤は12月2日、「学生諸君への提案」という文書を発表し「提案集会」を呼びかけた。山本p276f。
そこでは8.10告示に関して一定の反省を述べ、文学部処分白紙撤回以外の「七項目要求」はほぼ受諾するとしていた。
文学部処分について簡単に振り返っておく。
67年10月4日、学友会と教授会の「協議会」で、教授会側が慣例を破ってオブザーバー排除を要求したことがきっかけで起こった。学生側がこの要求を拒むと教授会側は一方的に退席しようと、会場の出入り口に向かった。教官の築島は先に外に出て、入り口付近で教官の退出を阻止しようと立っていた学生の一人仲野君に手をかけ、強引に外へ引きずり出した。仲野君は何をするんだと抗議した。築島はこの時に仲野君が築島の「ネクタイを掴んで暴言を吐いた」、「学生にあるまじき非礼な態度であった」などと、自分が先に行った暴力的行為には触れずに教授会に報告した。これが「10・4事件」である。
当時の教育的処分のきまりに従えば、処分対象者から事情聴取をすることになっていたが、行われなかった。築島からの言い分をうのみにしてなされた、一方的で不当な処分であった。その結果、仲野君は無期停学処分をくらった。
この処分は、当時の処分制度を前提にしても、実際の事実とは異なる仲野君の行動(教官の退出を「阻止しようと」、「ネクタイを掴み」「暴言を吐いた」)を、築島が教授会に申し立てたことにはじまった「事実誤認による」、言い換えれば「事実のねつ造にもとづく」処分である。教授会は当然行なうべき事情聴取をせずに、この“えん罪”判決を下したのである。
仲野君は処分撤回を求めたが教授会は黙殺した。
しかし68年6月15日以降、医学部処分問題が全学化し、「七項目要求」で文処分白紙撤回が掲げられると、文教授会(そして大学当局)は、夏休みの最中に突然「停学解除」を行った。「停学解除」とは、「処分の撤回」ではなく、その日まで登校を許してはいなかったが、その日以後、登校を許すということであり、処分が完了したことを意味する。
後に、文教授会が「弁明」のために用意した12月1日付の「仲野君の処分問題について」という文書がある。当時評議員であった堀米教授が文書を作成した。しかし12月2日に加藤提案の発表がなされる前日であったことから、公表は半日でとりやめになった。(もっと詳しい説明を加えた「修正堀米文書」が12月末に作られたが、それも発表は取りやめになった。)
『砦』p304~307に<資料2>として掲載されている堀米文書では、
「従来の慣行から見れば、停学処分の解除はつねに本人の反省を前提としていたのに、仲野君は最後まで反省の意を明示せず、あまつさえ、停学中には禁ぜられている自治活動に従事し、のちには、文学部学生大会の議長にまで立候補し当選している。その点から見れば、この停学処分の解除は、きわめて異例の措置であったと言わざるを得ない。」と解除措置の矛盾を認めるが、それには、理由があるという。
一つは、この停学は「有期停学の了解の下に行われた」ということ。〔これは勝手に言われていることで、本人の「反省」が無ければ解かれない無期限処分であった。団交中の堀米教授の発言も参照。『砦』P290 〕
そして、それ「以外に、教育的見地に基づく他の理由があったのである。」として、「処分の発効以後、学友会委員は直ちに反対闘争を起こしたのであったが、----約半年間、定足数に達する正規の学生大会を開くことはできなかった。しかるに、---医学部問題に端を発した大学の紛争が、卒業式、入学式当日の妨害事件、粒良問題についての全学的疑惑によって、文学部学生間にも、大学批判の空気が強くなり、この間にも一貫して継続されてきた仲野君処分反対闘争を有利にした---。中野君の大会議長当選が発表された6月14日に続く6月15日には、安田講堂第一次占拠が起こり、その排除を目的とした機動隊導入は6月17日に行われた。その結果として起こった騒然たる空気の中に開かれた6月19日の文学生大会は空前の盛況を見せ、ストライキの決議にまでいたった。」
ここまで読む限り、全共闘のビラの中で書かれていてもおかしくない、当時の状況の報告である。だが、この文書は次のように、停学の解除が「教育的」観点からなされたものだという。すなわち
「仲野君の学生大会議長当選をめぐる右のような事情は、同君をして自治会活動をいよいよ熱心たらしめる条件となったことは自然であり、事情の赴くままに委せたならば、本来有期停学と了解されていた同君の処分を解除すべき機会は、半永久的に失われざるを得ない結果になったであろう。こうして停学が事実上の退学におわる恐れが濃厚になったので---解除に至った」のだと。
そして「学生側は---この解除をもって政治的措置であると批判する。---〔だが〕文学部がこの異例の解除に踏み切ったのは、---もっぱら教育的見地によるものであった。規則の順守は必要であるが、教育の場においては、教育的見地が規則や慣行の単なる墨守に優先するものであることを認めなくてはならない」という。
この文書が、仲野君に対する停学処分の解除について、いささかなりとも「弁明」になっていると考える人は、当の文書を作成した堀米教授(とそのグループ)以外にいないのではないだろうか。むしろ、他の誰が読んでも、この処分解除が、処分の既成事実化と反対闘争の圧殺を狙って「政治的」に行われたということが明白に語られていると考えるのではないだろうか。
それ同じことを文教授会の他のメンバーが(そして加藤執行部も)感じたがゆえに、この文書の配布は途中で中止されたのではないだろうか。
折原『東大闘争総括』p184~192、p198,206、211~224、244~254も参照せよ。
文学部処分が(教育的処分を前提にしても)内容的(事実のねつ造)、手続き的(事情聴取を行わなかった)に不当であったことは上で述べたが、林学部長との団交における林の発言から、文教授会のなお一層の問題姿勢が浮かび上がってくる。
「8日間団交」の中で学生が林学部長に次のように問う。
「学生:文学部協議会での教官退場の際、築島教官をはじめとする教官側の強引な行為があったわけだが、あなたはそれを暴力的行為とみなさない。そしてそうみなさない理由として、その行為の原因や背景を問題にしている。しかし、一方で、教官側のそのような強引な行為に抗議し阻止せんとした仲野君の行為については、その行為そのものを即自的に問題にし、彼の行為の原因なり背景なりを問題にしていない。これはどういうことか。」
「林:ある事柄の事実認定や価値判断に関して学生側と意見が対立する場合どうするかという問題だな。その場合、教官側は学生の言い分もいろいろ考えるけれども、しかし、教官側がそういうことを聞いた上で、やはり正しいと思った考えで決めるわけです。処分の権利は教官側にあるんですよ。」
「教授としては、会(文協)は終わったことであるし、教授会に行かなければならない。ところがドアのところに仲野君がいたから、体と体がぶつかったことは当然です。このことを築島教官が仲野君に暴力を働いたという人があります。しかしこれについても、言われているような暴力ではない。これは外へ出るためにやむを得ず体に触ったことである。これにたいして仲野君が教官にやったことは明らかに暴力行為である。しかも、これは処分に値する。そう認定したわけです。」『砦』P292~293
つまり、学生と教官の間に身体的接触が起こった場合、教官の方からぶつかっていったとしても、どちらが暴力をふるったことになるかは教官が認定する。また、教官側の行為についてはその原因や背景を考慮するが、学生の行為に関しては考慮しない、そして学生の行為が処分に値するかどうかを決めるのは教官である、と林は述べている。
文学部とは、学生の行為に関して、客観的な事実であるかどうかを判断する第三者はおらず、教授会側が検察官と裁判官を兼ねて、学生の罪状を認定し判決を下す教授会独裁体制の部局だと林は宣言しているのである。
文学部では70年に、藤堂明保、佐藤進一の二人の教授が、仲野君処分における過ちを知りながらそれを隠蔽し、処分撤回をもとめる声を圧殺し続けた文教授会多数派を批判、抗議退官した。藤堂さんは69.1.18~19「安田講堂事件」等の被告に対する東大裁判では、裁判所に対して提出した「特別弁護人申請理由書」のなかで次の様に述べている。裁判闘争ニュースNo.21参照
「一、私は----東大闘争の前後を通じて文学部教授として在任し、その間における文学部教授会及び東大の教師一般の動きをよく知っております。また東大における教育のひずみ、あさましい大学の体質をみずから体験し、それゆえにこそ何が共闘派学生を立ち上がらせたかを感得しております。被告側の防衛の権利を補充するために私が特別弁護人になる必要があります。次にその例として二点だけ説明します。
二、共闘派が掲げた「七項目要求」の中には、「文学部処分を白紙撤回すること」が含まれています。この処分とは、昭和42年10月4日、文学部協議会において築島裕助教授に対して学生の仲野雅君が「非礼を行った」というかどで同年10月15日文学部教授会が仲野君を「無期停学」の処分にした事件です。この事件は、その原因と実情とを詳査することなく教師側が一方的な処分をくわえて学生を弾圧したものとして、昭和43年6月共闘派決起の時に、すでに七項目要求の中に掲げられたのです。
トラブルの実情を文学部首脳は隠そうとしましたが、この事件は「処分」に該当しないことを私はやがて確信するに至りました。しかし同年11月4日からの一週間に及び「文学部団交」に手を焼いたため、文学部教授会はいよいよ硬化して、20数名のタカ派教師が加藤総長代行に対して絶対に処分を撤回させぬよう書面で要求しました。
加藤代行は共闘派との接触の中で「医学部処分の撤回」、「東大パンフの破棄」、「8.10告示の破棄」などを決心したものの、文学部処分については措置に窮し、12月4日みずから文学部教授会に出席しました。席上私は白紙撤回を強く主張しましたが、大勢は頑として動きません。そこで12月10日加藤代行は「今までの処分観と制度のもとでは、文学部処分を変えることは難しいが、問題はそうした処分観や制度にあるので、それを変えていくという積極的な態度を明らかにしたつもり」(12月9日「学生諸君へ」)といって文学部教授会をかばいながら、一方では学生をなだめようとしました。
しかし共闘派は文教授会の無反省な体質を見抜いているゆえに、このごまかしには乗りません。入試の決定に迫られた加藤執行部は、共闘派との接触を断念して、12月中旬から民主化行動委・教養自治会などの民青系・ノンポリ学生と組んで強引な収拾を策する方向に急旋回したのです。
かくて翌年1月10日の「七学部集会」において「文学部処分は新しい処分観と処分制度のもとで再検討する」(すべての学部代表団が署名せず)というごまかしの案を提示したうえ、頃やよしと1月18日19日安田講堂に総攻撃をかけたのです。この悲劇を招いた直接の原因は文学部教授会の頑迷固陋な体質にあるのです。
三、昭和44年3月12日、文学部「第二委員会」はようやく「処分に事実審理の客観性が欠けていた」「また〔仲野君の〕上告の可能性もなかった」、「仲野君の受けた不利益を消去しよう。それを白紙撤回と学生が見るなら、それもやむを得ない」という妥協案を提出しましたが、文執行部はそれをも握りつぶしました。6月に至って文教授会にはハト派が台頭し、8月始めハト派執行部(堀米学部長)が成立します。かくて「処分問題委員会」対策を検討した挙句、9月27日「文学部は当初の見解を依然として変えていない」、「しかし旧処分制度への決別とともに、仲野君の処分を消去する」「反省すべきところは反省」「正すべきところは正したつもりである」と発表して居直りました。処分以来実に2年間の曲折をへたものの、文学部はついに面子を押し通して振り出しに戻ったのです。
かくて10月13日、文学部は機動隊を背後において、授業再開を強行し、その後1か月にわたる弾圧を繰り返しつつ、多数の学生を告発して逮捕させ、最後まで健闘した共闘派をもみつぶしたのです。以上、共闘派への弾圧の先頭に立ったのは文学部であることは明らかであり、私はその経緯を熟知しております」。
以上が東大裁判の「特別弁護人」として認めてもらうべく、藤堂さんが裁判所に提出した「特別弁護人申請理由書」である。〔段落などは須藤による。〕裁判で被告の弁護に当たることができるのは弁護士資格を有する人だけで、特例的に裁判所が「特別弁護人」を認めることがある。東大裁判では多数の有識者が特別弁護人の申請を行なったが、裁判所が認めたのは、折原さん、一人だけだった。
(*)注:折原浩『東大闘争総括』第Ⅴ部「東大闘争 5 文処分撤回闘争の継続と帰結」(§75~§81)に、上で藤堂さんが述べている事とほぼ同じ内容が詳しく述べられている。
ただ、折原さんは「文教授会は、この不都合な事実の直視は避け、責任は回避しました。しかし処分は取り消しました。事実上、白紙撤回です。ですから全共闘の七項目要求が、残された唯一の文処分の項目についても事実上貫徹され、東大は完敗したのです。」という。そして、
「1967年秋以降の東大紛争の全経過を通観しますと、ある組織の現場を議論により、理非曲直に則って根底から民主化することがどれほど困難か、よくわかります。同時に全共闘が、医処分という瑕疵の明白な大量迅速処分に続けて、文処分という(相対的には)隠微な小案件についても、そうした困難にめげず、追及を緩めず、------文教授会と東大当局の非を認めさせ、(だからこそ)処分の取り消しにまで追い詰めたのは、実に画期的な闘いだったと評価しないわけにはいきません。」と書いている(§79)。
全共闘の「七項目要求」は、このような教授会独裁体制によって行われた文処分の白紙撤回を求めていた。だが、加藤提案は他の要求項目をほぼ認めるとしているが、文処分撤回要求については拒否した。
加藤は11月18日の全共闘との予備折衝で「大学において平和的な手段はゆるされるけれども、人のからだに手をくわえて、人が出ようとするのを制止する行為は許されない。それについては、大学としては教育的見地から処分すべきだということだ」と、文学部の公式説明に従って仲野君の行為はホールの中での築島教官の退出阻止だとみなしている。
だが、12月1日の(半日で配布中止になった)堀米文書では仲野君は「扉の外に出ていた築島のネクタイを掴んで大声を発し、罵詈雑言を浴びせる行為に出た」と変わっている。(先に外に出ていた築島が扉内にいた仲野君を乱暴に外に引きずり出したので仲野君が抗議したのである。)加藤は「8日間団交」の林の発言「学生がやれば暴力だが教官がやれば暴力でない」を知っているし、また、藤堂さんの「特別弁護人申請書」にあったように、加藤は、文学部教授会に出席し、藤堂さんが処分は白紙撤回すべきだと発言したが教授会の多数派が処分を押し通す強硬姿勢であったことも知っていた。
しかし加藤は12月2日の「学生諸君への提案」の中では
「この処分は当時の手続きや基準からみて正当になされたものであり、それを白紙撤回せよという要求には応ずることができない。われわれは従来の規則や慣行にとらわれずに幅広く検討するという基本的立場に立って、あらためて十分検討を加えてみたが、ほかの措置をとるだけの納得できる理由を見出すことはできなかった」と言う。
こうして、加藤は、文学部の処分について、「改めて検討してみたが」「正当だ」として撤回を拒否した。そして69年1月に入ると、国家権力の手を借り、むき出しの暴力によって、文処分撤回要求を掲げて安田講堂の占拠を続ける全共闘を弾圧する。
折原さんは77年に公刊された『反東大・反百年祭』のなかで、
「扉内における退出阻止行為ではなく、扉外における築島先手への後手抗議であるという事実は歴然としている」したがって「事情聴取も対質も怠り、問題の行為の場所も、情況における意味も間違って認定した文学部の仲野君処分は決して適法でも正当でもない」。
加藤の権限からすれば、「十分に検討」しようとしたなら、堀米文書、修正堀米文書を見ることはできたはずで、10.28の文学部の公式見解における事実の説明が正しいくないことを見抜けたはずだ。本当に検討したのにそれがみぬけなかったとしたら阿呆だ。それとも加藤執行部は事実認定問題などまったく再検討せずに、それでいて「あらためて十分検討をくわえてみた」などと偽ったのかと、加藤を強く糾弾している。
、
折原浩<大学論>『反東大・反百年祭―教員の視点から』東大文書館digitalarchive F0228(最首悟関係資料)/0011/0021(p26~27)
他方、国立歴史民俗博物館研究報告 第 216 集(2019 年 3 月)掲載の『東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説』で、九州大学の歴史学教授清水靖久は、第三者(1954年生まれで、東大闘争時は中学生)として、東大闘争における文処分問題について考察している。
処分の根拠は、懲戒に関する学部通則二五条「1.学生が本学の規則に違反し、又は学生としての本分に反する行為があったときは,学部長は,総長の命により,これを懲戒する。2.前項の懲戒については,評議会の議を経なければならない。 3.懲戒は,退学,停学又は譴責の処分とする。」にある。
この懲戒の規定では,「学生としての本分に反する行為」とは何かが議論の的になるが,1967 年 12 月 19 日の「評議会記事要旨」が修正されているため,「評議会の議」にも不可解な点がある,と言う。
「山本達郎文学部長の説明として,去る 10 月 4 日の文学部協議会の流会後,「仲野雅(タダシ)は退席しようとする築島助教授のネクタイを引っ張るなどの乱暴を働き,それを阻止しようとした他の教官に対しても,学生にあるまじき暴言をはいて騒ぎ立てた」とタイプ印刷された発言が,「仲野雅は退席しようとする築島助教授のネクタイをつかみ,学生にあるまじき暴言をはいて騒ぎ立てた」と手書きのインクで修正されている(写真 1)。もう一か所,山本の発言の三行分も抹消されている。
これらについては,68 年 2 月 20 日評議会で配布された 1 月 23 日の「評議会記事要旨」には「総務部長前回記事要旨を朗読,別紙のとおり修正のうえ承認された」と記されており,こっそり修正されたのではなく,1 月 23 日の評議会で修正発言があって承認されたことがわかる。」
「そのようにして 1967 年 12 月 19 日の評議会で仲野の処分が決定された。山本文学部長の発言が次回評議会で修正されたのは,発言の記録が不正確だったからというよりは,発言そのものが不正確だったからだろう」、と清水は言う。
「処分された仲野の行為は,12 月 19 日には築島助教授への乱暴と複数教官への暴言だったが,1 月 23 日には築島助教授への暴言に限定された。これは,仲野が暴れまわった印象を与える誇大説明で処分を決定し,一か月後に処分対象の行為の事実を変更したものであり,裁判でいえば,判決の確定後に起訴事実を変更するようなことだろう。1 月 23 日の評議会で,疑問や異議が出なかったのだろうか。ともかく文学部処分は,事実が誇張されて決定された。そのことは紛争中はもちろん,ずっと知られていなかった。」
こうした、清水の指摘からも、大河内体制下の文処分の不当性がうかがわれる。
清水はさらに、
「大河内総長退陣直前の 10 月 28 日,東京大学弘報委員会「資料」第 3 号に「文学部の学生処分ついて」が掲載された。問題の行為は「教授会側委員がすでに開催中の教授会へ出席するため退席しようとしたところ,一学生が退席する一教官のネクタイをつかみ,罵詈雑言をあびせるという非礼な行為を行なった」とされた。処分は正当とも適法とも主張しなかったが,「本処分については,学生側に種々な批判や非難が存しており,いわゆる「七項目」の一つにも含まれているが,非難の多くは根拠のないものか,又は誤解にもとづいている」として,六点の非難に反論した。学生が扉内で教官の退席を阻止した「非礼な行為」というのが,それからずっと(翌年 9 月 まで),文学部の公式説明でありつづけた。」
と書いている。
また、清水は、加藤代行の4人の特別補佐、福武,植村,坂本,鈴木が、69年3月から6月にかけて行った5回の会議の録音テープをまとめた記録「=補佐の記録」に基づいて、加藤代行らが新制度での文学部処分の再検討に傾いたのに,林文学部長らが抵抗したことを明らかにしている。
林文学部長は,11 月 20 日に健康回復の挨拶で堀米,岩崎両評議員とともに来て,加藤代行に「仲野処分は譲ってくれるな」と申入れたし,同日の文学部教授会で 40 名が署名した要望書が翌日加藤代行に届けられた。
------福武が 11 月に文学部で発言したところ,「暴力に対し毅然たれ」と大変な反発だったという。そのころ加藤執行部が各学部から集めた意見では,文学部からは「文学部処分については必ず文学部の意見を徴して決めてくれ」との硬い態度が記されていたという。
加藤は,仲野を「恩赦ないし復権」する心づもりであり,11 月 18 日の安田講堂での全共闘との公開予備折衝でもそのつもりで話したという。12 月 2 日の「学生諸君への提案」では仲野処分を「新しい処分制度の下で再検討する」と提案するつもりだったが,林に電話して断られ,「新しい処分制度の参考にする」と提案するにとどまった。------林は,12 月 17 日の学部長会議で「新制度の処分でも仲野処分は処分に値する」と発言したし,26 日の加藤の「「提案」をめぐる基本的見解」に対しても,27 日の学部長会議で「これ以上譲られると,学部長はしておれん」と言った。
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12 月 20 日すぎには助手たちが危機打開のために動いた。それまで加藤執行部と共闘とのラインは二本あったが,それが 23 日には切られて,新しい接触が生じた。------農学部助手の岡本雅美から補佐の鈴木に接触があった。
------大内が共闘への話合い申入書とメモを書き,加藤が直して,夜 10 時すぎ加藤が岡本を通じて農学部の島地謙助教授の部屋で最首に会った。最首が申入書とメモを時計台に渡し------山本〔義隆〕らは,翌 24 日夜 7 時から代表者会議にかけて 11 時すぎに返事すると約したという。
12 月 23 日は全共闘による法研封鎖が行われるというので、加藤らは農学部に本部を移し,15 時ころ法研が封鎖された。加藤が共闘会議に最後の申入れをしたのはその夜だった。24 日夜遅く最首から連絡があり,
翌 25 日朝,加藤は植村に,もう共闘とは切れたと,はっきり言ったという。
この加藤の「最後の申入れ」については後で、再度ふれる。
こうして、結局、加藤執行部は文処分撤回要求を全面的に拒否し、また、医学部処分についても、研修制度と医学部の改革を求めた正当な闘争に対して活動家を狙い撃ちにして大量処分を行った医学部教授会の病根には全くふれずに、今後の「大学改革」を云々していた。
他方で、当局は、12月6日の記者会見で、「このままでは〔つまり全学ストが続くと〕3月31日に、卒業、進学級させることは難しい。年内に授業が再開できない場合や授業再開の見通しがつかないと、入試の取止めもありうる」と学生を「留年」で脅かし、また「入試中止」の可能性をちらつかせ、「学内紛争」が社会問題化/政治問題化する前にストを解くよう催促した。小熊p881,山本p283~284
加藤執行部が11月29日、「紛争収拾」のために行おうとした図書館前での「提案集会」を、全共闘は2千名の結集で「木っ端みじんに粉砕」した。『砦』P371~375
また12月2日、全闘連と駒場共闘の部隊で教養学部第8本館封鎖を行った。しかし、この封鎖は十分な結集なしで行われたため封鎖後孤立せざるをえなかった。同p377~386
他方、民青は(たびたび内容を変更したが)4項目要求のうちの「全学運営協議会の設置」という項目に基づき秋以降「統一代表団」運動を行っており、教育学部では、10月20日に代表選出をおこなっていた。しかし、この運動は人気がなく進展しなかった。小熊p808~811
他方、加藤提案に応え、ストを終わらせ闘争を収拾しようと、経済学部では町村信孝をリーダーとする経済学部有志が、法学部では瀬山俊一らをリーダーにした法学部懇談会が、自治会の「代表」を選出しようとした。
12月5日までに、工・経・理・農・法の学部では代表の選出が終っていた。選出された代表は、民青と「一般学生」から成っており、要求項目はまちまちであった。だが、封鎖反対で一致しており、いずれも闘争の収拾を目指していた。全共闘は代表団選出をボイコットし、無期限ストを継続しようとした。砦p386、小熊p882~883
文学部でも収拾派の要求で学生大会が開かれた。ほとんどの学部でなだれを打って代表団選出が進むなかで、収拾派有利の予想に反し、「加藤提案粉砕、全学封鎖貫徹、7項目全面貫徹」を掲げるスト実提案が315:201:28の圧倒的多数で採択され、有志6者の「封鎖反対、統一代表団選出、7項目貫徹」を掲げる提案は同じく圧倒的多数で否決された。砦p387
また、12月13日の工学部学生大会では、443:317:70で、「加藤提案拒否」を決議した。砦p391
教養学部では、民青・右翼の収拾派は代表団選出のために代議員大会開催を、招集権限を持つ今村教養学部自治会委員長に要求した。今村委員長は11月5日の代議員大会の決議(「7項目貫徹まで、全学無期限スト、全学部封鎖で闘おう」)の有効性の承認を求めた。
これを認めることができなかった収拾派は、委員長招集のない “でっち上げ” 代議員大会を12月13日に開催した。当時、駒場では反帝学評と革マル派の内ゲバが激しくなっており、200名の駒場共闘は十分な結集をえられず、民青都学連500名のゲバ部隊などに守られたこの収拾派代議員大会に介入はしたが粉砕できなかった。『砦』p391~404
文学部、医学部、およびいくつかの系の大学院などの「代表」選出は行われてはいなかったが、民青と収拾派は、代表団選出は基本的に完了したと、当局に、ストライキ解除のための花道である全学集会開催を求め、12月16日に当局と「代表団」の公開予備折衝が行われることになった。会場は、安田講堂前の広場に面し、銀杏並木を挟んだ法文25、31番大教室に設定された。
15日(日)、安田講堂では学生・市民参加の日大闘争報告大集会が開かれ5千名が参加した。その日の夕方、全共闘は、全闘連と駒場共闘を中心とする600名の部隊で「予備折衝」会場の両教室を封鎖し、16日には2千をこえる学友が結集して、「大武装デモンストレーション」を展開、予備折衝を粉砕した。
他方で、直後に出されたビラでは、反帝学評と革マル派は内ゲバにより「闘争の戦列を離れ」、「東大闘争の進展を阻害している」等としてきびしく批判された。そして、15日、16日の駒場共闘と全闘連を先頭にした闘争は、セクトに依存することなしでも全共闘が闘いうることを示した、とも述べていた。『砦』p412~421
民青は自己の破産を糊塗するため、16日に、当局に「公開予備折衝」の18日開催を申し入れ、他方で『全学連』の名で全国統一行動を当日東大で行うべく動員をかけた。しかし、それも、全共闘の確固とした決意と行動の前に、翌日、非公開開催へと後退、結局はこれも中止せざるをえなくなった。『砦』p430~431
代表団の中に、民青とそれ以外の、スト解除のみを目指す部分との亀裂が生じはじめ、民青は「四項目要求」を放棄し「要求項目は七項目でよい」とし、「全構成員自治」を放棄、大学院生、東職を正式代表とせず、オブザーバーでよい、協議会問題を議題としない、など自殺にも等しい譲歩で、右派にすり寄った。一方、教育学部を拠点に外人部隊の常駐体制を拡大した。
他方、人文系院生が当局を批判し修論提出をボイコットするなど新たな戦線の拡大があり、教官のなかにも、当局を批判したり、全共闘支持を表明したりする人も現れた。『砦』p434、445
12月23日には、法学部闘争委員会、法共闘を中心に約600名の武装行動隊が、安田講堂に代わって事実上の大学本部となっていた法学部研究棟を封鎖、正門から解放講堂に至る銀杏並木の建物はすべて封鎖された。小熊894、『砦』P447
「早期解決」路線が破綻し、留年・入試中止の「タイムリミット」の影におびえる民青は、医学部において「スト破り118名」と結託して署名を集め、24日、医学部医学科学生大会をデッチあげようとした。
闘争収拾のためのこの医学科「学生大会」は、会場をひそかに理学部の建物に移して開催された。青医連と医学部生を中心にした全共闘は、教育学部から出撃してくる民青の「防衛隊」の妨害をはねのけ、この学生大会を糾弾、粉砕行動を行った。収拾派が目的とした代表団選出は「オブザーバー派遣」に変えられた。『砦』p448~450
文部省と東大当局が協議、加藤「東大の危機」と煽り立て、全共闘「全国の学生ゼネスト」の呼びかけ
12月23日、文部省と東大当局が、入試の扱いに関して初の協議を行い、26日には二回目の協議を行った。
こうした動きを前に、法・経でストライキ解除へのなだれ込みが起こった。25日の法学部学生大会では、法学部学生懇談会による無期限スト解除提案が431:333:37で可決。26日の経済学部学生大会で、すでに「代表団」運動に加わっていたストライキ実行委書記局提案のスト解除が賛成266:173:26で可決された。
「民青はあまりにも露骨なこのスト解除に同調することはさすがにためらい、大学当局及びスト解除派学生とボス交を行い全学集会開催工作をする。その最終的な布石が、26日、三鷹天文台〔東大の附置研〕で開かれた非公開予備折衝であった。その日加藤代行は「『提案』をめぐる基本的見解」を発表、「東京大学は文字通り存亡の危機に直面している」と「危機」を煽り立て」た。『砦』p451~452
加藤代行の「最後通告」
教養学部助手最首悟さんは後の東大闘争裁判時の「特別弁護人申請理由書」のなかで次の様に書いている。
「---私は東大全学共闘会議の一員として、大学当局と全共闘との数多くあった交渉ルートの中で、直接に加藤総長との交渉にあたった唯一の存在であり、1968年12月24日、大学当局が全共闘に最後通告をつきつけ、当局側が交渉をみずから断ち切った経過を熟知する者の一員である。また1969年1月17日に出された退去命令の不当性は、1968年11月から12月24日までの全共闘と大学当局との交渉経過を明らかにすることによって暴露されると考えるものである。
8.10告示を最終方針として打ち出した際と全く同じように、12月24日最後通告を発し、全共闘に屈服か徹底抗戦かの二者択一を余儀なくさせた大学当局の実態の暴露なしには、1.17の退去命令の当・不当は扱えないと私は確信する。しかるに加藤代行は1968年12月29日の記者会見において「今は共闘会議と接触が切れているが、我々としては交渉の道を閉ざしてしまったわけではない。向こうが拒否しているだけだが、いまのところ見通しはない。」(毎日新聞68.12.30)と黒を白と言いくるめる発言をぬけぬけと行っている。
大学当局が東大闘争の解決よりも「入試実施」を至上優先させたとき、全共闘の弾圧が用意されることも含め、とくに加藤一郎証人に対しては、〔中略〕被告、弁護人と協力して私が尋問を行うことが、このような欺瞞に満ちた言い抜けをゆるさず、真実を明らかにするために、絶対に必要であると考える。〔以下略〕」
「東大闘争裁判ニュース」No.21、『資料・東大裁判闘争』p346、なおこの「最後通告」は次に清水が詳しく書いている「最後の申入れ」と同じことを指すと思われる。
加藤代行の「最後の申入れ」
清水靖久によると、加藤代行は、12月23日に次のような申入れを全共闘に対しておこなった。
申入書
諸君の要求項目につき,諸君の考え方をもう一度よく聞き,それに対するこちら側の新な考え方に立った意見を述べ,相互の一致点を見出すために努力する機会を早急にもちたいと考える。
その時期・場所・出席者については協議してきめたい。
昭和四十三年十二月二十三日
総長代行 加藤一郎
共斗会議 御中〔以上 1 枚め〕
新しい考え方とここでいうのはたとえばつぎのような諸点である。
(a)医学部処分が客観的に政治的処分の意味をもったことは否定しない。
(b)文学部処分について,
(1)それがいわゆる「教育的処分」の問題点を明確にしたものであり,旧来の処分制度は教
授会の主観的意図にかかわらず,学生の自治活動への規制手段となる危険性の大きいも
のであったことは認める。したがってわれわれはこれまでの処分制度を大幅に改め,大
学の構成員の参加した処分制度を樹立したいと考える。
(2)仲野君の処分自体については,右のような処分制度の変更の上に立って再検討する用意
がある。
(c)八・一〇告示については,すでにすべての内容が失なわれていると考えるが,一定の時期
においてこれを廃止してさしつかえないと考える。
(d)医学部の責任問題については評議会において善処する用意がある。
(e)矢内原三原則の停止はすでにきめているが,いわゆる「 東大パンフ 」についても〔以上
2 枚め〕これを廃棄したうえ,学生の権利を大学の中において正当に位置づけるつもりである。
加藤は,23 日,島地を通して岡本に連絡し,夜 10 時過ぎ時計台から来た最首に話し合いを申入れ,申入書とメモを渡したところ,11 時半に申入れは受けたという返答があり,翌日返事するとして,メモを返してきた。翌 24 日夜 11 時に松田智雄交渉委員長に拒否回答があり,加藤は最首と電話で30 分くらい話したが,最首は「代表者会議でずいぶん議論したけれども,会わないことにきめた。新しい提案の内容も思想的には従来と変わらない。それで信用はできない」と言った。
残った問題点は二つ,8・10 告示撤回問題つまり医学部処分が政治的弾圧だと認めるという問題と文学部処分問題で,加藤は「文学部処分のほうは,これは向こうもそれほど本気ではないだろうと思っていたわけですけれども」,最首は「自分たちはやはり処分自体を問題にしているので,改革を求めているわけではないのだ」と言ったという(写真3)。
加藤は「できれば共闘を巻き込んで全学集会に持っていきたいということでだいぶ努力をした」が,これで民青ほかの七学部集会に乗ろうと決心した。その 24 日夜は,七学部代表団のうち無党派的な経工の代表と 2 時過ぎまで議論して,藤岡克次や町村信孝や波多野琢磨が共闘的な発言をしたという。翌 25 日の朝,最首との電話のことを話した加藤は,「これで切れた」と植村に言ったという。
加藤執行部から共闘会議への働きかけはそれで終った。
そのようにして 12 月 26 日からは,先に共闘に示した提案を文書にした「基本的見解」を七学部代表団に示し,七学部集会へ向かって進んだ。
12 月 26 日の「基本的見解」では,12 月 2 日の「提案」をもとに,文学部処分などで前述のようにかなり譲歩した。「補佐の記録」では,これ以後加藤執行部への風当りが強くなったという。12 月 27 日に福武が所属の文学部で仲野の復権を力説したら,学生関係の第二委員(委員長は田中良久)と堀米が問題にもせず,林も学部長会議から帰ってきて「もうこれ以上---〔譲ったら学部長はやってられん〕」と言ったという。
加藤執行部としては仲野の復権なら「当時としては妥当であった」ことになり,文学部のためにもいいだろうと考えていたが,文学部教授会としては新制度の下でも仲野の事件は処分に値するという意見であり,11 月の強硬論からやっと再審査に応じるところまで動いたが,再審査しても処分に値するという考えは変らなかったという。
以上が加藤代行の「最後の申入れ」について清水靖久の述べていることである。
これを読むと、加藤の文処分の撤回拒否は文学部・林執行部の強硬姿勢によるところが大きいことがわかる。とはいえ、加藤は「仲野君の復権」を認めるとは言っているが、処分の評議会への上申から「停学解除」の決定まで、処分の「政治性」について何も触れておらず、文当局の責任についての言及もない。結局、加藤「提案」は「堀米文書」と同じレベルである。加藤執行部は「文学部処分の撤回と自己批判」の要求を拒否したのであり、「時計台のなかの指導者( 山本,今井,三吉,最首 )」たちによる、断固として闘い続けるという判断と決定は正当だった、と私は思う。
全共闘は年明け、69年1月1日付けの「アピール」で「12.2加藤提案」「12.26見解」は七項目に応えていないだけでなく闘争の収拾を通じて新たな学生管理支配の方針を明らかにしたものだ、と批判。
「現在、当局・民青・右翼による学内収拾策動を補完して、政府文部省・当局結託しての入試問題をバネとした社会問題化による反共闘会議キャンペーンが存在する。だがその背後には、当局による休校措置、機動隊導入を含む暴力的闘争圧殺が着々と準備されつつある。かかる弾圧は個別東大の問題としてあるのではない」という。
そして、すでに上智大の闘争に対して、機動隊を駐屯させ闘争圧殺を行っているが、同様に権力は教育大、外語大等においても闘争を圧殺し、全国学園闘争を各個撃破しようとしている。そこには70年安保沖縄闘争に向け激化昂揚する学生運動圧殺を狙う強力な治安対策が読み取られる。東大、日大を頂点とする全国の学園闘争の敗北は学生運動への反動的支配を許すことになる。全国学生の連帯でこうした権力の目論見を粉砕しなければならない、として「個別学園の闘争より全国学生の総決起」、「全国の学生ゼネスト」を呼びかけた。砦p456~458
全共闘は1月6日、スト解除を目指していた農学部学生大会を粉砕し、8日には農学部1、2号館を封鎖した。この2つの建物の封鎖は、「全学集会」の会場となり得る農学部グラウンドを押さえる要地の占拠をも意味した。
1月9日、全共闘は「1.15 東大闘争勝利・全国学園闘争勝利、全都総決起集会」開催を発表した。これは「東大闘争の質を---全国闘争へとおしひろげて行き、1月中旬あるいは下旬における全国学園ゼネラルストライキの第一歩として位置づけることができる」ものであった。 『砦』p462~467
1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部代表団と加藤執行部との「全学集会」
こうした中で、不当処分撤回を求める闘いが続いている本家本元ともいうべき医学部と文学部を含まない、七学部代表団と加藤執行部との「全学集会」が1月10日秩父宮ラグビー場で開かれた。
小熊によれば、「全学集会前日の1月9日、全共闘は3千人を集め、民青の拠点である教育学部と町村ら無党派有志が執行部を握る経済学部を襲撃した」という。
小熊が、柏崎千枝子(『太陽と嵐と自由』)に依拠して書いているところによると、全共闘は全学集会の前日は、東大全共闘の主力は駒場に投入し、無期限ストを解除しようとする代議員大会を阻止する。それに先立ち民青は全学集会の準備のために本郷を手薄にしているだろうから、本郷の民青の本拠である教育学部を攻撃して民青を駆逐して全学封鎖を実現する。それにより10日の全学集会を開催不能にするか、政治的意味をなくしてしまうという、作戦だった、という。小熊914.
激しいゲバルト戦が行われ、経済学部の建物にいた経済学部有志のリーダーだった町村信孝が「経済学部自治会の正式要求として」加藤総長に機動隊出動を要請し、学外に待機していた機動隊約3000人が東大構内に入り、学生を排除し52人を逮捕した、という。小熊915p
そして、1月10日午後1時機動隊が警戒する秩父宮ラグビー場で、全学集会が行われ、教官約千人と学生約七千人が集まった。この全学集会に全共闘学生約250人が妨害に来たが、機動隊に追い散らされ149人が逮捕された。小熊p918
私は「全学集会」粉砕行動に加わらなかった(そのように呼びかけられた覚えがない)。また民青の拠点・教育学部の攻撃も、駒場教養学部代議員大会阻止行動の参加呼びかけもなかった。知らなかった。
上で見たように、12月半ば過ぎからは、全共闘と加藤総長代行との間で、文学部処分撤回要求をめぐり厳しいやり取りが続き、情勢は緊迫していた。私はそうした情勢を全く知らないままであったが、「七項目要求」貫徹の全共闘の方針を正しいと思っており、自分が全共闘派である、あるいは少なくとも熱心な全共闘支持者であるという風に考えていた。
(第一部「大学に入ったけれど」で述べたように、私は東大YMCA寮、つまり東大キリスト教青年会寮でくらしていた。)12月ごろから、YM寮にセクトのメンバーが時々現れた。YM寮は不思議なところで、のちに触れるように民青の投石隊のリーダーをやっていた赤尾直人も、またスト解除派の法学部学生懇談会議長の瀬山俊一も寮生になっていた。さらに2022年秋の受勲で文化勲章を受けた榊裕之も寮生で、榊は68年には工学系大学院にいた。私は駒場のクラスで彼といっしょであった。彼は東大闘争には全くかかわらず研究を続けていたようである。
69年1月に入試中止のうわさが流れ、安田講堂の封鎖は機動隊導入で解除されるかもしれないという予想がなされたころ、YM寮に出入りしていたセクトの学生が、出演料がもらえるからラジオ番組に出て民青相手に1対1の対談をやらないかと言う。放送局側の希望でノンセクトで全共闘支持の学生の紹介を頼まれたという話だった。早朝、5時か6時に、スタジオの中で司会のアナを挟んで、1時間程度の対談を行なうというもので、放送局までタクシーの送迎付きで、謝礼がもらえるという条件だった。
対談した相手は、駒場で何かの委員長だという民青であった。おそらく放送局がスト解除派に肩入れしようとして組んだ番組ではなかったかと、思われる。
私が全共闘とバリケード・ストを支持しているというだけで、対談番組に推薦したセクトの学生もひどくいい加減だったが、また引き受けた私も向こう見ずだった。
私は七項目要求貫徹の正当性と要求を認めない不当な当局と闘うためのバリケード・ストの正当性を確信していたが、それ以上ではなく、安田講堂の封鎖解除のために機動隊が導入されそうだという情況で、そうなったらどうするのかということは全く考えてなかった。そちらに議論が行ったら、私は答えようがなく、議論ははっきりとした私の負けになっただろう。
最初に、民青の四項目要求と全共闘の七項目要求をそれぞれ説明することになった。相手の四項目の説明は、これまでクラスを回ってなんども説明してきたのだろう、よどみなくうまかった。私の番になった。私は七項目要求の全体を説明するのでなく、「文学部処分の白紙撤回」要求を当局が認めていないという点だけを強調した。
相手は、学生大会で封鎖解除決議がなされたのに、全共闘は封鎖を続けている。全共闘は、民主主義を破壊している。また、大学封鎖を続けて入試が中止になったりすれば社会から非難を受ける。全共闘の無責任は許されない、と主張した。
私は民主主義の破壊だという批判には触れず(無視し)、とにかく、民青も要求していた「文学部処分の白紙撤回」要求を認めようとしない東大当局は間違っているし、それにもかかわらずストを解除するのはおかしい、と主張した。
私は、文部省からの圧力などを含め情勢判断、政治判断抜きに、というよりそれを判断する力がなかったのだが、東大闘争をもっぱら大学当局との関係でしか考えておらず、今、封鎖を解いたら当局の思うつぼだなどと主張した。間違っているのは当局であり、それに抗議してストで闘うのは当然だ。責任はすべて当局にあると主張した。この単純な一本やりの議論を、相手はうまくかわすことができなかったようだ。
闘いである以上、情況を見ずにただ攻勢をかければよいというものでないことは明らかで、政府・文部省が前面にでてきた段階でどう闘うのかが問題だったはずである。単に、東大当局を責める/攻めるのでなく、政府文部省/国家権力とどう闘うか、バリケード封鎖で勝てるのか、というような議論になっていれば、私は敗北せざるをえなかったはずである。しかし、相手もそちらに議論をもっていこうとはしなかったし、司会もそのように誘導しようとはしなかった。
運よく、司会の「仕切り方」と相手の民青の議論のやり方がさほどうまくはなかったために、私は窮地に陥らずに済んだのだと思う。
こうしてラジオ番組での対談は、私が有利に議論を進めたというほどではなかったが、少なくとも、ぼろを出さずに終えることができた。聴取者に全共闘のバリケードストライキについての悪印象を与えずに済んだのではないか、と思った。
私の記憶では、1月10日直前の原子力工学科のスト実の集まりで、10日の夜、安田講堂の占拠解除のために機動隊が導入される可能性がある。その防衛のために結集してほしい、少なくともクラスから一人は出てほしいという要請が全共闘/工学部スト実からあった、という話が出た。
その要請を伝えたのがだれだったか、そしてどんな議論があったかも全く覚えていないが、私がクラスの代表として10日の安田防衛に行くことになった。
私はこのように記憶しているのだが、今、考えてみると、全共闘が機動隊導入で逮捕される可能性のある行動に「クラスから一人出してくれ」という要請をしたとは思われない。
1.18~19の籠城戦に加わるかどうかは「クラス」レベルではなく、各学部の闘争委、スト実など、活動家のレベルで議論されたはずで、工学部自治会委員長の石井重信が安田に「残る」と言ったのもそうした会議の場でのことだと思われる。島泰三『安田講堂 1968-1969』中公新書2005、p206によるとスト実の拠点学科であった都市工学科でこの会議がなされたという。
前出の通り、1.10は全共闘の主力部隊は、教養学部で民青と収拾派によるスト解除に向けての(自治会委員長抜きの)デッチ上げ代議員大会開催を粉砕するために、駒場に出掛けることになっていた。もし、この夜の安田防衛行動に対する「要請」についての私の記憶が本当だとすると、この日、安田講堂防衛が手薄になるために、クラスの「シンパ」レベルにまでオルグをかけたということだと思われる。しかし、その要請を発した責任者はその日の夜に(あるいはとにかく夜間に)機動隊の導入はないということを知っていたに違いない、と思われる。
『砦の上に我らの世界を』p468~494に、大学院生5人による《座談会》「激動の3日間(1・9~1・11)」が載っている。
この座談会によると、1月9日の夜、翌日に計画された加藤と収拾派による全学集会粉砕のために、また全学封鎖の一環として、教育学部と経済学部に攻撃をおこなった。教育学部から民青をたたき出せれば、民青の全学集会への参加はなくなり、「全学集会」は意味を失ってしまう。しかし、教育攻撃は貫徹できなかった。
また11日に駒場で民青と右派による代議員集会が計画されており、それを粉砕するために、全共闘の主力部隊は、10日から駒場に結集した。10日、昼の収拾派の全学集会には、反帝学評の部隊だけが突っ込んだ。
9日夜には、町村の要請で機動隊がはいり、一回目は、赤門から正門へと通り抜けたが、二回目には安田講堂前が制圧されてしまった。教育・経済を攻めるのに部隊が出払って、「講堂の中は空っぽ」だった。もし、機動隊が安田講堂を攻めるつもりになれば、抗戦できず、簡単に落とされてしまっただろうという。9日の夜の行動について「一言でいえば甘かった」という。
おそらく、その直後の総括で、主力部隊は駒場に行くが、安田講堂の防衛体制を強化しておく必要もある、ということで、シンパ層への防衛行動参加呼びかけがなされたのではないだろうか。
私は、前記の、小熊が書いている9日の夜の教育の民青と経済の右派学生を排除するための全共闘の行動を知らなかったし、10日、全学集会当日及びその夜の、全共闘の行動がどのように計画ないし予定されていたかも知らなかった。
18日直前には、機動隊と徹底的に闘って「死守」するという「決戦」方針が決まっていた。そこで15日には徹底的にバリケード強化がなされ、まどはすべて板でふさがれ、階段から上がってこれないようにコンクリートで固めるなどされた。(都市工で行われたという)石井が安田にはいることを決めた工スト実の重苦しい会議は、そうした方針を踏まえた「防衛」に加わるかどうかに関するものだった。
10日にはそのようなことは決まってなかった。つまり、機動隊と闘う本格的な決戦ではなく、民青が教育学部の拠点を維持したまま本郷キャンパスのあちこちを制圧しており、また「自主解決」と称してあちこちの封鎖を解除していた。安田防衛は民青の攻撃に対する防衛だったのだ。(そして、機動隊が、夜導入されて、抵抗を受けながら封鎖解除をやる、というのはありえないことだった。)
1.18~19に安田講堂に籠城した学生・院生たちは、地上からは催涙弾の直撃を喰らい、空からはヘリコプターによって催涙液を一晩中浴びせられた。降伏した学生たちは警棒やジュラルミンの盾で滅多打ちにされるなど残虐なリンチを受けつつ逮捕された。
機動隊が導入され逮捕されたら、このような激しい残虐な行為を受けることになるかもしれないと事前に知っていたら、私はビビッてしまい、10日の防衛行動には参加しなかったかもしれない。しかし知らなかった。事前に聞いていたのは、住居不法侵入とか不退去罪で逮捕され、おそらく23日間は拘留されて、起訴される可能性があるということだった。肉体的な弾圧は恐ろしかったが、逮捕や起訴に対する覚悟はあった。その程度には、熱心な全共闘シンパになっていた。
逮捕・起訴に対する覚悟はあったとはいえ、それでも、この安田講堂防衛に加わるにあたってはかなり悲壮な決意をしていた。そこで、親しくなって結婚を考えていた相手に電話した。彼女は私の二つ年下で厚生省の管轄下にある3年制のリハビリテーション学院に在籍していた。66年入学なので69年1月には3年で、卒業直前だった。私が全共闘派であることことを知っていたし、全共闘の安田講堂占拠も知っていた。私が、今夜安田講堂に泊まって闘う。機動隊に逮捕されたら23日は拘留される。起訴されるかもしれない。当分会えなくなる、と告げた。彼女は、そう、と返事をしただけだったように思う。
私が安田講堂の裏からはいり、中で教えてもらい屋上に行くと、待っていたのは防衛隊長だという今井澄氏だった。彼は、1959年の入学で、62年の大管法闘争では東大自治会中央委員会議長をしており、自治会でストを行い文部省デモを行ったその時の指導者だった。彼は68年6月15日に医学部の社学同活動家を率いて、安田講堂を占拠し、大学当局の6.17機動隊導入に抗議する6.20の全学集会の盛り上がりで、医学部処分に対する闘争を一挙に全学化した中心人物だった。山本p354
また彼は、1.18~19の安田攻防戦でも防衛隊長を務めた人である。彼は安田講堂で逮捕後1年間勾留され、その後1970年に大学を卒業。医師免許を取得、74年から長野県茅野市の公立諏訪中央病院に勤務。77年に安田講堂事件の判決が確定し、翌年3月、刑期終了後、80年に40歳で諏訪中央病院の院長に就任。88年に院長を鎌田実に譲った。92年社会党から参議院選挙に立候補し当選。参院議員を二期務めた。2000年に胃がんを発症、手術を受けたが2002年に死去した。Wikipedia「今井澄」
山本義隆は「弔辞」のなかで、「62歳でこの世を去るというのはやはり早すぎる。しかし君はその短い人生を全力投球で駆け抜けたのであり、密度の濃い人生を送ったと思う。実際、常人の三倍くらいの人生を歩んだと言えるでしょう。だから、君のことを国会議員の今井澄として記憶する人もいるでしょうし、あるいはこの茅野の地で地域医療の充実と発展に尽くした今井澄と記憶する人もいるでしょう。しかし僕にとっては、君はあくまでも、東大全共闘の今井澄であり、安田講堂防衛隊長の今井澄であり、そして中央委員会議長の今井澄であり、実際君はまずもってそのように記憶されるべきだと思う」と言っている。山本p353
私が今井氏に会って話をしたのはこの69年1月10日の一回だけである。そもそも、私が知っていたのは山本義隆と柏崎千枝子だけで、ほかの全共闘のリーダー格の人々とは一度も会ったことがない。山本義隆も、東大闘争中は、工学部学生大会で彼が演説したときに一回見ただけで、次に見たのは72年頃の臨職闘争(応微研闘争)の最中で、そして74年からは時計台前で一緒に座り込みをやった。
(69年1月10日にもどる。)安田講堂の中は、総長室などいくつかの部屋は知っていたが、屋上に出たのは初めてだった。屋上と言っても時計台を挟んだ両翼は3階以上の高さにあるが、私が行ったところは、そこより低いところだったのではないかと思っている。
上から見下ろした時、私は3階くらい、10m以上ある高い場所のように感じていた。しかし両翼屋上は左右に分かれているがそれぞれ相当な広さがある。私がいたところはせいぜい7~8m四方くらいの感じの場所だった。両翼部分の(どちらか)だとすると、もっとずっと広かったはずだ。私がいたところには隊長の今井さんと私だけで、他の人はいなかった。私は彼としか話しせず、彼と二人だけで「防衛」していたように思っていた。
彼は、暗くなって民青が攻撃をかけてきたとき、彼らが梯子をかけて登ってくるかもしれないと言った。しかし両翼の建物には地下一階部分があって、広場と建物の間は数mの間隔がある。その地下一階部分から地上3階以上の高さの屋上に、梯子をかけて登るなどということは、いくら訓練を受けた行動隊であってもむりだったろう。一方、玄関ホールから前に突き出たアーケードの屋上は高さが5~6mで、梯子をかけて登ることは可能だろう。
今の私には、自分がいたのは玄関のアーケードの上だったのか(そこは私がいた場所で感じた高さと比較して低すぎるように思われる。)、時計台のある塔の両翼のどちらかの屋上だったのか、はっきりしない。『砦の上に我らの世界を』P497のモノクロ写真は、民青側が撮影したものと思われるが、白っぽい、ということは多分、黄色のヘルメットを被った数人が、玄関前のアーケードの上に向かって投石している。アーケードの上には板を何枚も並べた囲いがあり、その中にヘルメット姿の人影がある。私がいたのはここだった可能性がある。
安田講堂両翼の屋上にも人がいて防衛にあたっていたようだが、全体として、多数が集まって防衛体制をとっている感じはしなかった。しかし、その時の私は、前方の、正門から続く銀杏並木と安田講堂前の広場の人の動きに注意をむけており、安田講堂の防衛体制が建物の他の場所でどうなっているかについて考えたり、見まわしたりする余裕はなかった。
大学当局からの退去命令はなく、機動隊の導入もなくなったらしかった。ところが機動隊にかわって民青の部隊があらわれた。広場の向こうの端、法文1号館の前で指揮をとっていたのは、YMCAの寮にいた赤尾直人だった。かれが民青だということは知っていたが行動隊の指揮者をやっていたので驚いた。
日は沈んだが、しばらくは、まだ顔がわかるくらいの明るさが残っていた。かれがピッと笛を吹いて指揮棒を振り上げると10人ほどの人間が助走をつけこちらをめがけて投石した。ほとんどは安田講堂の壁には届かなかった。たまにに届いても勢いは全くなかった。
ところが暗くなって人の動きがわからなくなったころから、飛んでくる石の勢いが一変した。テニスボール大と思われる大きな石も混じってビュンビュンすごい勢いで飛んできて窓ガラスを割り、壁に当たって大きな音を立てた。
今井氏が「奴らは自転車のチューブで作った投石機を使っているんだ」といった。「昼間、他の学生が見ているときには使わないが、暗くなると使う。そして、こっちの抵抗が弱まったと見たら、奴らは講堂の下まで前進してくるだろう。そうしたら、これを投げるんだ」という。近くにぼろきれを口に詰めた液体入りの瓶が何本かあった。私が初めて見る火炎瓶だった。
「だが、奴らを撃退できないうちに火炎瓶がなくなれば、最後は壁に梯子をかけて登ってくるかもしれない。そうしたらしかたがないからこれを上からかける」といって指さしたのは、試験管立てに立てられた試験管で、それにも中に液体が入っていた。塩酸だという(あるいは硫酸だったか)。私はなんと返事をしたか覚えていない。
私は、しばらく前に「暴力行使に禁欲的であれ」とチラシに書いて配ったことなどすっかり忘れ、眼下の敵を撃退したい一心で、床に積まれている石をつかんで必死に投げた。
全共闘は、9日、教育の民青の攻撃に失敗した。そして、10日の夜には逆に安田講堂が民青の攻撃を受けた。攻めてきたのは1,500名~2.000名くらい。梯子も用意していた。あらゆる方向から投石で2時間くらいぶっ通しで行われた。講堂は、全中闘(中大闘争委)から80名の応援部隊があって150名で防衛した。『砦』p484~485、496
1.18ー19の防衛戦で学部学生の隊長役を務めたという、理学部スト実委員長の島泰三もこの時安田講堂にいたという。彼によると(写真も載っているが)日共系の部隊は、法文一号館から持ち出した机や長椅子でバリケードを作り、安田講堂からの投石と火炎瓶をこの机などで防ぎながら、次第に包囲網を近づけた、という。
しかし私と今井は火炎瓶は投げなかった。その必要はなかった。彼らは机のバリケードで次第に正面玄関に寄せたというが、そのようには見えなかった。暗くて見えなかっただけかもしれないが。
私が見たのは銀杏並木右側の法文1号館の前にいた100人ほどの隊列だけであったが、日共=民青の部隊は安田講堂の右側、工学部よりの道のあたりや、講堂の後ろ側にもいたのだろう。あるいは、暗くなってしまって、隊列がみえなかったのかもしれない。
しかし、2,000名に包囲されているのをみれば、私は恐怖を感じたに違いない。
民青の部隊の攻撃は数時間続いたが、幸いなことに、広場からの投石だけで終わり、安田講堂の真下までせめてくることはなかった。私は火炎瓶も、塩酸/硫酸入り試験管も使わずに済んだ。暫くして外の人影が全くなくなった深夜、講堂の裏からでて、YM寮へ走って帰った。
当局の「退去命令」と機動隊導入、1.18~19国家権力との直接的闘いへ
この節では、1月10日前後から1月18,19日に到る経過、そして当局が17日に出した退去命令と機動隊導入の「理由」の不当性を記す。主に、『東大1・18,19闘争裁判冒頭陳述書』を参考にした。
1月9日、全共闘「1・15 東大闘争勝利・全国学園闘争勝利、全都総決起集会」開催を発表
坂田文相、田中自民党幹事長「東大の入試実施の決定は15日を目途に行う」と発表。
(日共=民青は「自主解決」=封鎖解除を目論み、15日の全共闘主催の集会をつぶそうと全国動員をかけた。)
9日夜、全共闘が収拾派の拠点・経済学部と日共=民青の拠点・教育学部とを攻撃、激しいゲバルト戦。機動隊が導入された。
10日昼、秩父宮ラグビー場で七学部代表団と加藤執行部との「全学集会」
〃夜、日共=民青による安田講堂襲撃、法文1・2号館の解除、一時本郷キャンパスの制圧
11日午前、全共闘支持「一般学生」がゲバルトで民青外人部隊を撃退。
12日、全共闘が法文1・2号館、法研、列品館、工学部の1・7・8号館を再封鎖。
13日昼、加藤執行部「衝突阻止を訴える」声明発表、翌日学内に掲示。
「 1)不測の危険の未然防止のため、15日には学外者の立ち入りを禁止し、本学の学生についても立ち入らないよう強く要請する、2)大規模衝突が発生すれば再び警察力導入の止むなきに至る---」
14日、当局は学部長会議、評議員会を開き、スト解除という点で入試実施の条件は整った、封鎖解除については警察力による解除を検討する、数日中に開く評議会に入試復活を提案すると公式に表明。さらに、東大全共闘、並びに東大民主化行動委員会に対して、「危険物」(こん棒、鉄パイプ、コンクリート塊等)の廃棄・学外搬出を要求した。
→日共=民青は、ピッチングマシンなどを含め彼らの武器を一切学外に搬出し、動員した部隊の大多数を学外に退去させた。〔したがって、15日の全共闘と日共=民青との「大規模衝突」の恐れはなくなった。〕
15日、全共闘「1・15 東大闘争勝利・全国学園闘争勝利、全都総決起集会」開催
同日午後11時過ぎ、当局見解発表
「もはや大学当局と学生との闘争でなくなったばかりでなく、学内のセクト内の闘争でもなく、多数の学外者が東大を舞台に政治運動を強行することになった。学内では、劇薬や燃料などの危険物、工事現場からの資材の強奪があからさまに行われた。建物そのものや研究施設、貴重な研究資料などが破壊された」とした。
16日、加藤執行部は午後3時からの学部長会議で入試実施を決定し、その場で機動隊導入を決定した。同日午後、加藤は警視庁幹部と会談、17日の機動隊出動要請を口頭で行ったが、警備当局は大学側の協力体制不十分との理由で断った。
17日、全共闘は大学当局・国家権力の一体化した闘争圧殺に抗して闘うため、18日の労学総決起集会にむけ全国の労働者・学生・農民・市民の結集を訴えた。
17日、午後11時過ぎ当局は「本郷構内の凶器その他危険物を除去し、また凶器を使うおそれのある建物の不法占拠者を排除する必要がありますので、とくに大学の許可を受けたもの以外は、学外者と学内者を問わず、ただちに全員退去し、19日午前10時までは本郷構内に立ち入らないでください」という退去命令を出し、全共闘(と教育学部建物内の東大民主化行動委員会)に電話連絡した。
退去命令(それに従わない場合には機動隊を導入する)の理由は、15日の当局「見解」、及び退去命令を出すことを決めた17日午前の評議会で示されている。それによれば、
1)学内の情況は、学生と東大当局の間の紛争ではなく、多数の学外者による政治運動の場として利用されているだけだ。
2)学内に、大量の角材、鉄パイプ、石塊などの所持者が多数残留し、劇薬・引火性可燃物などの危険物がある。「学生間の衝突が繰り返されている状況の下で、このような事態を放置すれば、学生の人命や身体に重大な危険を生ずるおそれがある」
「構内の変電所や電話交換室にまで投石や攻撃が行われたが、万一これらの施設が破壊されれば病院ではただちに人命への脅威が発生する。---東大の構内は一瞬のうちに惨事を生み出す危険にさらされてきている」
3)研究室・研究資料の破壊が進行している。
ことが理由とされていた。また
4)退去命令・機動隊導入はこの数日間に生じた非常事態に対応するもので、入試実施とは別個のものである
5)退去命令・機動隊導入は、凶器や危険物の除去、武装した不法占拠者の排除に限られ、封鎖解除自体は平和的自主的に行う、
とも付言されていた。
これらはすべて、筋の通らない、機動隊導入=全共闘の暴力的排除・東大闘争潰しの単なる言い訳にすぎなかった。
1)では、「代表団」と交わしたばかりの「確認書」では「〔学内〕紛争解決の手段として警察力を導入しない」という文言があり、この確認との「ギャップ」を埋めるために、「学外者」による「政治運動」を排除するための導入だ、と言おうとしているのである。
しかし、「学外者」の参加する集会を開いたことを理由に、かつて大管法闘争で「処分」が行われた例はあるが、機動隊が導入された例はなく、15日の「全都総決起集会」に関しても警備当局は「機動隊導入の法的根拠はなかった」と言明した。
「学外者排除のため」と言いつつ、実際には全共闘と当局とのあいだの「紛争解決」=弾圧による闘争の圧殺のための警察力導入であることは明らかすぎるほど明らかだった。
2)石や角材などは「はるか以前11月から大衆的に使用されていたのであり」、突然1月17日に集められたものではない。17日になってこれを排除するために機動隊を導入する、というのも筋の通らないことであった。
また「人命の危険」と言っているが、日共=民青は13日に出された当局の「15日立ち入り禁止」声明によって、一切の武器を撤去するとともにほとんどの部隊は教育学部の拠点から退出してしまっており、「学生同士の衝突」の可能性はなくなっている。(人命の危険は、機動隊の残虐なテロ・リンチ受ける全共闘とそれに連帯して闘った学生たちにこそあったのだ。)
「構内の変電所、病院」云々については、「全共闘はそのような施設を破壊等の対象に選び攻撃したことは一度たりともない.---大学当局は例にもならない例をデッチ上げ、惨事触発という危機感を煽り立てた」と批判している。
こうしたありもしない事実を用いてなされている理由づけは、正当な闘いを警察の手を借りて叩き潰すことの非道さを、全共闘の学生たちを悪者として描くことで少しでも糊塗/隠ぺいしようという動機からなされいるにすぎない。
3)については、17日以前においてはもちろん、17日段階においても、建物の占拠・封鎖は行われているが、研究資料に手をつけたり器物を損壊することは一切行われていなかった。
一部物品の損壊は、18,19日のガス弾の直撃など機動隊による激しい攻撃に対抗して(身をまもるために)なされた「防衛強化に付随して生じたもので、法研・工学部列品館の書庫の健在に示されるごとく、封鎖防衛に必要な物品以外には手が付けられなかった。」『冒陳』第三章、二「退去命令の違法・不当」p133~160、参照
上で反論したように、当局の「退去命令」理由にはなんら正当性はない。マスコミの興味本位の報道もあって、闘争の内容についてほとんど理解していない一般市民に向け、全共闘を悪者として描くだけでなく、爆薬の原料であるニトログリセリンを持ち込んでいるなどといった、全くのデマを背景に「大量の危険物、凶器」が持ち込まれて危険だという雰囲気をあおることによって、機動隊導入の正当化を図っているのである。
1.18には法学部研究室、工学部列品館、法文二号館、医学部図書館などには各セクトが入り、安田講堂には東大全共闘とセクトの混合部隊合計400人が立てこもった。
『冒陳』第四章 「1・18,19闘争に対する弾圧―「公務執行妨害」なるものの実態等」によると、
警視庁が、東大構内、神田及び本郷周辺に動員した機動隊は18日8000人、19日5500人、私服警官延べ1000人で、使用した車両は放水、給水、警備車など700台、ヘリコプター3機、その他資器材としてエンジンカッター8,ミゼットカッター11,エンジン削岩機4,防石トンネル4組、23連式梯子10,消火器478個、耐酸服250着、のこぎり14個、ワイヤー2本、ガス弾1万発だった。また「学園紛争」でははじめてのピストル部隊も編成された。
消防庁は警視庁に協力し、本郷消防署内に「特別警戒本部」をおき、水槽付きポンプ車25台、はしご車、空中作業車各2台、投光器集中車、空気補給気補給車各1台という大量の車両を用意し、ポンプ隊210名、救急隊125人を配置。警察の大量かつ高圧の放水車による放水のための水を中継・供給するために消防のポンプ車がつかわれた。警察の放水車は、18日には120トン、19日には190トンの催涙液を含む水を、封鎖した建物に立てこもる学生たちに浴びせた。
警視庁の指揮官佐々淳行は「なるべく怪我をさせず生け捕りにする」方針だったという(Wikipedia「東大安田講堂事件」)。つまり、殺さなければ何をやっても良い、という方針だったのである。ガス弾は仰角30度、できれば50m離れて打つように「指導」されているというが、現場では水平撃ちが行なわれ、しかも指揮官は部下にガス銃で「顔を狙え」と命令した。建物内で、数mの至近距離から直撃された学生もあり骨折、裂傷等の傷害を負ったものが41名、うち11名が頭蓋骨骨折、内臓破裂、眼球破裂など極度の重傷を負った。
放水した水には催涙ガスの主成分,クロロアセトフェノンCNを有機溶剤・四塩化エチレンに溶かしたものが入れられていた。CNは、戦時、イペリット、ホスゲンなど他の毒ガスとともに、旧陸軍により大量生産されていた毒性の強い物質である。当時、生産にあたっていた2千名以上の従業員が、68,9年現在においても、この毒ガスに暴露したことにより、呼吸器系の症状が多発、がんによる死亡率が高く、不妊症や流産などが多発するなどの後遺症に苦しんでいた。溶剤の四塩化エチレンは中枢神経に中毒を起こす物質である。
安田講堂には空からヘリコプターで多数の「催涙ガス筒」が投下され、また大量の催涙液が浴びせかけられた。そして地上からは催涙液を含んだ大量の放水が高圧放水車によって行なわれた。
安田講堂内は放水で水浸しになり、ずぶぬれになった学生はほとんど全員がひどい皮膚炎にかかった。やけどが治るのに数週間以上かかったものが多く、半年後も炎症の跡を残しているものが多数いた。
「三鷹署18番」の学生は「手足がちくちくしてたえられなくなり、めまいがして着ているものをすべて脱ぎ、20日と21日は、丸裸でいた。---21日には水疱がだんだんふくらんで子どもの頭ほどになり、中で水が揺れ動いた。---二日間、眠ることもトイレにゆくこともできず過ごした。22日に診療所に移されたが、---ひどい水疱で死ぬ危険性もあったという。『冒陳』p172
安田Aグループ被告の1人新谷さんは「催涙液で床上浸水の状態になり、ガスはいぶりだし状態になって---19日朝には一瞬安田講堂は暴風雨下にあるのだと幻覚し、屋上に出てみて青空に驚いた」と言っている。「東大裁判闘争ニュース」29号『資料・東大裁判闘争』p386
警察・機動隊による「封鎖解除」は、最初に、医学部全学闘争の立てこもる医学部図書館と総合中央館から行なわれ、安田講堂以外の建物の封鎖は18日の昼までに解除され、午後から安田講堂攻撃が始まった。3時過ぎに機動隊が講堂内部に入ったが、上の階には進めず、その日の作戦は中止された。
19日は午前6時半から機動隊による封鎖解除が再開された。午後4時ごろ三階大講堂を制圧し、6時少し前に屋上まで上がり、屋上にいた学生を逮捕した。
逮捕の際の機動隊によるテロ、リンチはすさまじく、傷害を受けなかった学生はほとんどいない。学生を一列に並ばせ、鉄拳、石、鉄パイプ、警棒で、学生の頭、顔を殴り、下腹部を蹴り上げ、学生のはだしの足の上に大楯を落下させ、つま先を革靴で踏みつけ、口の中に鉄パイプを押し込み前歯を折る、等々のすさまじい暴行が加えられた。
こうして,警察の指揮官・佐々の言葉では学生は「殺さずに生け捕りに」され、加藤代行の17日の言葉では「封鎖が平和的に解除」されたのであった。
18日から19日にかけて安田講堂支援のスローガンを掲げた学生や反戦青年委員会のデモが行われ、神田の学生街一帯を一時的に「解放区」にした。小熊943.
『資料・東大裁判闘争』p246ff.資料37「お茶の水・本郷三丁目闘争、凶器準備結集罪裁判報告:山本義隆「私の裁判の報告」によると
1月18日、東大構内の闘いに呼応し、限りない共感をもって、早朝から本郷・お茶の水にかけて各大学で学園闘争を闘っていた学友はもちろん、おびただしい労働者・市民そして三里塚の農民が駆けつけていた。そのほとんどが新聞やテレビをみてやってきた人たちだった。
これに対して警視庁は約3千の機動隊を本郷三丁目から二丁目に配置し、本郷・春日、そして西片町に至るまで、事実上戒厳令が敷かれていた。直接地下鉄〔本郷三丁目駅〕から東大に向かおうとした諸君や裏通り沿いに正門・赤門方向に行った諸君は、駅前や本郷郵便局裏の路地付近で機動隊に暴行された挙句に、片っ端からお茶の水や水道橋に追いやられた。
東大や公道である本郷通りまで、機動隊・警官の他は、白腕章の東大教官と警察発行の腕章を付けた一部の報道関係者しか通行できなかった。付近の小中学校から後楽園競輪まで休日になった。しかし18日丸一日たっても安田講堂はびくともしなかった。そういうわけで翌19日は日曜日ということも相まって、早朝からお茶の水には続々と人が詰めかけ、11時ごろにはお茶の水・駿河台一帯は学生や労働者・市民によって支配されていた。
山本の容疑は、中大での集会で、安田講堂で闘っている学生を支援しようと演説を行ったことが「凶器準備結集罪に当たる」という、法律的にはまったく無茶な強引なものだった。
山本はこの「報告」の最後で、17日の夜から18日朝にかけて本郷周辺で夜を明かし、なんとか大学に接近して安田の闘いを支えようした、かなりの数に上る東大生の学生諸君がいて、彼らは非組織的・ゲリラ的に戦った後にお茶の水まで撤退した。その意味で安田の外で闘った部分に対して十分な指導が行われず、お茶の水結集の方針は乗り越えられていた。
むしろ、あの時点で全共闘に結集していた諸君が2千~3千いて、その全員が安田に残りえないという現実を考えるとき、外に出た諸君に対して、前夜から安田前結集方針を打ち出し、安田、列品、法研の中からの闘いへの大衆的防衛体制を組織すべきだった、と言っている。
私は、工学部スト実の会議で18、19に安田講堂に残留するメンバーを決めたときのことを知らなかった。また当日、外にいる者はお茶の水に結集するという方針も聞いていなかった。18日に私は何をしていたのか、全く覚えていない。おそらく、向ヶ丘のYM寮から大学に行こうとしたが、大学周辺のいたるところに警官や機動隊がいるのを見て、途中であきらめ、寮に戻ったのではなかと思う。そして、TVのニュースを見て、翌日、本郷3丁目にいこうと考えたのではないかと思う。
19日の行動は大体覚えている。私は寮を出て、言問い通りから根津に出て池之端を通って、規制を受けずに本郷3丁目まで行き、交差点周辺に集まっていた人々に合流した。交差点にはびっしりと人があつまっていたが、機動隊に阻まれ、大学の方へは進めなかった。組織だった行動は行われず、「機動隊は帰れ」というシュプレッヒコールが時々聞こえて一緒に叫んだが、単なる群衆の中に混じった一人でしかなかった。
安田講堂残留組の一人、工学部の自治会委員長だった石井重信は2005年に亡くなったという。私より1つか2つ年下と思われ、まだ60になってなかったろう。安田防衛戦で機動隊の暴力で受けた怪我や催涙液を大量に浴びたことなどがたたったのではないだろうか。
小熊p928によると、石井が残留を決めたときの会議の雰囲気は非常に重苦しかったと、同席したある学生が後に書いている。彼は残ると言わなかった/言えなかった。「下を向いて黙っているしかなかった。石井君が残ると言ってくれた時には正直、ほっとした」と。
列品館を担当した学生解放戦線では「逮捕されたら半年は出られなくなる。残る人は覚悟してほしい」と言われて何人かの学生は出たという。p931
工学部スト実では、残るか残らないかだけが問題になったのだろう。残ることは最も厳しい状況にさらされる覚悟が必要で、その選択をしなかったものも、残らない自分自身に「日和見」あるいは「逃亡」の烙印を押すのに等しい厳しい選択だったろう。
68年5月から開始された日大闘争においては、(本物の)右翼や体育会系「常備暴力装置」から自らを守るため、経済、法学部など全共闘闘争拠点の建物を6月からバリケード封鎖していた。
日大当局は全共闘の大衆団交要求に応えず、夏休み終了前収拾を狙い、8月31日に東京地裁に対し「不法占拠」強制排除の仮処分を申請した。東京地裁は相手方の事情聴取も行わずに申請をすぐに認めた。こうして9月4日、大学側は機動隊500人にまもられつつ、教職員と作業員の手でバリケードを解除して建物内に入り、130人以上の学生を逮捕させ、封鎖を解除した。
学生側の怒りは高まり、その日の夕刻、機動隊が去った後、集まった3000人の学生により、経済学部と法学部の建物が再び全共闘の手で封鎖されバリケードが築かれた。
以後再び機動隊導入と大学側の強制排除は目に見えていたが、全共闘は、機動隊との衝突を避けて事前退避し、逮捕者を出して消耗することを避け、機動隊退去後に再占拠することにした。
東大闘争でも、安田講堂と銀杏並木の建物群の封鎖について、同様の戦術がありえたのではないか。機動隊導入による占拠の解除→機動隊退去後の再占拠という戦術が何回繰り返し可能かはわからない。この闘い方も結局3月末の卒業期を乗り越えての闘争継続の困難を考慮して、採用されなかったのだろうか。
当時理学部の4年生で全共闘の大原紀美子は卒業した。「だが彼女は、就職もせず、決まりかけていた大学院進学も辞退して」、安田講堂攻防戦で逮捕、長期勾留されていた活動家に対して差し入れをするなど「救援対策の任務を続けながらアルバイトで生活を立てる道を選んだ」という。立派な生き方だと思う。
「みんな敗北感があって、これからどうやって生きるのか、そういうところで悩んだ。----「自己否定」を実践、東大を退学し、日雇い労働者になったり、セクトへの加入や労働運動、住民運動などに活動の場を移したものもいた」。小熊p963ff.
工学部スト実にはノンセクトで馬郡(まごおり)という人物がいた。彼は物静かな語り口で、日本共産党の革命論や学内民青の行動方針などについて説明してくれた。スト実委員長石井一人だけが安田講堂に残留したのだとすれば馬郡は外に出たのだろう。後で聞いた話では、彼は東大をやめ山谷のドヤ街に行き、労働者になった、という。
航空学科で最後まで戦った学生で堂垂(どうたれ)という人物がいた。私は、上でふれた右翼=封鎖解除派の学生の跳びけりでやられた事件の直後に、彼と知り合った。彼は、工学部をやめ、その後千葉大医学部に入り直して、医師になった。 '99年に診療所を開設、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所を併設した。2009年には千葉大学医学部臨床教授になったという。
彼の生き方、訪問看護や居宅介護を重視した医療の実践には、東大闘争を経てきたことが反映されていることは明らかだろう。
全共闘の学生・院生たちの安田講堂防衛戦は2日間の文字通り命がけの闘いののち、強大な国家権力によって鎮圧された。小熊は、この戦いに敗れて以降、全共闘は「凋落の一途をたどった」。「全共闘の残党は、授業阻止(妨害)闘争や教授糾弾を行ったが、一般学生の一層の離反と、警察の再導入を招くのみだった。2月3日には医学部が、3月10日には文学部がストを解除し、ストは全学部解除された。代議員大会後も居残っていた教養学部の今村自治会委員長は-----リコールされた」と言う。小熊p961
だが、3月10日の文学部のスト解除は、逮捕された学友会委員長などの不在に乗じて開かれた民青によるでっち上げ学生大会で決まったもので、3月17日には300名を結集して開かれた学生大会で255:3:17でストライキ体制強化の方針を確認した。また人文系闘争委と修論ボイコット者会議により教官追及が行われ、2月13日の人文系院生大会は101:0:5で、「七項目要求」貫徹、文教授会解体等のスローガンの下、無期限スト突入を決議した。
教養学部では、2月6日、民青と右翼と当局のなれ合い「学部集会」を700の大衆的な力で粉砕。田村教養学部長が1月20日第8本館への食糧補給をしようとした駒場共闘の部隊に機動隊をさし向け5名を逮捕させたことを自己批判させた後、駒場共闘が正門と第一本館を再びバリケード封鎖した。
2月10日民青・右翼の妨害をはねのけ、久しぶりの代議員大会が開かれ、416:0:8で、駒場再封鎖・解放講堂奪還・スト強化等を決議した。同じ日、田村学部長は退官した。駒場共闘の追及と闘争の結果である。さらに、3月3日、4日駒場教授会追及闘争が行われた。
本郷キャンパスでは、1月23日に時計台再突入がおこなわれ、2月12日、安田講堂内で(加藤執行部の一員)大内力経済学部長弾劾集会が1500名の結集で行われ、3月3日には、300のヘルメット・ゲバ棒部隊を先頭に、本郷構内を1000名がデモンストレーションを行い、法研再封鎖闘争を行った。
7月23日には全共闘・全学助手共闘の共催で「文学部授業強行粉砕・大学立法粉砕・加藤自主改革路線粉砕―全学総決起集会」がひらかれ、文学部の授業再開粉砕闘争は秋まで闘われた。
砦p565~567、東大闘争資料digitalarchive、0001ーF0228-S01-0016.
この「第二部」の最後の節で、小熊の『1968』を批判し、反論する。かれによれば、東大闘争、日大闘争の全共闘の闘いは、学生の自治活動を制限したり活動家に不当な処分を行い学生の活動を抑圧する大学当局に対する抗議活動であったのではない。
かれによれば、全共闘の学生は、高度経済成長によって豊かになった社会において、自傷行為や摂食障害と同様の一種の病的状態、「アイデンティティ・クライシス」に陥っており、かれらの行動はその精神的危機から逃れようとする主観的願望の表現にすぎなかった、というのである。
かれはこのような説を展開することで、全共闘運動/闘争でめざされたものを捻じ曲げ、その要求が正しくなかったのだとすることで、学生たちの要求に対する大学当局の不当な対応を免罪し擁護しているのである。
かれによれば全共闘運動/闘争は、客観的な目標のない、「自分探し」のための行動、単なる「自己表現」でしかなく、したがって「安田講堂防衛戦」の「敗北」は最初から決まっていたのだ、というのだ。なるほど、東大闘争は国家権力・機動隊を導入した69年1月の大弾圧によって大きく後退したが、しかし終息したわけでは全くなかった。
「第三部」で述べるように、69年秋以降、学生の闘いを引き継いだ「労働者の東大闘争」が燃え上がる。臨時職員の定員化を要求する「臨職闘争」である。
東大では、専横な決定権を有する研究者・教官(教授)たちが学内秩序を独裁的に管理支配しており、文学部、医学部の活動家学生に対してなされた処分は、そのあらわれであった。
その専横な支配は、学生たちに対してだけではなく職員・労働者に対しても行われており、研究者・教授たちの差別的で抑圧的な姿勢は、研究の補助労働に携わっていた非常勤職員=「臨職」に対する態度の中にとくに強く表れていた。臨職闘争はこうした東大の研究者・教官の管理支配に対する異議申し立ての闘いであり、「学生の東大闘争」は69年秋以降、「労働者の東大闘争」に引き継がれる。
「第三部 労働者の東大闘争=臨職闘争(1970年~74年)(支援)」 見出し へ
本郷キャンパスでは2月、3月と授業再開粉砕闘争が続いていたが、全学的方針が提起されず、工学部スト実は中心メンバーが逮捕されるなどして消滅し、工学部としての方針が示されないなかで、(道路一本隔てた)弥生キャンパス、原子力工学科スト実のわれわれは、はっきり言ってどうしていいか全くわからなかった。
討論で、スト実メンバーは卒論を出さず卒業を拒否して闘うという方針/意見が出たという記憶はない。私もそういう提起はしなかったと思う。私は闘う意思はあったが、工学部スト実が解体してしまった段階で、卒業せずに残って闘うといっても、「闘い」にはならないと考えたと思う。そしてもし、そうした提起をしても、それに賛成したものはいなかっただろうと思う。
私が提案した覚えはないが、自主卒論に切り替えるという提案があった。つまり秋の段階で指導教官の下で書きかかっていた(主に実習や実験のレポートの)卒論は放棄し、教官の指導を受けずに書く。自主的な卒論、自由な卒論を書いて提出し、教官に認めさせるという提案だった。ストはやめるが、七項目要求を認めず全共闘を弾圧したことに抗議する。今の東大の教官の言いなりにはならないという姿勢の表れだっただろう。それには賛成が多かった。
今になって振り返ってみると、われわれは闘争を中止し「自主卒論」で卒業するという一種のごまかしを行なったのだが、その後の事を全く考えていなかった。卒業後は完全にばらばらになってしまい、誰とも連絡を取ることができなかったのは極めて残念である。また、3年生(のスト実メンバー)に対して何の配慮もできなかった/しなかっことも残念なことに思われる。おそらく、「安田講堂攻防戦」前後に、3年、4年が一緒に議論をすることはなくなっていたのではないかと思うが、その後1年間は学科で教官たちと顔を突き合わせなければならない3年生たちをほったらかしにして、私たちは大学を去ったのである。彼らは卒業してしまったわれわれに比べはるかに辛い経験しなければならなかったと思われる。
しかし、「自主卒論」、「自由な」卒論といっても難しい。みんなが書けるわけではないという意見が出て、結局、4年のスト実のなかでは中心になって活動してきた代議員だった私とA君が代表して「自主卒論」にする、ということになったように思う。
A君との間で多少はテーマについて議論した。東大原子力工学科の教官たち、原子力や電力開発に関係のある東大の学者・研究者たちのやっていることの批判ができればよかったが、教養学部から進学して1年半足らずで(真面目で勉強家だったA君はともかく)私は、核燃料についての基礎理論、原子力発電の仕組み、原子炉の構造・制御の仕組み、使用済み燃料の処理、等について、授業を聴いてひととおりのことを頭に入れたというところで、原発の問題点を指摘したり、教官たちの研究姿勢を批判するどころではなかった。
後でもふれるが、敗戦直後から(日本は中国に負けたのでなく)米国の科学に、原爆に負けたとする説が流された。原爆は科学を象徴していた。そして原爆がもたらした被害の悲惨さを問題にするよりも/それとともに、原子力エネルギーの大きさを賞賛し、原子力を利用して人類の幸福をもたらすことができるという説が広まったという。山本p68~82。
とはいえ、原発と原爆は同じ核エネルギーを利用する。原発は、いったん事故を起こせば、石炭や石油を燃料とする火力発電とは比較にならないほどの被害をもたらすだろうということは、常識を働かせれば、理解できるはずである。実際60年代末、原発立地を持ちかけられた地方の住民、漁民、自治体の中には原発の受け入れを拒否するところもあり、電力会社の強引な立地のやり方に、激しい闘争が起こっていたところもあった。
だが、原子力エネルギー利用礼賛の支配的世論のなかで、私は原子力工学科に進学し、「東大闘争」に加わって闘ったが闘争を継続することができず、卒業し、内定していた通産省原子力発電課に就職することにした。
「自主卒論」といっても、私が、やったのは「日本の電力資本の蓄積」というような題の、電力会社が原子力開発によって新たな資本蓄積を推進しようとしているという(まったく当たり前の)ことを電力会社の年鑑の類などをもとにまとめただけのものだった。
卒論の審査会で主査の大島恵一教授は、「古いマルクス経済学の手法で電力資本の蓄積を分析したもので‐‐‐」と他の教官に説明していたが、私は実際にはマルクス経済学のマの字も知らなかった。だが、はじめから、うるさいスト実の連中はさっさと出ていってもらおう、という方針だったと思うが、教官のだれも質問をするものはなく、私は恥をかかずに済んだ。
文学部では授業粉砕闘争が一貫して継続されており、5月22日に行われようとした法学部・経済学部の卒業試験は、実力で粉砕された。だが、6月になると、文学部を除く9学部で「正常化」がほぼなった。『資料東大裁判闘争』年表、p268
私は闘う意思はあった。もし私が文学部生だったら、文共闘の一員として、授業粉砕闘争を続けただろう。もしかしたら、当時文学部に拠点を持っていた革マル派の、バラバラじゃあ闘えない。組織=党が必要だ、というような議論に誘われ、入党していたかもしれないとさえ思う。(当時、文学部でなくてよかったと、思う。)
しかし、工学部スト実が消滅したあと、原子力工学科のスト実メンバーは闘争をやめて卒業することになった。私も同じだった。
私は通産省(原子力発電課)に就職が内定していた。原子力の問題点はまだ全く考えてなかったが、「国独資」の中枢であり、そこに務めるのは単なる日和見ではなく、体制への積極的加担であり「転向」のようなものかもしれない、という思いも少しはあった。
上で書いたように、理学部の大原紀美子は、就職もせず、決まりかけていた大学院進学も辞退して、安田講堂攻防戦で逮捕、長期勾留されていた活動家に対して差し入れをするなど「救援対策の任務を続けながらアルバイトで生活を立てる道を選んだ」というが、私には、思いつかなかった。
誰が勾留されているのか知らず、どこに行ってそれを調べたらいいかわからなかった。そして差し入れなどの救援活動というものがある、ということも知らなかった。
そもそも、全共闘の指導者たちの名前も知らず顔をみたこともなかった。「知っていた」と言えるのは山本義隆だけで、それも彼が工学部の学生大会に来てアジ演説をやったのを聞いたというだけである。
今井澄氏とは、上で書いたように、1月10日の夜安田講堂で会って、一緒に民青の攻撃と闘ったが、彼が闘争経験を積んだ人だということだけは分かったが、医学部の闘争のリーダーだということも、また、東大闘争全体の中で決定的に重要な役を果たしてきた人だということも知らなかった。
これらの人びとだけでなく、全共闘運動を指導したひとびとは、私にとっては「雲の上の人」だった。
そして安田攻防戦で逮捕された学生たちがこれから裁判闘争を闘うのだということも、知らなかった。
余りにも私は無知だった。
私が知っていた/感じたことは、東大闘争はつぶされたということ、そして原子力工学科の闘いも終わったということであった。「自己否定」と言っていたのだから、通産省を蹴るべきだっただろうか。
しかし、“後付け”の理屈だと言われるかもしれないが、私は、通産省は2年でやめ、その後、文学部に入り直し、臨職闘争の支援を行い、反百年祭闘争を進んで闘ったのだから、決して、単なる日和見でも、転向でもなかったと言いたい。
私がその時漠然と考えたことは、通産での仕事は積極的にやらず、できるだけ短期間で止め、その間に自分なりの闘い方を考える、ということだった。
ところで、(比較的)最近になって、私、あるいはわれわれ原子力工学科スト実が卒業した後、弥生キャンパスでの戦いが完全に終わったのではなかったということを知った。
山本義隆『私の60年代』によれば、東大全共闘の機関紙であった『進撃』の、安田講堂が落ちた半年後1969年7月発行の第13号には「原子力に燃え上がる闘いの炎、工学部無期限ストを支える工学部原子力共闘会議」という見出しの記事が載っており、その最後に「原子力研究は巨大産業として国家及び独占資本との癒着を深めている。東大原子力工学科の官学協同、産学協同体制の下で工学部でも異例の官学協同の人事が行われ、また教育という名によって商品生産が、研究という名によって名声販売が行われている。再度、研究政策を総点検すべきである」と書かれていたという。p264
我々原子力工4年スト実のメンバーはだれもこの「原子力共闘会議」を知らなかった。我々がバリケード封鎖をやり自主講座をやっていた時、何かそのような組織があれば、我々に何か話があったはずである。したがって、この「原子力共闘会議」が結成され、本郷キャンパスにおける医学部、文学部における、当局側による授業再開=正常化に抗する闘いと呼応して、弥生キャンパス、原子力工学科で、「工学部無期限スト」を継続しようとする闘いが行われたのは、我々原子力スト実メンバーがストを解き、卒業した後のことだとおもわれる。
そして、ごく最近閲覧した荻野 晃也 (京都大学工学部)「退職後に考える45年間の出来事・・・反原発から電磁波問題まで・・・」http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No93/ogino030516.htm というHPにかかれていることが上の『進撃』の記事と関係があることを見出した。
安保世代の萩野さんは、当時京大工学部助手であったが
原子力学会の姿勢に疑問を持ち、1969年春、「全国の原子力研究者(若手)間での交流の必要性がある」と、東大原子力工学科に行き、(「当時、バリケートで自主管理中」だったという)「何らかの連合体を作ろう」「原子力三原則〔民主、自主、公開の原則〕すら無視しているウラン濃縮研究者を原子力学会で追及しよう」と提案。向坊教室主任の部屋で相談した:東大は五人ほどで、東京工大からも一人参加した。
そして、合宿を行い、全国原子力科学者連合(全原連)を立ち上げ、11月の原子力学会(東北大学)で学会体質に抗議し、その場で「全国原子力科学者連合(全原連)」の結成を宣言、「既成の学会秩序を再検討せよ!」 「原子力開発は誰のためにするのか!」の見出しのビラ配布した。翌年から地域活動を
展開―東大・東工大支部:BWR中心で水戸・柏崎・浜岡など、京大支部:PWR中心で大飯・日生・伊方・阿南・熊野などで特に日生、伊方が中心だった。
萩野さんは、72年から伊方の現闘団(現地闘争団)に加わって活動。また73年に始まった伊方訴訟公判では弁護補佐人も務めた。また全国の原発立地計画のあるところを回って原発に反対する講演会を行うなどした、という。
われわれ原子力工学科4年のスト実がバリケード・ストを解き、「自主卒論」を書き始めたのがいつであったかははっきりしない。卒論を書いたのは長くて2か月くらいで、6月末には卒業なので、バリケード・ストは3月いっぱいあるいは4月中暫くは行っていたのかもしれない。したがって荻野さんの年表にある「69年春?」「当時バリケードで自主管理中」という記載は、われわれが確かに「春」までバリケード・ストを続けていたことを示しているのかもしれない。 (そうではなく、3年生と大学院生がストを続けていたのかもしれない。)
一方、『東大1・18,19闘争裁判冒頭陳述書』によれば、七学部集会の後、11月11日に、理、農、教育の各学部では加藤路線に従って確認書の批准と無期限スト解除、封鎖解除を決議し、「工学部では14日学生投票で、同様に、なりふり構わぬ収拾を行なった」とある。したがって、この時、工学部でも「スト解除」が「学生投票」で多数を占めたのであろう。
しかし、全共闘は12日には法文1・2号館、列品館、工学部1・7・8号館の再封鎖をおこなった。つまり、収拾派は工学部において学生投票でスト解除を決めたかもしれないが、全共闘の号館封鎖の実力闘争は継続中であった。同書p137、138
原子力のクラスでそのどちらかに/両方ついて討論があったかどうか、クラスのスト実としてどうすべきかの議論があったかどうか全く記憶がない。14日以後にすぐにストと封鎖を解除したとは思わないが、それではいつまでスト・封鎖態勢を続けたか、わからない。
また、3年生のスト実と共に議論を行なった記憶がない。3年生は、われわれがストを解いて「自主卒論」をすることにした後も「無期限スト」を継続したのかもしれない。(情けないことに、学年ごとにまったくばらばらに「闘争」し、あるいは「闘争をやめて」いたのだ。)
萩野さんが大学院生と
「向坊教室主任の部屋で相談した」というのも、おそらくバリケード・スト中の原子力の建物は全共闘=スト実派による「自主管理中」で向坊教授の部屋も自由に使える状態になっていたからだろう。我々は大学院生と一緒に議論をした覚えはなく、教授たちの研究室を「管理」しようとしたこともなかったが、おそらく、全共闘派院生は教授の部屋を「管理」していたのだろう。
こうして、『進撃』でいう「工学部原子力共闘会議」は、萩野さんが東大原子力工学科にやってきて「全原連」立ち上げの相談をしたことを契機に結成されたものだと考えられる。そしておそらく本郷キャンパスにおける授業再開=正常化に抗する闘いと呼応して、院生を中心に闘いを継続しようとしたのだと思われる。
また、この原子力共闘会議は東大のなかでの闘争だけでなく、「全原連」の立ち上げに加わり、国家及び独占資本と癒着した大学の研究を批判する全国的な活動を行ったのだと思われる。
もっと早い時期に「原子力共闘会議」が存在し、我々が彼らと接触していれば、彼らの中の誰かに自主講座の講師を頼み、東大原子力工学科が果たしつつあった産官学協同における役割をはっきり認識できたであろうし、たとえ、我々が69年に卒業したにせよ、もう少しましな抵抗、後退のしかたがあったであろう。 また〔工学部スト実の中心メンバーだった馬郡君や堂垂君のように〕卒業も既定の就職先も拒否し原子力と関係ない道に転進するということまでできたかどうかはわからないが、原子力産業関連の職場に就職したにせよ、自分の職場の中で、後の2011.3.11の東電福島原発事故へと進んでいった、安全性無視の原子力発電の野放図な拡大に多少でもブレーキをかけようと努力をすることができたかもしれないなどと考えるのは、自分たちの日和見、逃亡を棚に上げた「タラ、レバ」論でナンセンスと一蹴されるだろうか。
工学部は経済学部、法学部などとともに6月末をもって卒業となり、私は7月に通産省に入り、ほかの入省者とともに1か月間であったか、研修所併設の宿泊施設に泊まって初任者研修を受けた。その年の入省者はおよそ30人くらいだったと思う。
3食付きで、昼間は、講師たちによる授業を受ける。夜は外出は許されなかったが、研修所の食堂で毎晩のようにコンパをした。他大学出身者も含め全共闘系のものが10人程度はいた。
私は腸が弱くビールを飲むと下痢しやすかった。そして、精神的ストレスもあった。東大闘争に敗れて、卒業してきたことに悔しさがあった。
一方、安田講堂で闘った人たちは裁判闘争を闘っていた。被告たちと弁護団がともに、統一公判を申し入れたのに対して、裁判所はこれを認めず分割公判による「迅速処理」を行なおうとした。
拘留中の被告たちが出廷を拒否すると、裁判官たちは、拘置所職員の激しい暴行を伴う連行強要を行ない、あるいは法廷での異議申し立てを問答無用に却下し、退廷を命じて、欠席裁判を強行した。被告は7か月から1年有余の長期拘留を強いられつつ、こうした苦しい裁判闘争を闘っていた。「東大裁判闘争」資料28「弁護団の主張p142ff」
だが、私はそうした被告たちの闘争について知らないまま、彼らを支援しないでいることの良心のとがめを感じることもなく、勝手な道を歩いていた。私はもう一度闘うという気概だけを持ち続けて2年後に文学部に学士入学し、また、自分なりに大学当局に対する闘い、雪辱戦に取り組んだ(後述)。
私は69年1月~2月までの東大闘争では、全体がほとんど全く見えてなかったこともあり、重要な行動を行なったことがなかった。そしてそのため、弾圧をまともに食らったことがなく、全く傷ついてはいなかった。
もし、1.18~19に安田で籠城して、機動隊の激しいリンチにあいながら逮捕、起訴され、長期拘留されていたなら、おそらく私は心身の「消耗」で闘いのエネルギーを失い、裁判闘争を貫徹する気力もなくなっていたかもしれない。
保釈や減刑をちらつかせる検事に屈し、その筋書きに従う供述を行なってしまったかもしれないと思う。しかし、私はさほど強く踏みつけられて心が折れてしまう経験をしないで済んだ。少し休んだ後再び立ち上がって闘う元気が残っていた。
69年夏の、この研修所でうけた初任者研修の授業ないし講義に関しては、一つを除いてすべて、どんな内容であったか全く忘れた。記憶に残っているのは、当時名古屋大の教授か助教授でのちに経済学部長を務めた飯田経夫(2003,70歳で死)が行った、計量経済学の授業だった。
私は彼の話の中に難点・矛盾があるのに気が付き質問したので覚えている。 質問の内容は忘れたが、私の質問が彼の説の難点ないし盲点を突いていたことは確かだ。彼は私の質問に対して「あなたの言っていることの意味がわかりません」としか言わず、それ以外何も答えようとしなかったのである。
普通、教える側は、質問が出て、その質問の意味がわからなければ、質問者にいろいろ尋ねて、質問を解きほぐして、答えようとするものだ。彼は全くそのようにはしなかったのだ。答えることができなかったからだろう。
他の授業も面白くなく、以後私は研修の「授業」をすべて拒否することにした。研修所所長(あるいは秘書課長)に呼びだされた。 私も、授業が面白くないからといって授業を受けないというのは、単なる怠業で服務規定に違反することになってしまうだろうと思った。理由が必要だ。
私は、質問に答えてくれない講師の授業は出席に値しない、図書室で自習することにしたいので、認めてほしいと言った。所長はちょっと驚いた顔をしたが、とくにうるさいことは言わず、「自習」を認めてくれた。私は、一科目だけでなく、途中からであったが、ほかの授業にも出ず、「勤務時間中」は図書室で一人で、そこにあった面白そうな本を読んで過ごした。
最近、山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって』(みすず書房)を読んだら、飯田経夫の名前が出てきたので、少し驚いた。彼は飯田の「リニアモーターカーの意義と期待」土木学会誌1989.1という論文は、「大国主義ナショナリズムに囚われている」「技術主義ナショナリズム」の「典型」と批判している。山本p125、141f。
飯田は、通産省の「技術主義ナショナリズム」の理論的支柱となることを、彼の学者生活の役割と心得ていたに違いない。
当時、通産省公益事業局原子力発電課では、原子力発電所の設置許可、および建設中の原発の検査を行っていた。1966年以来、日本初の商業用原子炉である東海発電所が運転を行なっていたが、私が入省した69年には、東海発電所の他には稼働している原発はなかった。
日本原子力発電(原電)が所有する東海原子力発電所は、英国で開発されたタイプの原子炉で、減速材に黒鉛、冷却材に炭酸ガスを使用する「炭酸ガス冷却炉」だった。東海発電所は31年8か月運転し、1998年3月に営業運転を停止。その後は廃炉作業が行われた。ガス炉はこの1基のみで、以後はすべて米国で開発された軽水炉が用いられた。
軽水とは普通の水のことで、重水とは普通の水に極微量含まれる酸素の重い同位体(O17,O18)からなるH2O の割合を高くした水で、重水を減速材として使う原子炉もあった。
軽水炉にはGE社が開発した沸騰水型炉BWRとWH社が開発した加圧水型炉PWRがあり、東電では前者を、関電では後者を採用した。
当時、原子力発電課では、原子力発電にかかわる事業(原子炉、発電所建設など)の許認可を行なっていた。核燃料や医療用のラジオ・アイソトープRI(放射性同位元素)にかかわる規制は通産省の外局である「科学技術庁」(科技庁)の担当だった。
原子炉の安全審査は現在では、環境庁の外局である原子力規制庁を事務局とする「原子力規制委員会」が行っているが、当時は原子力委員会内の原子炉安全専門審査会で、各炉毎に部会を設け、通産省の原子力発電技術顧問会と合同で審査していた。この事務局を科技庁の規制課と通産の原子力発電課が務めていた。(原子力産業新聞352号、61年4.25、参照)
通産の原子力発電課が行っていた仕事は、原子力発電技術顧問会の事務局として原発の設置許可の事務作業を行うことと、原発に用いる配管、ボイラーなどの部品の溶接検査を行うことだった。
69年現在では原電敦賀発電所が10月に運転開始、関電美浜発電所1号機、東電福島発電所1号機が建設中で、関電2号機と東電2号機、および中部電力浜岡1号機、中国電力島根1号機が設置許可申請中だった。
私の仕事は、他の先輩総合職職員とともに技術顧問会の開催に合わせ、会議で使う資料(電力会社が提出)を整えることと、専門の検査官とともに、建設中の発電所や、発電所で使用する部品(といってもボイラーやタービンなど大型機器)を製造中の工場に出張して、溶接検査を行うことだった。
溶接個所の検査ではⅩ線フィルムなどを見るのだが、原子力工学科では「溶接検査法」の授業などは
無く、ほかの専門検査官から教えてもらうこともなく、ぶっつけ本番で、検査を受ける会社の技術者などに見方を教わりながら見るのだった。
東電福島発電所に行ったときには、ちょっとした野球場かと思うような窪んだ場所の中央に、原子炉格納容器が半分以上立ち上がりつつあった。私は観客席に当たる、無数の鉄筋がパラボラ状に張られた傾斜した場所の中で、設計図を見せられながら配管の目視検査を行い、またそこを出て、工事事務所のなかでエルボウという曲がった太いパイプなどのⅩ線検査の写真をチェックした。
検査が2日に渡るときには、夕食を会社の技術者などと一緒に食べ、会社が用意した旅館に泊まった。決まった額のお金は払うが、実際はもっと高かっただろう。私は双葉町のどこかのすし屋につれて行ってもらい、そこで初めて食べたボタンエビが非常にうまかったのを思いだす。
美浜1号機にも検査に行った。「美浜」という地名の通り、非常に景色のいいところで(1.5㎞ほどのところには水晶浜と呼ばれる美しい海水浴場などがある)、曲がりくねった細い半島の先端にあって当時は交通の便が悪く、発電所敷地内のゲストハウスに泊まった。そこでは夕食時に「酒のつまみに最高に合う」珍味(たぶん高価な)「コの子」というものが出た。コはナマコのことでナマコの腸のことらしい。同席した関電側の人はうまいと言っていたが、私はあまりうまいとは思わなかった。どんな検査だったか全く覚えていない。
原子力発電課と電力会社の癒着の一端が、会社からの盆、暮れの付け届け、そして年末の忘年会だった。仕立券付きのワイシャツ生地が何枚も送られてきた。(九電力+原電)10社と原子力発電課合同の忘年会は完全に会社持ちで、そこでは脇に芸者が座った卓での麻雀大会もあった。
贈答品を返却し忘年会には出ないこともあり得たが、初めてのことで、私は周りの先輩に倣って、そうはしなかった。もし発電課に何年もいたら、ずぶずぶに電力会社に取り込まれ、原発の危険性を忘れて会社側の便宜を図る人間になってしまっていた可能性もあった。幸い、発電課勤務は1年で終り、翌年には調査課に転属となった。そして2年で通産を退職した。
上で書いた以外にも、発電課時代の1年間の記憶はたくさんある。若手検査官安沢君、菅沼君、課長大町さん、課長補佐香田さん、岩崎さん、名前も顔も、話し方もよく覚えている。少し年上の検査官で田中さん、名前の思い出せない数人の年配検査官も一緒に出張して検査に行った人の顔は憶えているし、庶務の職員の顔も覚えている。
しかし、調査課の一年間は全く何も覚えていない。課長の顔も、名前も、ほかの人びとがいたのかどうかも全く覚えていない。どんな仕事だったか全く思い出せない。ただ一人同期に入った橋本という同僚と何かの会議に行く途中エレベーターに乗った時に、ちょっと笑い話をしたことしか覚えていない。不思議だ。
私が「独占資本の中枢」である通産に就職したことに問題を感じていたことは確かだった。私は通産の役人として仕事をまじめにやるよりも、スローガン的に言えば、そこで働く一労働者、国家公務員労働者として資本主義の支配階級と闘うべきだというような考えだった。
私は、公益事業局の一般職の若い人たちの集まりに加わり、共産党系の活動家とは一線を画した活動を行おうと考えた。といっても、実際には、仲間たちと海水浴やスキーなどのレク活動を一緒にやったことと、パンフレットを一冊書いたくらいでしかなかったが。
原子力発電課にいたときに全商工公益事業局分会青年婦人部長という役をやった。当時は「全商工」という名前にについては何も考えず、調べもしなかったが、昭和の前半期に商・工・鉱業、地質、度量衡、交易などを所管した官庁の名は商工省で、戦時体制下で一時軍需省に改組されたが、終戦後すぐに商工省に復帰し、1949年(昭和24年)の国家行政組織法施行直前に通商産業省に改組されたという(Wikipedia「商工省」)から、労組は商工省時代に結成されたと推測される。
ともあれ私はこの全商工公益事業局分会青年婦人部長として、学習会、討論会を少々やり、またレクリエーション活動をやった。そして年度の末期に、900字×24ページの分量だけが多い未熟な内容の<昭和45年度 青婦部長報告>『労働組合運動の現状と課題―全商工公益事業局分会青年婦人部の場合』というのを書いた。
その前半「日本社会の現状」は「学習会だとか組合活動,-----とか、デモだとか、やっかいなことをする必要はない。マルクスがどうだとか、社会の変革がどうだとか、七面倒くさい議論はいらないじゃないか。日本には、世界に冠たる平和憲法があり、立派な民主主義制度が存在している。われわれの安楽な生活は、これら憲法や制度でちゃんと守られているのだ。我々は与えられたつとめを果たしていれば、後は、自分の生活を自由に楽しんでいいのだ。一部の学生や組合の活動家はなんであんなにヒステリックに騒いでいるのだろう」という「楽観ムード」が支配的だ。
しかし、と憲法12条「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」という規定があることに注意を促す。(ただし丸山眞男「日本の思想」岩波新書参照としている!皮肉のつもりだろうか。)
そのうえで、新聞記事等によって、ある民間会社では、トイレに「プロレタリア階級は滅びることはない」という落書きをしたところ、普段からマークされていたらしく、すぐに労務係長に呼び出された。そして、きびしく追及を受け、最終的にはむりやり退社させられた。あるいは会社の寮で,寮主任が部屋に入り込み持ち物チェックをやっている。デモに参加などしたら、すぐそのあとで現場写真を突き付けられ、次に行ったら退社だと「おどし付きの説諭」を受けた、というように、労働者の自由がなくなりつつある現状を指摘している。
そして、我々労働者の権利を守るためには、組合執行部に、あるいは国会議員に任しておけばよいという姿勢ではなく、われわれ一人一人が学習会などを通じて、政府の政策について調べ、批判しなければならない、と書いている。
後半で、社会に対する政治的関わり方として、単に選挙制度を通じた関わりにとどめず、公害反対の市民運動や「○〇値上げ反対」の消費者運動、そして労働運動がある、と言い、賃上げなどの要求にとどまらない「生産点から社会に働きかけこれを変革していく」ことを目指す組合運動について書いている。
そして、67年に制定された公害対策基本法では「生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする。」となっていた―これは企業を代弁する通産の強い要求によって付け加えられたものだーが、政府は、70年には、公害関係法案の抜本的改正を準備し、環境庁を作ろうとしているなど、公害対策優先の姿勢(ポーズ)を見せている。
だが、それらの内実はどうか、と通産省重工業局によって作成された法案要旨、「国会提出予定公害関係法案の要旨と問題点」のなかから通産の姿勢を示す具体例を挙げている。
公害犯罪の処罰に関する法律については、「経団連---等経済団体は時期尚早として反対している」。水道汚濁防止法については、汚濁排水の排出基準は政令で全国一律に定めるが、都道府県は条例によって政令で定める基準より厳しい基準を設定できる、等の規定に関して「都道府県による基準の強化限度を明らかにすべきである。また基準の強化は国との協議を要する」、公害防止事業の費用負担に関する法案では、実施機関は審議会の意見を聞いて事業計画を作らねばならないという規定に対して「審議会メンバーは学識経験者に限るべきである」〔つまり一般住民・市民は排除せよ〕、海洋汚染防止法に対しては「石油精製業者に対する廃油処理施設設置義務は行き過ぎである」、など法案の条項ごとにつけられている通産省重工業局のコメントを1頁以上にわたってあげている。
別のページで、メンバーがいくつかの局の間にわたる「公害問題研究会」を1か月に1,2回のペースで半年ほどやった。これは初任者研修の際に知り合った全共闘シンパだったもの数人が集まってやった会だった。部局の違いから公害問題についてほとんど無知同然であったこと、日常業務において、法律の枠内で生真面目に「良心的」にやろうとも通産行政の中では個人的意図と全く違った意味をもつことになることなど、認識を新たにするなどしたが、「一緒に活動らしい活動をやることもできないまま終わってしまった」と書いている。
通産省重工業局によって作成された法案要旨における「コメント」集はこの研究会で得られたものであることは間違いない。「一緒の活動」とは、研究そのものが目的だったのでなく「文集を発行する、公害問題研究の成果を発表するなどの別の目標」があったが、それはできなかったといっているので、マスコミに発表するなどのことを考えていたのだろう。それができなかったので、この「青婦部長報告」という組合員のパンフレットに、その一部を紹介することにしたのだろう、と思う。
このパンフレットをみてわかるのだが、当時は、原発に対する問題意識をほとんど持ってなかった。
山本によれば、アジア太平洋戦争敗北直後のマスコミも知識人も、自分たちが侵略戦争に加担したことの反省もなく「日本は科学戦に敗れた」という議論に唱和していた。そして原子爆弾が科学を象徴するものとみなされ、理化学研究所で原爆研究を指導していた仁科芳雄の監修で出された米国の公式報告書「原子爆弾の完成」という岩波書店刊の本の宣伝には「原子力開発という人類の偉業」「科学技術の精華を後世に伝える不滅の記録」と書かれている。
長崎原爆投下後になされた長崎医大による救護活動と被害状況の報告書を書いた救護隊長の永井隆は、
その結辞に「すべては終わった、祖国は破れ吾が大学は消失し、---、住むべき家は焼け、---家族は死傷した。今更何をかいわんやである。ただ願うところはかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として文化に貢献できるごとく、さらに一層研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用によって一変するに決まっている。そして新しい幸福な世界が作られるならば多数犠牲者の霊もまた慰められるであろう。」と書いた。
こうした敗戦直後に流布された原子力エネルギー礼賛の言辞が60年代の日本を支配していたという。
山本『私の1960年代』p68~73
とはいえ、原発と原爆は同じ核エネルギーを利用するのであり、常識で考えれば、原発で事故が起これば石炭や石油を燃やす発電所とは比べものにならないほど大きな被害を生ずるだろうことは十分わかるはずで、原発建設に反対する人々がはじめから沢山いたこともたしかであり、岡山県の日生町、兵庫県香住町、三重県南島町(現南伊勢町)など60年代に原発の建設計画がおこったがそれを阻止したケースも少なくない。ref 三重県芦浜原発阻止37年闘争考 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/genpatutososhi/ashiharatososhico.html;
「岡山県日生町鹿久居島の原発阻止千日闘争考」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html
四国電力が愛媛県伊方に原発建設計画を発表したのは69年で、その4年前に津島町〔現宇和島市〕尻貝地区を原発予定地に選んだが、反対が強く断念し、67年には徳島県海南町が候補とされたが、ここも漁協の反対が強く、伊方町が誘致運動を行った、という経緯がある。そして伊方原発は原発設置に反対する訴訟が日本で最初に起こされた原発である。
現在と同様、原発推進派の「学者」や専門家と比べて数は少なかったが、原発の危険性を指摘する物理学や核工学の学者・研究者も存在した。漁民や計画地近辺住民の反対はこれら原発推進に反対する学者・研究者による理論的なバックアップにも支えられていたことは確かである。
伊方原発の設置許可の取り消しを求める裁判では、住民側に立つ学者・研究者と、電力会社・国側にたつ学者・研究者の間で長期にわたる原発の危険性をめぐる科学論争が続いた。伊方原発設置許可の取り消しを求める裁判は73年に起こされ、78年に一審で請求棄却判決、高裁でも同じく棄却。92年に最高裁で原告の請求棄却が確定した。
マスコミが十分に報道しなかったせいなのか、私自身の視野が狭くニュースを見落としていたためだったか明らかではないが、通産時代を挟んだ10年ほどの間に原発に反対する意見、あるいは原発建設に反対する地方の運動/闘争に関するニュースを読んだ(あるいは友人から聞いた)覚えがない。74年の原子力商船むつの放射能漏れ事故で私の原発に対する考えは多少変わったと思うが、原発は「事故を起こす。危険だ」とはっきりとした反原発の考えかたをするようになったのは、79年に起こった米国スリーマイル島原発事故後ではなかったかと思う。
通産省にいたころの私は、通産が人びとの健康や福祉ではなく産業を優先し、企業の汚排水垂れ流しを黙認しあるいは隠ぺいしていたことに私は「通産省行政」の主要な問題点があると考えていた。積極的に原発を肯定していたわけではないが、また原発を危険と考え、原発推進政策に積極的に反対だったわけでもなかった。
原発に関連して話しが広がってしまった。通産省にいたころの話しに戻る。
69年秋、全国全共闘結成のため日比谷公会堂で行われた9月の集会、また、10.21闘争、11月の佐藤訪米阻止闘争などの街頭デモには行った。
9月の集会では、それまで潜伏していた山本義隆が逮捕されたことを後で知った。テレビのニュースで見たのだと思うが彼が“変装”のためか、トレードマークのような髭をそってしまっていたのが印象に残っている。同じ発電課にすでに数年勤めている年下の職員が全共闘シンパで、盛んに議論を吹っ掛けてきた。しかし、彼を誘って一緒に外のデモや集会にいったかどうかは憶えていない。
私は資本主義経済を知るためにはマルクスの経済学、哲学を学ぶ必要があると思い、少しは読んでみたが難しく、さっぱりわからなかった。私は大学に戻って勉強しようと考え、前にふれた飯島宗享さんに相談した。
そして入省後2年、1971年6月に通産をやめ、倫理学科に学士入学することにし、翌年2月か3月の学士入学試験に備えてドイツ語のおさらい、倫理学初歩の勉強などをした。 渡辺二郎のキルケゴール「哲学的断片」原書(ドイツ語)講読の授業聴講を認めてもらった。
72年4月~74年3月、倫理学科3年、4年次生。教養学部時代と工学部原子力工学科時代には、勉強は面白いと思っておらず、熱も入らなかったが、倫理学科時代には、よく勉強して成績は「全優」だった。74年春修士課程に進学した。
しかし、学外では1.18ー19闘争で逮捕、起訴された被告と弁護団の裁判闘争が続いていた。
分離公判のいくつかの一審判決が72年の春に下され、安田Aグループは、ほぼ2年間の控訴審を闘い、75年4月に再審の判決が下り、そのまま確定した。
しんがりのBグループは75年4月から控訴審を闘うことになっていた。山本義隆の「結集罪」等の裁判も行われていた。「裁判闘争ニュース改題土龍(モグラ)29号」『資料・東大裁判闘争』
東大闘争は、学生・院生の闘争としては、文学部の処分撤回を求める文・スト実による授業粉砕闘争が69年の秋まで続いていたが、それも11月には終息した。だが、学内は、学生の闘争に代わって職員・労働者の闘いが始まった。
以上、大部分「資料」に基づく東大闘争の過程、そしてそのなかで私がとった行動について書いてきた。それは、第一部「大学に入ったけれど」の「なぜ、今、東大闘争について書くのか」で書いたように、東大闘争における全共闘の闘い、つまり七項目要求、とりわけ文学部処分の撤回要求を掲げた闘いと当局に迫るために行った安田講堂等のバリケード封鎖の戦術が正当なものだったことを明らかにし、同時に私が、全共闘の提起した方針を支持して行った行動、あるいは私が全共闘派であったことは正しかったということを示したいからであった。
その目標が達成できたかどうかの判断はこの「第二部 東大闘争に加わった」を読んでくださった方の判断にゆだねるしかない。
ただ、私の「全共闘派」としての行動はこの第二部で書いた時期で終ったのではない。私は第三部で書くように、東大に戻った後、「労働者の東大闘争=臨職闘争」の支援の活動に取り組んだし、さらに、第四部で書くように「反百年祭闘争」を闘う。
どちらにおいても、東大の教官・研究者たちが自分たち以外の学生、院生、職員、労働者に対し日常的に支配・管理を行い、また学生、院生、職員、労働者の行動がその秩序を乱していると彼らが判断すれば、有無を言わさず処分し弾圧を加え、パージするという専制体制に、私は異議申し立てをして闘った、あるいは闘うものを支援した、そう私は信じている。
したがって、私は、時々、しばらくの間、闘いを「日和」ったが、また復帰し、「全共闘派」であることを止めはしなかった、そう思っている。こうした私の言い分は、あの血の弾圧で傷つき、早くに死ななければならなかった人たち、あるいは激しい弾圧を受けながら先端で闘った人びと、そして今も自分の生活を犠牲にしながらより苦しんでいる労働者の側に立って闘っている人びとから見れば、甘っちょろいと言われるかもしれない。そう言われれば私は自分の不十分さを認めざるを得ない。ただ、私は、私なりに頑張ったと考えている。
1948年に制定され52年に改正された公共企業体等労働関係法では非現業公務員だけでなく、国鉄、郵便など現業の公務員も争議行為が禁止されていたが、64年にILOが「争議行為の一律禁止には問題がある」という報告書を発表したのを契機に、66年、最高裁は全逓東京中郵事件〔1958年の春闘の際、郵政従業員で組織する全逓信労働組合(全逓)の幹部らが東京中央郵便局の職員に対し、勤務時間内に職場集会に参加するよう説得し、複数の職員が参加した。〕で、公務員の人権を重視し公務員にも争議権を認め、無罪を言い渡した。この判決の立場を踏襲・発展させたのが、69年の地方公務員に関する都教組事件、国家公務員に関する全司法仙台事件の最高裁判決であった。
だが「東京中郵事件」判決以後、雑誌『全貌』などのいわゆる右翼的ジャーナリズムや日経連タイムズなどの財界誌、自由民主党の機関紙『自由新報』などによる「偏向裁判」攻撃がなされた。69年に自民党は司法制度調査会を設置するなど司法に対して圧力をかけ、政府は最高裁の裁判官の人事で、自民党政府の意向に忠実な人物を厳しく選ぶことにした。
73年の全農林警職法事件の判決で、最高裁は、判例を変更。公務員の争議行為を禁ずる国公法などの規定を合憲とし、今日にいたっている。Wikipedia「全逓東京中郵事件」、「全農林警職法事件」;『法学館憲法研究所』HP>時の話題と憲法> 1966年「全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策・司法反動」、1975年「司法の冬の時代」
他方、1966年、札幌地裁の長沼ナイキ訴訟は、自衛隊のミサイル・ナイキ基地建設のために、農業用水の確保などの目的でなされていた保安林指定を解除する国の決定に反対する地元住民によって起こされたものであったが、この訴訟では「自衛隊が9条に違反して違憲であるかどうか」が、争点となった。福島重雄裁判長は、1973年9月7日、自衛隊を違憲とし、国の保安林解除の処分を取り消した。
この審理の途中で、札幌地裁平賀健太所長が福島に対して、国側の主張をみとめるようにと「書簡」を送った。同地裁の裁判官会議は、これは裁判官の独立を脅かす行為だとして厳重注意する旨を決議した。
だが、自民党の機関紙などが、福島が青年法律家協会に加入していたことを批判したため、2人とも、国会の裁判官訴追委員会に呼ばれ、平賀は「不起訴」、福島は「訴追猶予」という決定になった。Wikipedia「長沼ナイキ事件」
青年法律家協会(青法協)は「平和と民主主義」をまもり、憲法を擁護する趣旨で作られた若い法律家の団体だったが、最高裁長官・石田和外は青法協会員判事を最高裁判所判事から排除しまた退会を強要。1970年には岸盛一最高裁判所事務総長が、政治的色彩を帯びた団体に裁判官は加盟すべきではない、との談話を発表した。この「政治的色彩を帯びた団体」という発言が青法協を念頭においてなされたものであることは明白である。石田や、岸などにとって(また彼らの後ろにいた佐藤栄作らにとって)は、「平和と民主主義」を守ること、憲法を擁護することをうたう団体は、左翼的で「政治的色彩」を帯びた、好ましからざる団体であったのだ。
最高裁は、71年には青法協のリーダー格と目された熊本地裁・宮本康昭判事補の任期10年の再任を拒否し、拒否理由の開示も一切拒んだ。その後も、最高裁は、判決内容や裁判官会議での発言、思想に基づく勤務評定、人事(任地、昇進、給与)差別を行うなど、「裁判官の独立」を侵害し続けた。Wikipedia「青年法律家協会」
1969年から73年まで最高裁長官を務めたのは石田和外である。東京帝大法学部卒業後司法省に入省し刑事裁判官になった。戦後は最高裁判所事務局 に入り、事務次長などを経た後、最高裁判所事務総長 を経て、69年佐藤栄作により最高裁長官に任命された。なお、司法省の職員のうち、裁判官として戦争犯罪(主として思想抑圧関与、政治犯を作り出した罪)に問われた者、公職追放となった者は一人もおらず、旧支配層の勢力は温存された。 Wikipedia 「石田和外」、法学館憲法研究所HP>時の話題と憲法>1975年「司法の冬の時代」
また、法学館憲法研究所HP「司法の冬の時代」では「日独の相違を一言で言えば、「裁判官の独立性」の徹底度の差です。日本では、能力が優秀でも、最高裁が是認できない判決(違憲判決など)をした裁判官は、左遷と見られるような支部の裁判所や家庭裁判所に転勤させられ例が枚挙にいとまがありません。そのために裁判官自身による自主規制は相当なものがあるといわれています、といい、出世コースを歩みたいがために最高裁の右寄りの姿勢に沿う判決を出そうと、上ばかり見ている「いわゆる「ヒラメ裁判官」が大多数だと指摘している。」
石田和外は退官後、有志による「英霊にこたえる会」を結成。会長になった。会は「国のために尊い命を捧げられた英霊の慰霊・顕彰を行い、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を求める」ことを目的としていた。 1978年、元号法制化実現国民会議(1981年に日本を守る国民会議に改称。97年、日本を守る会と統一し日本会議)を結成した。
日本会議:右派から極右に位置する日本で最大の保守主義・ナショナリスト団体 で、“美しい日本の再建と誇りある国づくり”を掲げ、政策提言と国民運動を行うとしている。
41人の代表委員の中に大石泰彦が加わっている(2017年現在)が、大石は東大百年記念事業の「募金委員長」を務めた。かれは、当時、統一協会(世界平和統一家庭連合)と人的・資金的につながりがある学者・文化人組織「世界平和教授アカデミー」の常任理事であり、東大原理研の顧問でもあった。
日本会議の主な活動や主張には以下のものがある:
現行憲法にかわる、新憲法の制定特に「軍事力増強」「緊急事態条項」「家族保護条項」の条文化を重視している 。
「先の大戦は東アジアを解放するための戦争であり、日本政府の謝罪外交は、日本国の歴史や戦没者を蔑ろにするもの 。わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育の是正が必要。
「ジェンダーフリー教育の横行」の是正 、学校における国旗掲揚・国歌斉唱運動の推進
男女共同参画、選択的夫婦別姓に反対。
生前の安倍晋三と思想的にも近く、集団的自衛権の行使を認める閣議決定の際にも、支持する見解を出した。 友好団体・提携団体として、美しい日本の憲法をつくる国民の会(主宰は櫻井よしこ他)
以上はWikipedia「英霊に応える会」、「日本会議」、「世界平和教授アカデミー」、「世界平和統一家庭連合」による。
このような、はっきりとした「右派から極右」の人びとを率いるような人物が日本の裁判所のトップにいて、自民党政府に都合の良い反動的な司法を行い、また「ヒラメ裁判官」を作り出したということは間違いない。
そしてこうしたヒラメ裁判官によって東大闘争が裁かれたし、また反百年祭闘争を闘った三好君も裁かれたのだ。
小熊英二『1968』による東大闘争と全共闘の批判への反論 <工事中> >
「第三部 労働者の東大闘争=臨職闘争(1970年~74年)の支援」 見出し へ