第二ステージ第一部 大学に入ったけれど(1964年から1968年6月20日)

大学に入ったけれど 見出し 

「世界文学」をちょっとかじった
サルトル、マルクス?
はじめてのデモ  日韓条約に反対
人類への貢献? 進学に迷う
東大キリスト教青年会の寮に入る
フィリピンでのワークキャンプ、東南アジア旅行
原子力工学科での3年次と4年次、1967年、68年
1968年6月、医学部生による安田講堂の占拠と全学集会 東大闘争に出会う
なぜ、今、東大闘争について書くのか

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「世界文学」をちょっとかじった

中学の理科の先生の影響でハム(アマチュア無線)に興味を持ち、高校2年までの3~4年間ハムに夢中になっていた。物理や化学、数学が好きで、高校での成績が良かったことから理工系に進学するコースを選んだ。ところが大学に入ってみると、理工系を選んだのは失敗だとわかった。教養学部でうけた授業はいずれも面白くなく、授業の予習・復習はほとんど全くやらなかった。
4、5人の仲間で文集を作った。「青い分子のエントロピー」という奇妙な名前だったが、「青い」は若いことを意味し、「分子のエントロピー」というのは、エントロピーは(ごく大雑把に言えば)分子の集まりなどの「系」の乱雑さの度合いを示す熱力学の用語で、寄稿文のテーマも寄稿者の考えかたもバラバラに異なっていることを表していた。私は他の寄稿者がどんな文章を書いたか全く覚えていない。1回限りのものだった。私が書いたのは、ほかの大学に入った高校時代の同級生にあてた手紙の形式で、私の大学入学後の生活や考えを書いたものだった。

成績は優か良で、可がひとつくらいあったかもしれないが、不可はなく落第(留年)の心配はなかったが理工学系の勉強が面白くなく、一時は、文系の学科への転学を真剣に考えた。だが、文系進学に必要な語学の単位が足りず、転学はできなかった。
板橋のアパートに、郷里の先輩たちが何人もいるというので遊びに行った。みな三畳か四畳半の狭い部屋に住んでいて、決してぜいたくな生活をしていなかったが、法学部生で司法試験の勉強をしているという田島さんは世界文学全集を持っていて、読みたいというと喜んで貸してくれた。私は、大学1年の時には文学好きの、と言っても小説を読むのが好きというだけの、青年になっていた。
しかし、読んだものは限られていて、私が夢中になって読んだのはロマン・ロランで、「ジャン・クリストフ」の主人公の理想主義的な生き方に感動した。ヘッセの「車輪の下」、ヘミングウェイの「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」もよかった。レマルクの「西部戦線異状なし」もよかった。最後の「地面がぐらっと揺れた」というような場面はまだ頭に浮かんでくる。
一方、トマスマンの「魔の山」、ドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」は途中で投げ出した。日本の作家では大江健三郎を読もうとしたが「死者の奢り」で躓いた。
高校時代には本を読まなかった。与えられた教科書をこなすだけだった。全く「内省」がなかった。目は外にだけ向かっていた。自分について考えたことがなかった。もちろんデカルトの「懐疑」も、「弁明」で語られるソクラテスの「無知の知」も知らなかった。
私がこのころ読んだ本は、せいぜい、20冊か30冊に過ぎないが、遅まきながら、ヒューマニズム・人間愛、自己犠牲精神、そして反戦思想などをこれらの本から吸収した。
3年になって東大キリスト教青年会の寮に入ってから読んだ五味川純平の『人間の条件』は、私が最も大きな影響を受けた本だと思う。 竹内好は「重苦しい小説だ。3000枚の長編のどこにも息をぬく場所がない。読みながら、いい加減にもうやめてくれ、と言いたくなるような小説である」と書いているというが、読み始めたらやめることができず、食事はしたはずだが、2日間ほど、ほかの事は何もせずに読み続けた。

田島さんの住むアパートには何回か行った。同じ高校の同級生や同窓生が数人東京かその周辺の大学に入っていたが、後で触れる隣のクラスだったu君一人を除いて、東京での付き合いはなかった。大学卒業のころには、高校の所在地・秋葉山の名をとった「秋葉会」という同窓会が作られ、東京で年一回、新潟(新潟大学)や仙台(東北大)の学生もやってきて、10人程度で同窓会を開いていた。しかし、私は、一度も参加したことがなかった。
夏休みや春休みには毎年郷里に帰ったが、その時には、特に仲の良かった(後に私の義兄になる)Tをはじめとする同学年の友達などと一緒に過ごした。麻雀や、コンパなどで遊びまわっていて、本を読むことがほとんどなかった。

サルトル、マルクス?

東京にいるときには小説を少し読んだが、当時、多くのまじめな学生が読んでいたサルトルやマルクスの著作は一冊も読んだことはなかった。
『岩波講座現代思想』1956-1957第二巻にあった実存主義思想の解説ではなかったかと思うが、そこでは、人間とは無である、人間は存在のなかにぽっかり空いた穴のようなものだ、というような文があった。サルトルが出発点にしている意識の構造を理解してなかった私には、そうした文学的な表現を多用したその解説からは何も得るところがなく、この時期には実存主義思想に興味を持つことはなかった。

高校の隣のクラスにいて、同じ新聞部に属し、中学時代にすでに新聞の編集を手掛けたこともあったらしい早熟のU君が、ほかの大学に進み思想研究会などに入っていて、私にマルクスの初期の著作『経済学哲学草稿』とフォイエルバッハの著作を読めといって本を貸してくれた。
キリスト教を唯物論的に説明するフォイエルバッハの言ってることは分かったが、当時のドイツの社会状況も思想界の状況も知らない私は「だからどうしたというのだ」というような感じで興味はわかず、『経済学哲学草稿』の方は、第一部の経済学のところで躓いて読むのをやめてしまった。終わりまで読んだとしても「疎外された労働」を理解できたとは思わない。
とにかく私には、高校の教科書や受験参考書で読んだ社会や19世紀までの歴史の知識くらいしかなく、ロシア革命以後の世界と日本の社会の像というものが欠けており、大学生を含む日本の知識人に何が問題になっているかを全く知らなかったのだから、サルトルやマルクスに興味が持てなかったのは当然だったといえる。
このころヒットした歌謡曲に園まりの「夢は夜開く」という歌があり、これをもとにした三上寛の替え歌がある。「サルトル、マルクス並べても、あしたの天気はわからねえ」という文句がその出だしである。
私がこの歌を初めて聞いたのは、ずっと後の1973年か74年頃のことである。そのころ私は大学卒業後2年間勤めた通産省(=経産相の前身)を辞め、東大文学部倫理学科に学士入学しており、アルバイトで都内の私立高校で非常勤講師をしていた。3、4年前の全国学園闘争の余波が残っており、その高校の卒業式で、卒業生が弾くギターに合わせて担任の教師がややかすれた声で巧みにこの歌を歌ったのである。
サルトルとマルクスが当時の学生、院生に大きな影響を与えたことは確からしいが、駒場時代の私は何の影響も受けなかった。そして学生運動や政治活動には全くかかわらなかったが、それでも、活動家たちと同じ時代の空気を吸っていたせいだろう。自分の生き方を真剣に模索していた。

私は、哲学や思想には全く無知であり、また政治や社会の動きについても何も知らなかった。私が育ったのは「戦後」であり、少年期は高度経済成長の時期にあった。だが日中戦争や太平洋戦争が、あるいは第二次世界大戦がいかなるものであったかについてほとんど知らず、また昭和30年代、日本が高度経済成長期にあるということも知らなかったし、日米安保条約や「安保闘争」についても、そして戦後の世界が東西に別れて対立し、核戦争の危機をはらんだ「冷戦」と呼ばれる状態にあったということなども全く知らなかった。

はじめてのデモ  日韓条約反対

私が大学に入った翌年に、日韓条約が結ばれた。日本は日ロ戦争以後朝鮮半島の「保護化」を進め、1910年、「韓国併合条約」を結んで韓国を併合、「朝鮮総督府」を置いて植民地支配を開始した。
1945年8月、日本の敗戦により、朝鮮半島は植民地支配からは解放されたが、東西冷戦の影響で、北緯38度線付近で分断されてしまった。南の韓国と日本との間で関係正常化の動きがあったが交渉は進まなかった。1961年に軍事クーデターによって朴正熙(パク・チョンヒ)政権が成立すると日本側の考えに近い条件で条約締結がなされることになり、「日韓基本関係条約」が結ばれた。主な内容は
① 両国は、 韓国併合条約など、戦前の諸条約のすべてを「もはや無効」であることを確認。〔歴史認識の違いをあいまいにした決着〕
② 大韓民国政府が朝鮮にある唯一の合法政府であると確認し〔北朝鮮政府の存在を無視し、南北分断を固定しつつ〕国交を樹立する、というもので
条約の締結と国会での承認は65年年末に行われたが、10月には条約粉砕に向けた社会・共産両党の統一行動が行われ、10万人が「国会請願」デモを行なった。Wikipedia「日韓基本条約」
当時の私が日韓条約の内容をどの程度理解していたかはわからないが、私は、64年に、条約締結に反対するデモに行った。
入学したばかりの駒場の教養学部のキャンパスでは、目抜き通りに、立て看板が並び、学生の登校時間や昼休みなどには、自治会の役員や活動家がスピーカーで条約粉砕/締結反対の行動に立ち上がれと演説を行っていた。郷里の小さな町ではみたことのない風景だった。
クラスごとに討論が行われ、私もデモに参加しようと思ったが、どの呼びかけ団体の隊列にはいったらいいのかわからなかった。隣りに座っていた学生が「三派系」のデモは怖い。機動隊に弾圧される。最初は民青のデモに行った方がいい、とささやいたので、民青の隊列に加わった。
しかし、デモに一回行っただけで、日韓条約についてあるいは当時の日本国内の政治情勢、また日本をとりまく国際関係をしらべてみようとはしなかった。教養課程では、衛藤 瀋吉の「国際関係論」という講義があった。しかし、日韓基本条約や日韓関係についての話を聞いた記憶はない。伊藤正己の法学概論、また○○(教官の名前を忘れた)の「心理学概論」なとと同様、数百人の学生相手の大講義で、真剣な聴講ができなかったためかもしれないが。

たぶん、同じクラスだったと思うが、沖縄からの「留学生」が男女一人ずついて、2人と一緒に何度か話をしたことがある。沖縄が戦前は日本の一部であったが、当時は米国の統治下にあり「外国」だということは知っていたが、そのことに何の問題意識も持たなかった。2人と話をしたことがあると言ったが、何を話したかは全く覚えていない。当時、本土への復帰を求める大規模な反基地運動が沖縄各地で展開されていた(島ぐるみ闘争―Wikipedia)ことについての話しを聞いたおぼえもなかった。

私は昭和20年8月6日、つまり広島に原爆が投下されたその日に生まれた。私の名前を役場に届けたのは「終戦」になる8月15日より前のことで、役場では「こんな名前を付けて大丈夫か」と言われたという。父親は身長が足りず「甲種不合格」で戦争にはいかなかった。母親の弟は海軍の飛行機乗りとして戦争に行き太平洋のどこかで戦死したということだった。両親は1945年2月か3月まで東京で暮らしていたが、母が妊娠したため3月の「東京大空襲」前に父の実家のある新潟に「疎開」して移ってきた。戦争の話はときたま聞いたが、その程度の事だけだった。私の頭の中には「敗戦」という語ではなく、「終戦」という語しかなく、アジア―太平洋戦争がどんなもので、終戦後/敗戦後、どんな影響を与え続けてきたのかについての認識がほとんど皆無だった。

クラスにインドネシアからの留学生が一人いた。確かヴィダルジョノという名前で、ジョノと呼んでいた。 (2023年に文化勲章をもらった)同級生の榊裕之が一番親しくしていて、彼によると、ジョノの父は大臣をやっているというような話しだった。私も含め同じクラスの数人が彼と親しくなった。
あるとき、バドミントンの国別対抗の世界選手権試合があり、決勝戦にインドネシアチームで出るので、応援に来てほしいと言われ、数人で試合を見に行った。64年5月22日(Wikipedia「トーマス杯」)
この男子国別対抗戦はトーマス杯といい、1948年に第一回が開かれ、インドネシアは58年の第四会大会以来79年の第十一回まで、一度マレーシアに優勝を譲った以外、チャンピオンであり続けた強豪国で、この年の決勝戦の相手はデンマークだった。

驚いたのは、インドネシア側の応援がすさまじく、観客が応援席の床を激しく踏み慣らし体育館全体が揺れんばかりだっただけでなく、相手のスウェーデン選手に対して“Imperialist!Go home!"というような言葉をなげつけたことだった。そして一緒に見ていたジョノも顔をも真っ赤にして「負けたらどうしようかと思いました」というのであった。おそらく彼にとっては、デンマーク選手はインドネシアを植民地支配していたヨーロッパ人の1人であり、(バドミントンがインドネシアの国技ともいわれていたこともあり)トーマス杯は独立戦争でヨーロッパの国と闘うのと等しいほどの意味を持っていたのだろう。

私は「日本人」であることに、つまり、朝鮮を支配し、中国、東南アジアを侵略し、またアメリカに挑戦して、負け、沖縄の統治権を失っていたが、東西対立のなかで、経済成長を遂げつつあった「日本」という国の「国民」であるということについて、何の認識もなかった。

そもそも私は、自分はどんな世界のどんな状況の中で生きているのかに大した関心がなく、また考えてみようともしていなかった。

人類への貢献? 進学に迷う

理工系の授業が面白くなく文科に移りたい、文学部に進学したいと思ったが、必要な単位をとってなかったため、転部、転学科はかなわず、結局、工学部の原子力工学科(92年にシステム量子工学科に名称変更。)に進学することにした。しかし、積極的に選び取ったのではなく、工学部の中に他に行きたいところがなかったので仕方なく選んだ学科だった。
原子力工学科は、1960年に創設され、65年に第一期生を送り出したばかりの新しい学科だった。 東海村に建設された日本初の商業用原子炉・東海1号炉が1965年5月に臨界に達し、66年7月に営業運転を開始していた。(私は68年の夏に、卒業に必要な原子炉の運転管理の「実習」を受けに東海発電所に行った。)

1960年代、高度経済成長と共に日本の電力需要が高まり、いずれ枯渇すると見込まれた石油に代わるエネルギーとして、産業界は、原子力発電を求めた。東大の原子力工学科はそうした産業界、電力業界の意向に合わせて新しく設立された学科であった。
私は、進学し、この学科で、様々なタイプの原子炉や、それに続いて開発が予定されている高速増殖炉さらにはもう少し先と予想されている核融合炉など、新しい分野の工学を学ぶことになった。
当時、政府、産業界のみならず、多くの学者・研究者も、原子力開発は社会・人類に有益であると言っていた。
(2011.3.11の甚大な被害を生じた東電福島原発の事故後も、一部の原発推進者たち、原子力村の人びとは、今もそのように宣伝しているが)。原発の問題性を指摘する声は聞かれなかった。もし、原発の問題性が指摘されていたならば、進学に際して、私も違った選択を行ったかもしれない。
高木仁三郎さんらによって、原子力資料情報室が設立されたのは1975年である。それまでは、反原発・脱原発の立場から原子力政策について調査・研究・批判的提言を行い、原発の危険性、環境に対する悪影響を指摘する組織的な活動は存在しなかった。原子力資料情報室の活動によって、はじめて、社会が原子力に依存することに対して明確な疑問符がつきつけられることになった。
原子力の問題性を知らなかった私は、実際には、原子力工学科を選んだのだが、しかし、だからといって、「原子力を通じて社会・人類のために役立ちたい」と考えたわけでは全くなかった。
何であれ、私は、個人的利害関心を越えた普遍的課題があり、その課題の実現に寄与することが自己の生の目標になる、という考え方を、当時は全く知らなかった。
先の戦争では「お国のために」自らの命をささげた多くの若者がいたことは知っていた。しかし、それは、応召を拒否すれば刑務所に入れられ、場合によっては特高警察や憲兵に虐殺されたり、戦争を積極的に支持する周囲の人びとから「非国民」として家族ぐるみで「村八分」にされることを恐れて、やむを得ずそうしたのだ、と考えていた。自ら進んで、戦争に行き、国家のために命を投げ出そうとしたのではない、と思っていた。
同じ原子力工学科に進学した者に相沢清人がいた。彼はクラスの中でも勉強家で通っていた。彼は前途に対する自信と希望に満ち溢れているように見えた。
乗り合わせた井の頭線の電車の中で「勉学の目的は何か」という話になった時、彼が「人類に貢献するためだ」と言い切ったことが印象的だった。私には人類への貢献などという遠大な目的は到底考えられなかった。
相沢は動燃(動力炉・核燃料開発事業団)に入ったようだ。動燃は東海村の再処理施設で火災・爆発事故を起こした後、廃止され、「核燃料サイクル開発機構」として改組され、2005年には原子力研究所と統合されて「日本原子力研究開発機構」となった。

Webで検索すると、相沢は90年に「動燃技報」No.74に「動燃における確率論的安全評価(PSA)」という論文を「動力炉技術開発部」の肩書で、2006年には「保全学」No.3(http://mainte-archive.cloud/008096に「原子力施設の安全性向上へのリスク情報の活用」という論文を「日本原子力研究開発機構」の肩書で載せている。
スリーマイル島原発では炉心溶融の大事故が起こったのは1979年であった。1986年には、チョルノービリ/チェルノブイリ原発でこれまで最大の事故が発生し、数十万人以上の人が被害を受けた。(Wikipedia)
これらは「遠い外国」での事故で「日本では安全管理をしっかりやっている」「原発のタイプが異なる」などと自分をごまかすこともできたかもしれない。
動燃は高速増殖炉もんじゅが95年にナトリウム漏れによる火災事故を起こした際には、事故現場のビデオを隠し、現場写真をシュレッダーにかけて廃棄する等の隠蔽を行なったとして批判された。(内部調査に当たった総務部次長・西村氏は、その後自殺した。)改修工事が行われたが、2010年試験運用中にふたたび事故を起こし、16年廃炉が決定された。

2011年3月11日東日本大震災に際し、福島原発では、1号炉、2号炉、3号炉でメルトダウンの大事故が発生。大量の放射性物質が飛散し、周辺の多数の住民が避難を強いられた。同年8月末現在で避難者数は14万6500人に達した。

当時の私は、原子力が多数の住民に被害を与える重大な事故を起こしうる危険な技術だとは考えていなかったと思う。だから原子力工学科に進学したのだろう。

私は他者を犠牲にしてまで自分の利害関心を追求したいとは考えなかったが、人類あるいは国家・社会のために自己をささげるという考え方は全く持ってなかった。後になると、私は考え方を少し修正し、社会には障碍者や病者、あるいは運が悪く困っている人びとがあり、その人たちのために、時には自分のしたいことを後回しにする必要がある。自分が興味を持てないこと、あるいは自分の直接的利害にかかわることでなくても、やるべきことがあると考え、そのように行動することが多くなった。

だが、入学後すぐに数学や物理化学が面白いと思わなくなったことは上で触れたとおりである。原子力工学科に進学することになってからも、必ずしも原子力工学の技術者・研究者が、自分の就きたい職業だとは思っていなかった。他に、どんな職業に就いたらいいのか、どんな道があるのかわからないまま、東大教養学部理科一類コースが用意していた学科の中から、比較的「新しく、面白そう」に見えた学科を選んだに過ぎなかった。

大学に入学するまで特に考えずに生きてきたが、何とはなしに最善のコースを歩んでいるように思っていた。だが、ここにきて、進むべき道が全く分からなくなっていることに気が付いた。
私は、実際にはそこに立ち止まっていたのだが、このまま前に進んでいったとして、最後にはどうなるのかと考えた。こうして、やや唐突に、死の問題に突き当たった。

人生の終わりとしての死の問題をかんがえるようになったきっかけは、駒塲の同級生で仲の良かったS君が病死したことだった。上でふれたジョノや榊、それに代議員の一人で民青の江藤などとともに教室や大学の近くの喫茶店で、時々、話しをした。彼は体操部に入っていた。ところが、1年生のときか2年生のときかはっきりしないが(*)、ある日、彼が「最近、手や足に力が入らなくて困ってるんだよ」と言った。

 (*)この文を最初に上掲したのは2023年3月だったが、7月になってあるとき、肉まんを買ってきて家で蒸して食べていた時、突然、60年近く前、Sと一緒に肉まんを食べたときのことを思い出した。体育館でバスケットボールか何かをやって遊んだ後で、彼が「こうやってソース〔醤油だったかも〕をかけて食べるとうまいんだ」と言って、アツアツの肉まんにかぶりついたシーンが頭に浮かんだのである。それは12月か1月の寒いころのことだった。ということは1年次が終りかけていた頃の事であり、その時にはまだ元気だった。従って彼が体の不調に気がついたのはその後の春休みか2年になってからのことだと思われる。

そしてそれから、2,3か月しか経ってなかったような気がするが、急速に病状が悪化したのだろう、江藤から、東大病院に入院したが、非常に重い、と告げられた。彼の話では全身の筋肉が衰えてしまう難病で治療方法がない。(進行性筋萎縮症ではなかったか。)今は自分で呼吸ができず、人工呼吸器使っているが、長くは生きられない、ということだった。そして、一緒に見舞いに行くことになった。

コンクリートの壁がむき出しの病室には床に直接マットが一枚敷いてあり、そこに酸素ボンベと思われるものにつながったマスクを着けただけで横になっている、むざんな姿のSがいた。眠らされている、という話だった。看護婦も医者も来なかった。いちいち見舞いの相手はしてない、ということなのだろうが、患者の S は、酸素ボンベとともにその部屋に放置されているという印象だった。そしてこれが死ぬということだと私は思った。

葬儀のあと彼の家に、同じメンバーでお悔やみを言いに行った。彼の家は豆腐屋であった。店は彼の兄が継ぐので心配はないが、せっかく東大に入れたのにねえ、と眼を真っ赤にして話すお母さんにかける言葉がなかった。

他の生物は生まれ、捕食し、生殖し、そして死ぬ。ただそれだけである。ところが人間は、何か仕事を成し遂げ、あるいは目標を達成すべく生きると言われる。人間は誰でもライフワークを持つべきなのだ。私は、まだ大学に入っただけで、まだなんら、仕事らしい仕事をしてはいなかったが、次のように考えた。 人間は何か仕事を成し遂げなければならないのだが、それを成し遂げた後では、どうなるのだろうか。人間も他の生物と同様、最後には死ななければならない。一生懸命作品を完成させようと努力し、そしてそれを実現すると、死んでしまうのである。

死ねばその成果を自分で楽しむことはできないのに、何のために仕事をするのだろう。私は何のために生きるのだろう。多くの場合、人は成果からだけでなく、それを生み出すために行う日々の仕事のなかからも喜びを見出すのだが、当時はわからなかった。

ルクレティウスは『自然について/物の本質について』で死を嘆いたり悲しんだりする必要はない、と次のように書いている。

「おまえの以前の生活が喜ばしいものであったなら、宴の客のように生命というご馳走に満足して、安らかな眠りを求めるがよい。またおまえの享けた生命がいやな一生だったなら、さらに多くをなぜ求めるのか。」

こうした説明は何の答えにもなっていないと思われた。(→「須藤自由児のHP」第三部<エピクーロスの「快楽=幸福」説について>第1章第一節内の「ルクレーティウスへの反論」参照。)

私は工学部への進学を前にして、前に進むことの意味が分からなくなっていた。今何をしたらよいかわからなかった。
私はたぶん、それまでは、人生というものを何かハードル競争のようなものだと思っていたのだろう。そして、大学に入るまでは、ハードルは、中学、高校の先生たちによってあらかじめ置かれていて、それを越えて進むことに何の問題も感じないできた。
今は、目標設定を自分で自由に行うことができる。何もしないわけにはいかない。何か目標を設定しなければならない。自由に目標を設定できるが、目標の設定自体はおこなわなければならない。私は、自由に目標を設定するように強制されている、自由を強制されている、こんな風に思った。

私は遅まきながら高校時代に、自分の行動をコントロールしている自己というものの存在に初めて気がついた。そして今、大学二年になって初めて、個々の行動だけでなく、自己の生の全体を自分で選びつつ生きて行かねばならないということに気がついたのだった。サルトルの思想を浅薄に受け取って、自分が実存主義的に生きつつあると思った。

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東大キリスト教青年会の寮に入る

1966年、大学二年が終わった春休み、東大キリスト教青年会の寮生募集の広告を見た。応募資格は「キリスト教徒もしくはキリスト教徒たらんとする者」で、入寮を希望する理由を書いた作文を提出し、選考の面接を受ける必要があった。
私は洗礼を受けたことはなくキリスト教徒ではない。しかし、この「キリスト教徒たらんとする」点で、応募資格があると考えた。

私は中学時代に英会話を学びたいと考え近所の米国人牧師の家に遊びに行っていた。またキリスト教の日曜学校に通い、聖書も読んでいた。中学の国語の時間に書いた作文では、旧約の創世記の記事を引きながら、「こんなふうに一日一日を有意義に生きたい」などという、とんでもないことを書いていた。

聖書を時々読み、今、生き方に迷って、確かに、迷える子羊であった。だが、「キリスト教徒たらん」というのは本当かと強く尋ねられたら、窮していたかもしれなかった。キリスト教とキリスト教徒に関心をもちつつ、迷いながら真剣に生きていたことを「キリスト教徒たらんとする」ことだと、私は強引に解釈し、応募した。

寮の場所は向ヶ丘一丁目で東大農学部キャンパスが目と鼻の先にあり、原子力工学科のあった弥生キャンパスまで歩いて5分か10分で行けるところだった。建物は古く、建築基準法違反の木造三階建てだったが、ごく安い寮費で2食食べることができた。私が上の意味で「キリスト教徒たらん」としたことは確かだが、寮で暮らす利便性に強く惹かれたことも応募の理由だった。

建物の寿命がつきかかっていたことは、「会報」131号で、私の在寮(1966年春から69年夏まで)当時学生主事であった五十嵐さんが書いておられるが、自室の天井に入っていたひびが次第に長くなり、また幅が広がり、ある朝、轟音を立てて天上の3分の1か4分の1ほどが床に落ちた、という。私が退寮してから数年後のことだと思われる。その後、寮は新築された。

提出した作文には、イエスを実存主義者としてとらえ、イエスに倣い、イエスのように生きるべき道を追求し、困難に出会い、そのつど真剣な選択を行ないつつ生きていきたい、というようなことを書いていたと思う。イエスを単なる人間としかとらえていない、クリスチャンから見れば途方もない作文である。

中学時代の作文でもとんでもないことを書いていたが、入寮選考に提出した作文も、イエスを人間としか見てないのであり、選考委員たちはまゆを顰めたに違いないが、おそらく「悩める子羊」に救いの手を差し伸べる必要があると判断して、受け入れることにしたのだろう。

作文は真っ正直に当時の考えを述べたものだったし、ほかの人の目にどのように映ったかは分からないが、その後の三年余のYM生活はそこに書いたのとそう違わない、どう生きるべきか、本当にしたいことは何なのか、迷いながらの生活だった。

フィリピンでのワークキャンプ、東南アジア旅行

入寮したばかりの五月に、国際YMCA学生同盟の主催する恒例のワークキャンプがフィリピンであり、日本からも代表を送る。人数は一人で旅費は同盟が支給するという話があった。 私は大学の授業のことなどまったく忘れて、すぐに応募した。米国人による英語の簡単な口頭試問だけで、私が行くことになった。ほかに応募者があったかどうか、知らない。

キャンプの期間は2週間で場所はマニラ郊外の農村だった。小学校の体育館で折り畳み式の簡易ベッドに寝て、昼間は、林の中に穴を掘ってトイレを作るという単純作業をやっただけだった。(当時のフィリピンの農村では家にトイレがなく戸外で用を足していたという。インドではいまだに5億人がトイレのない家に暮らし、「野外で排泄」しているという。朝日新聞DIGITAL、2017.11.26  https://www.asahi.com/articles/ASKCR45GWKCRUHBI00F.html )

私が原子力工学 nuclear engineeringを勉強しているというと、原子力工学の学生がフィリピンに穴を掘りに来た、と笑っていた。
ワーク・キャンプ最終日には、ルソン島中部の避暑地バギオに一泊旅行に行った。

キャンプ終了後、キャンプ中に特に仲良くなったAlexという大学生が彼の家に招いてくれ、1か月ほど逗留した。父親は地元で開業医をやっており、長男でアレックスの兄は大きな病院の勤務医をしていた。

夏休みだったこともあり、アレックス自身は遊び暮らしていて、私を連れて出掛けることもあったし、私をキャンプで一緒になった他の仲間に任せて、一人で遊びに行くこともあった。私は何人かの女学生の家にいったり、マニラの町のなかをぶらついたりした。また、自費でルソン島南部までバス旅行に行った。たぶん、有名な観光地だったはずだが、まったく覚えていない。

私はYMCA学生同盟から支給された東京‐マニラ往復相当額の旅費に自分の金を足してジャカルタまでの飛行機の切符を買ってあり、それ以外に食費などのために必要となる300ドルほどのトラベラーズ・チェックを持っていたが、観光旅行をする余裕はなかった。翌年の「アサヒグラフ」5/17に投稿した「私の海外旅行」には経費は全額で約40万円と書いている。
所持金(トラベラーズチェック)は、ホテルに泊まるには足りなかったはずだが、当時は、東南アジアを旅行する日本の学生はほとんどいなかったようで、行く先々で、日本人に、よく来たねと宿の世話をしてもらうことができた。

私がジャカルタに到着したころ、市内の宿泊施設はすべて軍人によって占められており、安いホテルを見つけるのは困難だった。しかし、ホテル従業員寮に1日か2日泊めてもらったあと、ある新聞の支局長Kさんの紹介で日本航空社員の方のお宅に泊めてもらうことができ、またバリ島まで行く取材旅行にインドネシア人スタッフと一緒につれて行ってもらったり、スマトラ島に取材に行くスタッフに同行させてもらったりと、ほとんどお金をかけずに滞在し、また旅行することができた。

タイのバンコクでは、JETRO(日本貿易振興会)のバンコク事務所責任者で通産省から出向しているという汲田さんと、牧師の森本さんにお世話になった。汲田さんのお宅に数日泊めていただき、夜にはエアコンの効いたボウリング場で初めて大きな球の本格的なボウリングをした。(フィリピンにいたときにYMCAではじめてボウリングをやったが、木製のソフトボールくらいの玉を使ったもので、ピンは人の手で立てていた。日本で機械化された本格的ボウリング場が開設されたのは、1961年で、広く親しまれるようになったのは1965年頃から、ブームになったのは1970年頃から、という(wikipedia)から、日本で私がボウリングをやったことも見たこともなかったのは当然だった。)

森本さんからは、チェンマイに布教に行くので一緒にいかないかと誘ってもらった。チェンマイはバンコクの北方、直線距離で500㎞(東京―大阪間とほぼ同じ)、最近の観光案内によると、飛行機で約1時間10分、バス、鉄道の急行で約12時間のところにある古都で、今では、国際的観光都市として有名だ。

森本さんは、私を助手席に乗せ、日産のブルーバードを運転して、チェンマイに行った。現在より道路が整っていたとは思われず、おそらく12時間以上かかったのではないかと思う。街の風景も、また布教でどんな手伝いをしたのかも、まったく思い出せないが、彼がチェンマイに行く途中、「車っていうのは本当に便利なものだ。こうやってハンドルを握ってアクセルを踏んでいるだけで、目的地まで行けてしまうんだからね」としみじみと語ったのが印象に残っている。

自動車は、半世紀にわたり、日本の都市部では大気汚染公害、騒音公害を惹き起こし、また交通事故による多くの犠牲者(死者、植物状態の重傷者など)を生み出してきたし、今も生み出し続けている。自動車のもつそれら重大なデメリットを忘れてはならないが、乗る人にとっては(あるいは経済成長には)大きなメリットがあった。 森本さんはそうした車のメリットについて、全く当たり前のことを言っているだけだったが、まだ自家用車が普及して間もないころで、交通不便な遠隔地に赴く必要のある人たちにとって、車が特別にありがたいものと感じられたことがわかる。

私は最近台湾に登山のために出掛けた際、帰りの飛行機で、チェンマイに5泊6日のゴルフに行ってきた帰りだという人と話をした。私が学生時代にタイにいったことがある、というと、彼は「タイは変わりましたよ」という。かれは、チェンマイに住んでいる友人の家に泊まり、一緒にゴルフをするのだという。「以前と違い、いい車ばかり走っている。しかし、混雑がひどい。40㎞先のゴルフ場に行くのに1時間40分もかかってしまう」と言っていた。

私が森本さんの車に乗せてもらってバンコクからチェンマイに行ったときには、すれ違う車がほとんどなく、交通混雑は全くなかった。両側に人家はめったにみあたらず、ジャングルというほどではないが熱帯の林が続く、舗装されていない道路を走ったことを憶えている。

その後はシンガポールの空港で飛行機を乗り換え、香港に行った。香港では、安いYMCAのホテルに2~3日泊まった。

  日本に戻ったのは夏休み中で、そのため工学部では3年前期の単位はとれず、留年が決まり、私はさらに半年間、まったく自由な時間を持つことになった。

自由な寮生活 友達のこと

私が羽田をたつ時に見送ってくれたのが、医学部生で、YMの1年先輩の清水弘之君だった。(後に、都立神経病院脳神経外科部長。)彼は、次男坊だが、落ち着いた度量の大きい人物で、自分勝手で向こう見ずな私を嫌わず、まるで兄貴のように三年間付き合ってくれた。わたしのほうでも、時々は彼の囲碁の相手をしてやった。彼は囲碁部の部員で私は井目(せいもく。はじめに黒石を9つ置いておく。)かそれ以上おいて打った。二人で山中湖に遊びに行き、大学の寮に泊まり、テニスをしたこともあった。お金を使って東京の街の中で遊ぶということはなった。

YMの寮に時々やってくる、Oさんという30歳前後位の女性がいた。聖書研究会に加わっていたらしい。彼女は独身で東大病院か医学部で事務の仕事をしているということだった。あるとき医学部の清水君や垣内君などに誘われ、彼女の住む、赤門のすぐ近くのマンションの部屋を訪ねた。
行くと医学部の講師をやっているという(名前は忘れた)40才前後の男性がきていて、彼女はこの人とお付き合いをしているが「私たちの関係は、とてもきれいで純粋なのよ」などと言っていた。男性の方はちょっとにやにやしたが何も言わず黙っているだけだった。われわれはお茶でも飲ましてもらおうと行ったのだが先客がいたので引き上げた。

Oさんの実家は四国の大洲で垣内君と同郷であった。私はOさんの従妹か姪にあたる女子大生と知り合ってしばらく付き合った。そんな縁で、私は夏休みに大洲のその女子大生の家に泊めてもらい、そこから九州に渡って清水君の家を訪ねて泊めてもらい、彼に、別府の観光地を案内してもらった。四国も九州も初めてだった。

YMの寮で私が最も仲良くなったのは法学部生の国生肇君だった。彼は関西出身で梶村慎吾さんの後輩だといった。 梶村さんはたぶん私より4つか5つ年上の大先輩で、日本宗教者平和協議会(宗平協)主催の世界一周平和行進に参加した経歴を持ち、当時はYM寮の主のような存在だった。

夏休みに国生君と私を大菩薩峰の登山につれて行ってくれた。帰りに彼の(高校の?)先輩でキルケゴールの実存主義思想の日本への紹介者である東洋大学教授・飯島崇享さんの家に寄った。福生にあった飯島さんの家にはその後も国生君と二人で何度か遊びに行き、入れてもらったコーヒーを飲みながら、奥さんと4人で麻雀をやった。当時は、コーヒーは喫茶店でしか飲めなかった。今のような紙のフィルターもなく、袋状のネルのフィルターで濾していた。

工学部生と(司法試験を受けると言っていた)法学部生相手に哲学・思想の話はほとんど出なかったはずだ。だが、私がいったん工学部を卒業し就職してから、文学部に入りなおして哲学・思想の勉強をしたいと言い出した時、哲学科よりも倫理学科のほうがいいとすすめてくれた。私が修士課程を終えた後、東大百年祭・百億円募金に反対する闘争にかかわったこと(後述)が関係して、就職できずにいたときにもいろいろと心配してくれた。

梶村さんは普段は図書館かどこかに通って司法試験を受けるための勉強をしているらしく、あまり姿を見なかったが、同期に入寮した国生君は夜更かし、朝寝坊で生活リズムが私と一致したこともあって、非常に親しくなり毎日の生活で一緒に行動することが多かった。

生活にはほとんど拘束がなく夜と昼の区別もなくなってしまったためだろうが、私はやがて、夜眠れなくなり睡眠薬を使うようになった。国生君もまたうまく眠りがとれず眠りにこだわったせいだと思うが、おとぎ話の王子様かお姫様の寝室のように、レースのカーテンでベッドを囲い、飾り立てていた時期があった。
私は睡眠薬の量がだんだんに増え、自分がどこかおかしいと感じるようになった。時計台(安田講堂)の学内者用の保健センターにいくと、精神科の医師(後に石川清氏と知った)に「ラリってますね」と言われた。何か薬をもらい不眠症から抜け出すことができた。

67年ではないかと思うがゴールデンウィークに国生君と二人で、どこに行くところもなく、飯島さんの娘で当時小学校6年生の佐和子ちゃんを誘ってハイキングに行こうかという話になったが、「むくつけきおのこ」だけでは嫌がられるだろうというので、その前の冬、高田馬場の山手YMCAの子供スキースクールの(今でいう)ボランティア・リーダーに一緒に参加したことがあって、手帳に住所、電話が記されていた日下直子という女子学生に電話し、拝み倒して付き合ってもらうことにした。私は、このひととその後つきあうことになり、今も家族としての付き合いが続いている。

国生君との付き合いは、私が工学部を卒業して通産省(経産省の前身)に勤めた後も続いた。彼はすでに司法試験に合格して司法修習生になっていた。彼も結婚して、ペアでのお付き合いが続いた。

キリスト教青年会の寮生活は私の青春のすべてだった。寮生には毎日の夕祷と時々の行事への参加などいくつかの義務が課されていた。夕祷は、寮生が夜の一定時間に、各階ごとに当番の人の部屋に集まり、当番がその人の好みに従ってあるいは彼が大切だと思ってとり上げる聖書の箇所について、彼の考えを述べたあと皆で話し合う、集まりのことである。夕祷を通じて聖書について学ぶと同時に他の寮生の考え方や生活態度などを学ぶことができ、人生の中でめったにないきわめて貴重な時間をもつことができた。

夕祷の当番と夕祷への出席は義務であった。創立記念礼拝やクリスマス礼拝も出席義務があった。ほかにもあったかもしれない。しかし義務だといっても、夕祷当番の場合は別として、夕祷や礼拝、そのほかの行事に、アルバイトなどで欠席しても咎めだてされるということはなかった。

YM寮は青年の自由で気ままな生き方を最大限許容してくれた。私はこの寮で、のちに持つことになった家族との関係における義務や仕事上の責任や、あるいは社会的常識などの拘束などに一切縛られることなく、また金銭的には豊かとはいえなかったが、ずいぶん安かった寮費のおかげもあって経済的に困ることもなく、自由を満喫し、また自分が自由であることに戸惑い、悩み、苦しみつつ、留年の1年と東大闘争で卒業が延期になった分も含め3年半を過ごした。

YMの寮生に1年上の堤良介がいる。彼は原子力工学科の1年先輩で、後に東電の原子力計画課課長(2013年)になっている。彼が私に声をかけてくれることもなく、最初の挨拶以外、話をしたことはなかった。

1966年の秋は、どうせ留年するのだからと、全く授業に出ず、遊びとアルバイトに明け暮れた。家庭教師をいくつか掛け持ちでやり、また、翌年の春休み中は、新聞の広告で見て、1か月ほどだったが新宿の喫茶店でバーテンダー(見習い)のアルバイトをやったこともある。

ウェイトレスが4、5人いて、元教員だったという中年のAさんが本職のバーテンダーで、チーフ。そして25、6才の青年Bさんもバーテンで、二人は時間交代で仕事をしていた。また私の他に、アルバイトではない、わたしより若いくらいの C 君がカウンターの中にいて手伝いをしていた。私はカウンターの中で彼らを手伝うのだが、暇なときにフルーツパフェ―の作り方とかガムシロを使ったレモンスカッシュの作り方(したがってシェイカーの振り方)などを教えてもらった。

ある日、水で濡らさないようにと後ろの棚に置いておいた学生証をBさんが見つけて「お前は東京大学の学生なのか」という。「はい」と答えて、再び仕事をしていると、チーフのAさんが出勤してきた。Bさんが「こいつは東京大学だそうですよ」というと、Aさんは目を丸くして「えー、お前は東大か」という。私は再び「はい」とだけ返事をした。だが、その時、Bさんが「えー、お前は東大生か」と言ったのだ。おかしかった。東大が東京大学の略称だということを知らない人にとっても、とにかく「東大生」というのは有名だったらしい。

原子力工学科での3年次と4年次 1967年、68年 

東南アジアに数か月旅行して1年留年した66年の翌年、67年の春から、本郷キャンパスの隣の弥生キャンパスで原子力工学科の3年生として、一年下の進学者に交って授業に出席し、勉強した。 

67年には、関西電力が美浜発電所1号機の建設工事に着工しており、2年後には2号機に着工することになっていた。また、東京電力は福島第一発電所の1号機の建設工事を始めており2年後には2号機に着工することになっていた。そしてそれらの原子炉が完成し運転を始めることができるように、炉で燃やす核燃料集合体の製造が複数の企業で開始されようとしていた。

電力会社や、原子炉建設や核燃料製造関連する企業では、原子力という新たな分野の技術に関する知識をもった原子力工学科や、原子核工学科(東北大)などの卒業生を獲得しようと努めていただろうことは想像に難くなく、学生の会社訪問などの必要はなかったはずだ。

68年に4年生になったときにも、私が留年組で周りから浮いていたせいもあっただろうが、就職や大学院への進学に関して学科の説明会のようなものが開かれた記憶はなく、就職や進学について学生の間で話しあっているのを見聞きした覚えもない。
しかし、なぜかは知らなかったが、通産省の原子力発電課にいた、私の知らない先輩から、通産省に来ないかという話があった。特に他のところに就職しようと考えていたわけではなかったので、それじゃあ行こうかと公務員試験を受け合格し、面接にもパス。通産省原子力発電課に配属されることが内定した。あとでその先輩から聞いた話では京大からも原子力発電課を受けたものがいて、私より成績はよかったという。要するに通産省では学閥が支配していたようだ。

68年には、級友から話を聞いて、あるいは、隣の本郷キャンパスの食堂に時々行ったときにビラを受け取るなどして、大略、学生に加えられた不当処分の撤回を求めて医学部で闘争が行われているということは知っていたが、自分に関係のあることだとは思っていなかった。

1968年6月、医学部生による安田講堂の占拠と全学集会 東大闘争に出会う 

6月20日、級友の何人かに誘われ、安田講堂=時計台前の広場で行われるという全学集会にいくことになった。弥生キャンパスから安田講堂に向かう道すがら聞いたところでは、6月15日に、総長との話し合いを要求する医学部学生によって安田講堂が占拠され、内側からバリケード封鎖が行われた。これに対して大河内総長は17日に機動隊を導入して封鎖を解除した。だが機動隊導入というのは「大学の自治」に反することで、怪しからん。今日の集会で総長の機動隊導入に抗議するのだ、という。

私たちが着いたときにはすでに多くの参加者で広場は埋め尽くされていた。大勢の学生が、自治会の名前の書かれた旗やのぼりをもって集まっていた。また学部学生だけでなく、はっきり年上だとわかる人たち、大学院生や助手たちの顔も混じっていた。前方に置かれたいくつかのスピーカーの一つからは、機動隊を導入し(医学部生を弾圧し)た総長を糾弾するアピールがなされていたが、また別のスピーカーは機動隊導入の口実を与えた一部学生による占拠行動は許されない、とアピールしていた。

私は医学部生の安田講堂占拠行動と総長の機動隊導入に対して集会参加者の中に違った見方があることを感じたが、集会は大まかにいえば総長に対する「抗議」のための集まりなのだろうと考えて済ませていた。広場には、複数のスピーカーからの音声と参加者同士のワイワイがやがやが混じった喧噪と、何か半分お祭り気分のような、解放的で楽しい気分が漂っていた。

後にみるように、医学部生たちの不当処分の撤回を求める闘いは、6月まで、話し合い=「団交」に一切応じようとしない、医学部長や東大総長の強硬姿勢に阻まれて、展望が開けないでいた。だが、15日の安田講堂占拠によってもたらされた6月20日の全学集会によって、医学部の闘争は、私のようなそれまで全く無関心でいた者も含め、一挙に数千の学生の注目と関心を引くことになり、闘いの全学化が始まった。6.15の安田講堂=時計台の占拠は、4か月にわたって孤立した闘いを強いられて来た医学部の学生たちにとっては、起死回生のホームランだったろう。 医学部における闘争については、後ろで「七項目要求」に関して述べた箇所で、説明する。

この日、法学部を除く9学部でストライキが打たれた。また数日前の教養学部自治会委員長選挙で民青系の委員長を破り、フロントの今村俊一が当選していた。彼も、駒場から教養学部生数千人とともにこの集会にやってきていた。(富田武『歴史としての東大闘争』p16)

私は、まだ、医学部全学闘の人びとの安田講堂占拠、当局による機動隊導入、そして6.20全学集会などの一連の事件を楽しいサプライズのように受け止めたにすぎず、闘争に対する単なる観衆の一人でしかなかったが。


そこでは、国大協路線の「大学の自治」と言われていたものは、「教官と学生の関係が処分制度を含む管理者ー被管理者という厳然たる支配関係に他ならない」がゆえに「奴隷制度」だと断じ、不当処分の白紙撤回を勝ち取る手段としてなされた本部占拠は、「奴隷からの自己解放の闘い」であり、正当なもの だと主張していた。

同時にこのビラは、「機動隊導入の口実を与えた、一部学生の暴力」を非難する民青諸君に反論するとともに、「事態の本質は----まず何よりも我々が、口先だけで医学部闘争に結集する学友諸君に連帯を表明し、あまつさえ民青諸君のハゲタカにも似た行為を難詰することにより、自ら、甘美な日常性のなかに埋没していたこの我々自身が、まさしく医学部学友諸君を孤立させ、彼らに対する弾圧を強化させる共犯者であるのだということに求められるのでなければならない。すなわち弾劾されるべき者はまずなによりも闘いを放棄していたいた我々自身に他ならない」と述べていた。東大全学共闘会議編『ドキュメント東大闘争 砦の上に我らの世界を』亜紀書房1969年4月10日刊(以下『砦』と略)p70~74 


私は不当処分撤回を求める医学部闘争を支持したと思うが、しかしそれは「口先だけ」で、実際には、傍観者、単なる観衆でしかななく、このビラで言われてるように、医学部生の闘いを孤立させ弾圧を強化させる共犯者だったということを意識するのは、ずっとあとのことだった。

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なぜ、今、東大闘争について書くのか

以下で、東大闘争のなかで、私自身が実際にその場に行き、見、聞きしたこと、行動したことなど、いくつかの経験と共に、69年4月に出された東大全共闘による『砦』など数冊の本に依拠して、東大闘争中の主な出来事/全共闘の行動と東大闘争の「経過」を書く。

私の諸経験は私の記憶によって書く。他方、東大闘争中の出来事/全共闘の行動のほとんどを当時の私は知らなかった。ビラで全共闘の主張、行動への呼びかけ、報告などについてある程度は読んでいたはずだが、その記憶は全くない。

68年秋までは、私は、6月20日の安田講堂前「全学集会」と、6.28総長会見に「参加」しただけだった。「参加」といっても、単にそこに行き大勢の観衆の中に交じっていた、というだけだが。
8.10告示、その批判のビラは、読んだだろうが、処分はけしからん、と思った程度で、卒業に必要な実習(東海原発一号炉)の1週間か10日を除き、9月半ばまで、夏休み中は、郷里に帰って、遊んでいたと思う。

では、私が自分が全共闘派だと考えて行動した時期はいつからいつまでか。全共闘が9学部の自治会のスト実など13の団体の代表者によって結成されたのは68年7月5日で、同時に「7項目要求」が決まった。
わたしは、「7項目要求」を支持したが、都市工大学院のビラにあるように、単に口先で7項目を支持し、民青を非難するだけで、闘いを孤立させていた観衆でしかなかった。この姿勢は9.19工学部無期限ストに賛成したときにも大して変わってなかった。というのは卒業実験を続けていたからである。

しかし、全共闘が全学バリケード封鎖の方針を打ち出し、それが原子力工学科に及んできたときが、転機になった。9月半ばからの授業が始まって、卒論のための実験を開始してしばらく経った10月末、3年生から「バリケード」封鎖の提起があった。私は、最初、バリケード封鎖に反対し、そのことを活動家の集まりである工学部スト実会議に行って主張したのだが、逆に、納得してしまった。その時から、全共闘派になったと言える。
クラス討論で7項目要求貫徹・バリケード封鎖!を決議し、卒業実験はやめ、学科の建物の入り口を封鎖し(教官からも職員からも反対されなかった)、教室で自主講座をやったりしたからだ。

また、いつのかはっきりしないが、工学部学生大会に行き、無期限スト/バリケード封鎖支持の発言を行った。 本郷キャンパスではスト実の手で次々と号館封鎖が行われた。クラスの誰かは参加したかもしれない。私は、参加するよう呼びかけられた記憶はなく、封鎖行動には参加しなかった。しかし、封鎖後、その防衛行動には参加した。反対派が封鎖解除をしようとしたときに、隊列を組んで駆け付けたことははっきり覚えている。跳びけりを喰らってキックダウンされたから。

それ以外、68年秋は、どんな行動をしたかは覚えておらず、また日共=民青との大規模な衝突を含め、年末までの「全共闘」の動きはほとんど知らなかった。
(10年後の反百年祭闘争で仲間がデッチ上げ起訴された事件の弁護士を務めてくれた今村俊一さんが当時教養学部自治会委員長だったことをつい最近まで知らなかったことは恥ずかしい限りだ。)

そうこうするうち、年が明け、いつだったかは憶えてないが、YM寮を訪れたセクトの誰かの紹介で民放のラジオ番組で民青と1対1で討論し、全共闘の主張(といっても私は、ただ「7項目要求」の正当性を述べただけだが)を行い、また、10日の夜、クラス代表として(と私は記憶してるのだが)安田講堂の防衛に加わった。これは民青の襲撃戦からの防衛で、講堂の建物が守ってくれたおかげで石を投げただけで済んだのだが。

1.18-19は、安田講堂で、全共闘の中核をなしていた人々とむき出しの国家権力=機動隊との激しい闘いがおこなわれた。お茶の水方面から、安田講堂の闘いの支援に向かおうとした中大などの学生部隊及び労働者、市民の集団が、それを阻止しようとした機動隊と本郷三丁目で対峙した。私は向ヶ丘のYM寮から東大に向かったが、機動隊がでていて近寄れず、言問通りを通って遠回りをして本郷三丁目に行き、そこで群衆に交じって投石した。

1.18~19の後も、安田前で集会が行われたし、私も、そこに参加したのかもしれない。しかし、これから闘いはどうなるのか、まったくわからなくなった。

全学的方針が上の「指導部」から示されるのではなく、学部ごとあるいは、学科ごとに、大小の闘うグループが存在し、それらがつながったものが「全共闘」だったのであり、多数の中核的な活動家を安田講堂で逮捕されて失ったあと、そのつながりは見えなくなっていた。

教養学部でも、また本家の医学部と文学部でも授業再開粉砕の形をとって、当局による収拾「正常化」策動に抵抗する闘いが続き、5月の法学部、経済学部の卒業試験は全共闘により粉砕された。文学部では秋まで闘いが続いた。
しかし、工学部ではリーダーの石井重信が安田講堂で逮捕され、当局の収拾策動に応じたスト解除とともに一挙に闘争は崩壊、「正常化」が進んだ。もともとリーダーのいなかった原子力工学科では、どうすべきか、どう行動したらいいのか、皆目わからなくなった。 学科討論を経て、学科のスト実仲間と共にバリケード封鎖・授業拒否はやめ、しかし、「7項目要求」を認めず弾圧を加えた大学当局に抗議する意味を込め「自主卒論」を書き、6月末に卒業し内定していた通産省に、就職した。私は東大闘争から脱落した(「日和った」)。

後で知ったことだが、工学部スト実の中心的メンバーの中には、山谷のドヤ街に行き労働者になった者、東大工学部を中退し全く違った職業に就いた者などもあった。
私は(東大闘争に加わるようになって知った言葉である)「国家独占資本主義」の中枢ともいうべき通産省に就職することに後ろめたい思いはあったが、その時点で、通産省への就職をやめてどうするのか、塾の講師やアルバイトで食べていくことはできるが、「どう闘うのか」「どう生きるか」が問題で、その方針が見いだせるまでとりあえず通産省で身過ぎ世過ぎをするという感じで入省したのだった。

69年春の段階で、闘う意思が消えてしまったわけではなかった。工学部で闘争が行われなくても、文学部や医学部の、あるいは教養学部の闘争に加わる(「支援する」)ことはできたはずだ。とはいえ、活動家としての経験の全くなかった私には、原子力工学科・弥生キャンパスから一人ででかけていって、ほかの場所・ほかの部局での闘いに加わろうということはまったく考え付かなかった。

「連帯を求めて孤立を恐れない」ということが全共闘の思想だとするなら、私は全共闘のいくつかの行動に参加し、自分が全共闘派だと思っていたが、この時点では「1人であっても闘い続けよう」とはしなかった。
「力を尽く」したと思っていなかったし、闘う意思はあるとさえ思っていた。だが、どうやって闘ったらいいのかわからない、と思っていた。闘う方途を真剣に追求しなかったのだ、闘い方がいい加減だったのだ、ということかもしれない。

石井重信が安田に残ると言った時の工学部スト実の会議は小熊の著書で知ったことだが、石井君の様に弾圧にさらされることを覚悟のうえで闘い続ける重い選択をした者が、私の近くにいなかったせいでもあるが、当時の私は、闘争をやめ、卒業することにあまり負い目を感じなかった。

しかし、私はその後、通産は2年で辞め、文学部倫理学科に学士入学し、ヘーゲル哲学の研究をすることにした。ヘーゲル哲学の研究が東大闘争とどう関係するのかという問題はあるが、通産省での身過ぎ世過ぎから足を洗ったことは確かだった。

そして、次の第二部「東大闘争に加わった」の後に続く第三部「臨職闘の支援」、第四部「反百年祭闘争を闘う」で書くように、私は、東大で学生の闘争に代わって/それに続いて始まった労働者の闘争、臨職闘争に関わることになり、77年に始まる反百年祭闘争では、上で述べたような意味で「活動家」として闘った。

こうした臨職闘争や反百年祭闘争へのかかわりは、東大闘争の経験なしにはあり得なかったもので、東大闘争はその後の私の生き方に極めて大きな影響及ぼした重大な事件であったのだ。

私はすでに後期高齢者になっていて、東大闘争から55年になる今、遅まきながら、その後の私の人生に決定的な影響を与えたことが確かな「東大闘争」がどのようなものであったかを、ほかの人に説明したい、伝えたいと思う。単に主観的で、断片的でしかない闘争中の諸経験を書くのでなく、私の諸経験がその中でそれによって規定されつつ起こったその状況、ある程度客観的な東大闘争の要約のようなものを書きたい。

法学部出身で政治学者の富田武が書いた『歴史としての東大闘争 ぼくたちが闘ったわけ』筑摩書房〈ちくま新書〉2019年 はその第一章で東大闘争の経過を約9ページ、5,000字ほどでまとめている。「活動家」レベルだった人にはこれで十分な「要約」なのであろうが、ほとんど全く闘争の過程が見えていなかった「シンパ」に過ぎなかった私には大まか過ぎ、もう少し詳しく書いてほしかった。

私が書いた第二部「東大闘争に加わった」は、たぶん富田の東大闘争の「要約」の10倍以上の長さになり「要約」としては長すぎると思われるかもしれない。しかし、私はできるだけ詳しく「経過」、諸事実、を確かめたい。私がかかわった東大闘争というものが、たとえば、ゲバルトの問題等があるにしても、全体として正当な闘いだったと断乎として主張できるためには、その中身(経過や諸事実)を知らないまま、正しかったと思い込んでいるに過ぎないのではなく、十分知ったうえで、正しかったと思いたい。そのために、できるだけ詳しく、知りたいのである。(もっと早くその確認作業にとりかかるべきであったということについては若干反省しているが。)

私が書く「東大闘争」時の自分の経験は、わずかでごく狭い範囲のことである。私は、当時自分が全共闘派として行動していると思っていたし、今も、それは「全共闘派」の行動だったと思っている。
しかし、全国の大学で学生叛乱が起こった時代から半世紀、今では「東大闘争」とか「全共闘」という名前を聞いたこともない若者がほとんどらしい。全共闘とは「オカルト宗教」のようなものだと思っているものさえあるという。そうした若者たちの中に、ここに私が書くことを読んでくれるものがいるかどうか怪しいが、そうした読者には、私が経験したことをいくつか書いてみても、それらを通じて東大闘争とはどんなもので、「全共闘」は、なぜ、どのように闘ったのかは、わからないと思われる。

私がどう考え、どう感じながら(私が全共闘派の一員だと信じつつ)行動していたかを伝えるだけでなく、客観的にも、それら私の経験が東大闘争の経験であり全共闘派の一員としての経験であった(見方を変えると、私の主観的で個人的なそれらの経験も、そのごく小さな一部に過ぎないが、東大闘争、全共闘の闘いの一部をなす)ということ、そして全共闘の掲げた目標と闘いは正しかったということ、したがって私の全共闘として行ったと信じている行動も正しかった、ということを確かめたいと私は思う。(大学当局のとった態度・行なった対応、そして日共=民青との関係でとられた戦術すべてが適切だったとは言えないのかもしれないが、しかし当事者の一方が、100%正しいことなどあるはずがないだろう、とも思う。)

また「正しかった」と主張するが、「正義」を大上段に振りかぶって、他者を攻撃しようというのでなく、東大闘争後、マスメディアや警察によって作り上げられた全共闘の負のイメージ、筋の通らぬ、わけのわからない要求を掲げて暴れた若者というイメージが不当であること、全共闘が掲げ、大部分の学生が賛同した「七項目要求」という目標が正当なものであり、それを支持して闘った/闘おうとした行動は決して間違ってはいなかったということの主張であり、1.18~19安田講堂攻防戦以後なされた全共闘に対する中傷と不当な非難に対する反論である。

以上が、続く第二部を書く理由である。私は第二部で、東大闘争の全体像を私なりにまとめ、全共闘の闘いが正当なものだったことを明らかにしようと思う。

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使った資料は、東大全共闘編『砦の上に我らの世界を』(『砦』と略す)に収められているビラやパンフ、山本義隆の著書『私の1960年代』、東大闘争統一被告団(自立社)・資料編集委員会『資料・東大裁判闘争』、教官の折原さんの著書『東大闘争総括』、助手共闘の主要メンバーだった最首悟さんが収集したビラ類(東京大学digital archaiveにある)、そして小熊英二の研究書『1968』を用いた。

最首さんの資料については、2022年現在で東京大学文書デジタル・アーカイブる所蔵資料https://uta.u-tokyo.ac.jp/uta/s/da/document/a1388e98c6918b277330ed5c527fe68c>歴史資料等>教員資料>【資料群内の一覧】の27件目に最首関係資料>「最首氏の自宅で保存されていた東大闘争関係資料一式について、2017(平成29)年7月に最首悟氏本人より受贈されたもので 全部で1232点」があり、【詳細を表示】をclickすると「助手共闘」(61件)「60年安保関係」「1960年代ビラ類」(360件)など5群が表示される。「助手共闘」で【詳細を表示】をclick→61件のビラ、冊子などがあり、冊子は1ページずつ読めるようになっている。この「助手共闘」群が東大闘争時のビラ類で、webでダウンロードが可能。

山本『私の1960年代』の末尾「『東大闘争資料集』について」によると、山本の呼びかけで集まった<68・69を記録する会>は、87年3月から92年12月まで5年半をかけ、69年2月末までの東大闘争のビラ、パンフ、大会議案など5千点以上を集め、コピーを製本したもの(23巻)、および撮影したマイクロフィルムを、国会図書館、大原社会問題研究所に寄贈し、資料原本を国立歴史民俗博物館に寄贈したという。

大変な労力をかけて資料が保存されたことにより、東大闘争は何だったかを、将来にわたって、インチキ大新聞などによる捏造、歪曲に惑わされることなく、知ることができるのだ。

山本は「闘争後20年以上を経て、67年から69年2月末までのものだけで、重複を除き5千点以上集まったというのは今から思うと本当に奇跡的」と言っている。製本されたコピーは平積みにして1mを越えた、という。<記録する会>の数人で仕分け作業などを行なったというが、資料のデータベース化(日付、学部、発行団体、見出し(90時まで)---)は山本が自分のpcを使って一人でおこなったという。仕分けとインプットの「延々と続く退屈な作業」を4年間続けたというその頑張りというか根気強さは超人的と言える。経費も「相当な額になるが」彼の「自腹」だという。(p124)

私が書いているのは「自分史」の一部で、東大闘争にかなりの行数を割いているが、全共闘派とはいえ政治音痴の一学生に過ぎなかった人間の個人的な回顧でしかなく、しかも知的エネルギーが枯渇しかかった状態で上にあげた数冊を参照して、闘争の経過を確認するのがやっとである。『私の1960年代』を読んでこの『東大闘争資料集』の存在を知ったのは最近で、申し訳ないと思っているが、この『東大闘争資料集』にあたることをしないまま書いた。

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