第一部 第6章 雨の中、風の中の釣り、暑さ、寒さの釣り

    水クラゲ                                       ガンガゼ




















    虹  

                                                                                         

   落日  




















      シケの海



























第6章 見出し一覧

1.雨の中の釣り
何かが釣れるという期待
モイカが釣れた
海面の穴、水クラゲの群れ
2.強風の中の釣り
朝の虹と遭難一歩前のシケ
3.暑さとの戦い----夏場の釣り
半開きのオーニングで日陰を確保する
9月の海はまだ真夏だ
イシダイ釣りに熱中して熱中症一歩手前
釣りは休み。しかし岸壁でウニ採り
釣りの苦行
体中を水で冷やしながら釣りをする
若さ・体力と慣れ
膝から下が焼けるように熱い

4.寒さの中の釣り
三月末なのに真冬の寒さ
風巻き(シマキ)
プレッシャーのかかったマダイ釣り
寒風の中、沖の真珠筏に掛けて釣る
沈む夕日の金色の光がまぶしかった
カタツムリとブラック・パンサー
私はマゾヒストなのか
5.霧の中の釣り
「私の釣り」見出し一覧に戻る





退職する少し前、私が、これまでの仕事を辞め漁師で暮らすと、知人、友人に知らせたとき、「これからは晴漁雨読ですね」と書いてきた人があった。

私の場合、耕す代わりに漁ないし釣りをして暮らす日々であり、退職し、自適の生活を送っているのだから、その通りだ。だが、私が、文字通りに、晴れているときに漁をし、雨が降れば書物を読むのかといえば、そうではない。確かに、時化(シケ)の時は漁、釣りに出かられない。しかし、雨は降っても釣りはできる。それどころか、一般に晴れた日よりも曇天あるいは雨天のほうが魚の食いがよいともいう。そして、昔、雨の東京湾の防波堤釣りで初めての獲物を得て以来、私はむしろ雨のなかの釣りのほうが好きだといっていいくらいなので、雨を理由に漁を休むことはほとんどない。

また、私はそれまでの読み、書き、そして教える仕事はやめると決めたので、「雨読」するつもりもない。私の生活は「晴漁雨漁」なのである。漢和辞典を開いたら、「沐雨櫛風ヨクウシップウ:風雨にさらされながら苦労して努めること」という語が載っていた。私の釣りを中心にした自適の生活にはこの語が当てはまる。私は雨にも負けず、多少の風にも負けず出漁し、夏の暑さにも、冬の寒さにも負けぬ、強固な意志をもって、日々、釣りに専心・傾倒している。

そして、この努力、我慢、忍耐を伴った釣りへの専心は、それら「努力」「我慢」等々自体に価値があると考えるからではなく、それらがきっともたらしてくれるだろう「快楽の時」への期待に基づく。猛暑のなかで体を焼かれながら粘ったら、良型のアジが入れ食いになったことがある。風雨のなかで我慢し苦労しながら続けたら、納竿間際に大物が来たこともある。今日一日坊主であっても次の出漁できっと獲物がある。時には数日間不漁が続くということもしばしばあるが、そのあとにはたぶん、いやきっと好漁が待っている。釣りにおいては苦労は必ず報われる。苦楽一如、先憂後楽。こうして、私は、体が動く限り、毎日出漁する。

以下の文は日記の中から、強い風で苦労したり、雨のなかで我慢した釣り、寒さにじっと耐えたり、暑さに苦しんだ釣りについて書いた個所を抜粋し、多少、補ったものである。補った文のうち多少長いものは〔   〕で括ってある。苦労し、我慢したにもかかわらず、全く釣れない、いわゆる「坊主」の日もしばしばあった。しかし、それにもかかわらず、2011年現在この6年間の釣り三昧の生活を振り返ってみると釣果と釣りの快楽は大いに満足の行くものであった。ここに書いたのは釣り生活の中で経験したいくつかの「苦」である。釣りの「快」は極めて大きく、それらの苦を差し引いても、十分にプラスになるほど大きいということを明確に証明することが、この章の目的である。

第6章見出しに戻る

(1)雨の中の釣り

何かが釣れるという期待

07年4月下旬。ちょっと早いとは思ったが、夕方の上げ潮時、クロハエにイサキを狙って出漁した。その日はイサキが釣れなかっただけでなく、雨のなか3時間以上ねばったが、当たりがほとんど全くなくい、我慢の釣りが続いた。釣りを終える間際になって、30cmオーバーのきれいなマダイが1匹釣れ、坊主をまぬかれてよかったと自分を慰めたが、好釣とはとても言えない釣りだった。

最近始めたマキコボシ釣りである。仕掛けを投入して石が落ちコマセが撒かれた後は、指先に注意を集中して当たりを待つ。しかし、この日ははっきりしたアタリはタイが釣れた時に出た1回だけで、仕掛けの投入回数は20回を超えたはずだが、当りがわからないまま、餌はなくなっていた。入れ食いになったり、当たりが続けば、忙しく、また楽しい興奮のうちに時間が経ってしまう。しかし、3時間の釣りの間、当たりが1回だけでは時間をもてあましぎみになる。

しかし、今日は雨だ。私は晴れているときには、釣れず、当たりもなければ退屈したりいらいらしたりすることはある。しかし、雨の中では違う。きっと何かが釣れるという期待感から、決して退屈しないし、いらいらしたりすることもない。

20年以上前、東京湾の埋め立て地で初めて防波堤釣りをやり、イシモチ(ニベ)、クロダイ(チヌ)、セイゴ、セイゴより一回り大きいフッコ(ともにスズキの稚魚)を釣った。いつも夜釣りだった。
当時の私には初めての大物であった40センチのフッコを釣ったのは梅雨の頃、生暖かい微風が吹く雨の晩だった。常夜灯の下の海面に雨が無数の波紋を作っていた。引き抜いた魚がどさっと音を立てて足下に落ちた時に感じた興奮は忘れない。

初めてクロダイが釣れたのは、その2、3週間後、台風が接近しつつあったときか、通過した直後の晩だった。風交じりのやや強い雨が降り、防波堤の上から竿を出している私の足下には、テトラにぶつかって砕けた波しぶきが掛かっていた。25センチをやっと超える程度のものでしかなかったが、釣りあげた魚から針を外そうとした手が興奮で震えて、なかなか外れなかったことを覚えている。雨の降っている時には、そして雨の降っている海面からは、何かが釣れてくるような気がする

この日、狙ったイサキは釣れなかった。今日はだめかとあきらめかけていた。だが、暗くなる直前、一匹だけだが、最後にマダイが釣れた。大きいとは言えないがきれいなサクラダイ〔桜の花が咲くころ、というよりは産卵期を控え、体表が赤く美しくなったマダイ〕だ。雨の日にはやっぱり必ず何かが釣れるのだ。

第6章見出しに戻る

モイカが釣れた

07年5月中旬。家串湾の西の奥の地区、油袋ユタイに行った。マダイ養殖の生け簀が並んでいて、生簀の枠に船を係留して釣る。イサギ、マダイなどがよく釣れる場所がある。台風1号が温帯低気圧に変わったばかりで、風がかなり強く、雨が時おりたたきつけるように激しく降った。この日も手釣りのマキコボシ釣りでイサキを狙って行ったのだが、イサキの当たりは全くなかった。

子ダイが釣れたので、これを餌につけて泳がし、モイカ(標準和名アオリイカ)仕掛けの竿を出しておいた。結局マキコボシ釣りのほうはこれといった釣果はなく、代わりに、竿で1・8キロのモイカを釣ることができた。ウキ下は2〜3ヒロしかなく、雨がやんで海面が滑らかになっているときは、餌につけた小ダイが泳ぐのが船の上から見えた。イカからも海上のボートや人影は見えるだろう。しかし小皺のようなちょっとの波でも、波があれば海のなかは見えない。雨が激しく海面を叩きつけ、飛沫で煙ったようになるとき、海中と海上は完全に隔離され、海の生物は安心して海面近くに上がってきて餌を食うのだろう。

30年以上前、大学院生の頃、西伊豆戸田にある大学の寮に泊まったときも雨だった。風がなく穏やかな夜だったので、傘を差して寮の前の小さな波止に行った。波止の先端で常夜灯の下の海をみていると、イカが悠然と泳いできた。もしかしたら、灯りの下にいた人間に気がついたのかもしれない。突然、スピードを上げて泳ぎ、去っていった。私は海で泳いでいるイカを見るのは初めてで、あたかも「海の神秘」を垣間見たように感じ、大いに興奮したことを思い出した。


〔06年も07年も5月の半ば以降から、石物、つまりイシダイとイシガキダイを狙って何回か出漁したが、釣れたのは8月末から9月に入ってからである。
9月一杯は晴れの日が多く、海の上は真夏の暑さが支配している。晴れていれば、船の上は、太陽が上から照りつけるだけでなく、海面からの照り返しもあって、コンクリートで舗装された街中にいるのと比べて負けず劣らず、暑い。夏の暑さのなかでの釣りについては後で書く。
梅雨寒というが、寒ければ重ね着をすれば済む。梅雨の時期の釣りは真夏の釣りに比べてはるかに楽で疲れない。できれば梅雨明け前にイシダイを釣りたい。こうして、08年も梅雨の時期に何度かイシダイを狙って出漁した。〕

第6章見出しに戻る

海面の穴、水クラゲの群れ

08年6月中旬。午後3時ごろイシダイを狙って、湾口、塩子島の南端、マルバエの近くにでかけた。ずっと雨が降っていて、時々は海面をたたきつけるように強く降った。

落ちる雨滴が水面に無数の凹みを作る。凹みが動いていくので潮の流れが分かる。海面にぶつかった雨滴は、凹みをつくるとすぐに海中に溶けるように消えてしまうものもある。また海面にぶつかったあと、白い玉になってしばらく浮いているものもある。時には、直径5ミリほどもある大きな水玉ができ、風に押されて海面をツーッと走る。風に押されて何秒間か水面を滑って行って、それから海に吸収されて姿を消す。数秒間同じ大きさで水の上に浮いたあと、ふっと消えるものもあるが、はじめの玉がいったんそれより小さな白い粒に変わり、その小さな粒がまた1秒か2秒続いて、それから完全に海に溶け込んだりもする。最初にできた水玉がどれくらいの間、持続するのか、イーチ、ニー、サーンとゆっくり数を数えてみる。多くは2、3秒で消える。だが、5秒以上も持続するものもある。

石井研堂の『釣遊秘術 釣師気質』(アテネ書房、1987、初版本は明治39年、博文館から刊行)のなかの、「小黒鯛のふかし釣り」に、次のような文がある。

雷がバリバリとなって思わず竿を引っ込めた。「その余響いまだ収まらざるに、強雨沛然〔ハイゼン:雨が激しく降る様〕として到り、竿に砕けて銀針射り、苫〔とま=雨よけの覆い〕を撃ちて玉髄流れ、万條の篠、鋭く波面を衝きて、その跡あたかも小蓮華を隙間無く浮かべし如く、遠望すればただ、雪濤セットウ漾漾ヨウヨウとして〔雪のように白い波がゆらゆらと広がり〕水を見ず。----

研堂は近くの海面に「穴」や「凹み」を見ずに、「小さな蓮の花」を見た。そして遠くには「水」を見るのでなく「雪」をみた。私の文には趣というものが全くないことを痛感させられる。

いつか、テレビのコマーシャルか何かでみた高速度撮影の画像では、落下してきた液体が下にある同じ液体の表面にぶつかると、下の液体に吸収されるが、その場所は押し下げられ、次いで、その凹んだ場所は反動で盛り上がり、そして盛り上がった液体の一部が千切れ、粒となって空中に飛び上がる。私が今見ている現象もこれと同じならば、海水に吸収されずに上に浮いているように見える水滴は雨粒そのものではなく、いったん海水に吸収されたあと、雨水と塩水が混ざり合ったものが跳ね返って形成した粒だということになる。いや、あのテレビの中の粒はいったん空中に飛び上がった。しかし、目の前の水滴は飛び上がったりはしていない。雨水は、海面に衝突したときに塩水と混じりあわずに、ぶつかってただ止っただけかもしれない、-------などととりとめもないことを考えながら、数時間、雨粒を見ながら釣りを続けた。

一日中降り続き、雨の勢いが最も強いときには、海上に靄がかかったかのように、500〜600m南の黒ハエがみえなくなるほどだった。しとしととと降っているときに北の由良半島を見ると、標高100mくらいから上、つまり半島の上半分は雲がかかっていて、稜線は見えなかった。弱い雨が降り続いていたが、その間は、視界は悪くなく、10キロほど先の鹿島、横島まで見えた。だが雲は厚く垂れ込め、世界が縦方向に圧縮されているように感じられた。

向かいの塩子島の頂上近くのに草や木がほんの少しだけ生えていて、ここは緑である。だがそれを除けば、海も、空も、遠くに見える島や半島の陰も、周囲はすべて鉛色。寄せて返す波が岩にぶつかって砕けると、その泡のために海が白くなるが、これをサラシがでるといい、このような場所をサラシ場という。(ただし、サラシもサラシ場も辞書にはなく、釣人用語かもしれない。)

波が押し寄せているわけでもなく、波がぶつかって砕ける岩があるわけでもないのに、船から30〜40mはなれた場所が一ヶ所、サラシ場のように、白みを帯びている。なぜだろうとは思ったがさほど気にしていなかった。少し経つと、その白い場所が船の近くに動いてきた。水クラゲの集まりだった。1日か2日前のテレビのニュースで、水クラゲが大量発生し、イワシ網漁などに被害が出ていると報じていた。そして空から撮った写真で、海の白っぽい、あるいは薄いブルーのところが水クラゲがたくさんいる場所だと説明していたのを思い出し、なるほどと思った。その薄いブルーと塩子島の頂上付近の緑を除いて、周囲の世界は全く彩りを欠き、灰色あるいは鉛色一色に塗りこめられていた。


水クラゲ。写真はhttp://kamo-kurage.jp/shonaizukan/鶴岡市立加茂水族館HP「庄内動物図鑑」より借用。加茂水族館には、とくに、「クラゲドリーム館」があり、クラゲの生態などについての学習の他に、「クラネタリウム」で50種以上のクラゲをみることができ、また世界有数という直径5mの球状水槽内の2000匹の水クラゲをみることができるという。


海上では、陸上に比べて音が遠くまでよく伝わる。晴れた日に、湾内の真珠筏に掛けて釣りをしていると、筏の玉ウキからフジツボを叩き落すカンカンカンという音がすぐ後ろから聞こえてきて、思わず振り返ってみると、200〜300m以上離れたところで作業をしている人の姿しか見えないということがしばしばある。クロハエ付近で釣りをしていると、よく晴れた日には、6〜7キロメートルも先の三畑田島の養殖生簀で作業をしている船のエンジン音が聞こえたりする。

普段は、近くをあるいは遠くを通る船の航行音がするのに、今日は、平碆の渡船を含めすぐ近くを通った3隻の船の航行音しか聞こえなかった。雨が音を吸収してしまい、離れたところ通る船の音が消えてしまうのだろう。また、すぐ前の塩子島の上にはいつもカラスやトビが飛んでいて、なにかしら鳴き声がする。しかし雨が降ると鳥も飛ばず、鳴き声も聞こえない。

こうして、近くを通る船のエンジン音が消えると、塩子島の海岸に打ち寄せるザザーン、ザザーンという音、私の船の船底に波が当たるチャポン、チャポンと言う音、マルバエの向かいの岩に波がぶつかって時々できる波しぶきが立てるバシャーンという音、そして、私の着ている雨合羽の帽子の上から雨が叩きつけるピシッ、ピシッという音だけになる。

雨音は降り続いていると聞こえなくなる。降り始めの雨の音は「あ、雨だ」と気がつかせ、われわれの注意を引く、有意味な音だ。だが、その雨音は降り続いていると、われわれの注意を引かなくなり、意味を持たない、世界のバックグラウンドになって、音を失う。波も同じだ。都会の人間が海辺の民宿に泊まると、夜、打ち寄せる波の音が気になってなかなか寝付けない。しかし海辺で暮らしている人々にとっては、シケになり普段と違う大きな波が打ち寄せるときには別だが、毎日聞こえてくる波の音は、特に意味のない、バックグラウンドである。波の音は無であり、ほかの音がそれを背景に聞こえるのである。海で釣りをしていても、チャポン、チャポン、ザザーン、ザザーン、あるいはバシャーンという波音の繰り返しは、聴こうと思わなければ、聞こえなくなる。

カッパを着ているのに、少しずつ染み込んだ雨水と汗で体中がびしょびしょになった。袖口や襟元だけでなく、胸も、背中も、腹も、パンツの奥もぐっしょりと濡れた。開高健が雨中の釣りで「お尻の穴が皺のすみずみまでぐっしょり冷え冷えとぬれた」とあちこちで書いていたのを思い出した。

今、私の周囲にあるのは、雨と波の水音だけで、有意味な音は何も聞こえない。雨が私の周囲に沈黙をばら撒き、色褪せた、人の気配がまるで感じられない閉塞空間を作り出している。私はこの冷え冷えとした世界で、ただ一人、小さな船を浮かべ、イシダイを釣ろうとしている。当たりが出ないが、別にあせりも、苛立ちもない。ただ釣糸を垂れるのみ。

夕方、5時くらいに、竿に小さな、しかし、はっきりとした、イシダイらしいゴツンゴツンという当たりが出た。私は竿尻を腰にあてて、構え、食い込めと念じた。少し時間が経ち、だめかと思った瞬間、竿が曲がり、さらに大きくグーンと曲がった。ようし!と力をこめて竿を立てるとガツンとはっきりした手ごたえがあり、魚が針掛かりしたのが分かった。
今期最初のイシダイだ!力をこめてリールを巻く。だが、あれー?!ガクン、ガクンと首を振る感触が伝わってくる。そして最初の引きは強かったが、途中からは無抵抗になって浮いてくる。灰色の海の中から、鉛色の世界に姿を見せたのは、濃いピンクの縞の背中をした、彩りも鮮やかなイラだった。残念。イラは、他にうまい魚がたくさんいる家串周辺では食べる人は少なく、釣っても喜ばれない。まあ、しかし、これを釣らなければ、イシダイ釣りも始まらないのかもしれない。----その後、7時まで粘ったが、石物らしい当たりはなかった。

第6章見出しに戻る

 

(2)強風の中の釣り

08年12月14日、石物(イシダイ・イシガキダイ)を狙って、サクノセに行く。サクノセは家串湾を出てすぐのところにあるバス1台くらいの大きさの高根で、大潮干潮時にのみ頭を出す。周囲の水深は20m以上あり、夏から秋にかけて、石物を40匹近く釣ることができた。シーズンはもう終りかけである。

朝の虹と遭難一歩前のシケ

昨夜は雨。今朝は雨は上がったが、黒い雲が空を覆っている。天気予報は、曇りのち晴れ、北西風で波は1.5m。やや高いが、行って見てダメなら帰って来るつもり。8時少し過ぎに出港。雨が再びぱらついてきた。出港すると正面、西の小松崎あたりからタンダ(田ノ浦)の浜にかけて、くっきりと虹が現れた。振り返ると、所々雲が切れていて、エビス崎に向う東の尾根に朝日が昇り始めている。家串で朝、虹を見るのは2回目。一回目は海岸の通り、公園のあたりを歩いているときに見たが、虹は陸側の半分は見えなかった。今度は海上で、ほぼ完全な半円形をなして、それも湾口を出る頃までずっと見えた。

 

虹(Windows wallpaper より。)


始め、虹のスソは南側が海上、小松崎の沖あたりに見え、北側は陸上、タンダの上の山の斜面から突き出ていた。虹の背景にある海や崖、山の斜面の色がそこだけ明るくなっており、その両側の青い海、黒い崖、そして山の緑が暗い色をしているので、虹がそれらの「手前にある」と思われた。しかし、帰ったら、虹はどこにあるというべきか、虹のメカニズムとともに調べて見ようと考えた。

出港して進路を南に取ると、左側、エビス崎に向かう東の尾根伝いに太陽が、右の海上、真珠筏の上を虹が、船と一緒に走る。とても愉快な気分になる。これで、石物が今日も釣れてくれれば最高なんだが。Kさんの打った常錨のブイに着くと、昨日よりは波があるが、ロープを結んで船を係留するのが難しいということはない。風は北北西だが、南東から来る上げの潮が残っているのか、ブイの位置がやや西に偏っている。船を掛ける位置はもっと東で根に近いほうがよいと思い、40〜50m東にアンカーを打ってブイに結び、2丁錨にして船を掛けた。

水温を見ると18.5度。昨日より少し低い。しかし、ウニ餌はなくなる。しばらくして、ふわふわした当たり。あわせて、700か800グラムのイシガキダイ。「釣れた。水温が19度を切っているのに。」その後、イラが1匹。イラはいつも、ゴツンゴツンとかじった後、竿先を引き込む当たり。あわせやすい。その後、フワフワのあたりにあわせて、先ほど釣ったのと同サイズのイシガキが釣れた。しかし、これは海面に浮かせたあと、寄せてくるときにバレた。針が歯の上にのっていただけだったのか、あるいは、掛けたあと、ガンガン巻き上げてきたのだが、口の外の皮一枚に掛かっていただけで、皮が切れてしまったのか。しばらくは釣れないかもしれないと思ったが、20分もすると再び当りがあって、1キロ強のイシガキが釣れた。またこのあとの当りに、合わせて、いったん掛かった手ごたえ(今日一番の)があり、少しリールを巻いていたら針が外れた。このときは、リールを速く巻くことだけ考えていて、合わせが甘かったのかも知れない。

11時半過ぎに、潮が変わり船の位置が変化した。そのころから、波が次第に高くなってきて、ローリング(横揺れ)だけでなく、大きなピッチング(縦揺れ)まで出始め、エンジンルームが中にあり高くなっている後部デッキの縁まで波が来るほど船尾が下がり、次いで、たぶんぺラ(スクリュー)が波の上に出ていると思われるほど船尾が大きく上がる。私は船尾のデッキで釣っている。後ろを向いて船首の方を見ると、バウスプリット(船首の出っ張り)が海に突っ込みそうである。上下動が大きく、ものにつかまらないと姿勢を保つのがやっとで、アタリが出ても竿を掴んで合わせるのは難しくなっていた。今日は魚を4匹掛け、やや小さいが2匹釣ることができた。上出来だろう。まだ食うかもしれないとも思ったが、終わることにした。

舳先は風上に向けてあり、ロープを常錨のブイに結び、4〜5m伸ばしてある。ブイには、船の後方40〜50mに打ってある自分のアンカーのロープも結んであるが、船が多少の風向きの変化で振られないように、途中で船尾のクリート(綱取り)にも結んでいる。まず、このクリートに結んであるアンカー・ロープを緩めて船を前に進めることができる状態にする。次いで、ブイに結んである舳先のロープを引いて船をブイ近づけ、結び目を解こうとした。しかし、風が強く、ロープを引いて船を近づけるのが難しい。腕に力をこめ必死にロープを手繰る。わずか4〜5mなのだが、少しずつしか船は前に出ず、ブイは一向に近づいてこない。

波が打ち寄せるとロープが強く引っ張られ、体がもっていかれそうになる。船首の一段高いところに上がって腰を下ろし、バウスプリットの手すりに両足を掛け、体を突っ張って、波の衝撃をこらえながら、ロープをたぐる。手が痛い。軍手をはめてからやればよかったと思ったが、いまさら途中で軍手をはめなおすことはできない。もうロープをほどくのは止めようかとも思ったが、やめるとすればロープを包丁で切るしかない。それはいやだ。もう少し、もう少しと、自分が海に落ちないよう注意しながら、足を突っ張って、全身の力でロープを引き、ようやく結び目に手が届いた。結び目は「もやい結び」といって、強く引っ張られても硬く締まることはないが、それでも、風と波による引っ張りに耐えながら片方の手で結び目の一部を掴み、引っ張りながら、もう一方の手で結び目を緩めることが必要で、揺れるバウスプリットの上では非常に難しい。しかしこれもなんとかやり終えた。船首から出しておいたロープは解くことができた。もう一つ、自分のアンカーのロープがこのブイに結んであるが、2本目を解く余裕がなく、それはまた次に来たときに回収することにし、自分のアンカーは残して帰ってきた。

シケの海。http://82853407.at.webry.info『能登 太鼓大好き家族』2013年12月13日(金)の「大時化の能登の海」という記事から借用した。このブログは2008年からすでに9年近く続いているが、絶えず更新されていてテーマごとの記事の数を総計したら3,800にも上る。すごい数の記事で驚いた。
中をのぞいても興味を惹かれるものが多く(とくに食に関連して)行ってみたくなる。「コメント」に、テーマの区別に「能登の天気」「能登の海」など自然に関連して分類するテーマがあったら、もっといいと書いて送った。

〔遭難一歩前だった。救命胴衣はつけていたが、高い波が一発ドーンと来て、海に落ちていたら、どうなっていただろうか。ふだん運転席に置いておく防水パックに入ったケイタイはこのときポケットに入れていただろうか。たぶん、そうしていただろう。しかし、海に落ちて、電話で助けを求めたとしても、水温は20℃を切っており、救助されるまでに時間が掛かれば、やせている私は体温低下に耐えられたであろうか。---実際、瀬戸内海などでも、少し荒れた時に、無人の漁船やプレジャーボートが漂流していたというニュースが時々ある。何かの拍子に船から転落して流されるということはある。しかも、このときは「何かの拍子」などではなく、舳先が波で大きく上下にゆすぶられていたのであり、転落の危険性は十分にあったのだ。---こう考えると無理にロープをほどこうとしたのは極めて危ないことだった。〕

湾内に戻って筏の間の水路を走っているときに、帽子を吹き飛ばされた。取りに戻って、海に浮いている帽子のそばで速度を落として方向転換している間に、風に吹かれて真珠筏の中に入ってしまった。筏から出て水路に戻ろうとすれば、ロープにペラを絡めてしまうかもしれない。それで、エンジンを止めてドライブを上げ、風に押されて筏の反対側に出るのを待つことにした。こうして無事真珠筏から脱出できた。

これまでにも風の強いときに釣りに出て、ひどく苦労したり、恐い思いをしたりしたことがあった。その都度、「風のときには釣りをしないのが最上」という文句を日記に書いた。今日はもう少し早めに切り上げていればどうということはなかったはずだ。とはいえ、「もう少し早く」というのは何時のことなのかを言うのは難しい。それに、天気予報では、後に波が高くなる、つまり風が強くなるとは言ってなかった。「後に」、つまりこれから風が強くなることが分っていれば、すこし風が出てきたら、止めようと考える。しかし、そうでなければ、すこし風が吹いてきてもまた緩むだろう、と考えたくなる。-----結論は出ない。

今朝、出港の際、見事な虹を見て大いに楽しんだ。そして、そのおおまかなメカニズムは知ってはいたが、再度詳しく知りたくなって、あとでDVDRomの百科事典を調べるなどした。そのなかに古代中国では虹は不吉な現象で、決して指差してはならぬとされていたというくだりがあった。私が、虹を見て、ただ眺めて楽しむというだけでなく、その端の位置を確かめようと観察し、またそのメカニズムを後で詳しく調べたようと考えたりした。これが「指差す」ことになって、後の苦労を招いたのだろうか。

第6章見出しに戻る

(3)暑さとの戦い----夏場の釣り

<半開きのオーニングで日陰を確保する > 07年8月27日。---午後、うす雲が掛かっていた。3時ごろから6時少し前までの釣り。夕方であっても、太陽が出ている限り、まだ非常に暑い。太陽はじりじりと肌を刺す。
デッキには折りたたみ式の覆い、オーニングが付いているが、当りに合わせたり、魚を浮かせて取り込むためには、頭の上に竿を立てるスペースが必要なので全部開くことはできず、ヒモで縛るなどして半開きにして日陰を確保する。

5時近くになってから当たりが出、30分か40分の間に1キロ〜2キロのイシガキ2枚、それに4〜5キロの、カンダイが釣れた。水温は29℃。非常に高い。

8月29日。朝9時くらいから午後1時頃まで。5リットルのポリタンクに水を入れて行き、合間に、帽子、シャツ、体に水を掛けながら釣りをした。オーニングは半開きで、直射日光に当たることはあまりないが、気温が高く、体を冷やしながらでなければ熱中症になりそう。
当りが出たのは、12時を回ったころ。2キロくらいのイシガキが釣れた。1時近くまでやり、その後、1時間ほどかけて、湾内の浅瀬で、ウニ採り。しかし、暑い。

8月30日。朝8時ごろからの釣り。あたりが出たのは、やはり12時ころになってから。1時までの間に、餌だけとられる当たりも含め、何回も連続して当たりがあり、イシガキの1キロ強1匹と2キロ前後2匹を釣った。熱中症になりそうなくらいの暑さ。ペットボトルに水を入れて凍らせたものをクーラーボックスに2、3本入れ、濡れタオルをこれに巻き付けて冷やしておく。この冷えたタオルを首に巻いたり、これで顔を拭くが、すぐに温まってしまい、濡れタオルをしょっちゅう取り換える。そのうちペットボトルの氷が解けてくる。この解けた水でタオルを絞り、首に巻いたり、顔を吹いたりする。

第6章見出しに戻る

9月の海はまだ真夏だ

9月20日。昨日の最高気温は33度あった。とはいえ、就寝時には気温は28度を下回り、昨夜はエアコンは使わず、冷蔵庫で冷しておいた濡れタオルを額に乗せて寝た。これは最近になって思いついたのだが、グッド・アイデアだ。扇風機だけですぐに寝付くことができた。6時半すぎに出漁。石物ねらいで、12時までの釣り。釣果なし。

予報は晴れだったが、曇っている時間がかなりあり、また、今日は舳先が南を向いていて、後部デッキは、オーニング半開きの状態でほぼ日陰になるのでかなり楽。もちろん、冷したタオルをとっかえひっかえして首に巻いた。飲み物は、麦茶と水ももってきたが、スポーツドリンク1本だけで足りた。 仕掛けを投入した後、少しでも当たりが出れば、食い込むまで持ち竿で待つ。1〜2分竿を持っていると、左腕と右の肩が痛いと感じた。そして、釣りから帰って、昼寝から起きたら、両腕、両肩が痛い。また背中から腰にかけて全体がなんとなく重く、疲れが残っている感じである。暑さは比較的楽だったとはいえ、気温は30度を越えており、午前中やるのが精一杯だったというところか。

第6章見出しに戻る

イシダイ釣りに熱中して熱中症一歩手前

9月21日。起きた時には昨日の疲れが残っていて、今日午前中の釣りは休みにしよう思っていた。だが、朝食を済ませると、また釣りに行きたくなった。9時に出港。昨日の残りの餌のウニは20個くらいか。餌があるだけやろうと考える。

竿先には当たりが出ないが、餌はなくなった。風向きが何回も変り、そのたびにアンカーを打ちなおさなければならなかった。ウニは昼までに尽きてしまった。

暑かった。朝は、後部デッキが南を向いていたので、右舷側に簾を垂らした。サクノセの南に移ってからは後部デッキは北向きでオーニング半開で日陰になった。しかし、気温が高く、32〜3度あり(水温は28度だった)、冷やしたタオルを使い、タオルが温まると、氷の解けたペットボトルの水をタオルや頭やシャツの上から繰り返し掛けて体を冷やした。足も熱く、長靴を脱いで凍らせたペットボトルを足に押しつけながら釣りをした。〔釣りに行くときは、漁師と同じように長靴を履いている。〕

坊主で釣りを終えたあと、ウニ採りをしようと小松崎の浅場に寄った。しかし、風波が立って海底がよく見えず、採りにくかったので、また暑さで体がばててしまっていたので、途中でやめた。それでも、帰港してから、(船を係留している)筏と岸壁をつなぐブリッジの上から、竹竿につけたジョレンを使ってウニを20個ほど採った。採ったウニは籠に入れて筏の下に吊るした。もうへとへとで、リヤカーを引いてはいるが、緩い上り坂の道を歩いて家に戻るのがやっとだった。この夏は、イシダイ釣りに熱中していて、ぶり返した真夏の暑さのなかで、連日熱中症一歩手前といったところだ。
ウニ採りについては第3章イシダイ釣り、2) マイボートのイシダイ釣り、「餌のウニを採る」で詳しく書いている。

釣りは休み。しかし岸壁でウニ採り

ガンガゼウニ。家串周辺(というより宇和海全域)で多い。


9月22日
いい潮時の早朝に起きる自信がなく、今日は釣りを休んだ。起きた時は腕や肩が痛んだ。しかしマッサージと軽い体操をし、朝食を済ましたあと、そのまま家にいる気にはならず、9時前にウニ取りに出掛ける。農協前の波止から始めて、東側と中央の作業棟前の岸壁で取る。漁業者が作業をしている小屋の前は避けたが、それでも、すぐに40〜50個採れ、持っていったキャリーが2つとも一杯になった。この二つの作業棟の前の岸壁は、ウニが付いていさえすれば、(もちろん波があったらダメだが)非常に採りやすく、効率よくウニを集めることができる。家を出るときまでは晴れていて暑く、冷たい水を持って出掛けたが、間もなく曇って、シャツは汗でビショビショになりはしたが、熱中症を心配するほどではなく、水を一口も飲まずにウニ採りは終えた。

釣りの苦行

9月23日。由良の鼻、大猿島の近くの暗岩でイシダイ釣りを試してみたが、潮の流れがくるくる変わりとても無理だと判断し、撤退。帰る途中で、塩子島北端の磯、ソリのシモリに寄った。ここでは去年の秋にイシガキを3匹釣っている。着いたのは12時半頃で、ソリのシモリの沖、水深20m位のところで4時半すぎまで竿を出した。しかし、石物らしいあたりは全く無く、ウニの中身だけが吸い出されてなくなった。

午後は曇りで、午前中よりは楽だったが、やはり暑さに耐えているという点では変わりはなく、餌の付け替えを繰り返し、当たりがでるのをじっと待つばかり。苦行という言葉が頭に浮かんだ。仏教の修行者、とくに修験者は煩悩を克服し、悟りをひらくために苦行を行なう。しかし、私はイシダイをつり上げる(一種の殺生だ)一瞬の快楽を求めて、つまり、煩悩のただなかで苦行をしているのだ!しかし、今日もまた坊主だった。

昼間、船の上では氷水に浸したタオルを使うなど、体を冷やしながらやっているが、それでも熱が体の中にたまってしまうのか、夜になっても、頭、手足が熱い。氷枕、冷たい水で絞ったタオル、扇風機を使って就寝するが、体の関節があちこち痛み、今日は足首、ひじなどに何枚も、痛み止めのシップを貼り付けた。

疲れているはずなのに、眠れず、起きてテレビをつける。自民党総裁選のニュースか、シルベスター・スタローンがベトナムの共産ゲリラをやっつける映画に似た馬鹿ばかしいドラマしかなく、すぐに消し、FMラジオの音楽番組を聞くが、結局2時過ぎまではまったく眠れない。もうすぐ3時になる、水谷さんが起きる時間だ、などと思いながら、浅い眠りに就く。〔わたしが船を係留させてもらっている筏の持ち主水谷さんは77歳。3時には起床して、筏の上の屋形で、電灯をつけてアジ釣りをする。〕

第6章見出しに戻る

〔08年7月は1日から17日まで、ずっと釣りに出た。〕

体中を水で冷やしながら釣りをする

7月4日。始めは曇っていたが、次第に雲が取れ、暑くなってくる。船尾は北向きで、オーニングを半開きにし、左舷側にゴザを吊るすと、日差しは防げる。これは磯釣りでは不可能だろう。9時過ぎ、サクノセで水温は25度。気温は運転席で30度。半開きのオーニングと横に吊るしたゴザで日陰に入ってはいるが暑い。シャツの上から水を掛け、濡らしたタオルを頭にかぶり、さらに、バケツに海水を汲んで足を浸ける。これが気持ちよかった。今度から、着脱がすばやくできるベルトのないサンダルを持ってこよう。

第6章見出しに戻る

若さ・体力と慣れ

7月6日。前日同様、オーニングとゴザでほぼ完全に日陰を作り、しかもデッキに時々海水を撒いて、涼しくなるよう工夫したが、気温は35度になった。(水温は24〜5度だった。)冷蔵庫で冷やした濡れタオルを3枚、冷凍した保冷材と一緒にクーラーバッグにいれて持参し、1時間ごとに取り替え、頬かむりしてやった。頭からかぶる水を持ってこなかったのは失敗だったが。

夏場、昼間の釣りが耐えがたいというのは私の年齢や体力に関係している。20年前東京から松山に移って来た時には46才であった。そのころ宇和島や愛南町や高知県の柏島などでイシダイ釣りをやった。朝、磯に渡ったら、午後1時過ぎに渡船が迎えに来るまで、昼間ずっと、焼けるような磯の上で、釣りをやっていた。そのころは暑さをものともせずに釣りをする体力があった。(海水をバケツで汲んで頭からかぶって釣りをしたこともあったが。)

最近、1週間ほどクロハエの近くで、漁船のすぐ近くで釣りをした。私はイシダイ狙いであるが、向こうはイサギかアジを狙った釣りである。70歳を過ぎているだろうか、両親と思われる老夫婦は操縦席の後方に張ったテントの中で釣っている。夫の方はバクダン(マキコボシ釣り)、妻のほうは竿でたぶんサビキ釣りである。

操縦席の前方のデッキでバクダンをやっている息子らしい男性は、1日中、日の当たるところで、帽子も被らず、ねじり鉢巻、半そでシャツという格好で、釣り続けた。40代だろうか。まだ若く体力もあるのだろう。しかし同時に、慣れというのもあるだろう。暑さに負けない体を作ってきたのだろう。

私は、小学生時代、夏休みは毎日遊んで過ごした。朝はラジオ体操に始まり、午前中1〜2時間勉強をした日もあったが、あとはほとんど裏山でのセミ取りや、チャンバラ、市営プール(私が5年か、6年になるまで学校にはプールがなかった)や川での水泳や水遊びなど、戸外で遊んでいた。中学に入ったころに、遊び方が変わった。電気やラジオに興味を持つようになり、それに関係のある本を読んだりした。中学を卒業するまでにはアマチュア無線初級の国家試験に合格して、送受信機を組み立て、高校2年までは国内外のハムとの交信に夢中であった。

大人になってからは、夏は海に行くことが多かったが、ひと夏の間に、合わせて、せいぜい、1週間か10日だったろう。私は60歳を過ぎてから、小学校の子供のように、真夏の海に出て、体がへとへとになるまで遊んでいる。

第6章見出しに戻る

膝から下が焼けるように熱い

2010年9月9日。午後3時過ぎから、湾口塩子島の手前にある宮下水産のハマチ養殖の生簀に行った。この生簀に船を掛けることは禁じられている。その生簀から30mほど離れた東側に、南北に張られた真珠養殖用の筏があって、この外枠のロープに船を掛けて釣る。水深は65m前後である。

ここはほとんどいつも週末になると、貸し船に乗った釣り客が、多いときは4〜5隻集まって釣っている。貸し船はたいてい3時過ぎにはいなくなる。私が行ったときには他の船はいなかった。

西からの日差しを避けるために、真珠筏の外枠のロープを船にひきつけ、東側に座って、筏のロープ越しに仕掛を入れて釣りをした。上半身はオーニングの陰に入っていたが、脇から西日が差し込み、下半身に当たった。半ズボンだったので、膝から下には直射日光が当り、じりじりと焼けるように熱く、閉口した。長ズボンよりも涼しいだろうと思って半ズボンを履いて行ったのだが、それは日陰でのことで、日の当たるところでは逆なのである。膝を組むと、一方の足は、他方の足の陰になる。両方を日光にさらして焼かれるよりは、片方ずつにしたほうがましだと、ときどき左右の足を組み替えながら、釣りを続けた。

6時近くになって、ようやく当たりが出た。35pくらいのアジが2匹釣れた。他に1、2回当たりはあったが、当たりが弱く掛からなかった。〔これは腕のせいである。〕7時には真っ暗になるので、日没後6時半までねばったが、そこで終ることにした。たった2匹だが、2週間ぶりの釣りで、良型のアジを釣ってほっとした。

第6章見出しに戻る

(4)寒さの中の釣り

三月末なのに真冬の寒さ 08年3月26日。午後から、(家串湾の東の端、エビス崎の下)名切にタイを狙って出漁。ところが風がひどく冷たく、真冬並み。風が直接当たらない足はそれほど寒いとは思わなかったが、上半身は、セーターのほかにジャンバー、その上にフード付きの雨合羽を着ていたが、それでも寒かった。家串湾を越えてくる北西風が、ピュー、ピューと音までたてて吹きつけ、糸を持っている手の指がしびれ、糸を掴んでいる感覚が不確かになった。また、水面から上の糸が風のせいで張ったりゆるんだりして振動し、餌はときどき取られるが、当たりがさっぱりわからない。こうして3時間近く粘ったが、坊主で終わった。

風巻き(シマキ)

2008年11月18日。強風波浪注意報が出ていたが、9時ごろ、油袋の生簀に掛けて釣る。船が着けにくいほどの風。そして寒い。マキコボシ釣りではデッキに回収した道糸が風に吹かれて絡み、手が付けられなくなることは明らかだった。そこで、今日は風に強いサビキ仕掛でやることにした。時々、ゴーッという音とともに強い風が吹き付け、生簀の枠に船を縛り付けているロープがギシギシ音を立て、船腹が枠にぶつかりドスン、ドスンと音を立てる。

生簀から油袋の集落までの距離は300mくらいだろうか。半島の尾根を越えた北西風が吹き降ろして、海面を渡ってくる。強い風が吹くと、まず、集落の見える方向からザワザワという音がし、続いて海岸から少し離れた辺りで、海面に白い煙がたち、私の船が係留してある生簀に向って、走ってくる。海水が強風で巻き上げられ、煙のように見えるのだ。

私はこの水煙を見て、中学時代、冬、雪に覆われた田んぼの中の学校に通ったことを思い出した。私は高校まで、雪国、越後、新潟県で育った。雪原に強風が吹くと、降り積もった雪が舞い上がって、吹雪のようになる。地吹雪というが、私が今、見ている水煙はそれと同じである。地面でなく海面なので、海吹雪とでも呼びたいと思った。あの頃は、日本海を渡る冷たい北西風に耐えながら学校に通ったが、今は、南の宇和海で、やはり同じように冷たい北西の潮風をがまんしながら、釣りをしているのだ。

家に戻ってから、辞書で、海とか潮とかいう語の後に続く言葉を調べてみたが、これを言い表す言葉は見つからなかった。「潮煙」という語はあるが、「海水が飛び散るしぶき」のことだという。「しぶき」を引くと「液体が細かく飛び散ること。また、そのしずく、飛沫」とある。これは波が岩場などにぶつかってできる波しぶきのことだろう。だが、私が言う煙のようなものは、波しぶきとは違う。波しぶきの水滴は雨粒ほどの大きさだとすれば、風で巻き起こされてできる水煙はもっと細かな水滴からなっていて、霧か雲のようなものだ。

その一ヶ月ばかり後、12月15日、NHKの地方番組で、愛南町中泊の石積み集落の冬景色を紹介していた。ここは愛南町の中でも季節風が強いところなので、家々は風対策のために高い石垣を築いている。そして、冬の強い風が吹くと、風で海水が巻き上げられる。これを「潮巻き(シオマキ)」と地元の人は呼んでいるという。潮が巻き上げられるので潮巻き。ぴったりの語だ。

他方、原田政章の写真集『宇和海』(平成9年、アトラス出版)で外泊地区に関する説明の中に、「強い風巻の季節風から、家を守るために-----石垣を築き」という文があり、この「風巻」に「しまき」という振り仮名がついている。風は「シ」とは読まないはず、と思いつつ漢和辞典を引いてみると「風巻」という語は載っているが、風が吹いてものを巻き上げること、たつまき、つむじ風のことだという。振り仮名は「フウケン」だけで「シマキ」は載っていない。どうして原田が「風巻」にシマキという振り仮名を振ったのかがわからない。この「しまき」は「潮巻き」と音韻上の関係があるのだろうか。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------

上の文は2008年の日記に書いたものである。その後、私は、2014年ごろに幸田露伴の書いたものを幾つか読んだ。その中に、彼が最晩年の昭和20年ごろに書いた『音幻論』という著作がある。これは日本語の音韻の変遷について論じたものである。(『音幻論』については、第二部第一章「由良半島の自然」後半におけるオノマトペー論の中の「幸田露伴の『音幻論』」も参照。)

露伴はそのなかで、暴風をアラシと言う。アラは暴、シは風である。万葉集では「下風」と書いてアラシと読んでいる。新千載集などに「アナシの風」という語があり、続古今集などには「あなし吹く」と言う語がある。アナシはアラシの転訛かとも思われるが、シが風であることは明らかである。また、現在の東京の船人は夏のはじめごろ、一日中吹いて止まない風を「長風ナガシ」と言っている、などの引証のあとで、シマキという語が出て来る。露伴はシマキは風巻だ、という。山家集に「せと渡るたななし小(オ)船心せよ 霰〔アラレ〕みだるるしまきよこぎる」という歌があり、これは、海水を巻き上げて吹く、あられ交じりの強い強風が横切っていく。船頭などがその上に載って船を漕ぐタナ(船棚)の着いていない小船は注意して渡れと歌っているのだ、という。そして、シグレ、シブキ、ツムジ、ヤマジなどのシ、ジも同じく風のことだという。(するとシケは時化と書くが、もしかしたら風気かもしれない、と私は思った。)

原田はシマキの振り仮名についての説明は与えていない。しかし宇和島では風で潮が巻き上げられる現象を昔からシマキと呼んでいて、原田は自然にそう書いたというだけなのかもしれない。(これは宇和島の年配者に聞いて、確かめることができるかもしれない。)他方、原田は露伴の『音幻論』を読んでいて、この「風巻」についての露伴の説明を知っていたのかもしれない。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------

この日は昼までにウマヅラ1匹、ハゲ2匹、40センチの大イサギ1匹が釣れた。ハゲもウマヅラも「釣った」というよりは尻尾や腹に針が掛かっていて、いわゆる「スレ」で釣れたのだった。イサギは「釣った」が、丸々と太っていて、重さが約1キロ、体長は40センチあった。これまで釣ったイサキのなかでダントツの大きさだった。ここはしばしば大型のイサキがマキコボシ釣りで釣れる場所だ。しかし、サビキ仕掛で釣ったのは最初だった。そして最後だと思う。

イサキの旬は夏だというが、食べてみて、確かに冬のイサキの味は落ちると感じた。脂がない。とくに、刺身は物足りないと思った。

この日は、まだ釣れそうだし、もう少し釣りたいとは思ったが、寒くて風が強く、昼に納竿にした。

第6章見出しに戻る

プレッシャーのかかったマダイ釣り

09年3月2日(月)朝、出港しようとしているところに今治のAさんから電話があり、入院中のご主人が4日水曜日に「外泊」で家に戻るので、魚を送ってほしいと言う。マダイが釣れたので、タイを送りますと留守電に入れておいた。3日の昼便で発送すれば4日の昼頃には届く。

しかし、そのすぐあと(妻の)直子から、今度の木曜、(彼女が経営する)店で散らし寿司を作りたいので、水曜日にタイを送ってくれ、という。すでに釣ってあるタイを直子の店に送ることにし、Aさん用にもう一匹釣ることにした。

3月3日。予報どおり冷たい雨が降っている。予報では最低気温は3度くらい。最高気温が松山は9度、宇和島は11度。朝、雪になるかもしれないという。

朝食後、7時ごろ、船に行き、生かしておいたマダイを〆、ヒオウギ貝を10個ほどと一緒に松山に送った。この間、30分ほどなのに、上に着ていたレインコートは内側がびっしょりと濡れている。10年ほど前に買ったもので、もう防水が利かなくなっているのだろう。染み込んだ雨で、その下に来ていたジャンバーも濡れている。他のジャンバーに着換え、古いレインコートを漁師用のカッパに換えてから出港。このカッパは、東京にいたころ、20年も前に竹芝桟橋の近くの漁具店で買ったものだ。ズボンは腰のゴムがだめになって7~8年前に捨て、ズボンだけを何着か買い換えた。しかし、漁師用カッパの上着は依然として使える。

雨が降っているときは、道糸の縺れの心配がほとんどないので、マキコボシ釣りはやりやすい。しかし、冬の冷たい雨で手はかじかんでしまい、オキアミが針に刺しにくい。また、当たりがあって魚を掛けた後、指に力が入らず、雨で糸が滑ることもあって、魚が走ると道糸をうまく止められない。

今日はタイを釣るまでは帰らないつもりで、オキアミもアミエビもたっぷり持って、家串保育園脇に突き出ている高堤防の前の真珠筏に行く。2時間くらい、仕掛の投入、回収、餌の付け替え、投入を繰り返した。狙うタナは底から1ヒロ以内。餌取りはあるが、2時間やってもタイの感触がない。

仕掛けの投入、回収、また投入。カッパのズボンの上に一瞬みぞれのようなものが見えたが、雨滴がぶつかって泡になったのがそう見えただけかもしれない。雨が冷たく、手がかじかんできた。右手で糸を持っている間、左手を両脚の間に入れて温めた。かなりの熱が、ズボン下、ズボン、カッパを通して、外に伝わってくるのが分かる。腕の痛みの緩和のために左肩にホッカイロをつけているし、着込んでいるので体は寒くはない。しかし、手が冷たい。道糸を持つ手を左手に変え、右手を暖めようとしたが、どうも、左手では当たりが取りにくいように感じて、またすぐに右手で糸を持った。

底から1mくらいのところにまで仕掛けを下げたとき、コツンと引っ掛かりを感じた。それまで、ハゲと思われる、ちょっと重くなる感じの当たりが何度かあった〔数年後に読みなおしてみたが、これはタイの当たりで、重みを感じたらすぐに合わせれば釣れたはずだ〕が、今度は違う。そして、この前釣ったタイの弱いガリッという感じより、さらに小さいカサッという感じで餌がなくなった〔これも早く合わせれば針がかりしていたはずである〕。ハゲかもしれないが、タイかもしれない。それから2、3投目に、かすかに引き込まれた。しかし、そこでちょっと上げて聞いてみればよかったかもしれないのに、呑み込みやすいようにと少し下げて、それからまたちょっと上げみた。するともう餌はなくなっていた。その2投後、重くなって、ちょっと聞くと、グーッと重くなり、合わせて掛かった。大きく2回ほどしゃくり、糸を手繰った。手がかじかんで糸がうまくつかめない。糸が滑る。突っ込みがかなり強いが、ハリスは5号だ。強引に引っ張って寄せ、取り込みもうまくいった。大きさはたいした事はない。45cm程度。だが、太っている。3キロ近くはあるだろう。やったぞ。とにかく、1匹釣った。これでOK。Aさんの3人家族では十分な大きさだ。

手はかじかんでいたが釣りを続けた。すると再び同じように食ってきた。しかし、3手か4手手繰るとフッと軽くなって、逃げられた。針外れだった。きょうはこれで終わることにした。釣ったタイは腹の空気がたくさん出たのに、船の生簀の中で裏返しになっている。すぐに戻って別の大きい生簀に入れて筏の下に沈めてやると普通の姿勢に戻って泳いだ。しかし、気になって、昼食後、様子を見に行った。元気を取り戻したらしく、普通の姿勢で泳いでいた。これなら明日までもつだろう。

タイを1匹釣るのに今回はすごいプレッシャーを感じた。Aさんと直子と「二重」に約束してしまったからである。どうしても釣らなければならないと思った。釣れる見こみはあった。タイが底のほうにいることは分かっていた。しかし、この数日、かけた魚に何回も針外れで上げる途中で逃げられた。何回も逃げられると、また逃げられるのではないかという気がしてきて、これが、またプレッシャーになった。

だが、魚だけが相手ならばプレッシャーが掛かるということはない。針を外す知恵を身につけた超魚がいたとしても、ようし、こんどこそ釣ってやるぞと、ファイトを掻き立てられるだけだろう。しかし、人間が関係してくると、何日までに釣らなければならないということになる。釣れなかった、残念だでは済まない。仕事というものはすべてそだろう。今回の釣で、漁師が決してで楽な仕事ではないことの一端を見たといえる。漁師は自由業であり、釣れたら市場に持っていくのであって、いついつまでに何を釣るというような約束はしないだろう。しかし、その時期に釣れるはずの魚が釣れなければ、たとえ、すぐに生活に困るということにはならないにせよ、やはり漁を期待して待っている家族がいる。その家族の期待がプレッシャーとしてかかってくるのではないだろうか。

養殖漁業ではまた少し事情が異なるが、魚は工業製品のように在庫を多めにして出荷に備えるということが難しい。アジは冬場でも3、4日で弱る。タイだって、1週間がやっとだろう。空気がうまく抜けなければ、すぐに死ぬ。生簀が空のときに注文が来れば、新たに魚を釣らなければならない。2~3日、いや1日か2日で「注文」に答えなければならない。これも厳しいことだ。

第6章見出しに戻る

寒風の中、沖の真珠筏に掛けて釣る

09.11.15(日)。朝は北西風がビュービュー吹き、波もかなり高かった。予報では波が2m、強風波浪注意報も出ていた。最低気温は10度、最高で15度くらいといっていた。きのう夕方、加藤金司さんが宮下水産の生簀近くで、昼、大アジが釣れるので、釣りに行くと言っていた。そこで、私も、ゆっくり朝食を取ったあと、セーターを着込んで、11時くらいに宮下生簀に向った。

しかし、風が強い。船を掛ける真珠筏のロープは水面下50〜60センチのところにあり、船を寄せたらフックでロープを持ち上げる必要がある。しかし、風が強いときは船を寄せるのも難しく、うまく寄せても、ロープを引っ掛けて持ち上げるのにぐずぐずしていると、船が風に流され、船を着け直さなければならない。しかも西の風の場合には、船が筏内部に入ってしまう。ここは今、真珠のネットは吊り下げられていないので、筏の中に入ってもドライブをあげ、風に流されて風下から外に出るのを待てばいい。しかし、そうなっては時間がかかり面倒だ。手前で少々迷ったが、金司さんの船が見えたので、そばに行けばなにか助けてくれるだろうと、行くことにする。近づいて見ると、彼の船を掛けているために、筏のロープが水面の上に引き上げられていた。

真珠貝の養殖の主な仕事は、沖で、筏のロープに沿って移動しながら、ロープに吊り下げられているアコヤ貝の入ったネットを引き揚げて船に積み、それを陸の作業場に運んでネットを交換し、貝を研磨したあと、沖の筏に戻り、磨かれた貝の入ったネットを吊り下げることである。作業船の船縁には、筏のロープに付いたフジツボなどを落すための短い刃の並んだローラーと、Hの形をした、高さ20センチほどのステンレスの棒が立てられている。作業船は、平行に張られている筏のロープの間に入っていき、ロープを引っ張り上げて、このH型の棒に掛け、船をとめておいて、ネットを引き上げたり吊るしたりする作業を行なう。金司さんが乗っているのは彼の本業である真珠貝の養殖にふだん使っている作業船で、筏に掛けて釣りをする場合には、仕事のときと同様、ロープを引き上げて、船縁のH型の棒に引っ掛けて釣りをする。

ロープが水面の上に出ていれば、私の船が風で流されても、このロープのところで止まる。これなら心配ない。そう思いながら、そのロープに船を縛るための自分のロープがデッキに出ていることを確めつつ近寄る。私は金司さんの船のすぐ隣に船を掛けようとしたが、金司さんが手招きし、彼の船の横に並べて船を着けるように言う。彼の船は筏のロープよりももっと確実に私の船を止めてくれる。「ゴーヘー、ゴーヘー(ゴーアヘッド=前進)」という彼の指示に従い、強くぶつけないように注意しつつ、風下からゆっくり進み、彼の船にくっつけた。彼が私の船の舳先を手で掴み、すぐに、ロープで彼の船と私の船を結んでくれた。

半島と塩子島の間の水道を抜けてくる風は強いが、水道が浅いために西風による波は砕けてしまい、こちら側、湾内では波の心配はない。〔だからここにハマチの養殖生簀も置かれてているのだ。〕船をロープに掛けるとき(また離れるとき)に注意しさえすれば、そして寒さを我慢しさえすれば、シケでない限り、釣りはできる。今日は金司さんが先にきていてくれたので、船着けがずっと楽にできた。私が釣りを始めると同時くらいにカズさんがいつもの船外機船に3人の釣り客を乗せてやってきて20mほど離れたところに船を掛けた。

4時間ほどの釣りのあいだ、冷たい北西風が吹きつづけた。船は北向きに掛けてあり、運転席の中に入れば風は当たらない。しかし、釣りをするには船縁においた腰掛に座り、腕を船の外に出して糸をもっていなければならない。キャビンと船縁の間の通路を冷たい風が吹き抜ける。この通路に農家が野菜などを入れて運ぶプラスティックのケースを置き、腰掛に座ったときにちょうど背中の位置にくるようにしてある。風除けである。

セーターを着込み、その上からカッパの上下を着け、フードを被っている。これで風を直接受けることはなく、寒さ対策はほぼできている。しかし、手はそうはいかない。コマセでベトベトになるので、しょっちゅう海水で洗う。海水温は22度ほどあり、手を入れると暖かい。しかし、濡れたままでは気化熱を奪われかえって冷たくなる。タオルで拭くが、寒風にさらした状態で糸を持っていれば、手がかじかんでくる。

道糸が斜めになって、仕掛けが向こうへ流れるように見える。潮流があるのではない。50センチか60センチ、フックに掛けて持ち上げる時には両手に相当に力を入れなければならないほどピンと張ってある筏のロープが、強い北西風を斜めに受ける船に押されて、ときどき数m風下にたわみ、一緒に船も動く。仕掛けが流されるのでなく船が動くのだ。

デッキに仕掛けを手繰り上げたときに、道糸が風であおられて団子状になるのを防ぐために、何度もデッキに水を撒いて、道糸が床に貼り付くようにする。

金司さんもフードを立てて、風に背を向けて釣っている。しかし、時々「寒い、寒い」と私の船に移ってきて、運転席の陰に入ってタバコに火をつけて休憩した。カズさんとその客たちは、船の両側に2人ずつ分かれて竿を出し、立って釣っていた。1匹釣れるたびに大きな歓声があがった。わあわあ言いながら釣っていればあまり寒さを感じないですむのかもしれない。

昼過ぎに一人で貸し船に乗った釣り客が来て、私たちの風下側、すぐ近くに船を掛けた。金司さんとは顔なじみの人らしい。天秤とカゴを使った手釣りだったが、2時間くらいのあいだ一回も当たりがないようであった。天秤では向こう合わせでしか釣れないので、食いの悪いときは釣れない。その人は、風を背にして座ることもできたはずだが、なぜかこちら、風上を向いて座って釣っていた。少し厚手のジャンバーのようなものを着ていたが、防寒着ではなく、フードも着いてなかった。向かい風なのでフードはあっても立てられないが、彼は平然と冷たい風に顔をさらしながら、背中をピンと伸ばした姿勢で釣り続けた。金司さんと言葉を交わしたのは最初だけで、彼と向き合って座る必要があったとも思えない。よほど寒さに強い人だったのだろう。

1時間に一回くらいしか当たりがない。金司さんは、9時ごろに来て間もなく入れ食いになったが、昼前に食いが落ちてしまったと言う。時合いを逃した私は数釣りはできなかった。それでも、40〜50センチの大アジが3匹釣れた。

2時過ぎくらいから、当たりが完全になくなり、いくらタナを探っても反応がなくなった。手もすっかりかじかんでしまったので、3時過ぎ、私は終ることにした。

金司さんの船と、テンビンで釣っている釣り客の船が、船を掛けるためにロープを引っ張り上げていて、ロープは海面から30〜40cm上に出ている。この状態で、船を出せば、風で流されても、ペラに引っ掛ける心配はないと考え、金司さんが釣っているうちに終ろうと考えた。私が帰ると言うと、彼は、死んだので市場には出せないから、持っていけとカイワリ、タイ、中アジ3匹をくれた。これで私はだいぶ多くの魚を持ってかえることができた。自分で釣った大アジは翌日松山に送るために生簀に入れ、金司さんからもらった魚は、開いて一夜干しにした。

第6章見出しに戻る

沈む夕日の金色の光がまぶしかった

09.11.18.午後3時くらいに宮下生簀に向った。風は吹いていたが、一発で筏のロープに船を掛けることができた。しかし、当りも、餌取りもない。5時くらいに釣りを止めるまでに10数回仕掛を入れたが、刺し餌はすべてそのまま戻ってきた。風が冷たく手がかじかんだ。強風と寒さのせいなのか、それとも魚が食わないからなのか、少し離れた海上を見回しても一隻の漁船も見当たらなかった。

風で海面がザワザワと鳴り、風波が船腹をぴちゃぴちゃと叩いた。カッパのフードが頭のうしろにあるせいか、風が耳のそばでビュービュー、あるいはボーボーと音を立てた。上を見上げると空は晴れていて、白い小さな雲が一つ二つ浮かんでいるだけだった。300mか400mか、かなり高いところをトンビが2、3羽舞っている。ふだん養殖生簀の給餌のときに、カモメがたくさん集まってきて、ギャーギャー鳴きながら低空を飛び回り海上に浮いた餌の滓を拾う。カラスやトンビも集まってきて、そばを飛び回っている。今日も生簀には宮下水産の船が着けられているが、餌やりはせずロープの清掃かなにかほかの作業をやっているため、カモメもカラスも集まらず、トンビが数羽、高空を舞っているだけである。

トンビはあそこで何をしているのだろう。ネズミなどの小動物を見つけようというなら、海の上でなく陸、半島の上を飛ぶだろう。だが、あんな高いところに、餌になる虫などが飛んでいるわけでもあるまい。海を見渡し、なにか餌になるものが海面に浮いていないか探しているのだろうか。当りが全くない道糸を持って、空を見、ぼんやりと考える。

西の方を見ると、水平線の上方30度くらいから少し下までは、帯状の雲が何本か重なるように掛かっていて、その下はまた水平線まで雲はなく、雲は灰色だが、その雲のなかに隠れている夕日のせいで、空は薄い橙色になっている。その橙色の空を背景に、ここからは10キロほど先にある由良半島の南西端、由良の鼻と、そのそばの小猿島が見える。小猿の左斜め上方に雲の穴があるのか、金色の強い光が下に向って降り注いでいる。そして、風の強い日にはいつもそうだが、その光のカーテンの向こうにうっすらと九州の陸影が見える。

5時少し前、次第に低くなってきた太陽が、水平線とその上方の帯状の雲のあいだに姿をあらわした。金色の光がまぶしく、見つめると目がくらむようであった。あとせいぜい10分もすれば太陽は水平線の下に沈むだろう。太陽が沈んでもすぐに暗くなるわけではないので、慌てる必要はなかったが、あと10分か20分釣り続けても魚が食ってくる見込みがあるとは到底思えず、私は釣りを止め、巻き枠に糸を巻き取った。


真珠筏のロープは北西から南東の方向に張られている。風は北西というよりは北の風で、筏のロープに結んでいた船尾側の私の綱を解くと、船尾は西に向けて振れ、筏のロープから大きく離れた。これなら船首側の綱を解いて発進しても、ペラが筏のロープに絡む心配は全然ない。私は、エンジンをかけ、ギヤをニュートラルにして、落ち着いて、舳先の綱を解いた。船は風に押されて、真珠筏からゆっくり離れながら、風下の南に流された。


塩子島とマメソの間に沈んでいこうとする夕日。
『みんなの由良半島』「写真館」より

風が強くなければ、船を北に向けて港に向ったほうが近い。しかし、風に乗せて船を流し、真珠筏の南側の端を回ってから港に行くことにした。筏の南側を回って、湾の中央で船を北に向けると間もなく太陽は油袋の南に突き出た半島の陰に入って見えなくなった。家串の近くでは、2、3隻の船が、陸の作業場で研磨した貝の入ったネットを筏に吊るす、今日一日の最後の作業をしていた。私はスピードを落とし波を立てないようにして通り過ぎた。湾の奥、朋洋水産のタイの生簀の横に来たとき、油袋から南に突き出た半島の一部、マメソ(豆磯)の低くなったところから再び金色の、しかしさきほどより少し明るさの落ちた太陽が、最後の顔を見せた。

カタツムリとブラック・パンサー

2010.1.22.10時過ぎ宮下生簀に行く。風が昨日よりもさらに強い感じで、しかも予報では「波は始め1.5m、後に2m」である。ここで1時間半ほどやってみた。しかし、小型のカイワリが1匹釣れただけ。

風が冷たく指がかじかむので、道糸を持った手をカッパの袖の中に引っ込めた。袖からは親指と人差し指の2本の指先だけが見える。それを見ていて、頭を少しだけ出したカタツムリを連想した。風がビュンビュン吹くので、海水の掛かったカッパのズボンは乾いて塩の白い模様ができた。ヒョウの体の模様を連想した。カッパのズボンが黒いので、ブラックパンサーだ。カタツムリとヒョウ。遅いものと早い速いものの代表。変な組み合わせだ。そんな愚にも付かぬことを考えながら、当りを待つが、たった1回しかなく、魚を掛けることはできなかった。

その後油袋のマダイの生簀に移り、30〜40分やってみる。以前、大きなイサギが釣れたところだ。なにか当りがあるが餌が取られるだけで、釣れない。最近、金司さんも餌はなくなるが釣れないといっていた。どうもこのポイントはダメになったようだ。2時ごろに帰港。

第6章見出しに戻る

私はマゾヒストなのか

2010.2.17.昨日の予報ほど天気はよくない。9時過ぎ塩子島の西沖に打ちっぱなしになっている錨に掛けて釣る。水温は16度半くらいで、少し下がっている。おととい考えたように、プラカゴにコマセをいれて竿を出しておく。2〜3回はコマセカゴだけにしていたが、ついでにとテンビンを付け、ハリスも結んで餌を刺して置き竿にする。コマセは3キロ余り、たっぷりと持ってきた。

北〜北西の風。さほど強くはないが、非常に冷たい。ときどき太陽が顔をのぞかせる。真冬なのに日差しは強く、風が当たらない運転席に入ると、厚着しているせいもあって暑いくらいだ。首のマフラーを取る。運転席にいては、腕を伸ばしても道糸が船縁に触れてしまって当たりがわからなくなり、釣りはできない。通路に出ると、風が冷たい。昨日からのどの痛みにくわえて、鼻水がでる。ハンカチで何度も鼻をかむ。いつもは6〜7センチ折り返しているオーバーのそでを下ろして、右手をそでの中にひっこめて糸を持つ。オーバーの襟を立てチャックを一杯に引き上げて、あごをうずめるが、それでも襟元が寒い。やはりマフラーが必要だ。

左手でマフラーを首に巻き、オーバーのチャックを少し開け、マフラーの端を中に押し込もうとしていたとき、ガリッと竿掛けが音を立てた。竿掛けも、竿もロープを付けてあるので落ちる心配はない。見ると竿掛けが少し傾き、竿が大きく曲がって、竿先が海面に触れている。なんだ、なんだ、本命のバクダンのほうには全く当たりが出ないのに、竿には向こう合わせで来るのかと文句を言い、右手で持っていたバクダンの道糸をビニールロープの先に着いた洗濯バサミに持たせて、竿を持つ。かなり大きなタイが食ったのだろうと、ゆっくりリールを巻いて上げてくる。だが、海面近くに来てちらりと見えた魚の色は、橙色。がっくり。イラだ。

海面を見て潮が流れていると思い、コマセを振った位置で仕掛を止めておいたのだが、実際には底では潮は流れておらず、ハリス3ヒロで、刺し餌がほぼ底についていたのだろう。イラはたまには上でも食うが、やはり底で食うことが多い。しかも見ると「スレ」で、口の4〜5センチ上の辺りに掛かっていた。イラをスレで釣ったのは初めてだ。船の揺れはさほどなかったが、泳ぎの下手なイラが食おうとした瞬間に、揺れが竿とテンビンで増幅されて刺し餌が大きく動き、口の脇に針が引っ掛かってしまったということなのだろうか。2キロ近くあった。しかし、イラではしようがない。

寒さは増す一方で、もうやめようかと思うが、じっと我慢する。もしかして、私はマゾなのかなどと一瞬思う。いや、決してそうではない。魚が食いつくことですぐ近い未来に訪れる快楽、喜びがきっとこの不快/苦痛を打ち消してくれるだろうと期待するからだ。寒さのなかで待ち続けるという苦そのものが快なのではない。だから、私は決してマゾヒストではない。

じっと耐えることによって、その後の幸福、快楽に到達しようとするのは、宗教者たちの行動においても同じである。宗教的な修行は決して苦痛に耐えるだけの行為ではなく、そのあとで得られる、救いあるいは解脱による至福、最高・最大の快楽を目的になされるのである。たぶん、修行が厳しいものであればあるほど、それを通じて達成される喜び・快は大きいだろう。

私の場合も、後で得られる喜びが目的だ。しかし、釣りでは、苦しみの大きさと報奨の大きさは比例しない。むしろ、無関係である。しばしば一日中我慢し苦しむだけで終わることもある。報奨の期待だけではやはり我慢は続かない。じっと我慢する忍耐力のようなものが備わっている必要がある。そして、私の場合、寒さに耐える下地は、中学の頃、地吹雪が舞う、田んぼの中の雪道を黙々と歩いて通学した時に作られたものだろう。

森下雨村の「運・鈍・根」という随筆を思い出した。雑魚クラブ編『随筆釣自慢』(河出書房新社S.34年)の中にある随筆である。作家・森下雨村には『猿猴川に死す』という釣り小説がある。「運鈍根」とは幸運と愚直と根気。ことを成し遂げるのに必要な三条件のことである(『広辞苑』)。

雨村は釣り仲間の森田という人のことを書いている。森田は、戦争の混乱時に数反歩の土地も、家もなくし、洋裁の店をやっていた奥さんにも死なれた戦争犠牲者で、わずかな貯えも尽きて、食うために、たまたま知り合いに勧められて漁を始めた。釣りを楽しむ游漁人では決してなかった。苦心努力して釣り、魚を市場に持っていった。湾内の釣りでは漁師に負けぬ水揚げがあった。森田は雨村に対して、「漁ごとは運だ」と言っていた。どこに瀬がありどこが砂地だと分っていても、いつも相手がいるとは決まっていない。潮時もあり、気象の関係もあるのだから「釣れる魚にめぐり合うのは、たしかに運に違いない。釣りの楽しさは目に見えないその運を根気よく打ち開いていくところにありはしまいか。出来さん(森田)の釣技釣法をはたから見ていると、---やっぱり相当の苦心努力の跡がものをいっている---。---私たちが逃げ出すほどの風や波でも、かれは泰然として釣り続けた。おそろしい根気であった。」彼は釣りの餌にするゴカイを自分で掘って採っていた。彼に「かぶとを脱ぐいま一つは餌掘りだった。虫堀はまったくの重労働である---。釣とは違うこの虫掘りでも、出来サンは同じ時間に私たちの倍も掘った。---要は根気であった。---結局釣りも虫掘りも同じ筆法、運よりも根の勝利である。運、鈍、根とはよくいったものだとつくづく思ったことである。出来さんはカンもよかったが、そのカンも食わんがための努力からきた後天的なものだったらしい。----」

私には「喰わんがため」ということはないが、イシダイ釣りのための餌のウニ採りも含め、この森田という人と同様に、「鈍と根」はあるようだ。

だが、こうやって夕方まで続けても、何も釣れず、苦だけが残る可能性が高いような気がしてきた。こんな寒い日は家で寝転んで何か読んでいるほうが賢いのではなかろうか。苦だけの一日になる可能性が大きいのに、じっとここに居続けるというのは、やはり、一種のマゾヒズムなのではなかろうか。いやマゾヒズムではない。この寒さ、徒労感を心地よく感じているわけでは決してないのだから。だが、克己つまり自己に打ち勝つこと、苦しさに耐える忍耐心に、まだ、何か価値を見出しているようにも思われる。

人生は決して楽しいこと、楽なことだけで満ちてはいない。苦あれば楽あり。楽あれば苦ありが人生の真実だ。いつ何時、苦しいこと、辛いことに出会うかわからない。そのときに、耐え、我慢し、自己に、その状況に打ち勝って、生き抜くことができるように、ふだんから練習をしておかなければならない。----いつごろからそのように考えるようになったのかは思い出せない。しかし30歳前後にはすでにそのような考え方になっていたように思う。釣りを始めたら、釣れなくてもじっと粘るのが常だ。サンデー・アングラーズではないのだから、今日一日の釣りに全力を尽くさなければならないことはない。明日も、あさっても釣りはできるのだ。にもかかわらず、多分、我慢し耐えることがよいことだという信念のようなものによって、私は、寒風が吹きつける、釣れない海に留まりつづけているようにも思う。

だが、すでに、残りの人生は見通せる長さになっている。何か困ったことが起こるかもしれないからと、忍耐、克己の鎧をまとい続ける必要はもうないのではないだろうか。これからの10年ほどは、ほぼ、したいことをやってのんびり暮らせそうなのだし、いつかは病気や怪我で動けなくなるだろうが、そのときはそのときだ。「人生には忍耐や、克己心が必要だ」といまさら言い募ることもあるまい。----

動かなかった潮が昼過ぎに少し北に向かって流れたが、相変わらず当たりは全く出ない。しかし、餌はなくなる。多少波はあるが、よほど当たりが細かいらしく、いくら指先に注意を集中しても、風、波による動きと区別できるような糸の変化は感じられない。これも腹立たしい。

2時、潮止まりを機に、宮下生簀の脇の真珠筏に移った。ここは半島の陰で北風が弱く、寒さがさほど気にならない。作業船は来ていたが、給餌ではなく、魚を掬って船に移す作業を行なっていた。

プラカゴでコマセをしながら、バクダンを2〜3投するとコツンというアジらしいあたりが出た。だが、うまく合わせられない。すっぽ抜け、オキアミが半分残った針が戻ってきた。気合を入れて、再び投入。小さなあたり。続かない。しかし、少しまっていると再びかすかな手ごたえ。のみこんだ。合わせる。掛かった。重い。中型以上のアジ特有の泳ぎ方で、ときどき道糸をブルブルッと震わせながら----これは多分首を振るのだろう-----引き寄せられまいと、ゆっくりと同じ強さで抵抗しながら-----これは海面近くに来たときにはよくわかるが、水平に円を描きながら泳いでいるのだ-----少しずつ上がってくる。道糸を手繰ると強く抵抗する。これはかなり大きい。力をいれて糸を手繰って、くちびるが切れたらバレる。無理はいけない。ゆっくり上がってくる。よしよし、それでいい。黒い背中が見え、時々銀色の腹が光る。40cmは越えている。玉網で掬う。バケツに張ったナイロン糸に針を引っ掛けて魚を外し、手製の携帯生簀に入れ、船縁から吊るす。

次の1回は空振りで、その次に、タナを少し下げて探っているとガツーンと来た。また大アジか、と手繰る。2〜3手手繰ったときにぱっと軽くなった。しまった、針外れ。アジだとしたら、しゃくらなかったのがわるかったようだ。どうもガツーンとくるとつい合わせるだけで、しゃくって針掛りを確実にするのを忘れてしまう。しかし、タイだったかもしれない。歯に引っ掛かっただけで、外れたのかもしれない。タイなら別に悔しくない。

その数投後、底まで仕掛を下げる。食わない。仕掛を2〜3手ゆっくり手繰ったとき、かすかに重くなった。しゃくる!掛かったが、引きは大したことがない。アジらしいがたぶん小さい。上がったのは30センチ弱の中アジ。

アミコマセがあと2〜3回分しかなくなった。コマセにオキアミを多めに混ぜ、石を落す。ガツーンと来て、なかなか強い引き。釣れたのは30センチほどのきれいなマダイ。しかし、コマセはあと1回。カリッとアジらしい当たりであわせたが、早すぎて針掛かりはしなかった。残っていたオキアミを巻き込んで落す。またカリッときたが、掛けられない。オキアミはもう数匹しかない。さっきまで使っていたプラカゴをしらべると数匹残っていて、あわせて10匹くらい。最後の一投。しかしアタリはでなかった。

なんとか最後の1時間で中〜大アジを2匹、小型のマダイを1匹釣ることができた。それにしても寒い一日だった。

第6章見出しに戻る

霧の中の釣り

私の船にはGPSがついていたのだから、船の運転に多少でも慣れていれば、「夜間飛行」の要領で、ゆっくり船を動かして、港に戻ることができたはずだと考える人もあるかもしれない。しかし、「モイカ釣り」の章で書いたが、画面に映っている自船の位置はリアルタイム・現在時点の位置ではなく、数秒前、私の装置の場合には約5秒前の位置なのである。そして船の速度を最低に落としておいても、5秒で7〜8m進むから、7〜8mは「誤差」と考えておかなければならない。また、運河の中を走った時の軌跡を残しておいたら、GPSに入っている地形図上では陸に掛かっており、画面の地形図あるいは私の船の画面上の位置は5m〜10mは本当の位置からずれていることがわかった。

霧は夜の闇と違ってある程度先までは見えるので、防波堤の近く、数十mのところにくれば、たぶん、たいていの場合、自分の目で見ながら、港に入ることはできるだろう。しかし、2〜3キロ離れたところから、港の堤防の近くにまで、たとえ、航路をよこぎるのではなくても、途中に干出岩や浅瀬がある海域で、場合によっては誤差が15mもあるGPS画面の航跡と地形図だけを頼りに、船を運転して帰ってくることができるのかどうか、私は確信を持てない。

瀬戸内海では、梅雨の頃に霧が発生することが多いという。私が霧に閉じ込められたのは6月中旬のことである。まだ在職中で、船に乗り、釣りをするは休日だけだった。船は4月の末に買ったばかりで、船に乗るのはこの日で13回目であった。

船を預けていた島マリンは、松山市が北隣の北条市と合併するまでは、松山の北の端をなしていた堀江地区の和気漁港(マリンハーバーと一体)にある。この辺りでは海岸線はほぼ東西に走っており東の堀江港付近から海岸線は北に向かって北条にいたる。和気漁港から西に2キロほど行ったところに白石の鼻という、白い大きな岩が他の岩の上に達磨のような不思議な形で乗っているところがあるが、ここから、松山の南隣の伊予市に至るまで海岸線は15kmほどほぼ南北に走っている。白石の鼻をから1キロ半ほど南にいったところには、松山観光港とそのすぐ隣の高浜港があって、関西汽船の大型フェリー、広島港との間を結ぶ高速船、この白石の鼻の北西方向に見える6つの島からなる中島町(後に松山市と合併)と松山を結ぶ汽船、さらに狭い海峡を挟んで観光港、高浜港の沖に浮かぶ長さ7キロほどの興居(ごご)島から通勤客を松山市内に運ぶフェリーが、この海峡を抜けて、あるいは海峡を横切って、航行する。

和気漁港から白石の鼻までの間は、海岸から浅瀬が張り出していて、海中に白い鉄柱が立っている。またその近くに犬の頭(こうべ)という名の、高さ10mほどで周囲が30〜40mくらいの小島がある。また興居島との間の海峡にも、九十九(つくも)島などいくつかの岩ないし小島が浮いている。潮の流れも速く、好釣り場になっていて、いついっても漁師の船や、2〜3人で乗った釣り船が出ている。白石の鼻からは遠投するとハマチが釣れ、ハマチが回ってくると狭い場所に10人以上の釣り人が集まる。犬の頭の近くで、漁師が蛸釣りをやっているのを見たし、私も、船の運転練習のつもりで出たときに、「ついでに」と試してみたら市販の仕掛けに30センチを越える大型のメバルが何匹も釣れて驚いたことがある。

私は、加藤賢一『海のボートフィッシング』に従って黄色回転灯にコードをつけたものを備えておいたし、また、サッカーの応援などで使う「ホーン」が大きな音を立てるのによいとどこかで読んで、これも備えておいた。だが、こんなにすぐに使うことになろうとは思っていなかった。

以下は当日の日記に、説明が必要と思われる文を加えるなどして手を入れた文章である。「9時半すぎに出港。二子島〔中島群島の一つ、怒和島の南にある小島〕でマダイをやる積もりでイカナゴを買った。しかし、港を出ると霧が掛かっていて、白石の鼻の辺りは見えるが、興居島も犬の頭も見えない。しかし、その方向に数隻のボートは見える。戻ってくる船に霧が今出始めたところなのか、早朝から出ていて、薄くなってきた所なのか、聞いてみると、少しよくなって来たところだという。それなら大丈夫かと思ったが、白石の鼻の方向に向かって行くと霧が濃くなってくる。

戻って和気港の近くで様子を見ることにし、黄色回転灯をスパンカーのマストに縛りつけ、何時でも点灯できる用意をし、またホーンも操縦席のところに用意した。やがて2~3百メートル先も見えなくなり、周囲は真っ白になってしまった。回転灯にスイッチをいれてGPSの画面に注意した。少し潮に流されると、どちらが港なのか全くわからなくなる。最近、久米島の老漁師が霧が出て方向が分からなくなって何日も漂流したというニュースがあったのを思い出した。やがて30分ほどで多少薄れてきたので、海岸が見える距離を保ちながら、犬の頭の南側でサビキ仕掛けをだすとゼンゴと小さなメバルが数匹釣れた。メバルはすぐに釣れるが小さいのでそこはやめ、昼近くに、白石の鼻を回って九十九島近くに行った。

九十九島より南は定期船が往復しており危険だと考え、北側で様子をみながら釣ることにした。霧は海峡より南のほうには見えるがここまでは距離があるように思えた。私の船の前の所有者がGPSに入力したオサカナマークの近くに根があって、サビキ仕掛けを入れて見るが何も釣れなかった。あちこち場所を変えているうちにいつの間にか再び霧が濃くなり、九十九島が見えなくなってしまった。潮は速くはないが流れており、船も動いてしまう。ときどき、霧のなかからフェリーのものだと思われる大きな汽笛の音が聞こえた。距離も見当がつかず、どちらの方から聞こえてくるかも全く分からず、ここは本当に航路の外なのかどうか、心配になってきた。釣りどころではなくなった。

回転灯のスイッチを再び入れ、間を空けては意味がないと考え、10数えるごとにホーンを押し鳴らした。しかし、フェリーが近くに来たときに、この黄色い明かりに気がついてくれるのだろうか、この音を聞いて衝突を避けてくれるだろうか、どんどん不安が強まった。潮があまり流れてなかったのが幸いだった。GPS画面をみながらできるだけ岸の近くにとどまるように運転した。しかし、霧が晴れたのは3時すぎだった。-------気がつくと白石の鼻には10数人が岩場でリールを巻いている。また付近の釣り船でもジギングをやっている。ハマチが回ってきているらしい。真似てジグを軽く投げて引いてみたが食わない。周りで魚を掛けた様子もみえないので、4時すぎに納竿。小アジ4匹とメバル2匹だけ締めてもって帰り、塩焼きと煮つけにした。」

家串に移ってからの10年ほどの間に霧が出た日が数日あったが、霧の出た日には一度も出漁しなかった。黄色回転灯もホーンも一度も使っていない。キャビンの中で眠っている。

第6章見出しに戻る