変化に挑む姿勢が欠けていた
松平容保(まつだいら かたもり)と会津藩の悲劇
−指導者の情報収集責任、なぜ必死にレーダー的情報収集を
しなかったのか? 志村英盛
注:Sannetが2020年3月に廃業するため、現在,Biglobeへ移転作業中。
関連サイト:会津戦争 母成峠の戦い
明治維新時の忘れることのできない悲劇の一つが松平容保と会津藩の悲劇
である。1986年年末、この悲劇を取り上げた時代劇ドラマ『白虎隊』が
日本テレビから放送された。
堀内孝雄さんの『愛しき日々』はこのドラマの主題歌である。
白虎隊の少年たちだけではなく、戦場で死んだ人たち、集団自殺した
国家老・西郷頼母の家族21人や多くの武士の家族たち、
邪魔者と見られバンザイ突撃を強いられた老人たちなど、
多くの人たちが死に追いやられた。
城西の日新館野戦病院は火に包まれ、多少なりとも動けるものは
濠(ほり)に身を投じて自殺した。身体の不自由な患者はことごとく焼死した。
会津攻撃軍の残虐行為の犠牲者や、戦闘を避けて避難中、
増水した川におちて溺死した者なども数知れずであった。
参考資料:星亮一著 『会津落城』 第iii頁 中公新書 2003年12月発行
会津若松市善龍寺の国家老・西郷頼母と家族21人の墓所(筆者撮影)
生き残った武士たちと家族約1万3000人は恐山山麓一帯(青森県下北半島の
むつ市)に強制移住させられた。その後斗南藩として小川原湖東岸一帯に
移住するが、農業についても、牧畜業についても、その他の職業についても、
職業能力も職業経験も無いまま、慣れぬ異郷で辛酸な生活を強いられた。
明治4年の青森県の記録には「移住した会津人、1万3,027人のうち、
3,300人ほどが各所出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに
廃疾のもの6,027人、幼年のもの1,622人、男子壮健の者2,388人ほどの
見込み」とあった。
会津藩の人たちにとって、下北の地は格子なき牢獄であり、
日々、餓死していくその姿はまさしく挙藩流罪であった。
どれを取り上げても心痛む話ばかりである。
国際的視野にたって日本の取るべき開国戦略を提唱した佐久間象山を【妖怪・奸賊】として、
白昼、無法理不尽に、京都市街で斬り殺した【攘夷派過激テロリスト】たちは、明治維新後、
木戸孝允らによって【尊皇の志士】とされた。
これらの無法理不尽な【攘夷派過激テロリスト】たちを断固として取り締まった会津藩は、
【朝敵】との汚名を着せられ、徹底的に迫害された。
むつ市及び小川原湖一帯
幕末の会津松平藩の人たちは名君として知られた
藩祖・保科正之(徳川家光の弟)の遺訓を固く守り、
最後まで徳川幕府に忠誠を尽くした人たちであった。
今から百数十年以前で、藩という枠を超えた国民国家という意識は
未だ無く、現在とは全く異なる政治体制と社会構造で、
しかも情報皆無の時代の武士階級の人々の心情を、
現代に生きる筆者が理解することは極めて難しいとは思うが・・・
孝明天皇が、突然、崩御され(後述・毒殺された)、
将軍・徳川慶喜は倒幕派に降伏して徳川幕府は瓦解した後でも、
「孝明天皇と徳川幕府に忠誠一途、薩長憎し」であったことと、
あまりにも情報音痴であったため、
広い視野での「聞く、調べる、尋ねる」が弱く、
視点を変えた意見の考慮、数字に基づく検討、
立場を変えて考えてみる等が冷静になされなかったと思う。
当時の藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は
誠実で、まじめで、忠誠心厚く、まさに、
主君に対する忠誠心を何よりも重視した
当時の【武士道】の具現者であった。
しかし結果から見ると、不幸なことに、広い視野での情報が少なく、
若かったこともあって、自分とは視点が違う幹部の意見や、
反対意見を検討して、意思決定するという姿勢を欠いた
専制主君(専制支配者)であった。
なによりも重大な欠点は【情報軽視、さらには、情報無視】であった。
幕末当時、京都という最もレーダー的情報収集に適した都市に
千数百人もの藩士を駐在させ、京都御所警備という朝廷の実態研究に
最適の任務に就いていたにもかかわらず、松平容保(まつだいらかたもり)は
情報音痴でありすぎた。
松平容保(まつだいらかたもり)は、自藩についても、味方についても、
敵についても、朝廷についても、幕府についても、国内情勢についても、
国際情勢についても、あまりにも知らなすぎた。
松平容保公御廟:会津若松市院内・松平家御廟の森(筆者撮影)
西郷隆盛、大久保利通、徳川慶喜、松平春嶽、勝海舟のように
広い視野で考え、大きな変化の重なり合いを視点を変えて観察し、
さまざまな謀略を使って、柔軟にかつタイムリーに対処するということが
できなかった。
複数の人脈を生かして、とことん相手と交渉するということも
得手ではなかった。
なによりも重大な欠点は【情報軽視、さらには、情報無視】であった。
結果から言うならば、松平容保は、
【逃げの名人】であった徳川慶喜、松平春嶽から、
真剣に学ぶべきであった。
【藩祖の遺訓】や【孝明天皇と徳川幕府に対する思いこみ】に
囚われずに、冷静に、数字を基に、状況の変化を掴み、分析して、
会津藩の取るべき戦略と行動方針を考え抜くべきであつた。
孝明天皇と公家たちの攘夷命令が、いかに現実離れした、
荒唐無稽なものであるかを少しでも理解すべきであった。
【主君に忠誠が第一】、【孝明天皇は最高主君】と固く信じていた
【武士道の具現者】であった松平容保には、到底、できなかったこと
ではあるが。
会津藩はまさしく【武士道】そのものであった。
【武士道】は、封建制度の下において、
福沢諭吉が『福翁自伝』で【親の仇】と嘆いている
牢固たる【世襲身分制度】で守られた武士階級の
行動基準であり道徳規準である。
【武士道】は、世襲主君(専制支配者)に対する絶対的忠誠、
すなわち【忠君=愛国】を核とする行動基準・道徳規準である
ことは【忠臣蔵】に見られる通りである。
世襲主君(専制支配者)にとっては、まさに、理想的な
行動基準・道徳規準であるが、世襲主君(専制支配者)に
完全支配されていた武士や領民、特に地主以外の領民に
とっては、「黙って奴隷的労働に甘んじよ、
主君の前では奴隷的態度・奴隷的行動をとれ」という、
とんでもない行動基準・道徳規準である。
2013年にNHKから放送された大河ドラマ『八重の桜』では、
天皇や殿様の前で、皆が、額を畳にこすり付けて平伏している
場面が数多く放映されている。「頭が上がらない」とはこのことかと、
いつも、半ば呆れ、半ば感心して見ていた。
会津藩は、また、他の多くの諸藩も同様であるが、
武士階級のためだけの藩であった。
江戸時代の会津藩は、他の200余藩の大部分と同じく、
殿様階級(領主夫妻、側室、奥女中などのセックス集団)、
上級武士階級、下級武士階級、地主階級、農民奴隷階級を
主体とする社会構造で、権力は上級武士階級が握り、
農民奴隷階級以外は、全く働かない不労所得階級であった。
領民奴隷階級には苛酷な税金を課した。挙げ句の果て、
贋金(にせがね)づくりまでやってのけた。
会津藩は領民奴隷階級を苛斂誅求した藩であった。
従って、長州藩のように、領民皆兵の奇兵隊を創って、
郷土を防衛するという発想はひとかけらもなかった。
松平容保と会津藩にとって何よりも不幸であったことは、
薩摩藩の島津斎彬や、長州藩の吉田松陰のような、
優れたレーダー的情報収集力と広い視野を持った指導者が
いなかったことである。
薩摩藩や長州藩のように、島津斎彬や吉田松陰に薫陶された
優れたレーダー的情報収集力と広い視野を持った
人財の数が少なかったことである。
その数少ない人財を、蟄居(免職・外出禁止)させたり、
北海道へ左遷させたり、切腹させたりした。
デタラメ極まる人事管理が行われていた。
松平容保は、西郷頼母、秋月剃次郎、神保修理、山本覚馬、
山川大蔵らを活用して、薩摩人脈、勝海舟人脈、松平春嶽人脈
等から可能なかぎりの情報を引き出すべきであった。
京都守護職辞退に西郷頼母を活用すべきであった。
少なくとも、海軍とは何か、大砲・小銃とは何かについて研究すべき
であった。
当時の国際情勢と欧米諸国の軍事力について研究すべきであった。
海軍というのは当時の欧米先進国の軍事力を代表する存在であった。
風土とは、土壌・地形・気候を全体としてとらえた自然環境のことである。
恵まれた日本の風土と大きく異なり、アフリカや中東のシナイ半島の
砂漠の風土では、種を蒔いても植物は育たない。
組織風土とは、組織において人々が働くための、階層構造、身分関係、
ルール、行動慣習、思考様式、価値観、意思決定慣習を
全体としてとらえた組織環境のことである。
幕府海軍の創始者であり、実質的には、最高指導者であった勝海舟は、
日本の海軍力を強化するためには、旧態依然の徳川幕府体制ではダメだ、
牢固たる徳川幕府の組織風土ではダメだと、
早くから徳川幕府を見限っていた。
会津藩はダメな徳川幕府と並ぶ旧態依然の代表である考えていた。
鳥羽伏見の戦いにおいては、薩長軍には、西郷隆盛、山県有朋、
大村益次郎という名将、名参謀がいたが、徳川軍には、実質的には、
司令官と参謀(軍師)はいなかった。
従って、情報分析や戦略・戦術を検討する作戦会議もなかった。
戦闘において、相手の兵士たちをぶっ殺す手段としては、
槍や刀より、大砲や小銃の方がはるかに殺傷力は高い。
従って、射程距離の長い、殺傷力のより強い弾薬を発射できる大砲や
小銃を、より多く持つことが戦闘において勝つための基本である。
この、あまりにも当たり前すぎることを、
会津藩を主力とする幕府陸軍の現場指揮官は理解していなかった。
それがわかっていれば、とるべき戦略はいくらでもあったはずである。
白兵突撃を堅持した昭和戦争敗北前の旧大日本帝国陸軍の
無知・無能・無策・無責任・卑怯な最高指導者たち・高級参謀たちと
同じであった。
西郷隆盛の謀略挑発に乗せられて大阪から京都へ進軍し、敗戦した
鳥羽伏見の戦いにおける藩士たちの暴発を松平容保は止められなかった。
この敗戦の結果、西日本の各藩が会津藩不支持に廻ってしまった。
当時、徳川軍は、陸軍の装備は薩長軍に劣っていたが、
大阪湾には、薩長軍にない当時の最新鋭の艦隊が待機していた。
しかし、勝海舟は、この最新鋭の艦隊を薩長軍の攻撃に使わなかった。
成立したばかりの明治新政府に徳川慶喜が参加する工作が進行していた。
会津藩士を含む徳川軍の現場指揮官たちは、
狭い視野で、情報と戦略を持たず、真面目ではあるが、
単純短絡的で、「聞く、調べる、尋ねる」という姿勢が全く欠けていた。
西郷隆盛の謀略挑発に乗せられて、感情にかられて、
「上様(=徳川慶喜)を刺してでも憎い薩摩を討つ」と暴走してしまった。
朝日新聞(朝刊)08年11月22日第e5面で、
歴史学者の磯田道史茨城大学准教授は、
「徳川慶喜はこの時、風邪をこじらせた病み上がり後で、
思考力が弱り切っていた。病床から這い出てきた
徳川慶喜は、「薩長討つべし」と強烈な突き上げを受け、
「いかようにとも勝手にせよ」と言ってしまった。
徳川慶喜は、「「いかようにとも勝手にせよ」と言い放しが
一期の失策なり」と、生涯、これを悔いた」と述べている。
徳川軍の現場指揮官たちの暴走は、
徳川慶喜や松平春嶽の忍耐・戦略・努力をダメにしてしまった。
当時の状況からみれば至極当然のことではあるが、
会津藩を含む徳川軍の現場指揮官たちには、
薩摩藩や長州藩の軍事指導者たちや、現場指揮官たちが持っていた
【日本は近代化が必要】【欧米技術の導入が必要】
【国際情勢と欧米諸国の軍事力についての情報が必要】
という認識は皆無であった。
鳥羽伏見の戦いが行われた地域:伏見区鳥羽離宮跡公園一帯で、
鴨川と桂川の合流地点の北である。
鳥羽伏見の戦いにおける徳川軍の戦闘ぶりは、
戦略不在そのものであった。
薩長軍の兵力は約5,000人であったが、
戦略・戦術に優れた西郷隆盛が指揮をした。
徳川軍の兵力は約1万5,000名で、兵士数は薩長軍を圧倒していたが、
全軍を有効に指揮できる司令官も参謀(軍師)もいなかった。
進軍経路も、鳥羽伏見方面のみから進むという幼稚なもので、
奈良街道や西国街道からも攻め込むという発想が欠けていた。
京都を包囲して、薩長軍の補給路を遮断した上で、
心理作戦を行うという発想は、ひとかけらもなかった。
徳川軍は戦術も幼稚であつた。
徳川軍は、正々堂々勝負しようと、街道を縦列隊形で進軍していった。
長州藩軍は、先ず、街道に畳を並べ立て徳川軍の進軍を妨害し、
町屋の陰から、縦列隊形で進軍してくる徳川軍を銃撃した。
第2次長州征伐戦争で、近代的な銃砲戦の実地経験を積んだ
長州藩軍の戦術発想は、正面衝突して、白兵突撃することしか
頭になかった徳川軍、その主力の会津藩軍が、まったく想像も
しなかったものであった。
あまりにもの幼稚・拙劣に、泉下の徳川家康も嘆いていたと思う。
関連サイト:会津戦争 母成峠の戦い
封建藩幕体制下において藩主が実権を握っていた場合は、
藩主の意思決定は絶対的である。
【武士道】の行動基準は【主君に対する絶対的忠誠】であるから
これは当然である。
まことに悲しいことながら、結果から見るならば、
「孝明天皇と徳川幕府に忠誠一途、薩長憎し」という
藩主・松平容保のいくつもの重要な意思決定が
数多くの悲劇を生んだのである。
例えば1865年、会津と江戸の会津藩の幹部が、
松平容保に「藩主引退と京都から引揚げ」を進言するが、
松平容保は断固これを拒絶している。
しかし、結果から見るならば、この時、松平容保はこの幹部たちの
進言を100%受け入れて、「健康を損ねた」という理由で、
藩主を引退し、無責任な徳川慶喜・松平春嶽を見習って、
さっさと京都から引き揚げて会津に遁走すべきであったと思う。
松平容保が、転進、撤退、降伏についての意思決定を誤ったことが
多くの悲劇を生んだのである。
松平容保は、忠誠心あふれ、誠実な方であったが、
会津藩の最高指導者として、情報収集を怠り、意思決定を誤り、
筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらした責任を免れることはできない。
結果から見るならば、無責任な徳川慶喜が鳥羽伏見敗戦の時点で
倒幕派に降伏を決心したことは、日本のためにも、徳川家のためにも、
最善の選択であった。
当時の国際情勢と欧米諸国の軍事力についての情報を
松平容保が理解しており、
京都御所の外には出たこともなく、海を見たこともなく、
松平容保以上に情報遮断されていた孝明天皇の攘夷思想が、
国際情勢無知に基づく非現実的な、荒唐無稽なものであることを、
松平容保が理解していたならば、悲劇は避けられたかも知れない。
米国のペリー提督の来航・開国要求を機に、徳川幕府の弱体化が
進行した。それに伴って、それまで、政治的に無力であった朝廷の
権威が高まった。(後述:尊皇攘夷論)
情報網皆無の朝廷において、孝明天皇を取り囲んでいた公家(くげ)
たちは、永年、窮乏生活をしてきたものが多かったこともあって、
無知・無能・無責任・卑怯を具現した屑人間集団であった。
幕末・明治維新時、朝廷の無知・無能・無責任・卑怯な屑人間集団の
さまざまな策略によって、実に多くの人たちがさまざまな被害を蒙った。
屑人間集団が国際情報音痴であった孝明天皇を傀儡として利用
した手法は、その後も、歴代の政権担当者に、国民を騙す方法として
悪用され続けた。日本国の進路を誤らせた。日本の悲しい歴史事実
である。
当時は、現在とは全く異なって、「世界的な視野に立っての情報収集」は
おろか、「日本全国的視野に立っての情報収集」すらできなかった。
幕末の日本は「知の巡り(めぐり)」が極めて悪かった重態の病人であった。
薩摩藩は、1863年8月、生麦事件の報復として鹿児島湾に侵入してきた
英国艦隊7隻に攻撃された。鹿児島城下町を砲撃された。集成館工場群、
民家350戸、士族屋敷160戸、寺院4か所など市街地の約1割が砲撃で
焼失した。
ほとんどの砲台が破壊された。琉球との交易に使用していた輸送船3隻、
和船2隻が拿捕され焼き払われた。英艦のアームストロング砲炸裂弾と、
日本の砲丸投げ大砲との破壊力の差を実感した。
しかし、軍人死者は、英国11人に対し、薩摩5人であった。
薩摩藩の指導者と現場指揮官たちは彼我の軍事力の圧倒的な差を
実感した。
長州藩は、1864年8月、英・仏・米・蘭の四か国連合艦隊17隻に
下関砲台を砲撃され占拠された。圧倒的な欧米の軍事力を実感した。
ちなみに、この時、四か国連合艦隊のキューパー司令官は
下関市街地は砲撃しなかった。前年の薩英戦争時の議会の
市街地砲撃非難を忘れてはいなかったようである。
敵艦隊を迎え撃つ大砲もあったのですが!(下関市みもすそ川公園)(筆者撮影)
英・仏・米・蘭連合艦隊に占領された下関砲台。大砲も映っています。
長州藩はこの事件で、非現実的な「無知に基づく攘夷思想」を捨てた。
軍事力強化の必要性を痛感した。これが蛤御門の変の仇敵、薩摩藩と
1866年に薩長同盟を結び、それが新鋭武器大量輸入による軍事力
強化につながった。
薩摩藩も長州藩も、軍事指導者たちと現場指揮官たちは、
数日間ではあったが英国艦隊と実際に交戦して、日本の軍事力、
特に海軍力が欧米諸国と比べていかに弱体であるか実感していた。
そうして欧米諸国に植民地化されないためには、
【日本は近代化が必要】【欧米技術の導入が必要】
【国際情勢と欧米諸国の軍事力についての情報が必要】
と認識していた。
会津藩の軍事指導者たちや、現場指揮官たちは、
この認識が欠けていたと思う。
会津藩は、薩摩藩、特に西郷隆盛の行動からこの重大な状況変化を
探り出すべきであった。しかし、レーダー的情報収集力が弱かったため
それができなかった。会津藩は、1866年の孝明天皇のご崩御や、
1867年の徳川慶喜の大政奉還がもたらした変化を読み切れなかった。
風土とは、土壌・地形・気候を全体としてとらえた自然環境のことである。
恵まれた日本の風土と大きく異なり、中東のシナイ半島の砂漠の風土では
種をまいても植物は育たない。
組織風土とは、組織において人々が働くための、階層構造、身分関係、
ルール、行動慣習、思考様式、価値観、意思決定慣習を
全体としてとらえた組織環境のことである。
「聞く、調べる、尋ねる」の重要性を認識しなかった【問答無用】の
この会津藩の組織風土が、忠誠・誠実であったが情報音痴の会津藩に
筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらした。まさに悲劇であつた!
松平容保は自分は謹慎の身であるとして、明治の社会に顔を出すことは
しなかった。あるとき元家臣の山川大蔵にその理由を問われてこう語った。
「元治元年以来、余の家臣で余のために命を落とした者は3千人にも
のぼるだろう。老いたるは子にはぐれ、幼きは父や兄を失い、あるいは
独り身になってよる辺がなく、また負傷して体の不自由をかこつ者、
寒さや飢えに悩める者など、その数、幾千人になるかも知れぬ。
それらはすべて余一人の不徳から出たものである。
したがって自分だけが栄華な暮らしをしようなど思いもよらぬことだ。」
(星亮一著 『幕末の会津藩』 中公新書 158頁より抜粋引用)
忠誠心厚く、誠実一途を貫いた松平容保の人柄を示す言葉である。
追記1:
会津悲劇と幕府滅亡の発端:
徳川斉昭と水戸藩の尊皇攘夷論と
堀田正睦の京都行きという大愚行
1858年(安政5年)初頭、徳川幕府の岩瀬忠震目付・井上清直下田奉行と、
タウンゼント・ハリス米国総領事は、日米修好通商条約について合意した。
後は正式な調印を残すのみとなった。
しかし、徳川幕府内部では、徳川斉昭・前水戸藩主を筆頭に、
条約調印に絶対反対を唱える勢力が侮り難いものになっていた。
そこで、老中筆頭の堀田正睦は、あまりにも愚かなことに、京都の
朝廷の権威を利用して、条約調印反対派を押さえ込もうとした。
ところが、これが完全に裏目に出た。
まさに歴史的な堀田正睦の大愚行であつた。
堀田正睦は自ら京都に行って、朝廷へ条約勅許(天皇の承認)を
願い出た。
それまで、政治権力を失っていた朝廷が、この予期しなかった
絶好の好機を逃すはずがなかった。
朝廷は、条約調印絶対反対の姿勢・態度を強く誇示して、
一挙に、失っていた政治権力の挽回を図った。
なぜ朝廷は超強気な姿勢・態度に出ることができたのか。
それは、当時、国内に【尊皇攘夷(そんのうじょうい)】という思想が
流行り(はやり)出したためである。
【尊皇論】というのは、文字通り、天皇を尊ぶ思想である。
【攘夷論】というのは、外国人は穢れている。外国人は、一人たりとも
日本国内に入れるな、外国艦船は武力で追い払えという思想である。
どちらも、中国の儒教に由来している思想である。
それが、19世紀初め、水戸藩において、この両論を融合させた
【尊皇攘夷論】が唱えられ、以後、広く世間に流行り(はやり)出した。
当時、程度の差はあれども、全国274藩のほとんどすべてが、
相次ぐ天災による収入減・支出増と、幕府の国防命令等による
巨額の支出増に苦しんでいた。
薩摩藩のように、密貿易と産業振興によって黒字経営を行っていた
藩は極めて少なかった。
現在の中国と同じように、上級武士、大地主、富裕商人に対する
相続税課税、所得税累進課税は無かった。財政支出の赤字は、
農民に対する重税課税、下級武士の給与削減、大都市の富裕な
商人からの借金によって補われていた。
生活に苦しむ下級武士たちや、知識を身につけた農民たちや、
貧困町人たちが、「悪いのは徳川幕府と諸外国、では徳川幕府に
代わるものは何か、諸外国に対してはどうすべきか」との疑問が
高まっていた。
そこに登場したのが【尊皇攘夷論】である。
水戸藩の思想家で、藩校・弘道館の初代教授頭取を務めた
会沢正志斉の著述『尊皇攘夷・新論』に心酔した梅田雲浜、梁川星巌、
頼三樹三郎らが、多数、京都に集結して、【尊皇の志士】と自称して、
朝廷の公家たちに【尊皇攘夷論】を吹き込んだ。
この【尊皇攘夷論】の自己催眠効果は絶大であった。
日本の真の君主は、将軍ではなく天皇だという【尊皇論】は、
まさに、朝廷、特に孝明天皇の主張そのものであった。
歴代の天皇や、公家たちは、日本における伝統的権威だけを拠り所に、
日本における伝統的権威だけに縋って生き延びてきたのだから、
徳川将軍に政治権力を簒奪された、外国人は穢らわしいものと、
固く信じ込んでいた。
孝明天皇と公家たちは、こぞって、【尊皇攘夷論】に心酔した。
孝明天皇と公家たちは、【尊皇攘夷】の自己催眠に陶酔していった。
孝明天皇は徹底した外国人嫌いであった。
孝明天皇は、「私の代に、穢れた異人(外国人)の願い通りになっては、
伊勢神宮に申し訳がたたぬ。
私は、歴代の天皇に対して不孝者になり、末代まで汚名を残すことになる」と、
日米修好通商条約絶対反対を明言していた。
幕府老中筆頭の堀田正睦は、【尊皇攘夷】の空気が充満している京都に、
のこのことやって来て、条約勅許(天皇の承認)を願い出たのである。
堀田正睦は、あまりにも愚かであった。
極めて当然のことながら、条約勅許は得られなかった。
しかし、問題は勅許を得られなかったという点にあるのではない。
それよりもはるかに重大な問題は、朝廷の政治権力を認めてしまったこと
である。
徳川幕府が始まって以来、朝廷は、幕府によって政治権力の外に
置かれていた。それが、ここにきて、幕府が自らが、朝廷に政治への
発言権を与えてしまった。しかも、幕府が許可を願い出なければならない
ような格上の存在としてだった。
これは堀田正睦の、まさに、歴史的な大愚行であった。
追記2:
孝明天皇毒殺
孝明天皇は、1867年1月30日(慶応2年12月25日)、突然、
崩御(死亡)された。 36歳であつた。
1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、
京都の産婦人科医・医史学者の佐伯理一郎氏が「孝明天皇が痘瘡に罹患した
機会を捉え、岩倉具視が、その妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛り
殺害した」との論文を発表した。しかしこの論文は軍部によって封印された。
昭和戦争敗北後、軍部による言論統制が消滅した。
封印されていた孝明天皇毒殺説が再び論じられるようになった。
ねずまさし氏は、『孝明天皇は病死か毒殺か』、『孝明天皇と中川宮』
などの論文を発表した。ねずまさし氏は、孝明天皇の侍医たちが発表した
「御容態書」に、孝明天皇の病状は順調に回復の道をたどっていたが、それが
一転、急変して、苦悶の果てに崩御されたと述べ、その最期の病状から、
孝明天皇は砒素を飲まされて毒殺されたと推定している。
毒殺犯人は岩倉具視・堀川紀子の二人としている。
明治維新史の権威、佐々木克・京都大学名誉教授は、著書『戊辰戦争』
(中公新書 1977年1月発行)の第8頁で次のように述べている。
近年、孝明天皇の主治医であった伊良子光順の日記の一部が、光順の
子孫である医師・伊良子光孝氏によって公表された。それによると、
伊良子光順は「孝明天皇の死は急性毒物中毒によるもの」と、明確に、
「毒殺された」と断定している。
直木賞、エンタテインメント小説大賞、中山義秀文学賞、新田次郎文学賞を
受賞され、史実第一主義の歴史作家として著名な日本史学者・中村彰彦氏は、
著書『幕末維新史の定説を斬る』(講談社2011年5月発行)の第129頁から
246頁まで、118頁にわたって『孝明天皇は病死か』との題目で、
詳しくこの問題を論じている。
中村彰彦氏は、同書第240頁で、「このように、医学書の記載と、孝明天皇の
症状とを照合すると、すべて急性砒素中毒の特徴と合致している。
いまやいやしくも事実を重んじる歴史家であるならば、孝明天皇の死因が
急性毒物中毒であることを疑う余地はなくなるのではないだろうか」との
日本史学者幕末維新期対外関係専門の石井孝氏の結論を紹介している。
追記3:
岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通の
権力掌握クーデター
(王政復古クーデター & 3職会議)
1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還後、
徳川慶喜は公武合体・雄藩連合による新しい政治体制づくり工作を
進めていた。
しかし、徳川慶喜を完全排除して、薩摩藩主導で権力を掌握することが
近代国家づくりに絶対必要と考えていた西郷隆盛と大久保利通は、
岩倉具視と組んで、着々と権力完全掌握戦略を進めていった。
1867年11月20日、先ず、薩摩藩藩主の島津忠義が約3,000人の
藩兵を率いて京都に到着した。次いで、長州藩家老の毛利内匠が
約1,200人の藩兵を、芸州藩は世子の浅野茂勲が約300人の藩兵を
率いて京都に到着した
大久保利通は岩倉具視と連携して、明治天皇の外祖父で、
明治天皇が頼りにしている中山忠能を味方に抱き込むことに成功した。
1867年12月8日、京都御所において、摂政・二条斉敬をはじめとする
公家たちと、京都滞在中の有力大藩の藩主たちが集まって、政治協議が
行われた。この政治協議は、夜を徹して行われ、翌9日まで続いた。
長州藩藩主父子の朝敵扱いが取り消された。岩倉具視の1862年京都
追放処分も取り消され、岩倉具視は旧職に戻った。三条実美(さんじょう
さねとみ)ら長州派公家の1863年京都追放処分も取り消された。
1867年12月9日午前9時、薩摩藩の藩兵に、芸州藩、越前藩、尾張藩、
土佐藩の藩兵が加わって、京都御所内から、会津藩と桑名藩の藩兵を
すべて追い出してしまった。
本格的な戦闘装備の3,000人もの薩摩藩の大部隊を見て、会津藩と
桑名藩の藩兵は、まったく抵抗せずに、京都御所から退去して二条城に
移った。
薩摩藩による京都御所完全占拠を受けて、西郷隆盛・大久保利通の
権力掌握クーデターの仕上げが行われた。
先ず、15歳の、政治的判断力ゼロの明治天皇が、学問所で、
皇族、公家、有力大藩藩主たちに対して【王政復古】の大号令を下した。
この場に徳川慶喜と松平容保は完全排除されていた。
この明治天皇の大号令の原稿は、大久保利通と岩倉具視が相談し、
国学者の玉松操の協力を得て作りあげたものであった。
続いて、明治天皇は、大久保利通と岩倉具視の原案通りに、
新政府の人事を承認した。
総裁・議定・参与という内閣3職が新設された。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は小松宮嘉彰親王、山階宮晃親王、
中山忠能、三条実美、中御門経之の公家、島津忠義、徳川慶勝、
浅野茂勲、松平春嶽、山内容堂等の有力大藩藩主であった。
岩倉具視は副総裁に就任し、名実共に公家勢力のトップに立った。
西郷隆盛と大久保利通は参与ということになったが、実質的には、
岩倉具視を通して、新政府を完全支配することになった。
1867年12月9日午後6時、初の3職会議が開かれた。
大久保利通と岩倉具視は、ここで徳川慶喜の辞官・納地を決定して
一挙に、徳川幕府の息の根を断つつもりであった。
大久保利通が熱弁をふるった。大久保利通は、寡黙な人だったと
いわれるが、このときぼかりは、別人のようであった。
岩倉具視は、徳川幕府の失政を並べ立てた。徳川幕府は独断で
開国した。多数の尊皇の志士たちを殺害したと徳川幕府厳しく非難した。
このような重要な会議には、徳川慶喜も参加させるべきであると主張した
山内容堂らの意見に対して、岩倉具視は、徳川慶喜が本当に反省して
いるのなら、内大臣を辞職し、200万石の幕府直轄領地を朝廷に献納して、
誠意を示すべきである。会議参加はそれからのことであると反論した。
大久保利通は、さらに激烈で、朝廷は、直ちに、徳川慶喜に、内大臣罷免、
幕府直轄領地200万石献納を命じるべきである。この命令を徳川慶喜が
受け入れたら会議への参加を許すが、もし命令を拒絶する気配がみえたら、
断乎、徳川慶喜を討伐すべきであると発言した。
山内容堂や松平春嶽らは、大久保利通と岩倉具視の主張に強く抵抗した。
公家たちはどうしてよいかまったく判断できない状態だった。
大久保利通と岩倉具視が、主張を一歩も曲げず、主張通りの決定に
持ち込めたのは、別室から、この会議を監視していた西郷隆盛の
「反対者は短刀で片付ける」と平然と述べた言葉であった。
明治天皇の前での流血事件も辞さないというのが西郷隆盛の
強い意思であつた。公家たちは、一も二もなく、全面賛同した。
薩摩藩に完全占拠されていた京都御所内の会議である以上、
山内容堂や松平春嶽らも、最終的には大久保利通の主張に従う
他なかった。
この会議で、京都守護職の会津藩主・松平容保と京都所司代の
桑名藩主・松平定敬の罷免と帰国命令が決定された。
流血事件は起きなかったが、王政復古クーデターは、クーデターに
ふさわしく、武力を背景として始まり、武力の意思で決着がついた。
以上
関連サイト:
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参考文献:
医師ウィリスの会津戦争見聞記
『生きる場を広げるため学び続ける仕組みを創れ』
未経験のこと、すなわち、今までやったことのないことに挑戦すると、
失敗はつきものである。従って、うまくいかないことや、挑戦失敗を、
苦にしたり、悔やんだり、悩んだりすることはない。
しかし、挑戦失敗を教訓にして、学び続けることは必要である。
学び続けることによって新しく蓄積されていく知識・情報が生きる場を
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2015年12月 文化出版局 発行
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