会津戦争 母成峠の戦い                2018年3月
& 安積(あさか)疏水の恩人、
  ファン・ドールン物語




1868年10月(旧暦・8月)の時点で、新政府において、戊辰戦争全体の戦略を
指導していたのは、長州藩の大村益次郎であった。大村益次郎は、会津若松城を
攻撃する前に、先ず、仙台藩、米沢藩、長岡藩など会津盆地周辺の諸藩を降伏させ、
その後、会津若松城を攻撃するという戦略であった。

これに対して、薩摩藩の伊地知正治、川村純義、土佐藩の板垣退助、谷干城は、
11月(旧暦・9月)になれば雪が降る。それ前に、10月(旧暦・8月)中に、
会津若松城を攻略しなければ、会津戦争は長引き、新政府軍の犠牲・損害は、
雪だるま式に膨れあがると、短期決戦を主張した。

ならばということで、伊地知正治、川村純義、板垣退助、谷干城が母成峠突破の
指揮官に任命され、短期決戦の成功を目指すことになった。


概算距離:
本宮市−喜久田 約10キロ、喜久田−母成峠 約20キロ、
母成峠−沼尻高原−猪苗代 約16キロ、猪苗代−十六橋 約8キロ





          
  





1868年10月6日(旧暦・8月21日)、濃霧の中、伊地知正治、川村純義、
板垣退助、谷干城が指揮する新政府軍2,600人は3隊に分かれて
母成峠を目指した。

新政府軍は伊地知正治と川村純義の薩摩藩兵と、板垣退助と谷干城の
土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵、佐土原藩兵、大垣藩兵、大村藩兵を
加えて6藩の藩兵で構成されていた。




母成峠の旧幕府軍守備隊は、大鳥圭介指揮のもと、母成峠から
山麓にかけて築いた3段の台場陣地と勝岩の台場陣地に布陣し
総勢800人であった。旧幕府伝習隊400人、会津藩兵200人、及び
仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組等200人という構成であつた。

戦闘は午前9時頃からの砲撃戦で始まった。
先ず木砲のみの第1台場陣地があっけなく陥落した。
旧式大砲2門を置いた第2台場陣地も新政府軍のアームストロング砲攻撃、
長州藩兵の側面攻撃で炎上、陥落した。

参考事項:
アームストロング砲は佐賀藩が英国から購入した当時最新鋭の鋼鉄製
後装施条大砲であった。

上野の彰義隊攻撃に使用された大砲は、2門の6ポンド野戦砲であった。
砲身長1.34ートル、口径6.35センチで、その性能は、当時の日本では
いちばん優れていた。佐賀藩は、当初、この大砲を彰義隊攻撃に使用するのを
厭がっていた。「威力猛烈なるを以て攻城・海戦の用に充つべきもの」であり、
野戦で使うには殺傷力がありすぎる。敵とはいえ、同じ日本人を皆殺しするのに
用いるのは忍びないということであった。

アームストロング砲の
射程はらくに3キロあったという。

上野の彰義隊陣地は、佐賀藩砲兵隊陣地の本郷台からまっすぐ前方
約1キロにあり、標高もほぼ等しい。格好の砲撃目標であった。

アームストロング砲の砲撃を受けた上野の彰義隊陣地では悲惨な光景が
ひろがった。それは、まさに近代戦争の小戦場だった。

以下は彰義隊隊員の述懐である。

「敵軍の砲撃は百千の震震の一時に落つるが如し。畳の胸壁、軽く打ち抜かれぬ。
我が兵も、宛然、矢の的を貫ぬくがごとき敵軍の砲弾に打ち抜かれ、
看るみる、算を乱して打ち燈さる。

然れどもこれを、鼻き、退く、暇なく、屍は碁子を算ししが如く、
轟き叫ぶ惨状は修羅の巷にさも似たり。

見上ぐれば老くだあたか樹の梢は、大砲の為に打ち擢かれ、丈余の枝の
めりめりと音して落ち来るさまは、恰も山岳けつこんの崩るるにかと疑はる。

或は砲弾に打ちちぎられし誰が肉塊にか飛んで樹幹に貼付し、血痕淋滴たる
その苦戦知るべきなり。死傷者、手づかみにされた碁石のように散乱。
あるいは、盤をひっくり返された将棋の駒のごとし。」
(丸毛利恒『彰義隊戦争実歴紗』)




昭和戦争時、米国海軍は
当時の日本海軍には無かった
最新鋭のレーダーを持っていた。

空中の戦闘機に無線電話で作戦指令を行う空中戦闘システムと
それを動かすシステム要員を持っていた。



43年に完成した米国の最新鋭戦闘機ヘルキャットの性能と
防護力は日本のゼロ戦をはるかに超えるものであった。

しかもVT信管と呼ばれる対空砲火の威力を飛躍的に高めた機能を
備えた防御兵器で、米国戦闘機の攻撃の網をくぐり抜けた日本の
艦隊攻撃機をことごとく撃墜した。

当時の【無知で愚か】であった旧日本帝国海軍の最高指導者たちと、
高級参謀たちは、誰一人として、これらの米国海軍の最新装備に
ついての情報を持っていなかった。



勝岩の台場陣地も土佐藩兵に占領される。

追いつめられた旧幕府軍は、頂上に残った第3台場陣地で、
旧式大砲5門をもって反撃したが、新政府軍は、占領した第2台場陣地から、
新式大砲20門で第3台場陣地を攻撃した。さらに、濃霧の中、新政府軍は、
石筵(いしむしろ)部落住民に誘導され第3台場陣地の背後の間道からも攻撃した。
会津藩軍は、さしたる理由もなしに石筵(いしむしろ)部落48戸を焼き払った。
このため石筵
(いしむしろ)部落住民は会津藩軍を深く恨み、進んで新政府軍に協力した。

第3台場陣地の前後から攻撃を受けた旧幕府軍は大混乱に陥った。
敗色が濃くなるに及び、会津藩兵は、伝習隊を置き去りにして逃走した。
やがて伝習隊も壊滅、潰走した。












旧幕府軍伝習隊隊長の大鳥圭介は、命からがら山中に逃げるのがやっとで、
会津若松城への敗戦報告、猪苗代城への敗戦報告すらできなかった。





わずか1日で母成峠防禦陣地を攻略した新政府軍は、
兵を休ませることなく、石筵(いしむしろ)部落住民に誘導され、
濃霧の中、夜を徹して猪苗代城へ進撃した。

会津藩の猪苗代城守備隊は抵抗することなく遁走した。

10月7日(旧暦・8月22日)早朝に猪苗代城に到着した新政府軍は、休むことなく、
そのまま、会津若松へ向けて進撃を続けた。







新政府軍の十六橋占拠

母成峠防御陣地陥落の情報が会津若松城の会津藩軍本営に
もたらされたのは1868年10月7日(旧暦・8月22日)午前5時であった。

当時城内にいたのは、松平容保、田中土佐、神保内蔵助、菅野権兵衛、
梶原平馬、佐川官兵衛であった。しかし、元来、情報音痴・戦略音痴の、
これら会津藩の最高幹部たちは、ただただ驚くばかりで、すぐには、
有効な対策は思いつかなかった。

もっとも、この時、会津若松城内には有力な戦闘部隊がいなかった。
有力な戦闘可能な部隊は、越後口、日光口、白河口で新政府軍と戦闘中で、
城内には、傷病兵、老人兵、少年兵と、長岡藩・桑名藩の残兵しか
残っていなかった。

会津藩は、他の諸藩も同様であるが、武士階級のためだけの藩であった。

領民に苛酷な税金を課し、苛斂誅求した藩であった。

会津藩に進攻するにあたり、新政府軍は周辺の村々から、大量の
人夫と馬と軍資金を徴発したが、領民たちはこの事を会津藩に知らせずに、
両手をあげて新政府軍を歓迎し、これに応じた。

商人たちは、新政府軍を「官軍さま」と呼び、会津藩軍のことは「会賊」と
呼び、会津藩に対する明確な敵意を露わにしていた。

従って、長州藩のように、領民皆兵の奇兵隊を創って、
郷土を防衛するという発想はひとかけらもなかった。

ああでもない、こうでもないと、迷いに迷ったあげく、昼頃になって
ようやく、会津藩幹部たちは、急遽、城内の動ける者すべてをかき集めて
会津若松防衛隊を編成し、次のような防衛方針をたてた。

@佐川官兵衛指揮の会津若松防衛隊は、直ちに十六橋(じゅうろくきょう)
  地区に出動し、十六橋(じゅうろくきょう)を撤去し、戸ノ口原、大野原に
  防御陣地を築いて防戦する。
A菅野権兵衛は、残存桑名藩兵を率いて日橋川の橋梁の破壊と、
  同地区防衛に当たる。

一方、10月7日(旧暦・8月22日)早朝から、台風による豪雨の中を、
川村純義指揮の薩摩藩兵を主力とする新政府軍は戸ノ口の十六橋へ
猛進した。そして、夕刻、ついに十六橋(じゅうろくきょう)に到達した。


















その頃、佐川官兵衛の会津若松防衛隊は石工を使って十六橋(じゅうろくきょう)
破壊中であった。一部の橋板は除去されていた。

到着した新政府軍は、橋破壊工作隊に猛烈な銃撃を浴びせて、難なく
橋から追い払った。対岸にいた会津若松防衛隊も不意をつかれて潰走した。

川を越えて約800メートルの地点に新政府軍は前進陣地を構築し、
短時間で十六橋(じゅうろくきょう)の修復を成し遂げた。

新政府軍は10月7日(旧暦・8月22日)夜には戸ノ口原に進出した。

佐川官兵衛指揮の会津若松防衛隊は、戸ノ口原、大野原に
防御陣地を築いて防戦したが新政府軍に撃破される。

新政府軍は休むことなく夜を徹して進撃し、
10月8日(旧暦・8月23日)午前10時に、ついに会津若松城下へ突入した。


不毛の安積(あさか)原野を、
農工一大産地の郡山盆地に変えた

近代日本・土木工学の恩人
ファン・ドールン物語







植松三十里:『ウェッジ 2015年6月号 74頁〜76頁』
著名な歴史時代作家、幕末明治維新期の優れた人物描写小説で高い人気

猪苗代湖の北西端に、十六橋水門という美しい堰がある。
その近くに、ファン・ドールンの巨大な銅像が立っている。

終戦の前年1944年9月、月夜の晩、水門管理事務所の所長の
五十嵐正一と、彼の信頼する村人15人は、悲壮な覚悟で、
高さ2メートル、重さ2トンの、ファン・ドールンの巨大な銅像を、
2時間かけて台座から降ろし、裏山に運び、土中に隠した。

ファン・ドールンの銅像は、敵国オランダ人の銅像として、
近いうちに軍需工場に運ばれて、溶かされる運命だったのだ。

銅像が消えたことは、すぐに発覚した。五十嵐正一と村人たちは、
冷酷非道で悪名高い、旧大日本帝国・陸軍憲兵の執拗な取り調べを
受け。しかし、五十嵐正一たちは、「供出しようと台座から降ろした
当夜に盗まれた」と言い張り、陸軍憲兵の苛酷な取り調べに耐えた。

戦争が終わって掘り起こされた銅像は足元が壊れていた。
そこをコンクリートで修復して、村人たちは、銅像を台座に戻した。
その傷も、五十嵐正一と村人たちの、ファン・ドールンに対する
感謝の念と、銅像を守った勇気の証になっている。

ファン・ドールンは、明治初頭に開削された安積疏水の恩人だ。
彼の役目は計画案の最終決定であり、設計は日本人が担当した。
それでも、五十嵐正一たちが、陸軍憲兵の探索をはねのけてまで、
彼の銅像を守った理由は何だったのか。

ファン・ドールンはオランダ東部の小さな村で、牧師の息子として
生まれ育った。ユトレヒトの工業学校を卒業後、土木技師を務めながら
現在のデルフト工科大学で学んだ。成績は優秀で、国家資格を得て
技術官僚として出仕。その後、オランダの植民地だったインドネシアで
鉄道建設に関わり、帰国後は運河の開削などに力を発揮した。

オランダは、江戸時代、長崎貿易による友好関係があり、
また、国土が海面より低く、治水や築港の最新技術に定評があった。
そこで、明治政府は、オランダに注目、土木関係の技術者を招聘した。
その招聘に応じたのがファン・ドールンであった。

ファン・ドールンは、明治5年、35歳の時に日本に来た。
それから3年間、利根川、信濃川、木曽川などの大河川を調査し、
治水対策の大筋を示した。大阪港の築港のために、オランダから
新たに築港技師を呼んで、事業を推進した。

ファン・ドールンは、日本人技師たちに自立を促し、土木資材は、
できるかぎり日本の国産品を使った。セメントすらも、自ら材料を
探して、国産化の道を模索した。ファン・ドールンは、日本の近代
工業化に大きく貢献した御雇外国人として高い評価を得た。
明治8年にいったん帰国したが、翌明治9年に再来日して、
安積疏水に関わることになった。

郡山市は、今は、東北新幹線の駅があり、福島県内では、
県庁所在地の福島市をしのぐ人口を有し、福島県経済の中心地だが、
江戸時代には、奥州街道の寂しい一宿場町にすぎなかった。

当時、郡山市周囲は、安積原野(あさかげんや・現・郡山盆地)と呼ばれ、
阿武隈川が貫く大きな盆地ながら、ゆったりとした勾配の丘陵地が続く。
そのため水の便が悪くて耕作に適さず、広大な、不毛の原野として
放置されていた。

安積原野(あさかげんや・現・郡山盆地)は、旧二本松藩の領地であった。
明治6年、廃藩置県で禄を失った旧二本松藩士28戸が入植した。
彼らは、開成社という組織を発足させ、入植者は100戸にまで増えた。
しかし、安積原野開墾は、困難を極め、入植者たちの暮らしぶりは
惨めであった。

明治9年、大久保利通が安積原野を視察した。明治天皇の東北巡幸が
決まったので、そのための下見であった。

大久保利通は、開成社の人々の熱意を知り、開墾を促進するための
国家プロジェクトとして安積疏水の開削を決定した。

安積原野の西には、満々たる水をたたえる猪苗代湖がある。
猪苗代湖の標高は郡山よりも二百メートル高い。そこから水を引くことが
できれば、安積原野は広大な耕作地に変わる。




当時、戊辰戦争の勝ち組に属した西国諸藩の士族たちも、廃藩置県により
禄を失って、不満が高じており、各地に内乱の危機があった。
安積原野の開拓は、困窮旧士族たちの救済事業としても期待できた。

大久保利通の内務省により安積疏水建設計画案が練られた。そこには、
避けて通れない難題があった。猪苗代湖に流れ込む河川は30数本あるが、
流れ出る川は、一本しかなかった。安積原野の反対側、猪苗代湖の北西端に
位置する日橋川だけだ。日橋川は会津を通り、阿賀野川に合流して、
日本海に注ぐ。戦国時代、蒲生氏郷が会津に入って統治を始めて以降、
猪苗代湖−日橋川の水は会津盆地で活用されてきた。

以来、猪苗代湖の水は会津盆地のものだった。会津盆地の人々にしてみれば、
猪苗代湖の水が太平洋側に流されると、日橋川が枯れるという懸念があり、
安積疏水建設計画案に対する反対意見が強かった。

会津は、戊辰戦争で最大の被害を蒙った土地だけに、会津藩を
ぶっ潰した明治新政府の計画には、強い不信感があった。

さらに不幸が襲った。安積疏水建設計画の発案者だった大久保利通が、
東京の紀尾井坂で襲われて死亡したのだ。これで、安積疏水開削の夢は、
ついえるかと思われたが、安積疏水の重要性は理解され、
安積疏水建設計画は伊藤博文に引き継がれた。
伊藤博文はファン・ドールンの計画だということで引き受けたのであった。

そして、ファン・ドールンが呼ばれた。彼は、明治11年11月1日から
6日まで、5日間で現地調査して、最終日に日本人担当官などに調査結果を
伝えた。さらに、東京で詳細に計算し直してから、計画を内務省に提出した。

ファン・ドールンによって、会津盆地と、安積原野の両方を潤すための
総水量が明らかとなった。必要な水路の、幅や、深さや、ルートが提案された。
十六橋水門による猪苗代湖湖水の管理方法も、具体的に示された。

水田に大量の水が必要になるのは、田植え前で、時期が決まっている。
その際、会津と安積の両方に配水すると、当然、猪苗代湖の水位が下がる。
そのままにしておくと、日橋川の川底よりも湖面の方が低くなって、
会津側に水は流れなくなる。そこで日橋川の川底を60センチ掘り下げる。
そうすれば、湖面の水位が低くなる時期でも、日橋川の流れは止まらない。

同時に、水門を設けて、湖の水位を上げる。すると水位の上昇分と、川底を
掘り下げた深さを合わせて、水位1メートル分の膨大な量の猪苗代湖湖水を、
会津と郡山の両方で活用できることになる。

すでに、利根川や信濃川や大阪港などで実績を上げていたファン・ドールンの
計画だからこそ、会津の人々も信用して、計画を承諾したのだった。
ファン・ドールンの歴史的な功績といえる。

安積疏水のルートについては、すでに内務省で複数案を用意していた。その中で、
ファン・ドールンは、トンネルが最短ですむ中山峠のルートを選択した。

猪苗代湖の東岸に取水口を設け、そこから、現在、磐越西線や越後街道が通る
小さな平野に、西から東へと水路を掘り、山にぶつかったらトンネルを通す。
現在の猪苗代町と郡山市の市境に当たるのが中山峠だ。

トンネルが安積原野側に抜けたら渓流に合流させる。安積原野に出てからは、
疏水の幹線を南進させつつ、東向きに何本も分岐させて、安積原野全体に
配水する計画であった。

ファン・ドールンの計画に沿って、日本人技師たちが設計図を引いた。
翌明治12年10月の起工式には、当時の、東京から往復1週間という
時間距離にもかかわらず、伊藤博文と松方正義が参列した。明治新政府の
意気込みは大きかった。

特に難航したのは全長585メートルのトンネル工事だった。当時、当然、
手掘りであり、途中、通気ロを設けつつ、湧き水や岩盤と戦いながら掘り進んだ。

安積疏水は、幹線が52キロ、分岐路は78キロに及んだ。
工期は、約3年、のべ85万人の労力と、40万円を超える費用を投入して、
明治15年10月に完成した。

岩倉具視や松方正義などの明治新政府高官たちが見守る中、通水式が行われ、
地元は大きな喜びに湧いた。

明治31年には、安積疏水には、新たな活用法が見出された。トンネルの
郡山側出口・熱海町には、五百川までの落差があり、滝ができていた。
この滝を利用して、沼上発電所が建設されたのだ。

沼上発電所建設は、郡山での製糸場の建設計画がきっかけだった。
当時の製糸場では、石炭による蒸気機関が用いられていたが、郡山製糸場は
動力源に水力発電を使用することになった。沼上水力発電所の恩恵を受けたのは
製糸場だけでなかった。以後、電気を利用する工場が集まり、郡山市は、
農業と工業の両面で発展を遂げていった。そして、昭和6年、電力関係者の尽力で、
ファン・ドールンの銅像が十六橋水門の脇に立てられた。

ファン・ドールンがオランダに帰ったのは、明治13年2月だった。その後も
彼は、オランダ国内外での土木事業に関わり、生涯、妻帯しなかった。

彼はオランダ帰国後、日本政府から、勲三等旭日小綬章を授賞された。
近代日本の土木工学の進歩発展を導いた彼の功績は不滅であるが、
さらに、彼の生涯は、実に、多くの豊かさを世界各地に遺した素晴らしいものであった。






































会津藩にとって、母成峠防御陣地が、わずか1日で突破されたことは
予想外のことであった。

母成峠防御陣地を突破された10月6日(旧暦・8月21日)時点では、越後口や
日光口では、会津藩軍と新政府軍との戦闘が続いていた。

会津若松城下の悲劇

10月8日(旧暦・8月23日)午前10時に、
新政府軍に、ほとんど無防備状況にあった会津若松城下に突入されたことは、
会津藩に、筆舌に尽くしがたい、数多くの悲劇を引き起こした。

会津藩の最高幹部である田中土佐、神保内蔵助は市街戦の陣頭指揮をした。
しかし、各所で新政府軍に敗れ、2人は城に戻ることなく城下で自殺した。

西郷頼母の家族21人を始め、戦闘能力がない数百人の武士家族の
婦女子、乳幼児、老人たちは、こぞって一家心中(集団自殺)した。

会津藩軍、新政府軍の双方が、市街各所で放火した。
新政府軍の殺戮、略奪、暴行等の残虐行為は凄まじかった。

城西の日新館野戦病院は火に包まれ、多少なりとも動けるものは
(ほり)に身を投じて自殺した。身体の不自由な患者はことごとく焼死した。

武士家族以外の一般市民たちも、市街戦や火事や新政府軍の殺戮のため
多数死亡した。

新政府軍の残虐行為や、火事・戦闘を避けて避難中、
増水した川におちて溺死した者なども数知れずであった。

参考資料:星亮一著 『会津落城』 第iii頁 中公新書 2003年12月発行













  会津若松城から見た小田山




新政府軍は、会津若松城を見下ろす小田山に、瞬く間に、砲兵陣地を構築した。
佐賀藩が誇る、当時、最新鋭のアームストロング砲が据え付けられた。
会津若松城は、毎日、アームストロング砲の2,000発もの凄まじい砲撃に見舞われた。

              









京都御所襲撃犯の片割れ(犯人の一味)
木戸孝允サカウラミ
(理不尽な恨み)と世良修蔵の悲劇

京都御所の蛤御門(筆者撮影)


1864年の長州藩の不法な京都御所襲撃(蛤御門の変)によって、
木戸孝允は深く信頼していた久坂玄瑞をはじめ多くの同志を失った。

この不法な襲撃を鎮圧したのは会津藩と薩摩藩である。
以来、木戸孝允は会津藩と薩摩藩を恨み・憎み続けた。しかし、これは
まぎれもなく、木戸孝允のサカウラミ(理不尽な恨み)である。

その後、【目的のためには手段を選ばず】で、木戸孝允は、倒幕のために、
やむを得ず薩摩藩とは提携した。薩摩藩に対する恨み・憎み分が減っただけ、
会津藩に対する木戸孝允の恨み・憎み=サカウラミ(理不尽な恨み)は倍加していった。

世良修蔵は木戸孝允の忠実な子分であった。

木戸孝允の「憎い、憎い、会津藩の藩主・松平容保をはじめとする
会津藩の武士たちを全部ぶっ殺して、同志・久坂玄瑞たちの恨みを晴らす」
という方針を、現地で実行することが自分の使命であると考え、
それを実行しようとしたわけである。

その結果、世良修蔵はなぶり殺しにされ、遺体は・・・・・・・・・・

世良修蔵は、会津藩にサカウラミ(理不尽な恨み)して、会津報復の鬼と
化していた木戸孝允の身代わりに惨殺されたことになる。

白石市の陣場山上にある世良修蔵の墓所には、木戸孝允が寄進した
石灯籠がある。

石灯籠には「明治9年6月23日、明治天皇の従者としてこの地に赴いたので、
世良氏の霊を 弔うためにこれを建立した。従三位 木戸孝允」と刻まれている。

木戸孝允は当日の日記に次のように書いている。

「行在所から出て、そこから世良修蔵の墓に参詣した。行在所のはずれにある
小高い山に世良修蔵の墓はあった。慶応4年の春、奥羽諸藩を速やかに鎮撫し、
その方向を定めようと京都の河原町の旅宿において、世良修蔵にいろいろと
指示を与えた。私の指示を受けて、世良修蔵は奥羽鎮撫総督府の参謀として
奥羽に出発した。そして、この地で難にあって斃れた。私は、世良修蔵に
与えた私の指示を思い出す度に、嘆き悲しまずにはいられない。」

さらに、木戸孝允は、世良修蔵のために和歌を詠んでいる。

「あなあはれ 涙も袖にみちのくの しのぶにたへず 君をおもへば」

木戸孝允のサカウラミによって、多くの会津人が死に追いやられた。
さらに、会津報復の鬼・木戸孝允は、会津戦争終了後は、今度は、自分に
反旗を翻した長州藩の仲間たちや奇兵隊隊士たちを
容赦なくぶっ殺している。

世良修蔵よりも、会津報復の鬼・木戸孝允に殺された、おびただしい数の
犠牲者の方が、より
【あな哀れ】である。

世良修蔵の墓は、供養する人もおらず、荒れ果てているとのこと。

明治新政府に対して、全面降伏を書面で申し入れ、奥羽鎮撫総督が
受け入れ態度を示したにもかかわらず、参謀・世良修蔵は、書面を
東北諸藩の藩主を含む代表者たち全員の面前で破り捨てて、

「会津藩の藩主以下、武士全員をぶっ殺せ」と傲慢無礼な態度で
命令した。あまりにもの、一方的な傲慢無礼な態度に憤激した若者たちに
よって参謀・世良修蔵はなぶり殺しにされる。

参謀・世良修蔵が惨殺されたことが契機になって、明治新政府と
東北諸藩との全面戦争が始まった。

「全面戦争の敗者」として、その後、辛い人生を生きざるを得なかった
会津の人々の世良修蔵に対する憎しみ恨みは今でも強い。

世良修蔵が東北諸藩に対して行なった非道な行為のことを考えれば、
世良修蔵に対する憎さ恨みをつのらせてしまう会津の人々の気持ちは
当然である。

歴史に「IF」は禁物といわれる。しかし、もし、世良修蔵が、木戸孝允の
指示に背いて、東北諸藩と平和的に話し合う道を選んでいたならば、
会津の歴史は違った様相を呈していたはずである。

会津藩にサカウラミ(理不尽な恨み)して、会津報復の鬼と化していた
木戸孝允の身代わりとして惨殺され、白石市の陣場山に眠る世良修蔵は、
今、何を考えながら東北の山野を見ているのだろうか。

「松平容保が、逃げの名人、徳川慶喜を見習って、さっさと、出羽三山にでも
逃げ込んで、謹慎していれば、おれも、なぶり殺しにされ、遺体を・・・・・・」


あな哀れ もののふのみち つらぬきし 会津の武士たち 飢えに苦しむ


情報音痴であった松平容保

松平容保は、孝明天皇が、突然、崩御され(毒殺され)
将軍・徳川慶喜は倒幕派に降伏して徳川幕府は瓦解した後でも、
「孝明天皇と徳川幕府に忠誠一途、薩長憎し」であった。

松平容保は、あまりにも情報音痴であった。
広い視野での「聞く、調べる、尋ねる」に弱く、視点を変えた意見の考慮、
数字に基づく検討、立場を変えて考えてみる等を怠った。

松平容保は、誠実で、まじめで、忠誠心厚く、まさに、主君に対する忠誠心を
何よりも重視した幕藩時代の【武士道】の具現者であった。

しかし結果から見ると、不幸なことに、広い視野での情報が少なく、
若かったこともあって、自分とは視点が違う幹部の意見や、反対意見を検討して、
意思決定するという姿勢を欠いた専制主君(専制支配者)であった。

なによりも重大な欠点は【情報軽視、さらには、情報無視】であった。

幕末当時、京都という最もレーダー的情報収集に適した都市に
千数百人もの藩士を駐在させ、京都御所警備という朝廷の実態研究に
最適の任務に就いていたにもかかわらず、松平容保は情報音痴でありすぎた。

松平容保は、自藩についても、味方についても、敵についても、
朝廷についても、幕府についても、国内情勢についても、国際情勢についても、
あまりにも知らなすぎた。


岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、徳川慶喜、松平春嶽、勝海舟のように
広い視野で考え、大きな変化の重なり合いを視点を変えて観察し、
さまざまな謀略を使って、柔軟にかつタイムリーに対処するということが
できなかった。

複数の人脈を生かして、とことん相手と交渉するということも
得手ではなかった。

なによりも重大な欠点は【情報軽視、さらには、情報無視】であった。

結果から言うならば、松平容保は、【逃げの名人】であった徳川慶喜
松平春嶽から、真剣に学ぶべきであった。

聡明で、豊富な情報を得ていた徳川慶喜は、
@岩倉具視の孝明天皇毒殺と
A西郷隆盛の薩摩藩軍の京都御所占領と
B鳥羽伏見の幕府軍敗戦の
三つから、反幕府軍による軍事革命が、間違いなく、大成功すると確信した。

そして、軍事革命大成功に付随して起こる悲惨な事態、残酷な結果を
減らすためには、どうすればよいかを熟慮したと思う。

その結果、大嫌いであった勝海舟を大抜擢して、政治の全権を委ね、
事態の収拾を図ったのである。

その後の歴史事実は、この徳川慶喜の決断が間違っていなかったことを、
見事に、証明している。

当時の国際情勢と欧米諸国の軍事力についての情報を
松平容保が理解しており、
京都御所の外には出たこともなく、海を見たこともなく、
松平容保以上に
情報遮断されていた孝明天皇の攘夷思想が、
国際情勢無知に基づく非現実的な、荒唐無稽なものであることを、
松平容保が理解していたならば、悲劇は避けられたかも知れない。

注:@長州藩における高杉晋作の奇兵隊革命の成功、A孝明天皇の急死
(岩倉具視によって毒殺されたといわれる)、B西郷隆盛の薩摩藩軍の
京都御所占領という三つの大事件によって、幕末の政治情勢は急変した。


薩摩藩は、1863年8月、生麦事件の報復として鹿児島湾に侵入してきた
英国艦隊7隻に攻撃された。鹿児島城下町を砲撃された。集成館工場群、
民家350戸、士族屋敷160戸、寺院4か所など市街地の約1割が砲撃で
焼失した。

ほとんどの砲台が破壊された。琉球との交易に使用していた輸送船3隻、
和船2隻が拿捕され焼き払われた。英艦のアームストロング砲炸裂弾と、
日本の砲丸投げ大砲との破壊力の差を実感した。
しかし、軍人死者は、英国11人に対し、薩摩5人であった。

薩摩藩の指導者と現場指揮官たちは彼我の軍事力の圧倒的な差を実感した。



岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通の
権力掌握クーデター

(王政復古クーデター  3職会議

1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還後、
徳川慶喜は公武合体・雄藩連合による新しい政治体制づくり工作を
進めていた。

しかし、徳川慶喜を完全排除して、薩摩藩主導で権力を掌握することが
近代国家づくりに絶対必要と考えていた西郷隆盛と大久保利通は、
岩倉具視と組んで、着々と権力完全掌握戦略を進めていった。

1867年11月20日、先ず、薩摩藩藩主の島津忠義が約3,000人の
藩兵を率いて京都に到着した。次いで、長州藩家老の毛利内匠が
約1,200人の藩兵を、芸州藩は世子の浅野茂勲が約300人の藩兵を
率いて京都に到着した

大久保利通は岩倉具視と連携して、明治天皇の外祖父で、
明治天皇が頼りにしている中山忠能を味方に抱き込むことに成功した。

1867年12月8日、京都御所において、摂政・二条斉敬をはじめとする
公家たちと、京都滞在中の有力大藩の藩主たちが集まって、政治協議が
行われた。この政治協議は、夜を徹して行われ、翌9日まで続いた。

長州藩藩主父子の朝敵扱いが取り消された。岩倉具視の1862年京都
追放処分も取り消され、岩倉具視は旧職に戻った。三条実美(さんじょう
さねとみ)
ら長州派公家の1863年京都追放処分も取り消された。

1867年12月9日午前9時、薩摩藩の藩兵に、芸州藩、越前藩、尾張藩、
土佐藩の藩兵が加わって、京都御所内から、会津藩と桑名藩の藩兵を
すべて追い出してしまった。


本格的な戦闘装備の3,000人もの薩摩藩の大部隊を見て、会津藩と
桑名藩の藩兵は、まったく抵抗せずに、京都御所から退去して二条城に
移った。

薩摩藩による京都御所完全占領を受けて、西郷隆盛・大久保利通の
権力掌握クーデターの仕上げが行われた。

先ず、16歳の、政治的判断力ゼロの明治天皇が、学問所で、
皇族、公家、有力大藩藩主たちに対して【王政復古】の大号令を下した。
この場に徳川慶喜と松平容保は完全排除されていた。

この明治天皇の大号令の原稿は、大久保利通と岩倉具視が相談し、
国学者の玉松操の協力を得て作りあげたものであった。

続いて、明治天皇は、大久保利通と岩倉具視の原案通りに、
新政府の人事を承認した。



ちなみに、16歳の、政治的判断力ゼロの明治天皇は、
即位したが元服していなかった。朝廷にカネがなかったためである。
そのため、明治天皇は、子供の髪型と服装であった。表座敷には
出られない髪型・服装のため、終日、女官たちと暮らしていた。
鳥羽伏見の戦いの時には、大砲の音を聞いて気絶されたとのこと。
(小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ−明治維新を考える』
 中公新書
1316 1996年8月発行 第57頁〜第58頁)

総裁・議定・参与という内閣3職が新設された。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は小松宮嘉彰親王、山階宮晃親王、
中山忠能、三条実美、中御門経之の公家、島津忠義、徳川慶勝、
浅野茂勲、松平春嶽、山内容堂等の有力大藩藩主であった。

岩倉具視は副総裁に就任し、名実共に公家勢力のトップに立った。

西郷隆盛と大久保利通は参与ということになったが、実質的には、
岩倉具視を通して、
新政府を完全支配することになった。

1867年12月9日午後6時、初の3職会議が開かれた。



大久保利通と岩倉具視は、ここで徳川慶喜の辞官・納地を決定して
一挙に、徳川幕府の息の根を断つつもりであった。

大久保利通が熱弁をふるった。大久保利通は、寡黙な人だったと
いわれるが、このときぼかりは、別人のようであった。

岩倉具視は、徳川幕府の失政を並べ立てた。徳川幕府は独断で
開国した。多数の尊皇の志士たちを殺害したと徳川幕府厳しく非難した。

このような重要な会議には、徳川慶喜も参加させるべきであると主張した
山内容堂らの意見に対して、岩倉具視は、徳川慶喜が本当に反省して
いるのなら、内大臣を辞職し、200万石の幕府直轄領地を朝廷に献納して、
誠意を示すべきである。会議参加はそれからのことであると反論した。

大久保利通は、さらに激烈で、朝廷は、直ちに、徳川慶喜に、内大臣罷免、
幕府直轄領地200万石献納を命じるべきである。この命令を徳川慶喜が
受け入れたら会議への参加を許すが、もし命令を拒絶する気配がみえたら、
断乎、徳川慶喜を討伐すべきであると発言した。

山内容堂や松平春嶽らは、大久保利通と岩倉具視の主張に強く抵抗した。
公家たちはどうしてよいかまったく判断できない状態だった。

大久保利通と岩倉具視が、主張を一歩も曲げず、主張通りの決定に
持ち込めたのは、別室から、この会議を監視していた西郷隆盛の
「反対者は短刀で片付ける」
(山内容堂や松平春嶽らをオレが刺し殺す)
と平然と述べた言葉であった。

明治天皇の前での流血事件も辞さないというのが西郷隆盛の
強い意思であつた。公家たちは、一も二もなく、全面賛同した。
薩摩藩に完全占拠されていた京都御所内の会議である以上、
山内容堂や松平春嶽らも、最終的には大久保利通の主張に従う他なかった。

この会議で、京都守護職の会津藩主・松平容保と京都所司代の
桑名藩主・松平定敬の罷免と帰国命令が決定された。

流血事件は起きなかったが、王政復古クーデターは、クーデターに
ふさわしく、武力を背景として始まり、武力の意思で決着がついた。



鳥羽伏見の戦い


鳥羽伏見戦時の旧幕府軍は、太平洋戦争時の旧日本陸海軍とまったく同じく、
総司令部不在、情報不在、戦略不在であった。最新武器・兵士数では、薩長軍に
勝っていたのだが! 2日目、天の意思か、強い北風が吹き、風下の旧幕府軍は
最新銃を生かせなかった。3日目、錦の御旗なるものが出て、日和見していた
中立諸藩軍が、薩長軍に合力。当日夜、前将軍・徳川慶喜は敵前逃亡した。
敗戦後、勝海舟の必死の努力で、前将軍・徳川慶喜は死刑を免れた。



幕末維新時の重大事件

1.ハリス米国総領事と徳川幕府代表・
  岩瀬忠震大目付・井上清直下田奉行との
  日米修好通商条約交渉



               



ハリス米国総領事の天城越え


関連サイト:Shimoda Story

1857年11月23日午前8時、ハリスとヒュースケンの一行は下田を出発して
江戸へ向かった。翌24日、2日目、一行は伊豆半島の中央にそびえ立つ
天城山脈越えに挑戦した。天城越えは、彼らが初めて経験する苦しい旅であった。

この苦しい天城越えで、ハリスとヒュースケンは、自分たちが、
日本の各都市からあまりにも隔絶された僻地にいたことを実感した。

ハリスとヒュースケンは馬をおりてノリモノに移らざるを得なかった。

一行は深い地溝の上にある険しい小道を登る。時々は、小道がほとんど
垂直な勾配を辿っている。正真正銘の階段のように岩を切り刻んだ階段状の
ところがある。小道の勾配が35度の所もあった。

ヒュースケンは、「どの小道も、とても狭いので、4人並んで歩くことが
できなかった。また、小道の曲がり角はとても鋭いので、私たちのノリモノは
ほとんど通り抜けることができないほどであった」と日記に書いている。

ハリスのために特別に作られた巨大な駕籠は、22フィートの担ぎ棒が
ついていた。駕籠担きたちはジグザグ小道を曲がりくねって巧みに担いで
いった。

駕籠の中のハリスは、高い絶壁の上に吊り下げられている思いをする時が
たびたびあった。

やっとのことで、一行は、蘭科植物のまつわりついた杉、松、および樟の木の森林
から脱け出した。天城の頂上(峠)に着いたのである。

ハリスとヒュースケンの眼前に、伊豆半島、相模湾、駿河湾の絶景が
広がっていた。伊豆半島の先端には二人がいた下田の町が見えた。
相模湾には人の心をじらす大島が見えた。







天城峠からの降り道についてはハリスとヒュ−スケンの感想は異なっていた。

ハリスは「降り道は、登り道ほど、険しくなかった」と感じた。

ヒュースケンにとっては、降り道は、登り道より、ずっと悪い状態であった。

ヒュースケンの足もとの真下には深淵が口をあけていて、ヒュースケンを
今にも呑み込むように見えた。しかもそのうえ、路上に砂も芝もないところから
突き出ている鋭い岩は馬の蹄に何の足がかりをも与えない。

そこでヒュースケンは馬からおりて歩く決心をした。

これは、とんでもない大きな判断ミスであった。歩き始めてヒュースケンは後悔した。

道は泉のように水びたしの泥道であった。
ヒュースケンは貴重な靴一足をだめにしてしまった。そして彼は、再び、
自分自身を「拷問のもとに置いて、手足が不具になるか、または、筋肉が
硬直するのを感じる」ノリモノのなかに閉じ込められるのを余儀なくされた。

最悪の道が終わるとハリスとヒュースケンはすぐにノリモノからおりて馬に乗った。

宿泊地・湯ヶ島へ向かう馬上から富士山が見えた。

ヒュースケンは、富士山のあまりにもの美しさに心を奪われ、
感激のあまり、次のように日記に書いている。

「富士山は筆紙に尽くし難いほど壮大である。この場所から見ると、
富士山は完全に孤立していて、約1万フィートの高さで、完全で、しかも
壮麗な円錐型をして、そそり立っている。

近隣に高度を較べることのできる小山が何もないため、
富士山は実際より高く見える。

富士山は雪に覆われていた。しかも、輝く太陽の中で、それは、
銀の山のように見えた。

私は富士山は世界中の気高く孤独な山々の中で最高の山であると感じた。

私は1855年1月、ヒマラヤ山脈の、あの有名なダウラギリを見て感激した。

しかし、富士山はダウラギリより素晴らしい。

私たちが谷あいに近づき、そして天城の頂上に舞う雲のなかから出るにつれて、
田園地帯が開け始めた。太陽が穏やかな光をそこに投げかけていた。
うっとりさせるような美しさを持ついくつかの谷あいが私たちの眼の前に現れてきた。

ひとつの山をひと巡りすると、私は、二、三の松の木々の葉の茂みを通して、
太陽の光のなかで輝くひとつの白い峰を見る。

一瞬にして、私は富士山を見ているのだと悟る。

今日、初めて私が富士山を見たときの、富士山の眺めを、
私は生涯、忘れはしないであろう。しかも、私は、世界中にその美しさに
匹敵するものがあろうとは考えもつかない。」











2.会津悲劇と幕府滅亡の発端:
徳川斉昭と水戸藩の尊皇攘夷論と
堀田正睦の
京都行きという大愚行

1858年(安政5年)初頭、徳川幕府の岩瀬忠震大目付・井上清直下田奉行と、
タウンゼント・ハリス米国領事は、日米修好通商条約について合意した。
後は正式な調印を残すのみとなった。

しかし、徳川幕府内部では、徳川斉昭・前水戸藩主を筆頭に、
条約調印に絶対反対を唱える勢力が侮り難いものになっていた。

そこで、老中筆頭の堀田正睦は、あまりにも愚かなことに、京都の
朝廷の権威を利用して、条約調印反対派を押さえ込もうとした。

ところが、これが完全に裏目に出た。
まさに歴史的な堀田正睦の大愚行であつた。

堀田正睦は自ら京都に行って、朝廷へ条約勅許(天皇の承認)
願い出た。

それまで、政治権力を失っていた朝廷が、この予期しなかった
絶好の好機を逃すはずがなかった。

朝廷は、条約調印絶対反対の姿勢・態度を強く誇示して、
一挙に、失っていた政治権力の挽回を図った。

なぜ朝廷は超強気な姿勢・態度に出ることができたのか。

それは、当時、国内に【尊皇攘夷(そんのうじょうい)という思想が
流行り(はやり)出したためである。

【尊皇論】というのは、文字通り、天皇を尊ぶ思想である。
【攘夷論】というのは、外国人は穢れている。外国人は、一人たりとも
日本国内に入れるな、外国艦船は武力で追い払えという思想である。

どちらも、中国の儒教に由来している思想である。

それが、19世紀初め、水戸藩において、この両論を融合させた
【尊皇攘夷論】が唱えられ、以後、広く世間に流行り(はやり)出した。

当時、程度の差はあれども、全国274藩のほとんどすべてが、
相次ぐ天災による収入減・支出増と、幕府の国防命令等による
巨額の支出増に苦しんでいた。

薩摩藩のように、密貿易と産業振興によって黒字経営を行っていた
藩は極めて少なかった。

現在の中国と同じように、上級武士、大地主、富裕商人に対する
相続税課税、所得税累進課税は無かった。財政支出の赤字は、
農民に対する重税課税、下級武士の給与削減、大都市の富裕な
商人からの借金によって補われていた。

生活に苦しむ下級武士たちや、知識を身につけた農民たちや、
貧困町人たちが、「悪いのは徳川幕府と諸外国、では徳川幕府に
代わるものは何か、諸外国に対してはどうすべきか」との疑問が
高まっていた。

そこに登場したのが【尊皇攘夷論】である。

水戸藩の思想家で、徳川斉昭に抜擢されて、藩校・弘道館の初代教授頭取を
務めた会沢正志斉は、【尊皇攘夷論】著書『尊皇攘夷・新論』として発表した。

著書『尊皇攘夷・新論』は、またたく間に、日本全国に広がった。

著書『尊皇攘夷・新論』に心酔した梅田雲浜、梁川星巌、
頼三樹三郎らが、多数、京都に集結して、【尊皇の志士】と自称して、
朝廷の公家たちに【尊皇攘夷論】を吹き込んだ。

この【尊皇攘夷論】自己催眠効果は絶大であった。

日本の真の君主は、将軍ではなく天皇だという【尊皇論】は、
まさに、朝廷、特に孝明天皇の主張そのものであった。

歴代の天皇や、公家たちは、日本における伝統的権威だけを拠り所に、
日本における伝統的権威だけに縋って生き延びてきたのだから、
徳川将軍に政治権力を簒奪された、外国人は穢らわしいものと、
固く信じ込んでいた。

孝明天皇と公家たちは、こぞって、【尊皇攘夷論】に心酔した。
孝明天皇と公家たちは、【尊皇攘夷】の自己催眠に陶酔していった。

孝明天皇は徹底した外国人嫌いであった。

孝明天皇は、「私の代に、穢れた異人(外国人)の願い通りになっては、
伊勢神宮に申し訳がたたぬ。
私は、歴代の天皇に対して不孝者になり、末代まで汚名を残すことになる」と、
日米修好通商条約絶対反対を明言していた。

この孝明天皇の徹底した外国人嫌いが、幕末維新時に、おびただしい
犠牲者を生むことに繋がった。

結果から判断するならば、水戸藩の藩主・徳川斉昭が植え付けた
【尊皇攘夷論】が、水戸藩浪士による大老・井伊直弼暗殺に繋がり、
徳川斉昭の実子・徳川慶喜の大政奉還・敵前逃亡になった。
つまり、徳川斉昭が徳川幕府を崩壊させたということである。




当初は熱烈な【尊皇攘夷論】者であったはずの長州藩は、孝明天皇
毒殺犯人の岩倉具視と、本来はであるはずの薩摩藩と同盟して
倒幕に大成功して政権の座に着いて以降、【尊皇攘夷論】については、
【知らぬ存ぜぬ】に徹している。

幕府老中筆頭の堀田正睦は、【尊皇攘夷】の空気が充満している京都に、
のこのことやって来て、条約勅許(天皇の承認)を願い出たのである。
堀田正睦は、あまりにも愚かであった。

       


極めて当然のことながら、条約勅許は得られなかった。

しかし、問題は勅許を得られなかったという点にあるのではない。

それよりもはるかに重大な問題は、朝廷の政治権力を認めてしまった
ことである。

徳川幕府が始まって以来、朝廷は、幕府によって政治権力の外に
置かれていた。それが、ここにきて、幕府が自らが、朝廷に政治への
発言権を与えてしまった。しかも、幕府が許可を願い出なければならない
ような格上の存在としてだった。
これは堀田正睦の、まさに、歴史的な大愚行であった。

3.開国により物価急騰、
  
民衆の不満爆発、悪いのは幕府!





歌川芳虎作:米、塩、油、乾物、紙、綿など生活必需品の物価急騰を諷刺した絵

明治の大改革・大事件
廃藩置県
(第2次王政復古クーデター)

1869年(明治2年)7月25日、274人の大名が
新政府に領国を献納した。これが 版籍奉還である。

それに伴って藩という名称が県に変わった。
当初、県は、旧幕府直轄領を含め305県あった。

274人の大名は、知県事(現在の県知事)として、引続き
県の統治に当たり、実態は徳川幕府時代と同じであった。
全国で約200万人にいた旧藩士たちの雇用も維持されていた。

1871(明治4年)年8月11日、大久保利通は新政府人事の
大幅改造を断行した。参議は、西郷隆盛と木戸孝允の2人のみとした。
大久保利通自身は大蔵卿に就任した。当時、新政府は、政策遂行に
ついて西郷派と木戸派に分裂しつつあり、政務は停滞していた。
新政府は分裂の危機に直面していた。

この状態を憂慮した木戸派の山県有朋、鳥尾小弥太、野村靖らは、
廃藩置県の断行によって両派の融和を図るべく、
廃藩置県の即時断行を新政府の指導者たちに働きかけた。

山県有朋が西郷隆盛を説得した。井上馨が木戸孝允を説得した。

かくして、1871年(明治4年)8月24日、西郷隆盛、大久保利通、
木戸孝允、西郷従道、大山厳、山県有朋、井上馨の7名が協議して
廃藩置県実行案を作成した。
この実行案に、岩倉具視、三条実美、板垣退助、大隈重信らも賛同した。

1871年(明治4年)8月29日、新政府は、在東京の
知県事(現在の県知事)を皇居に集めて、廃藩置県を宣言した。

これは、王政復古に次ぐ第2のクーデターであった。

274人の知県事は、東京在住の生活を保障された上で、全員免職された。
旧藩=県に雇用されていた旧藩士のなかの武士たちは全員解雇された。
しかし、相当数が、新たに新政府の軍隊に雇用されることになった。

旧各藩の藩札は、当日の相場で、新政府発行の紙幣と交換されることが
宣言された。



近代的教育制度発足

明治維新による近代国家・日本の建設において最も重視されたのが
近代的教育制度の確立であった。

1872年(明治5年)9月4日の太政官令第214号は、
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。

1879年(明治12年)9月29日に第1次教育令が布告された。

1880年(明治13年)12月28日に第2次教育令が布告された。

1885年(明治18年)8月12日に第3次教育令が公布された。

さらに1886年(明治19年)3−4月、学校令が制定された。

学校令は、諸種の学校を総合規定していた第3次教育令に代わるもので、
小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令,諸学校通則の
5単行勅令をさす。
この学校令は1947年3月まで日本の教育制度の根幹であった。

江藤新平の悲惨な最期

戊辰戦争終了後、佐賀藩の江藤新平は明治新政府が設置した
江戸鎮台において、6人の判事の1人として会計局判事に任命された。

江藤新平が担当したのは民政・会計・財政・都市問題であった。
江藤新平は首都の東京移転を献言。1869年、明治天皇の行幸という
形で首都移転が実現した。江戸は東京と改称された。

1870年11月、明治新政府の太政官中弁となり、以後、国家制度
調査専務として明治新政府の国家機構の整備を主導した。

近代的な集権国家、かつ四民平等国家をめざし、国法会議や民法会議を
主催した。箕作麟祥らとともに民法典編纂にも取り組んだ。

文部大輔、左院副議長を歴任し、1872年、司法省が設置されると
司法卿、参議に任命され、明治新政府の中枢の一人となった。

明治新政府の教育制度整備、警察制度整備、特に司法制度の整備に
司法卿として尽力した江藤新平の功績は大きい。

娼妓解放令、国民の行政訴訟を認める通達などは、正義感が強く、
かつ急進的な民権論者であった江藤新平の功績である。

江藤新平は明治新政府の高級官僚の汚職を強く憎んでいた。

明治新政府の軍事最高指導者である長州藩の山県有朋の山城屋事件、
明治新政府の財務最高指導者である長州藩の井上馨の尾去沢銅山事件を
激しく追及して、一時、この長州藩の最高指導者2人を辞職に追い込んだ
ほどであった。

参議・司法卿辞任から佐賀の乱まで

1873年、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した大久保利通の
征韓論者追い出し謀略に憤慨した西郷隆盛が参議を辞職した。

西郷隆盛という強力な後ろ盾を失った江藤新平は、板垣退助、
後藤象二郎、副島種臣らと共に参議・司法卿辞任に追い込まれた。

1874年2月、江藤新平を党首とする佐賀征韓党と島義勇の憂国党が
佐賀県庁(佐賀城)に駐留していた岩村通俊の率いる熊本鎮台佐賀大隊を
攻撃して武装蜂起した。士族反乱である佐賀の乱の勃発である。

大久保利通は東京鎮台及び大阪鎮台の大部隊を自ら率いて、
この江藤新平の佐賀の乱の鎮圧に当たった。

明治新政府軍の強力な火力の前に江藤新平の佐賀反乱軍は
あっけなく敗れた。

江藤新平は、鹿児島、高知へと逃げ回った。

しかし、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛された。
江藤新平の手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものである。
この写真手配制度は、江藤新平が1872年に創設したものある。
皮肉にも、写真手配制度制定者の江藤新平本人が被適用者第1号となった。

1874年4月8日、江藤新平は急設された佐賀裁判所で、司法省時代の
部下であった河野敏鎌によって梟首(さらし首)の刑を申し渡され、
その日の夕方、処刑され、首を嘉瀬川から4km離れた千人塚で
さらされた。すべて大久保利通の指示によるものであった。

武士全員をリストラ
(武士階級の消滅)
    

1876年(明治9年)3月28日、太政官布告第38号で、
武士の帯刀禁止令が公布された。

江戸時代、徳川幕府による幕藩体制が確立されると共に、世襲的な士農工商の
身分制度が社会に定着した。身分制度の最上位に位する武士階級の特権であり
象徴であったのが帯刀(日本刀を腰に差すこと)である。それが禁止された。
武士階級は消滅させられるとの前触れであった。

続いて、1876年(明治9年)8月5日、太政官布告第108号で、金禄公債証書
発行条例が公布された。これが秩禄(ちつろく)処分といわれるもので、以後、
約150万人といわれた全国の武士全員の俸給給料の支給を完全に止めるという
内容である。

現代風に言えば、約150万人といわれた全国の武士全員をリストラする、
つまり全員解雇するということである。

兵站力から見た西南戦争

征韓論をめぐる政争で大久保利通に敗れた西郷隆盛は、1873年(明治6年)
参議を辞して鹿児島に戻った。

多くの薩摩藩出身の軍人たちが西郷隆盛に従って鹿児島に戻った。

西郷隆盛たちが鹿児島県各地に組織した私学校は、
帰郷した多くの薩摩藩出身の軍人たちの拠り所になった。

鹿児島県は、大久保利通率いる明治新政府に公然と反抗して、
地租改正も秩禄処分も行わなかった。あたかも独立国 のようであった。

1874年(明治7年)以降、西日本各地では、佐賀の乱、熊本・神風連の乱、
福岡・秋月の乱、山口・萩の乱と、不平士族(武士たち)の反乱が各地で勃発した。
一連の不平士族(武士たち)の反乱のとどめが西南戦争であった。

1877年(明治10年)2月、西郷隆盛は、私学校の不平士族たち
約1万5,000人を率いて鹿児島を発った。めざすは熊本鎮台。その後、
九州各地の不平士族たちが、続々と加わり、総勢は4万人に達した。

大久保利通率いる明治新政府は、ただちに、有栖川宮を征討総督に任命し、
陸軍は山縣有朋中将に、海軍は川村純義中将に指揮を執らせた。

大久保利通率いる明治新政府は、岩崎彌太郎の三菱商会に対して、
ただちに社船を総動員して兵員、弾薬、食糧等の輸送を行えと命令した。

これに応えて、岩崎彌太郎は、「わが三菱商会の真価が問われる時が来た。
いささかも怯んでは(ひるんでは)ならない」と全社員に檄を飛ばした。

「わしは東京で明治新政府との折衝にあたる。
石川七財、お前は大阪で兵站と配船を指揮せよ。
川田小一郎、お前は長崎で物資の調達を指揮せよ。

彌之助(岩崎彌太郎の実弟)、お前は戦争現場で総指揮をせよ」と
組織総動員態勢を確立した。

三菱商会は定期航路の運航を全部休止した。社有船38隻全部を
明治新政府軍の兵員、弾薬、食糧等の輸送に投入した。

岩崎彌太郎率いる三菱商会の全組織あげての兵站活動取り組みが、
総勢7万人にのぼる明治新政府軍の迅速な軍事行動を支えたのである。

兵站力を欠く、総勢約4万人もの西郷軍は、熊本鎮台を攻めあぐみ、
田原坂(たばるざか)で明治新政府軍に敗れて敗走した。
その後、宮崎県の各地を逃げ回ったあげく、ついに、
鹿児島の城山で最期を迎えた。

西南戦争の戦死者は、西郷軍と明治新政府軍の
双方合わせて
1万人以上であった。


意気盛んだった西郷軍を明治新政府の徴兵制軍隊が制圧した。

明治新政府軍の近代的な装備と編成、及び三菱商会船団の機動力が
西郷軍を徹底的に打ち破ったのである。

西南戦争における岩崎彌太郎率いる三菱商会の軍事輸送は、
明治新政府の信頼をかち得るとともに、
三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築いた。

その後、三菱は汽船を買い増して所有船を61隻にした。
これは当時の日本の汽船総トン数の73%を占める。



以上


Re:医師ウィリスの会津戦争見聞記


『生きる場を広げるため学び続ける仕組みを創れ』

未経験のこと、すなわち、今までやったことのないことに挑戦すると、
失敗はつきものである。従って、うまくいかないことや、挑戦失敗を、
苦にしたり、悔やんだり、悩んだりすることはない。

しかし、挑戦失敗を教訓にして、学び続けることは必要である。
学び続けることによって新しく蓄積されていく知識・情報が生きる場を
広げる力
(ちから)そのものなのである。

高江常男さんが、何万回もの失敗を乗り越えて、あきらめずに、
学び続けた生き方に深い感銘を受けている。


学び続けることは最高の幸福です。
意識
身体も、使わないと、どんどん錆びつく!
学び続けることは

廃用性萎縮を防ぐ最良の健康法です。





2015年12月 文化出版局 発行

志村冨美子・横浜レース教室、八王子レース教室、本郷台レース教室

TEL:045−352−7184





以上