概 略 |
1199年
(建久10年) |
1月 落馬事故により源頼朝死去。頼家が第2代将軍に。稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追善供養のため橋を架けた落成供養に参列した帰りに落馬して死亡した。糖尿病だったとの説も。源通親が朝廷を主導し、頼朝に与えた軍事警察権を頼朝に委任。鎌倉殿の国家的役割が確定した。
『吾妻鏡』は頼朝晩年を記していない。北条政権への配慮によるものか。 |
2月 京都で一条能保・高能父子の遺臣が源通親を襲撃しようとして捕らえられる。頼朝の縁戚であった一条家公卿が失脚。通親の権力が強化された。三幡(頼朝の次女)が早世し、入内工作は失敗。 |
頼家を13人の宿老が合議制で支える体制がとられる。
大江広元・三好康信・二階堂行政・中原親能 ;(頼朝の独裁を支えた文士)
足立遠元 ;(武士だが公文所寄人の経験から実務能力も持つ)
三浦義澄・和田義盛 ;(相模三浦一族)
八田知家・梶原景時 ;(頼朝側近)・・・和田義盛・梶原景時は侍所別当・所司としての参加でもある。
比企能員・安達盛長・北条時政・義時 ;(東国武士として参加) |
1199年
(正治元年) |
10月梶原景時が結城朝光を討つとの情報を朝光の妻阿波局(政子の妹)が知らせる。三浦義村らが大江広元に弾劾状を出す。頼家は景時に弁明を求めるが、景時は抗弁することなく本拠地の相模一宮に退去。この潔い態度に一度は許されるが、評議の結果、鎌倉追放が決まる。 |
1200年
(正治二年) |
1月19日景時は一宮を離れたが、謀反のため上洛したとみなされ、追討され、駿河国で討たれた;梶原景時滅亡。甲斐源氏の武田有義(信義の子)も景時と同心したとされ、弟信光に攻撃され、逃亡。阿波局は政子の妹であり、駿河国の守護は時政であることから、北条時政・政子の陰謀か。 |
4月 北条時政が遠江守、従五位下に叙任される。国司に就任できるのは源氏一門に限られていたが、北条の家格が上がった。 |
1201年
(建仁元年) |
治承・寿永の内乱において平家寄りだった城長茂・藤原隆衡(秀衡の子)らは、梶原景時に以前命を救われており、景時死後、敵討ちのため幕府に反旗を翻す。源通親と親しく、旧平氏系武士に影響力を持つ景時に対し、東国武士が反発したことも。腹心であった景時をかばいきれなかったのは、頼家の最大の失策であった。 |
1202年
(建仁二年) |
頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に宣下された。 |