概 略 |
1203年
(建仁3年) |
5月 阿野全成(頼朝の異母弟)・阿波局は千幡の乳父乳母であり、頼家に代わって、千幡を将軍にする陰謀をめぐらしていた。先手を打った頼家と比企能員は、全成を謀反人として捕らえ、常陸国に配流、6月に下野国で八田知家に誅殺され、その子頼全も京都で殺される。頼家は阿波局も捕らえようとするが、母政子に阻まれた。 |
7月 頼家が重病となり、8月末に危篤状態となる。頼家危篤を受け、子の一幡が相続すると外戚である比企能員の権勢が高まることを恐れた北条時政が自邸に招いて能員を殺害。一幡も殺した。 |
9月5日 病から回復した頼家は息子と舅の死を知り、激怒し、時政討伐を和田義盛・仁田忠常に命じる。しかし、義盛が北条方についたため失敗。7日政子の命により頼家は出家させられた。対応をためらっていた仁田忠常忠常は北条派の加藤景廉に誅殺された。29日頼家は伊豆修善寺に幽閉され、1204年(元久元年)7月23日頼家は暗殺された。 |
後鳥羽院は千幡に実朝の名を与え、従五位下・征夷大将軍に叙任した。迅速な対応から考えると、一幡が相続しそうになり追い詰められた時政が仕組んだクーデターであった可能性が高い。 |
10月3日 時政・牧の方の娘婿である平賀朝雅が京都守護に就任。時政による朝廷との関係強化の一環。 |
10月8日 実朝は時政邸で元服(12歳)。以後、幕府を主導したのは北条時政であったが、時政・牧の方と義時・政子との間で主導権争いがあった。実朝の正室には足利義兼の娘が決まっていたが、(おそらく時政が)難色を示し、京都の公家坊門信清の娘を婚姻を結ぶ。後鳥羽院との関係強化が目的か。 |
時政の息子政範が上洛し、16歳で従五位下に叙任される。この時、義時は42歳で従五位下であり、政範が北条家当主である時政の後継者と見られていた。しかし、11月5日
政範は京都上洛中に早世する。 |
1204年
(元久二年) |
11月4日 京都の平賀朝雅の屋敷酒宴で、朝雅と畠山重保(重忠の嫡子)で口論となる。 |
1205年
(元久2年) |
6月21日 平賀朝雅が牧の方を通じて「畠山重忠に謀反の意志あり」と時政に讒訴した。時政は一度は義時・時房に制されるが、牧の方が義時を詰問し、義時・時房・和田義盛らが重忠討伐に出陣する。22日
重保は由比ガ浜で三浦義村に討たれた。治承・寿永の内乱のとき、重忠は平家方として衣笠合戦で三浦義明を討っている。重忠が頼朝に降伏した際、三浦らは頼朝に報復を禁じられたが、その遺恨を時政が利用したと考えられる。 |
鎌倉で謀反が起きたので急ぎ馳せ参じよと稲毛重成から連絡を受けた畠山重忠は、二俣川付近(現横浜市旭区)で、重保が殺されたこと、自分が謀反人として討伐されようとしていることを知った。本拠地にに引き返し態勢を立て直すべきとの意見を退け、逃げるところを討たれた梶原景時のような末路をとりたくない、と幕府の大軍に突撃し、華々しい戦死を遂げる。 |
重忠に従っていたのは僅か百騎あまりであり、謀反を企てたという話は偽りだったと義時が時政をなじった。時政は重忠を陥れた罪で稲毛重成を殺した。東国支配強化のため武蔵国を支配していた畠山重忠を排除しようとした可能性もあるが、政範の死により後継ぎを失った時政の焦りからの暴走と考えられる。強引なやり方の時政に御家人たちが反発した。 |
北条時政が娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立するため、実朝の身柄を確保しようと自宅に招いたところ、北条政子と義時が、時政による実朝の拉致・監禁と判断し、三浦義村らに実朝を連れ出させる。孤立した時政を失脚させ、義時が政所別当となった。時政の権力の源泉は実朝の後見役という地位にあるが、それを否定したことは自殺行為であった。実朝の母である政子は将軍を代行できる権力を持っていた。また、三浦一族が義時に味方したことも大きく影響した。 |
義時は、京都に使者を遣わし、平賀朝雅討伐をさせた。幕府の内紛により、自身の近臣である朝雅が討たれたことで、後鳥羽院は幕府に京都の治安維持を任せることに危機感を抱き、「西面の武士」と呼ばれる直属武力を編成する。 |