Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 中世史関連 クロニクル「日本」  

<中世史年表>
 西暦  時代  主な遺跡・史料 欧州・中近東  中国・アジア 
    (古代〜平安時代 ) 〜 日本古代史関連    
13C


 (1185〜1333年)
 1185年(文治元年)壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、後白河上皇の院政つづく。後白河上皇は、壇ノ浦の戦いで功のあった源義経に官位を授けて、頼朝を牽制するが、頼朝による追討軍派遣により、義経は奥州藤原氏の元に逃れるも討伐される。
 1190年(建久元年) 源頼朝上洛し、後白河上皇を威圧するも征夷大将軍は認められず。    
 1192年(建久3年)後白河上皇崩御により、後鳥羽天皇(82代)が源頼朝を征夷大将軍に任命。鎌倉幕府を開く。    
 1193年(建久4年)富士野の巻狩りで、曾我事件発生;曾我兄弟が親の仇である工藤祐経を討ち、源頼朝殺害の陰謀が疑われる。甲斐源氏の有力一門安田義定・義資が処刑される。伊豆・駿河・遠江は北条時政の所領となる。頼朝が嫡男頼家の外戚北条時政とともに権力移行の準備をすすめる。    
 1198年(建久9年)後鳥羽天皇譲位し院政。土御門天皇(83代)が2歳で即位。後鳥羽上皇は、順徳天皇(84代)、仲恭天皇(85代)で院政を敷き、朝権回復に専念。    
 1199年(建久10年)落馬事故により源頼朝死去。頼家が第2代将軍に。    
 1203年(建仁3年) 頼家の独裁政治により、御家人の不満と権力闘争へ。頼朝の妻北条政子とその父北条時政が権力を掌握。頼家は幽閉後、暗殺される。    
 1205年(元久2年)北条時政が娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたところ、北条政子とその弟義時が、時政を失脚させ、義時が政所別当となった。また、義時は、侍所別当和田義盛を攻め滅ぼして、侍所を兼務し、執権とよばれるようになる。    1206年、チンギス=ハーン即位;モンゴル帝国成立
 1219年(建保7年)三代将軍実朝が頼家の子公暁に暗殺され、源氏は3代で途絶える。京都から五摂家で頼朝の妹のひ孫に当たる九条頼経を迎えて将軍とした。;以降将軍職は形骸化。  1227年 グレゴリウス9世、十字軍遅延を理由に、フリードリヒ2世を破門。(翌年出発)    
 1221年(承久3年);後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命じる院宣(いんぜん)を発す;承久の変。   
 幕府軍勝利により、後鳥羽上皇らは配流。仲恭天皇退位、後堀河天皇(86代)即位。  
 1232年(貞永元年)執権北条泰時は「御成敗式目」を定める。    1234年、モンゴル、金を滅ぼす。
 1242年(仁治3年)四条天皇(87代、後堀河天皇の皇子)が11歳で廊下で転んで崩御。世継ぎなく、北条泰時の意見により、承久の変で中立的立場をとった土御門上皇の皇子(=後鳥羽上皇の孫)を即位させ、後嵯峨天皇(88代)とした。現在の皇族はすべて後鳥羽上皇の子孫。    
 5代執権北条時頼は、謀反の嫌疑で将軍九条頼経を京都へ送還し、将軍派の御家人を処分。    
 1247年(宝治元年)北条氏に次ぐ勢力の三浦氏を攻め滅ぼす;宝治合戦。北条得宗家による専制体制確立。    
 1252年(建長4年)後嵯峨天皇の第一皇子宗尊親王を将軍に迎える。初めて皇族が征夷大将軍になる。幕府が皇族との関係を改善。皇族将軍は鎌倉幕府滅亡まで四代続く。    
 1256年(康元元年)時頼は執権を辞任するが実権は維持。政治は得宗家家臣の御内人(みうちびと)たちで構成する寄合という会議で決められる。    
 後嵯峨天皇の後継をめぐり第二皇子後深草天皇(89代)と亀山天皇(90代)の間で対立。後深草天皇の持明院統(後の北朝)と亀山天皇の大覚寺統(後の南朝)で朝廷勢力が並立。幕府の提案により両統から順番に天皇を出すこととした。皇位継承の度に幕府が主導する両統迭立となり、幕府の権限が増大。    
 この時代、荘園が発達、地頭が年貢を取り立て、権限を拡大し、土地の支配が広がる。耕地面積拡大、二毛作や鉄製農具の普及などにより農業生産も向上、染物、製紙、製糸、鍛冶屋、大工などの専門職への分化。商業、運送業も発達。宋銭などの貨幣経済も広まり、金融業も出現した。    
 1266年元フビライからの服属要求の国書届く。
執権北条時宗(8代)は服従せず。国防を固める。
   
 1274年(文永11年)元寇。元は属国となった高麗とともに23,000の軍勢で襲来。対馬で島民を虐殺、対馬守宋助国は80騎で玉砕。壱岐の平景隆ら100騎も玉砕。
約5,000の日本軍(鎌倉幕府、少弐、大友など九州の武士)が迎え撃ち、元軍を撃退。元軍は暴風での遭難も併せて13,000人戦死。
   
 1275年(建治元年)、1279年(弘安2年)に元は使節団を送るが、北条時宗はいずれの使者も処刑し、一歩も引かない姿勢を見せる。    1279年、元が宋を滅ぼす。
 1281年(弘安4年) 弘安の役;元・東路連合軍、博多湾へ来襲。4,000隻の軍船の14万の兵。日本軍は12万の兵で迎え撃つ。20キロの石築地、小型船での奇襲などにより、約2か月海上に留め置き、大風雨で元軍壊滅。    1280年、元の日本への使者が斬殺される。
 「神風」「神国思想」、皇室の呪力、日本の一体感生まれる。一方、領土獲得のない対外戦争のため土地の分配はなく、御家人の負担と不満は高まり、永仁の徳政令により、借金は帳消しにされたが、以後金貸しが御家人に金を貸さなくなり、益々困窮することとなる。    
14C  1311年(応長元年)9代執権北条貞時死後、執権と得宗の機能不全が表面化。    
 1324年(正中元年)後醍醐天皇方が、鎌倉幕府の京都の拠点六波羅探題襲撃を企てるが事前に幕府方に情報が漏れ、倒幕計画は未遂となる(正中の変)。朝廷は天皇が計画に関与していなかったことを弁明し、幕府に認められる。    
 1331年(元弘元年)後醍醐天皇は息子護良親王を延暦寺天台座主に任じ、「関東調伏」の呪詛を繰り返し、倒幕の準備を進めたが、またしても幕府に計画がもれ、後醍醐天皇は三種の神器とともに京都を脱し、楠木正成らに倒幕の檄を飛ばす。(元弘の変)    
 幕府に攻められ、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に配流となる。幕府は後醍醐天皇を廃帝とし、持明院統の北朝第一代光厳天皇を践祚させ、後伏見上皇の院政が開始。    
 1332年(元弘2年)護良親王が吉野で、楠木正成が河内で挙兵すると、これに呼応して各地で挙兵が相次ぎ、幕府の優勢が崩れる。    
 1333年(元弘3年)後醍醐天皇は、警固の武士の油断を突いて釣り船で隠岐を脱出、出雲の船上山に拠点を構え、諸国に飛檄した。    
 船上山攻撃を命じられていた御家人の足利尊氏が幕府に反旗を翻し、六波羅を攻め落としたことで形勢が逆転。関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、16代執権北条守時と得宗北条高時は自害し、約140年続いた鎌倉幕府は滅亡    
 京都に還幸した後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、院政を廃し、腐敗した政治の再建を図って天皇親政を行った。また、元号を正慶から元弘に戻し、重祚の儀礼を行わず、光厳天皇の即位がなかったこととした。(建武中興)    
 武士が倒幕に参加したのは、後醍醐天皇の政治理念に共感したからではなく、領地や地位を求めたため。倒幕に手柄のあった足利尊氏が征夷大将軍の地位を求めたが、天皇は幕府の再興に繋がることを懸念して却下。護良親王を将軍に任じる。足利尊氏が離反、挙兵したことで、建武中興は挫折。国を動かす武士の力は健在。    
 1334年(建武元年)尊氏は護良親王が帝位を奪おうとしているとの讒言を伝え、護良親王逮捕を強要。護良親王は尊氏の弟直義により幽閉、殺害される。    
 1335年(建武2年)足利尊氏挙兵。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、尊氏はいったん九州に退く。    
 1336年(建武3年)尊氏は後醍醐天皇討伐を命じる光厳天皇の院宣を携えて、九州で兵を整え、湊川の戦いで新田義貞、楠木正成を破り、京都を制圧。    
 室町時代(1336〜1573年)     



 1336年(延元元年)後醍醐天皇は8歳の懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に派遣。    
 1338年(暦応元年)足利尊氏は入京し、北朝第二代光明天皇を践祚させる。後醍醐天皇は比叡山でこれに抵抗したが、尊氏の和睦の要請に応じ、三種の神器を光明天皇に引き渡し、室町幕府が成立する。    
 両統迭立により後醍醐天皇の皇子である成良親王が皇太子となったが、後醍醐天皇は光明天皇に渡した神器が偽物であることを宣言して京都を脱出し、自らの皇位の正統性を主張して吉野に南朝を開いた。以後60年間の南北朝時代    
 1339年後醍醐天皇、病に倒れ、後村上天皇(97代・南朝第2代)を践祚させる。
三種の神器は南朝が保持し、北朝の光厳天皇と光明天皇は、上皇の詔宣により践祚したため、先帝から譲位を受けた天皇ではない。光厳天皇は後醍醐天皇の皇子ではあったが、その即位は認めていない。そのため、後醍醐天皇から光厳天皇への譲位が有効に成立しているとは見られない。その光厳天皇から位を受け継いだ光明天皇は正統性が疑わしい。
   
 足利幕府は、鎌倉幕府のように御恩と奉公により武士が結束することはなく、尊氏は武士たちの支持を得ようと、荘園や公領の年貢の半分をその国の守護に与えることとした(半済令)。守護がより強い力を持つようになり、守護大名と呼ばれるようになる。    
 また、足利政権は南朝に対峙するために京都を所在とし、朝廷寄りの幕府となった。    
 1350年(観応元年)、尊氏の執事高師直と尊氏の弟である直義の間で抗争が起きる(観応の擾乱)。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏は南朝の後村上天皇と和睦した。年号を南朝の「正平」に統一し、北朝の光厳上皇の院政は停止され、北朝第代崇光天皇は廃された。高師直は直義に討たれるが、直義は尊氏に捕らえられ、幽閉先で毒殺された。南朝軍はこの機に京都を占拠し、北朝が保持する偽の神器を接収。足利義詮の入京で劣勢になると、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇を拉致して監禁。幕府を承認する天皇が不在となり、足利幕府は困惑する。    
 1352年(観応3年)幕府は仏門に入っていた光厳上皇の皇子弥仁王(いやひとおう)を践祚させ、北朝第4代後光厳天皇とした。このとき、弥仁王の祖母寧子(後伏見上皇の中宮)を治天の君として践祚させた。皇族でない臣下が天皇を任命するという離れ業をやった。    1351年元にて紅巾の乱
 1354年(正平9年・文和3年)南朝を支えていた北畠親房が死去すると、北朝に対抗できる勢力は、九州の懐良親王と親王を報じる菊池一族のみとなる。  
 1359年(延文4年)筑後川(九州)の戦い;南朝軍約4万と北朝軍約6万が対決。(日本三大合戦の一つ)以降13年間九州は南朝が支配。    1368年朱元璋がモンゴル族を北へ追い、明を建国 
 1369年(応安2年)明の洪武帝から九州の懐良親王に朝貢を求める使者。高圧的であり、返書を出さなかった。その後も執拗に朝貢を求められたので、1381年(弘和元年/永徳元年)中国の漢籍や歴史を引用して、拒絶の返書を送る。  
 1369年(応安2年)将軍になった足利義満は朝廷(北朝)の権力を次々にはく奪。北朝第5代後円融天皇は、1382年(永徳2年)皇子に譲位し、北朝第6代後小松天皇(第100代)が践祚。足利義満が後見となった。    
 義満が後円融上皇の女官と姦通していたとの流言があり、上皇がその女官を峰打ちにしてけがを負わせ、自殺を図ろうとするが止められた。(天皇の自殺は戦地での弘文天皇と安徳天皇を除いて例がない)    
 1390年(明徳元年)足利義満は美濃の守護 土岐康行、翌年に守護 山名氏清を討ち、権力基盤を強化。    
 1392年(明徳3年/元中9年)大覚寺統と持明院統から交互に天皇を出す両統迭立を条件に、南朝の第99代後亀山天皇の合意を取りつけ、南北朝合一を果たした。後亀山天皇が京都に戻り、北朝の後小松天皇に三種の神器を継承して譲位する形で行われた。南朝が保持していた三種の神器が真正であることを幕府と北朝が認めたことを意味する。しかし、両統迭立は行われず、南北朝合一により南朝は歴史から姿を消した。    
 1395年(応永元年)足利義満は征夷大将軍だけでなく、太政大臣にも上り詰める(武家が太政大臣になるのは、平清盛以来二人目。征夷大将軍との兼任は義満が初めて。)宮中祭祀も北山第(義満邸)で行うなど天皇の祭祀権や官位任免などの権限もはく奪した。    
 1399年(応永6年)義満は、支那や朝鮮と貿易していた大内義弘を討つと自ら日明貿易に乗り出そうと、明に通交を求めた。1401年(応永8年)朝廷に無許可で明の皇帝の臣下となる申し出をして「日本国王」に任じられる。1404年(応永11年)明との勘合貿易を始める。(日明貿易は次の足利義持により廃止)    1402年明 靖難の変により永楽帝即位
15C  1406年(応永13年)義満の正室日野康子を後小松天皇の准母とし、義満自ら准父、つまり准上皇となった。    
 1408年(応永15年)義満の次男足利義嗣を宮中で元服させ、後小松天皇の猶子とするなど、院号宣下を受け、上皇位を簒奪しようとしていたが、義嗣元服3日後に義満が病に倒れ死去。    
 義満の長男足利義持が第4代将軍となり、武家の頭領として立ち位置を明確にし、朝廷と幕府の関係は正常化へ。    
 1412年(応永19年)後小松天皇は皇子に践祚して上皇となり、第101代称光天皇が践祚。両統迭立は無視され、南朝は蜂起したが鎮圧される。足利義持と次の第5代義量(よしかず)、第6代義教は上皇・天皇のよき後見人となった。    
 1428年(正長元年)称光天皇が崩御し、皇子不在だったため皇統断絶の危機(第25代武烈天皇以来922年ぶり)となり、(称光天皇と八親等離れた)伏見宮彦仁王を第102代後花園天皇とした。(元皇室に繋がる)    
 1428年(正長元年)将軍義持が死去すると将軍不在の中、土一揆(つちいっき)が発生。幕府は土一揆の要求に押され、土地の返却や借金の帳消しを認める徳政令を度々だす。第6代将軍義教は一揆や武士の反乱を徹底的に弾圧。    
 義教は日明貿易を復活させたが、明の財源不足により、限定的な交易となった。    
 1438年(永享10年)関東の足利持氏の謀反のため、義教は後花園天皇に持氏征討の綸旨を要請。    
 1441年(嘉吉元年)義教が強権的になり、赤松氏の謀反により暗殺される(嘉吉の乱)。直後に京都で土一揆が起きると、幕府は徳政令を出して対応。    
 満8歳で将軍職を次いだ第7代足利義勝は8か月で赤痢にかかって夭折。    
 第8代将軍義政のとき、1457年(長禄元年)京都で起きた長禄の土一揆を幕府は鎮圧することができず、幕府の権威は失墜した。    
 将軍義政は弟の義視(よしみ)を後継者に決めるも、自分の子どもが生まれると子の義尚を将軍にしようとした。1467年(応仁元年)将軍家と管領家の跡継ぎ争いが絡み合い、そこに細川勝元と山名持豊の対立が表面化すると、応仁の乱が勃発(〜1477年)。    
 戦国時代(1467〜1590年);諸説あるが、応仁の乱の始まり(1467年)または、後の明応の政変(1493年)によって、中央集権体制が崩壊した以降、豊臣秀吉による小田原征討までが、戦国時代と呼ばれる。    
 後花園上皇と後土御門天皇(第103代)は義政の室町殿に戦火を逃れた。応仁の乱の後、街は焦土と化し、公家の所領の多くがはく奪され、朝廷の行事や儀式はほとんど中止を余儀なくされた。公家も多くは地方へ疎開し、大名に保護された。荘園制は崩壊し、将軍の支配領域は山城の国一国となった。室町幕府の権威は失墜し、下剋上の風潮が強まり、群雄割拠の戦国時代を迎えた。    
 1485年(文明17年)山城国一揆では、農民が有力な武士の元に団結し、守護大名畠山氏を追放して8年間にわたる自治を行った。    
 1488年(長享2年)加賀の国の一向一揆では、浄土真宗本願寺派の勢力によって結成された一揆が守護富樫正親を打倒し、以後約100年間自治を行った。    
 農民の自治組織「惣」ができ、「寄合」で揉め事を解決した。また、都市では手工業者が「座」という同業者団体が作られ、営業を独占した。また商人を中心に「町衆」という自治組織が作られ、守護大名と交渉し、都市の自治権を買い取る事例も現れた。京都では、応仁の乱によって中断していた祇園祭も町衆によって復興された。  1492年コロンブスによるアメリカ大陸発見  
 1493年(明応2年)、一大名の細川政元が将軍の擁廃立事件を起し、将軍は足利義稙から義澄に変えられ、以後、足利氏は没落していく(明応の政変)。  1494年スペインとポルトガル、トルデシリャス条約締結。  
16C  1500年(明応9年)後土御門天皇崩御、後柏原天皇(第104代)が即位するが、財政難により、践祚後22年目に即位礼を行う。    
 1526年(大永6年)後奈良天皇(第105代)    
 この頃、鉄製農具の普及、灌漑設備の向上、品種改良、米と麦の二毛作、牛馬耕、肥料の改良などにより、農業技術が進歩。また、綿、茶、藍の栽培、刀剣や農具をつくる鍛冶、絹織物、陶器、酒など手工業は発達し、日明貿易で永楽通宝などの明銭が持ち込まれ、貨幣流通も増え、経済活動が活発になった。    
 幕府が京都にあったことから、朝廷文化と武家文化が調和し、雅かつ実用的で力強い文化であった。室町幕府3代将軍足利義満の時代の“北山文化”、8代将軍義政の時代の“東山文化”であれ、前者は金閣寺に、後者は銀閣寺に象徴される。また、明の文化、仏教、禅などの影響も受け、能、猿楽、狂言、侘び茶、水墨画なども発展し、足利学校など教育も充実した。    
 1543年(天文12年)ポルトガル人を乗せた倭寇の船により種子島に鉄砲が伝来。領主種子島時堯は刀鍛冶に研究を命じ、堺や国友(滋賀)で生産されるようになった。後に世界最大の鉄砲生産国になり、欧米の植民地にされるのを免れる一因となる。    
 1549年(天文18年)イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に上陸、その後、マカオを根拠地としたポルトガル商人や、フィリピンに拠点を置いたスペインの武装商人らとの南蛮貿易が盛んになる。日本からの主な輸主品は銀であったが、石見銀山は当時の世界地図に載るほどであった。    
 南蛮貿易の拡大とともに、キリスト教も広がり、戦国大名の中には入信し、洗礼を受け、キリシタン大名と呼ばれ、キリスト教徒を保護し、領地をイエズス会に寄進するものも現れた。    
 1560年(永禄3年)尾張の小大名だった織田信長が、駿河の今川義元を桶狭間の戦いで破り、戦国大名の中で頭角を現す。    
 1565年(永禄8年)13代将軍足利義輝が家臣の松永久秀に殺害され、足利義栄(14代)が擁立されるが、京に上った信長は、足利義昭を15代将軍に擁立した。    
 1567年(永禄10年)正親町天皇(106代)は、織田信長の美濃での戦勝を称賛し、禁裏御料(美濃・尾張)を回復することと、宮廷費用の献上を命じ、信長が上洛。天皇の綸旨を元に、反信長連合である浅井・朝倉氏との間に和睦が成立。    
 1571年(元亀2年)信長は比叡山延暦寺を焼き討ち。    
 信長は義昭と対立を深め、勅命により和議を成立するが、武田信玄が病没すると、1573年(元亀4年)義昭を京から追放し、ここに230年続いた室町幕府は滅亡した。    
日本近世史関連


資料    『天皇の国史』(竹田恒泰 PHP研究所)
  『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


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