Title9-3.GIF (2758 バイト) 鎌倉幕府の歴史(年表詳細) クロニクル「日本」  

<頼朝と義時>
 主な遺跡・史料
 日本古代史関連 
前史
〜平安時代
末期〜
 1012年 藤原道長は娘のけん子を三条天皇(67代)の中宮に、彰子の娘の威子(いし)を後一条天皇(68代)の中宮に、さらに娘の嬉子(きし)を後朱雀天皇(69代)に嫁がせ、その皇子が後冷泉天皇(第70代)となった。道長は一条天皇から後冷泉天皇までの五代の天皇の外戚として絶大な権力を振るった。
 1017年藤原道長、摂政を子の頼道に譲る。
 摂関政治により藤原氏らの有力者らは荘園を不輸祖田(租税免除)とし、公地公民制は崩れていった。
 1068年(治暦4年)後三条天皇(第71代)が即位すると、藤原氏と外戚関係がなく、荘園整理を行い、摂関家の経済基盤を切り崩す。藤原氏の時代、そして摂関政治は終わる。
 白河天皇(第71代)は即位して15年後に皇子に譲位し、上皇となり院政を開始。天皇の母方の祖父が政治を動かす摂関政治に対して、天皇の父か父方の祖父が政治を動かした。元天皇という立場で政務を執るので、藤原氏一族の専横を抑える効果もあった。
 白河上皇は、堀河天皇(73代)、鳥羽天皇(74代)、崇徳天皇(75代)の三代を即位させ、「本院」または「治天の君」として君臨。平氏一族の武士を重用した。
 1129年(大治4年)白河上皇崩御により、鳥羽上皇が本院となり、確執のあった崇徳天皇を譲位させ、近衛天皇(76代)を即位させたが、若くして崩御し、崇徳天皇の同母弟である後白河天皇(77代)が即位し、さらに天皇の皇子が皇太子となった。崇徳上皇は自分の子を皇太子とする望みを絶たれた。
1156年
(保元元年)
 鳥羽上皇崩御すると、崇徳上皇が近衛天皇を呪詛し、叛乱の準備をしているとの噂が流され、後白河天皇は平清盛や源義朝(頼朝の父)らを起用して崇徳上皇を攻撃し、捕らえ配流とした。;保元の乱
源義朝の父為朝は崇徳上皇側つき滅亡。義朝が河内源氏の棟梁となる。
1158年
(保元3年)
 後白河天皇は二条天皇(78代)に譲位して上皇となる。
1159年
(平治元年)
 平治の乱;後白河院政派の源氏と二条親政派の平氏との抗争で、平清盛が源義朝を破る。
源氏が没落し、平氏一門による武家政権が成立。しかし、上皇、天皇とも力を落とし、武家政権が政治の軸となる。(以降1868年徳川幕府崩壊まで)
義朝の子頼朝は池禅尼に助命され伊豆に配流。
1164年
(長寛2年)
 崇徳上皇が流刑先で行った大掛かりな写経の受け入れを後白河上皇に拒絶され、憤死。以降、飢饉、洪水、社会不安などや平氏の没落まで崇徳上皇の祟りとされた。
 平氏政権(1167〜1185年);今日では、この時から「中世」とする考え方が一般的。
  日本中世史関連  
1175年
(安元元年)
 源頼朝が、頼朝の監視役である伊東祐親の娘八重と通じ、祐親が頼朝を殺害しようとし、頼朝は北条氏へ逃げる。
1177年
(治承元年)
 この頃、伊豆に配流の源頼朝が北条時政の娘政子と結婚。伊東祐親はすでに平清盛に取りたてられていたが、北条時政は関東土着の武士として貴種である源頼朝を婿に迎えようとした。
 池禅尼の子平頼盛を脅威に思った平清盛が頼盛を失脚させる。頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政が結婚。平清盛に不満を持つ非主流派の関係強化とみられる。
1179年
(治承3年)
 治承三年の変;後白河上皇が平清盛によって幽閉され、院政は停止。
1180年
(治承4年)
 平清盛が高倉天皇(80代)を退位させ、娘の徳子が生んだ孫の安徳天皇(81代)を即位させる。
 後鳥羽上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ;皇族が出す命令)を発す。源行家(頼朝の叔父)が令旨を全国に配る。
 5月10日計画が漏れ、宇治川の合戦で、以仁王と源頼政(伊豆知行国主)は討死。
 源頼政の後の知行国主は平時忠(清盛の妻の弟)となり、伊豆守に平時兼、目代に山木兼隆を任命。平氏の圧力から、源頼朝の挙兵計画が具体化していった。以仁王令旨を受け取った源氏が平氏から追討されるとの噂も流れる。
 6月24日源頼朝がかつて父義朝にしたがった東国の武士に呼びかけ。
 源義仲が挙兵。
 8月6日源頼朝が8月17日に挙兵を計画。目標は伊豆国の目代 山木兼隆。まずは伊豆国の国衙機能を掌握することを目指す。
 8月9日大庭景親が、北条氏の不穏な動きに関して佐々木秀義に話す。秀義は息子定綱を使者として、北条時政に知らせる。源頼朝は後に引けなくなる。佐々木定綱は戦の準備のため帰ろうとするが、頼朝は定綱を引き留める。しかし、8月17日(挙兵)前日には戻ると約束し、定綱は帰っていった。しかし、8月16日になっても佐々木定綱らは戻らず、頼朝は不安になる。
 8月17日午後になって、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟が戻る。頼朝は感涙にむせぶが、お前たちが遅れたせいで、出陣できなかったことを叱責。夜半、出陣し、山木邸だけでなく、堤信遠邸も襲う。堤信遠は討ったが、山木邸では苦戦した。そこで源頼朝は自らを護衛していた加藤景廉・佐々木盛綱らを派遣し、山木を討ち取った。
源頼朝挙兵時の頼朝直参は北条氏の30騎を含む90騎程度であり、それに工藤茂光や千葉氏、三浦氏ら数百騎が加わった。次の目標は、伊東祐親を討つことであったが、大庭景親が頼朝討伐に動き出していた。
 8月19日兼隆の親戚である史大夫 中原知親から伊豆国蒲屋御厨(現南伊豆町)を没収するなど、行政権限を執行した。以仁王令旨に正統性を持たせて行政命令を出した。以仁王は翌1181年にも相模で生存していると噂され、それを利用した。または、頼朝に後白河法皇の院宣があったとも言われている。頼朝はすぐに上洛するのではなく、平将門のように東国に地盤を築こうとした。
 8月20日 頼朝は三浦義明から参戦の約束を取りつけていたとみられるが、三浦一族は豪雨による増水に阻まれ進軍が遅れていた。頼朝と北条時政は三浦氏と合流するため、いったん伊豆を捨て、相模に向かう。
 8月23日石橋山合戦、頼朝軍は主力を工藤茂光、北条時政、土肥実平らであり、土肥実平の本拠地土肥郷に進出したが、大庭景親軍三千騎に前方をふさがれ、石橋山(現小田原)に陣を張る。三浦勢は酒匂川東岸に達し野営。大庭方の武士の家屋を焼き払う。三浦勢接近を知った大庭景親は三浦勢が頼朝に合流する前に決着をつけようと頼朝軍に夜襲をかけた。頼朝軍は劣勢となり、土肥の椙山に逃れた。北条時政の嫡男宗時が戦死した。
 8月25日 大庭景親は弟俣野景久と駿河国目代 橘遠茂を甲斐に派遣するが、富士北麓の波志太山で安田義定・工藤氏・市川氏らの甲斐勢に敗れる。
 頼朝と北条時政・義時は別々に安房国(房総)を目指す。時政は途中、三浦半島で畠山重忠に攻められ逃げてきた三浦一族と合流した。安房国の義朝の郎党だった安西景益を頼った。頼朝は、各国の目代などを襲って、倉庫の財物を奪い、国衙機構を掌握するという戦略をとった。上総の上総広常、下総の千葉常胤らに馳せ参じるよう命じた。広常、常胤とも近隣の平氏勢力と敵対していたことによる。
 9月13日 頼朝は安房から上総に向かった。9月17日 下総に向かう。
 9月19日 上総広常以下2万騎が隅田川で頼朝に合流。房総半島を制圧した頼朝軍は2万7千騎となり、大庭景親に対して圧倒的に優位となる。武蔵の秩父平氏である畠山・小山田・河越・江戸・葛西・豊島らへの対処に向かう。
 10月2日 頼朝は隅田川を渡って武蔵に入る。豊島清元・葛西清重の出迎えを受け、10月4日畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上した。畠山重忠は三浦義明を殺しているので、三浦一族が助命に反対したが、頼朝にの説得により許された。頼朝の寛大な態度に、平家方から頼朝軍へ寝返る者が続出。大庭景親・伊東祐親ら平家家人は孤立していく。
 10月5日 北条時政・義時が武田信義・忠顕親子へ同盟申し入れ。そのまま甲斐源氏と駿河侵攻。
 10月6日 武蔵を江戸重長に任せ、相模国へ進軍。鎌倉に入り、根拠地とした。また、鶴岡八幡宮に参拝した。頼義−義家−為義−義朝と続いてきた河内源氏の正嫡を継ぐという頼朝の政治的宣伝であったと思われる。
 10月14日 武田信義ら甲斐源氏は、駿河国鉢田山で、橘遠茂・長田入道を破る。平家方2〜3千騎が殲滅される。駿河国は甲斐源氏が支配することとなる。橘遠茂は、平維盛(清盛の孫)を総大将とする源氏追討軍(10/16に駿河高橋宿に達していた)に先んじて甲斐源氏に一撃を加えることが役割だった。
 10月18日 富士川合戦;源頼朝と甲斐源氏が、平家の追討軍を破る。平家は、鉢田合戦敗戦、飢饉による食糧不足などから武田方への投降が相次ぎ、1〜2千騎となり、戦わずに撤退した。主力だった甲斐源氏が駿河・遠江を支配。
 富士川の合戦の後、源義経が頼朝に合流。奥州藤原氏を後ろ盾としており、頼朝は義経を養子として迎える。
 富士川合戦での敗北を聞いた平清盛は、福原遷都を断念し、反乱鎮圧に専念。平清盛は激怒し、戦わず撤退した維盛の入京を禁じた。京都における平家の権威は失墜。
 10月23日 頼朝は相模の国府で、初めての論功行賞により、新音給与(新たな所領を与える)、本領安堵(先祖伝来の土地の支配を認める)を行った。これは朝廷に対する越権行為であったが、東国武士をひきつけるために行ったと思われる。
 11月4日 頼朝軍は常陸国の佐竹氏を攻めて、所領を奪う。富士川合戦で成果が得られなかった頼朝の威信回復と恩賞地を確保するため、または佐竹氏と縁戚関係にあった奥州藤原氏への牽制が目的と考えられる。
 11月17日 鎌倉に帰還した頼朝は、和田義盛(三浦義澄の甥)を侍所別当とする。
 12月12日 源頼朝は大倉御所への移徒(わたまし)の儀式。侍所で対面した311人の武士が頼朝直属の家人、「御家人」と呼ばれる。和田義盛は御家人の統括者となる。この時点で、南関東は頼朝の軍事占領下に置かれた独立国家の様相であった。
 12月 平清盛は叛乱鎮圧に専念するため、長年の悲願であった福原遷都を断念に京に還都。平家打倒の旗を掲げていた近江源氏の山本義経・柏木義兼を破り、近江を制圧。さらに、平氏は治承5年正月には美濃源氏の源光長を破る。
 12月奈良興福寺の大衆が蜂起し、鎮圧のため、平重衡(清盛の5男)は、鎮圧に向かい火を放つ。興福寺・東大寺など焼失(南都焼き打ち)。近江源氏、美濃源氏などを鎮圧。
1181年
(治承5年)
 1月14日、高倉上皇死去;平家の朝廷支配を支えていた。清盛は幽閉していた後白河法皇を安徳天皇の後見役として復権させ、1月19日平宗盛を五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヵ国の惣官職(受領−目代の権限を越えて武士を統括)に任じる。また、平家が任じた惣下司を通じて九ヵ国の兵糧米を徴収できるようにした。源氏は家人組織で団結し、平家は国衙機構により軍事動員を掌握しようとした。この違いは、朝廷の命令系統に依拠しない源氏の強味となる。
 2月、平清盛死去(64歳)。平宗盛(清盛の嫡男)が、後白河上皇に政権返上。以仁王令旨の大儀がなくなる。
 3月10日 墨俣川の戦い;平重衡が美濃・尾張国境の墨俣川で源行家・源義円(源義経の同母兄)ら5千騎を撃破。しかし、養和の飢饉のため帰京。戦線膠着状態となる。木曾義仲や武田信義などが挙兵しており、それら源氏の棟梁を目指す源頼朝は後白河法皇に頼朝中心の源氏が東を平氏が西を治める和平調停案を送るが、平宗盛が拒否。
 4月 頼朝が「寝所祇候衆(しんじょしこうしゅう)」を組織、いわば親衛隊。江間四郎(北条義時)、結城朝光、和田義茂、梶原景季。三浦義連、千葉胤正など有力御家人の子弟が目立つ。北条義時は家子専一(いえのこせんいつ=家子の筆頭)であった。
1181年
(養和元年)
 8月、平宗盛が藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任命し、源頼朝を挟撃する構えを見せる。藤原秀衡は中立を守ったが、頼朝は秀衡に不信感を抱く。
1182年
(寿永元年)
 7月 以仁王の遺児北陸宮が平家の監視下を逃れ、木曾義仲の庇護下に入る。義仲は北陸宮を天皇にするという上洛の大儀を得た。頼朝と義仲は不仲になるが、後に義仲が嫡男義高を頼朝の娘大姫の許嫁として人質にだす。
 8月 亀の前事件;政子が男児(後の頼家)を出産したとき、頼朝は密かに愛妾亀の前を伏見広綱の屋敷に囲い、通っていた。牧の方からこれを聞いた政子は、牧宗親に命じ、広綱の屋敷を破壊させた。頼朝は宗親に申し開きをさせたが、宗親の人前で髻(もとどり)を切り落とし、恥辱を与えた。北条時政は頼朝に怒り、伊豆へ帰った。義時は時政に同行せず、以後、頼朝に重用されていく。
1183年
(寿永2年)
 4月中旬、平維盛が越前・加賀を攻略。
 5月11日 平家は越中・加賀国境の倶利伽羅峠で木曾義仲・源行家らに大敗する。
 6月1日 さらに加賀国篠原で、平家4万騎が、5千騎の木曾義仲に敗れる。義仲が京都に迫る。さらに摂津源氏多田行綱が反旗を翻し大阪湾を占領したことで、東西から挟撃されることを恐れた平宗盛は安徳天皇と三種の神器を抱いて西へ落ち延びる(平家都落ち)。7月25日、後白河院は比叡山に逃れ、平家は後白河院を連れていけなかったことにより求心力を失う。また、一部平家は京に取り残され、平家一門が分裂していく。
 入京したのは、木曾義仲、源行家のほか、安田義定(甲斐源氏)、源光長(美濃源氏)、山本義経(近江源氏)ら。7月28日 義仲・行家は後白河院から平家追討を命じられる。
 しかし、7月30日 後白河の院御所での論功行賞で、勲功第一位は頼朝、二位は義仲、三位は行家とされた。軍事行動を主導したのは頼朝というのが後白河院の認識であったが、義仲の抗議により取り消され、8月10日義仲が従五位下左馬頭兼越後守、行家は従五位下備後守に補任され、頼朝との立場が逆転した。
 後白河院は平家に対し、安徳天皇の帰京と三種の神器の返還を要求するが、平家の京都復帰後に神器を返還する、と事実上の拒否回答を得る。後白河院は新天皇の擁立を決断する。義仲は安徳天皇の代わりに自らが保護していた北陸宮の天皇践祚を要求。践祚は後白河院に拒否され、関係悪化。高倉第四皇子の尊成(たかひら)親王が即位し、後鳥羽天皇となる。
 飢饉の中、義仲軍は京での食糧確保に苦労し、寺社・住宅や田畑への略奪行為に及び、これを制止できない義仲に対して朝廷の不満が高まる。9月19日、後白河院は、自ら義仲に御剣を渡し、平家追討を命じ、京から義仲を追い払う。義仲も自らの求心力を高めるため、軍事的成果を上げなければならなかった。
 義仲が平家追討のため西に向かったことで、後白河院と頼朝の間で交渉が進展する。頼朝は平家に奪われた寺社荘園を元の寺社に返還する/平家に奪われた院・公家らの荘園を返還する/降参した平家方武士の刑罰を減免する、という条件を出す。ただし、藤原秀衡・佐竹隆義が南進する可能性、京の食糧難を理由に、上洛を断った。義仲については非難した。10月 後白河院が源頼朝に東国の軍事警察権だけでなく、年貢貢納の責任と権限(=行政権)を与える宣旨(平家にも与えなかった強大な権力を与えた。朝廷としては内乱時の一時的な権限を意図した可能性も。);事実上の鎌倉幕府成立。頼朝が甲斐・近江・美濃の源氏の上に立つこととなる。(北陸の義仲の上に立つことは後白河院が避けた)
 閏10月1日 木曾義仲は備中国水島(現倉敷)で平家の水軍に敗れる。平家は屋島(現高松市)から本州への移動を検討。
 頼朝は後白河院からの上洛要請を受けて、義経ら5〜600騎を京へ覇権。藤原秀衡の脅威から大軍を上洛することはできなかった。しかし、木曾義仲はこの動きに過剰に反応し、京へ帰還し、後白河院を伴い東国へ下り頼朝を討つと強硬論を吐く。朝廷や行家らは、義仲から離反し、後白河院方につく。
 11月19日 法住寺合戦;義仲が後白河院御所である法住寺を襲い、源光長を討ち取り、前関白藤原基房と組んで後白河院を監禁し、国政を掌握した。
 12月10日 義仲の申請により頼朝追討命令が出される。
 12月 頼朝は異母弟の範頼を援軍として京に派遣。東国独立論者の上総広常が派遣に反対し、粛清される。
1184年
(寿永三年)
 1月11日 義仲が「征東代将軍」に任命される。(940年平将門を鎮圧するため藤原忠文が任命されて以来)
 法住寺合戦以来の義仲の孤立を見て、平信兼(山木兼隆の父)ら伊勢・伊賀の平家方武士や安田義定が義経軍に合流。
 1月20日 宇治川の戦い;義経が少数と判断した義仲は北陸への撤退を取りやめ迎撃。範頼が近江の勢多を、義経が山城の宇治を攻撃。義経が義仲を撃破し、義仲は後白河院を連行しようとするも失敗し、敗走途中の近江粟津で討ち取られた。甲斐源氏は頼朝に従属していく。
 朝廷は福原に迫っていた平家の対策を協議した。九条兼実や義経に同行した土肥実平・中原親能は和平案に同意していたが、強硬論の後白河院に押し切られ、義経・範頼は1月29日に京を出発。平家2万騎に対し、源氏軍は2〜3千騎だったが、2月7日大阪湾から山陽道を進む範頼と、丹波から播磨へと内陸を進む義経に分かれ、開戦;一の谷の合戦。義経の鵯越(ひよどりごえ)で勝敗が決したと『平家物語』『吾妻鑑』ではなっているが、脚色である可能性が強い。平重衡が捕虜となった。平宗盛は後日、後白河院からの和平の申し入れがあり、使者を待っているところを源氏軍に襲われたと恨み事を述べている。
 頼朝から朝廷へ四ヶ条の申請;一 戦乱で荒廃した東山道・北陸道に来秋には受領を任命すべき、ニ 平家追討、三 神社の保護、四 悪僧(僧兵)の武装解除。しかし、頼朝は平家との和解も選択肢に持っており、平家追討を理由に朝廷の権威を利用し、畿内の武士を義経傘下に組み入れることを狙ったと思われる。平家と後白河院との和平交渉も継続したが、結局は平宗盛の後白河院への不信感から成立しなかった。
 頼朝は京へ使者を送り、義経を京都守護に、土肥実平・梶原景時に播磨・美作・備前・備中・備後の守護を命じた。この五ヵ国が対平家の最前線であった。和平交渉が決裂し、頼朝は土肥実平らを平家追討使とした。義経傘下には元平家の武士が多かったものと思われる。
 3月7日 後白河院は、義仲に与えた平家没官領を頼朝に与える。鎌倉殿の直轄領荘園群であり、関東御領の基礎となった。10月にこれらを管理するための公文所(のちの政所)を開設。中原(大江)広元・中原親能らが寄人(職員)に任命された。
1184年
(元暦元年)
 6月以降、土肥実平は安芸国で6度敗戦するなど苦戦した。頼朝は義経に平家追討を命じようとするが、伊賀・伊勢平氏の乱が起きる。
 7月7日 伊賀 平氏家人平田家継が挙兵、大内惟義の郎党をことごとく討ち取った。小松家の有力家人であった伊藤忠清も伊勢で挙兵。東国武士の支配への抵抗。7月19日大原荘(滋賀県甲賀市)で激突、源氏は乱の首謀者平田家継を討ち取ったが、源氏の功臣佐々木秀義が戦死するなど犠牲も大きかった。
 義経は伊賀・伊勢平氏の残党に対処するため、畿内に釘付けになっており、8月8日 頼朝は範頼を平家討伐に起用し、鎌倉を出発。8月27日京都に到着し、8月28日朝廷から追討使に任命され。9月3日に出陣。千葉常胤、和田義盛、北条義時、比企能員、三浦義澄らが参加する主力部隊であった。
 10月12日 範頼は安芸国を制圧し、論功行賞を行うが、周防・長門で補給線が伸び、食糧不足となる。また、水軍力も不足し、彦島(下関市)を攻められない状態となる。範頼は頼朝に食糧と船、馬の不足を訴える手紙を送る。頼朝は船を送ることを約束し、平家の本拠地屋島攻略を急がず、九州武士を懐柔するように手紙を送る。頼朝は安徳天皇と三種の神器を改宗することと、平家の殲滅には味方に多大の犠牲を強いることとなるため、長期戦の構えだった。
1185年
(元暦二年)
 1月10日 範頼の苦戦により、西国武士が平家に寝返ることを懸念した義経は後白河院に四国への出陣を申請。朝廷でも短期決戦に同意する。
 1月26日 範頼は豊後国緒方惟栄・臼杵惟隆兄弟が味方につき船を提供を受け、九州に渡る。
 義経は、摂津渡辺津で畿内水軍の組織を行い、2月16日に屋島に進攻。2月19日背後を突かれた平宗盛は安徳天皇の安全を優先し、戦わず海上に逃れる。屋島合戦の勝利により、熊野水軍が義経傘下に入り、大規模な水軍力を持った。義経は使者の往復で時間がかかるため、頼朝の指示を仰がず、独断で水軍を動かし、平家の拠点彦島を目指した。
1185年
(文治元年)
 3月24日 壇ノ浦の戦い;源義経が平氏を破る;平氏滅亡。安徳天皇は二位尼時子(清盛の妻)に抱かれ、三種の神器は海中へ。(鏡と勾玉は回収されるが、剣は失われ、1210年(承元4年)伊勢神宮の剣から一つが選ばれ、改めて祀られた。)このような事態を避けるため頼朝は長期戦にこだわったが、義経が平家に降伏の機会を与えず性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想とは異なる形で源平合戦は集結した。このことが頼朝と義経の対立の伏線となる。
梶原景時は、頼朝に対して義経が自分一人の力で平家を滅ぼしたと勘違いして傲慢になっている、と東国武士の不満とともに告発。頼朝は和田義盛に九州武士の組織化を命じ、九州の平家所領を没収し、東国武士の不満解消に努める。
 5月平宗盛を鎌倉に護送した義経が鎌倉入りを拒否されて腰越の地で弁明書(腰越状)を書かされたが、かえって頼朝の怒りをかったというのは『吾妻鏡』の創作か。
 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、後白河上皇の院政つづく。後白河上皇は、壇ノ浦の戦いで功のあった源義経に官位を授けて、頼朝を牽制する。
 10月6日 後白河法皇の庇護下に入って鎌倉への参向を拒否した源行家を討伐を、義経に命じるが、病気を理由に断った。頼朝は、義経が行家と結託していると判断し、鎌倉に下り、自らに従属することを求めた。京都を離れ、後白河法皇の後ろ盾を失えば、一御家人となり、平家追討の英雄である義経には耐えられなかったのではないか。
 10月13日 義経は後白河法皇に対し、頼朝追討の宣旨を求めた。後白河院が義経を煽動したとされているが、義経に脅されたとみられる。義経がこのタイミングで挙兵したのは、勝長寿院の落成供養に参加するため東国武士が鎌倉に集結し、京都に軍事的空白が生まれていたことが一因。が、義経は奥州藤原氏の元に逃れるも討伐される
 義経の直属武力は、西国武士であり、反平家、頼朝の代官、そして後白河法皇により平家追討命令により統率していものであり、義経の個人的魅力によるものではない。頼朝は義経討伐のため、自ら出陣した(頼朝の出陣は、1180年の佐竹攻め以来)。義経麾下の武士たちは、頼朝に反旗を翻した義経から離反した。
 11月3日 義経と行家は、京都で頼朝を迎え撃つことを断念、九州に向けて200騎ほどで出京した。途中暴風で船が難破し、散り散りとなって逃走した。
 源義経・行家の挙兵が失敗したことを見た頼朝は上洛を中止し、北条時政に千騎の兵とともに上洛させる。後白河院は、義経・行家追討の宣旨を発給したが、頼朝の怒りは解けず、時政は強硬な姿勢を示し、11月28日義経・行家の捜索・討伐のための諸権限授与を求めた。朝廷は翌日には許可した;「文治勅許」(守護・地頭制の原型か)
 12月 頼朝は大江広元と協議し、朝廷へ改革要求。一、右大臣九条兼実を筆頭とする公卿10人を「議奏公卿」に指名し、彼らの合議で国政運営する(後白河法皇の独占防止のため朝廷の人事に介入した)。 ニ、頼朝追討宣旨発給に関与した者の解任。 三、頼朝の対朝廷交渉窓口として「関東申次」を創設し、吉田経房の就任。
1186年
(文治二年)
 時政は義経・行家を捜索をしつつ、治安維持、兵糧米徴収、所領没収などを行い、朝廷と軋轢が生じた。
 3月27日 頼朝は北条時政に代えて、妹婿で貴族の一条能保を京都守護とし、戦時から平時体制へ以降し、後白河院との和解・協調に転じた。しかし、京都の治安は悪化した。頼朝は時政が第二の義経になることを警戒したとも考えられる。
 能保は捜査網を広げ、義経派の掃討に成功、5月、源行家が和泉国で討ち取られた。6月義経の娘婿となった源有綱が討たれ、7月義経の家人 伊勢義盛が捕まって打ち首。9月義経家人の佐藤忠信が自害。義経は吉野・鞍馬・多武峰・比叡山・興福寺などを転々とした。吉野で分かれた愛妾静御前が捕らえられて鎌倉に送られた。
1187年
(文治三年)
 義経が奥州藤原秀衡のもとにいることをつかんだ頼朝は、4月朝廷に申請して使者を奥州に派遣させ、東大寺大仏のメッキ用の砂金三万両を出すように秀衡に要求した。秀衡に対する挑発だったが、秀衡はこれをやんわり断った。
 9月頼朝は朝廷に対し「秀衡は謀反人の義経をかくまい、反逆を企てている」と訴える。朝廷は奥州に使者を派遣したが、秀衡は謀反の嫌疑を否定した。頼朝が独自に鎌倉から派遣した使者の目には、秀衡は合戦の準備を進めているように映った。
 奥州藤原氏の軍事力・経済力と義経の武略が結合することは頼朝にとって脅威であり、性急な奥州侵攻はせず、外交で圧迫した。秀衡は屈せず、したたかに頼朝と渡り合ったが、10月29日病没する。
 秀衡は嫡男泰衡に義経を大将軍とするよう遺言したとされているが、動揺した藤原氏は、義経を戴いて頼朝に対抗するという路線で団結することができなかった。
1188年
(文治四年)
 2月出羽国目代と義経の間で軍事衝突。義経が奥州藤原氏から兵を預けられていることが明らかとなり、朝廷は藤原泰衡に対し、義経を引き渡すよう命じたが、泰衡の返答はなかった。10月にも改めて義経を引き渡すよう泰衡に命じている。
 朝廷は頼朝に対し、義経追討を命じようとしたが、頼朝は亡母供養の五重塔造営と自分の厄年により殺生禁断を誓っていると断る。
1189年
(文治五年)
 頼朝は武力討伐に方針転換。2月9日頼朝は九州の島津荘地頭の惟宗忠久らに対し、兵を率いて鎌倉に馳せ参じるように命じている。全国からの総動員体制だったと思われる。
 2月 藤原泰衡は、義経の居場所がわかったので引き渡すという書状を朝廷に提出。頼朝は虚言であり、信用できないと一蹴し、朝廷に対して泰衡討伐の許可を求める。義経殺害;このような頼朝の圧迫に耐えきれなくなった泰衡は、閏4月30日、義経の居館を数百騎で襲った。義経の家人が奮戦するも敗れ、義経は持仏堂に入り、妻と子を殺したうえで自害した。享年31歳。義経の首は鎌倉に届けられた。
 5月末には泰衡が義経を討ったことが京都に伝わり、朝廷は奥州征伐中止を頼朝に伝える。しかし、頼朝は2月に泰衡討伐の動員をかけており、老臣大庭景能の「軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」(戦時の行動は朝廷の制約を受けない)との助言により出兵する。朝廷は泰衡追討を追認した。朝廷の命令を無視して行動する権力が国家体制の中に位置づけられた。
 7月17日 東海道軍は千葉常胤・八田知家、北陸道軍は比企能員・宇佐美実政、大手軍は頼朝自ら率いて出陣。誇張と思われるが、『吾妻鏡』で総勢28万騎としている。7月29日に白河の関を越え、8月8日から10日にかけて阿津賀志山で泰衡軍と戦い、大将藤原国衡を討ち、大勢は決した。
 8月22日 大手軍は平泉に入ったが泰衡は逃亡していた。頼朝はさらに北上すると、泰衡から降伏の申し入れがあったが、頼朝は許さなかった。9月6日家人の裏切りによって討たれた泰衡の首が頼朝のもとに届けられた。奥州藤原氏は滅亡した。
 頼朝は泰衡討伐後も厨川(現・盛岡市)まで北上し、終戦宣言をしたのは、前九年の役における頼義の行いを再現した。頼朝は平家に勝っただけでなく、甲斐源氏、佐竹氏、木曾義仲、義経らを征し、源氏嫡流、武家の棟梁の地位を得たことのデモンストレーションでもあった。
1190年
(建久元年)
 11月7日 源頼朝上洛し、後白河上皇を威圧するも征夷大将軍は認められず。権代納言、右近衛大将に任じられるが、任官の儀式を終えると辞任する。京官を務めることを避けたと考えられる。
1191年
(建久二年)
 朝廷は次々と法令を発し(建久新制)、頼朝に平時においても治安維持権限を与える。(この時に鎌倉幕府成立とも)
1192年
(建久3年)
 6月 頼朝は鎌倉の永福寺の造営を開始。責任者は北条義時。9月義時は頼朝の仲立ちで姫の前と結婚、正室とする(その前に阿波の局との間に泰時を設けていた)。
 後白河上皇崩御(66歳)により、7月12日 後鳥羽天皇(82代)が源頼朝を征夷大将軍に任命。鎌倉幕府を開く。後鳥羽天皇は13歳で、九条兼実が関白として政治を主導した。「征東代将軍」には義仲が、「惣官」には平宗盛が就任しており、不吉なことから、坂上田村麻呂の吉例がある「征夷大将軍」となる。しかし、在位2年あまりで辞任する(元々臨時の官職だったからか)
1193年
(建久4年)
 源範頼が謀反の疑いで失脚。伊豆に流され、暗殺される。大庭景能、岡崎義実らは出家。
 5月28日 富士野の巻狩りで、曾我事件発生;曾我兄弟が親の仇である工藤祐経(頼朝有力御家人)を討ち、源頼朝殺害の陰謀が疑われる。甲斐源氏の有力一門安田義定・義資が処刑される。伊豆・駿河・遠江は北条時政の所領となる。頼朝が嫡男頼家の外戚北条時政とともに権力移行の準備をすすめる。8月、範頼は謀反の疑いにより流罪となる。
1195年
(建久六年)
 2月 頼朝は2度めの上洛。北条政子・長女大姫・嫡男頼家を伴っていた。3月12日東大寺大仏殿落慶法要に出席。頼朝も多大な支援を行い、宋の工人陳和卿らを招聘した。
1196年
(建久七年)
 建久七年の政変;11月九条兼実が関白を罷免される。娘任子も内裏から退出させられる。源通親の娘在子が後鳥羽天皇の第一子為仁を出産。近衛基通が関白・氏の長者に。頼朝は静観。頼朝の娘の大姫を後鳥羽天皇に入内。
1197年
(建久八年)
 7月 大姫が病死。頼朝の妹婿の一条能保が死亡。頼朝が対朝廷外交を行う手段も意欲も亡くしていた隙をついて、源通親は為仁親王の即位を強行した(土御門天皇)。頼朝が天皇の外戚になろうとするのは、平清盛同様の貴族化路線であり、老いた頼朝の失策との評価もあるが、これは公武対立説に基づいており、頼朝は元来、朝廷の権威を背景に源氏の嫡流として権力を確立すること、いわば「王家の侍大将」を目指していたと思われる。しかし、結果的にそれまでの武家の棟梁とは異なるものへ飛躍した。頼朝は頼家という後継者においてアキレス腱を抱えており、朝廷に対して絶対的な保護者でありながら、自己抑制的であり、結果として、幕府は朝廷の下部組織に留まった。朝廷と幕府の力関係を劇的に変化させるのは、以後の北条義時による。
1198年
(建久9年)
 後鳥羽天皇譲位し院政。土御門天皇(83代)が2歳で即位。後鳥羽上皇は、順徳天皇(84代)、仲恭天皇(85代)で院政を敷き、朝権回復に専念。
1199年
(建久10年)
 1月 落馬事故により源頼朝死去。頼家が第2代将軍に。稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追善供養のため橋を架けた落成供養に参列した帰りに落馬して死亡した。糖尿病だったとの説も。源通親が朝廷を主導し、頼朝に与えた軍事警察権を頼朝に委任。鎌倉殿の国家的役割が確定した。
『吾妻鏡』は頼朝晩年を記していない。北条政権への配慮によるものか。
 2月 京都で一条能保・高能父子の遺臣が源通親を襲撃しようとして捕らえられる。頼朝の縁戚であった一条家公卿が失脚。通親の権力が強化された。三幡(頼朝の次女)が早世し、入内工作は失敗。
 頼家を13人の宿老が合議制で支える体制がとられる。
大江広元・三好康信・二階堂行政・中原親能 ;(頼朝の独裁を支えた文士)
足立遠元 ;(武士だが公文所寄人の経験から実務能力も持つ)
三浦義澄・和田義盛 ;(相模三浦一族)
八田知家・梶原景時 ;(頼朝側近)・・・和田義盛・梶原景時は侍所別当・所司としての参加でもある。
比企能員・安達盛長・北条時政・義時 ;(東国武士として参加)
1199年
(正治元年)
 10月梶原景時が結城朝光を討つとの情報を朝光の妻阿波局(政子の妹)が知らせる。三浦義村らが大江広元に弾劾状を出す。頼家は景時に弁明を求めるが、景時は抗弁することなく本拠地の相模一宮に退去。この潔い態度に一度は許されるが、評議の結果、鎌倉追放が決まる。
1200年
(正治二年)
 1月19日景時は一宮を離れたが、謀反のため上洛したとみなされ、追討され、駿河国で討たれた;梶原景時滅亡。甲斐源氏の武田有義(信義の子)も景時と同心したとされ、弟信光に攻撃され、逃亡。阿波局は政子の妹であり、駿河国の守護は時政であることから、北条時政・政子の陰謀か。
 4月 北条時政が遠江守、従五位下に叙任される。国司に就任できるのは源氏一門に限られていたが、北条の家格が上がった。
1201年
(建仁元年)
 治承・寿永の内乱において平家寄りだった城長茂・藤原隆衡(秀衡の子)らは、梶原景時に以前命を救われており、景時死後、敵討ちのため幕府に反旗を翻す。源通親と親しく、旧平氏系武士に影響力を持つ景時に対し、東国武士が反発したことも。腹心であった景時をかばいきれなかったのは、頼家の最大の失策であった。
1202年
(建仁二年)
 頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に宣下された。
1203年
(建仁3年)
  5月 阿野全成(頼朝の異母弟)・阿波局は千幡の乳父乳母であり、頼家に代わって、千幡を将軍にする陰謀をめぐらしていた。先手を打った頼家と比企能員は、全成を謀反人として捕らえ、常陸国に配流、6月に下野国で八田知家に誅殺され、その子頼全も京都で殺される。頼家は阿波局も捕らえようとするが、母政子に阻まれた。
 7月 頼家が重病となり、8月末に危篤状態となる。頼家危篤を受け、子の一幡が相続すると外戚である比企能員の権勢が高まることを恐れた北条時政が自邸に招いて能員を殺害。一幡も殺した。
 9月5日 頼家は息子と舅の死を知り、激怒し、時政討伐を和田義盛・仁田忠常に命じる。しかし、義盛が北条方についたため失敗。7日政子の命により頼家は出家させられた。対応をためらっていた仁田忠常忠常は北条派の加藤景廉に誅殺された。29日頼家は伊豆修善寺に幽閉され、1204年(元久元年)7月23日頼家は暗殺された
 後鳥羽院は千幡に実朝の名を与え、従五位下・征夷大将軍に叙任した。迅速な対応から考えると、一幡が相続しそうになり追い詰められた時政が仕組んだクーデターであった可能性が高い。
 10月3日 時政・牧の方の娘婿である平賀朝雅が京都守護に就任。時政による朝廷との関係強化の一環。
 10月8日 実朝は時政邸で元服(13歳)。以後、幕府を主導したのは北条時政であったが、時政・牧の方と義時・政子との間で主導権争いがあった。実朝の正室には足利義兼の娘が決まっていたが、(おそらく時政が)難色を示し、京都の公家坊門信清の娘を婚姻を結ぶ。後鳥羽院との関係強化が目的か。
 時政の息子政範が上洛し、16歳で従五位下に叙任される。この時、義時は42歳で従五位下であり、政範が北条家当主である時政の後継者と見られていた。しかし、11月5日 政範は京都上洛中に早世する。
1204年
(元久二年)
 11月4日 京都の平賀朝雅の屋敷酒宴で、朝雅と畠山重保(重忠の嫡子)で口論となる。
1205年
(元久2年)
 6月21日 平賀朝雅が牧の方を通じて「畠山重忠に謀反の意志あり」と時政に讒訴した。時政は一度は義時・時房に制されるが、牧の方が義時を詰問し、義時・時房・和田義盛らが重忠討伐に出陣する。22日 重保は由比ガ浜で三浦義村に討たれた。治承・寿永の内乱のとき、重忠は平家方として衣笠合戦で三浦義明を討っている。重忠が頼朝に降伏した際、三浦らは頼朝に報復を禁じられたが、その遺恨を時政が利用したと考えられる。
 鎌倉で謀反が起きたので急ぎ馳せ参じよと稲毛重成から連絡を受けた畠山重忠は、二俣川付近(現横浜市旭区)で、重保が殺されたこと、自分が謀反人として討伐されようとしていることを知った。本拠地にに引き返し態勢を立て直すべきとの意見を退け、逃げるところを討たれた梶原景時のような末路をとりたくない、と幕府の大軍に突撃し、華々しい戦死を遂げる。
 重忠に従っていたのは僅か百騎あまりであり、謀反を企てたという話は偽りだったと義時が時政をなじった。時政は重忠を陥れた罪で稲毛重成を殺した。東国支配強化のため武蔵国を支配していた畠山重忠を排除しようとした可能性もあるが、政範の死により後継ぎを失った時政の焦りからの暴走と考えられる。強引なやり方の時政に御家人たちが反発した。
 北条時政が娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立するため、実朝の身柄を確保しようと自宅に招いたところ、北条政子と義時が、時政による実朝の拉致・監禁と判断し、三浦義村らに実朝を連れ出させる。孤立した時政を失脚させ、義時が政所別当となった。時政の権力の源泉は実朝の後見役という地位にあるが、それを否定したことは自殺行為であった。実朝の母である政子は将軍を代行できる権力を持っていた。また、三浦一族が義時に味方したことも大きく影響した。
 義時は、京都に使者を遣わし、平賀朝雅討伐をさせた。幕府の内紛により、自身の近臣である朝雅が討たれたことで、後鳥羽院は幕府に京都の治安維持を任せることに危機感を抱き、「西面の武士」と呼ばれる直属武力を編成する。
1209年
(承元三年)
 実朝は正四位下から従三位に昇叙され、政所を開設できるようになり、親裁を開始。義家は政所別当となる。
 7月 実朝は自作の和歌三十首を藤原定家に送り評価を求めるなど和歌、蹴鞠など王朝文化に傾倒し、後鳥羽院の政治を理想とした。11月義時は弓馬の事(武芸)を忘れないよう実朝を諫めた。
 義時が自らの郎従を御家人に取りたてる申請を実朝が却下した。そういう陪臣の子孫が北条を飛び越して直接幕府に奉公しようとするから望ましくない、と叔父義時の面目を立てながら説得した。
1213年
(建暦三年)
 2月 千葉成胤から謀反の計画が進行中であるとの通報が幕府に入る。和田義盛の子義直、義重、甥の胤長が捕縛された。義盛の赦免の願い出に対して、子は釈放したが、甥の胤長は配流となる。面子を潰された和田義盛は御所へ出仕しなくなった。胤長の屋敷地がいったんは義盛に与えられたが、4月2日 義時に与えられることとなる。義時による挑発と考えられる。
 4月27日 侍所別当和田義盛謀反の噂があり、実朝は自重を促す使者を義盛に遣わす。しかし、義時に対して怒る若者たちを抑えられないと回答。
 5月2日 和田合戦;和田義盛らは150騎で挙兵。御所に攻め、火をかけた。しかし、同族の三浦義村が義時側についたため、失敗した。三浦一族の惣領である義村からは、自分よりも権勢を振るおうとする和田義盛が存在が面白くなかった可能性もある。
 5月3日 南武蔵の有力御家人横山時兼らが和田勢に合流し、攻勢に転じる。辰の刻(午前8時頃)、曾我、中村、二宮、河村など西相模の武士が鎌倉に到着。和田方、北条方どちらにつくか迷っていたところ、法華堂に陣取る実朝からの動員命令書を受け取り、北条方につかせた。将軍実朝の存在が北条方の切り札となった。義盛親子らが討ち取られ、翌4日、片瀬川の川辺に和田方の首234がさらされた。
 千葉成胤、三浦義村の活躍が大きいが、司令官である義時の権力が拡大する。義時和田義盛を攻め滅ぼして、侍所別当を兼務し、執権とよばれるようになる。義時の郎従が御家人になるなど、義時は別格の御家人になっていく。大江広元を行政面、三浦義村を軍事面のパートナーとして幕府指導体制を構築した。
1216年
(建保四年)
 実朝の親裁、政所別当の増員など、権力強化が試みられる。また、実朝は権中納言に昇進。義時・広元らは、昇進を望むことを諫めた。
1218年
(建保六年)
 政子が京都で後鳥羽皇子の冷泉宮頼仁親王を実朝後見を前提に鎌倉下向の交渉を行う。実朝引退前に後見職にふさわしい身分とするため、近衛大臣、内大臣、右大臣と急ピッチで昇進した。
1219年
(建保七年)
 鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式において、実朝が頼家の子公暁に暗殺される。公暁は自ら将軍になることを三浦義村に宣言するが、討たれた。実朝には子がいなかったので源氏は3代で途絶える。
 2月13日 政子の命を受けた二階堂行光が上洛、後鳥羽皇子の六条宮雅成親王か冷泉宮頼仁親王を将軍として鎌倉に下向させることを要請。しかし、後鳥羽院は後見となる実朝が不在になったことを理由に拒否。
 3月 後鳥羽院は実朝の弔問使藤原忠綱が鎌倉へ派遣し、摂津国長江荘・倉橋荘の地頭(義時)の解任を要求。北条義時・時房・泰時・大江広元・政子が協議の上、これを拒否。政子は時房に千騎を率いて京都へ上洛させ、軍事的圧力をかけ、地頭職解任と親王将軍下向の要求を行った。
 後鳥羽院は皇族を将軍とすることは許さないが、摂政・関白の子ならよい、と譲歩し、京都から五摂家で頼朝の妹のひ孫に当たる九条頼経(三寅、当時二歳)を迎えて将軍(摂家将軍)とした。当面は政子が政務を執る(尼将軍);以降将軍職は形骸化。
 京都の源頼茂が征夷大将軍職を要求し、謀反。後鳥羽院は在京武士を動員して鎮圧するが、大内裏が焼失。大内裏再建のため「造内裏役」という日本全国を賦課対象とした税金を課したが、公家・寺社・武士などが納税拒否。実朝暗殺の余波である幕府の内紛に起因するのに、幕府が積極的に協力しなかったと、後鳥羽院の幕府に対する不満を増幅させた。朝廷を重んじた頼朝・実朝と違い、義時は御家人の権利を擁護する姿勢が強い。実朝の死を境に幕府の態度が反抗的なものに変わったことへの不満が後鳥羽院挙兵につながった。
1221年
(承久三年)
  4月 順徳天皇(後鳥羽上皇の皇子)は、皇子懐成親王に譲位(仲恭天皇)した。上皇として自由な立場から父後鳥羽院の倒幕計画に協力するため。
 4月下旬後鳥羽院は仏寺守護を名目に軍事動員を行い、在京御家人、西面の武士、畿内近国の武士が召集された。京都守護の大江親広(広元嫡男)を味方に引き入れ、親幕派の公家西園寺公経・実氏父子らを監禁。もう一人の京都守護である伊賀光季に参陣を要請。光季は妹 伊賀の方は義時の後妻となっており、光季は拒否。
 5月15日大内惟信(平賀朝雅の甥)、三浦胤義(義村の弟)らが、光季の屋敷を襲い、光季は屋敷い火を放って自害。
 後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命じる官宣旨を発す;承久の変
 後鳥羽院からの(弟経由での)誘いを断った三浦義村が東国武士の離反を防いだ。また、政子の御家人に対する将軍への恩を忘れず、幕府のために戦うよう演説を行い、結束した。幕府では迎撃策と上洛しての積極攻撃を協議し、後者をとる。後鳥羽院は義時追討を命じたが、北条側では「朝廷による倒幕」と危機感を煽って東国武士の結束を図った。
 東国武士の本拠地、つまり経済的・軍事的基盤は東国であり、在京御家人は次男以下が派遣されているので基盤が弱い。また、東国武士が西国守護についているため、後鳥羽院は重用した西国武士は規模が小さかったため、動員できる軍事力が大きく異なったことによる。後鳥羽院の下には北条氏遠ざけられる等幕府への不満を持つ無事が集まっていた。後鳥羽院は幕府が武士たちに指示されていないと誤解し、義時を狙い撃ちにして、幕府の内部分裂を狙ったが、失敗した。
 6月5日 朝廷方は美濃・尾張を防衛ラインとしたが、突破され、6月8日藤原秀康が美濃での敗戦を報告すると、後鳥羽院は比叡山に逃げようとしたが、東国武士に対抗できないことを理由に入山を拒否される。6月10日後鳥羽院は西園寺公経・実氏父子を解放し、和平に備えた(勝利を諦めた)。
 北条時房が瀬田、泰時が宇治、三浦義村が淀に展開し、朝廷方を撃破。
 6月15日 藤原秀康、三浦胤義らが朝廷に敗戦報告をし、御所に籠って最後の合戦を望んだが、巻き添えになることを恐れた後鳥羽院によって門前払いとなる。胤義は三浦義村の軍勢に戦いを挑み、討ち死に。藤原秀康は逃亡。
 6月16日 北条泰時・時房らは、京都六波羅に入る。
 7月2日 後鳥羽院に仕えていた四人の武士、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範らを朝廷の許可を得ず、幕府の独断で梟首。御家人でありながら、幕府に逆らったため。一条能保ら後鳥羽院の側近は鎌倉移送途中で斬首。能保らは貴族なので流罪が最高刑だったが、幕府は許さず、私刑として斬首した。
 後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に配流。承久の乱に積極関与していなかったが自ら流罪を希望し、土佐に配流(後に阿波国に移る)。仲恭天皇退位、後堀河天皇(86代)即位。親王将軍候補だった六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王も流罪となる。義時は断固たる処置を行ったが、京都での戦後処理は三浦義村の役割が大きかった。
 幕府は京方についた畿内・西国の守護を次々に解任し、東国御家人を任命。北条一族も八か国の守護職を獲得。後鳥羽院の400カ所の王家領荘園をすべ没収の上、後高倉院に進上し、天皇未経験で朝廷の頂点に立つことになった院を支援。幕府は院政や荘園制という政治体制を否定せず、朝廷との共存を図ったのであり、承久の乱は革命ではなかった。
 幕府が没収した西国の領地を与えられ、西国に移住した御家人を「西遷御家人」というが、しばしば過剰な収奪によって荘園領主や荘民らと軋轢を起した。朝廷は新補地頭の得分の基準を定めた。
 地頭による荘園侵略が強調されてきたが、御家人が地頭の職務を行うことで、荘園制という中世社会の体制が安定した。潜在的な反乱分子である武士を体制の中に取り込んだといえる。
 これまでの幕府は、東国武士の利益団体という性格であり、朝廷を通じて畿内・西国と関わっていた。承久の乱を契機に幕府の勢力が本格的に西日本に及び、守護・地頭制が全国的に展開するようになると、全国政権として、畿内・西国武士・公家・寺社と直接向き合わざるをえなくなっていく。
 承久の乱の敗戦により、京方武士の主要人物は殺害・処刑され、朝廷は固有の武力を失い、戦争放棄、戦力不保持を幕府から強要されたといえる。
 頼朝死後、在京して後鳥羽院に仕える御家人が次第に増加し、承久の乱において京方の中核となった。「京都守護」という仕組みは朝幕両属的な在京御家人を統制するうえで不十分だった。これを反省した幕府は再発防止と畿内・西国武士を監視するために「六波羅探題」を設置した。
 統治の責任を負うことになった幕府は、地頭御家人の横暴を規制して善政を志向するなど「撫民」の思想など武家政権として成熟し、武家政治が中世社会に浸透していく。
1224年
(貞応三年)
 6月12日北条義時が病に倒れる。脚気に他の病気を併発したとのことだが、翌日には死去(62歳)。
 6月28日 政子は京から鎌倉に戻った泰時を執権に任命することに決め、大江広元も賛同。しかし、義時の後妻 伊賀の方が自分の子である政村を執権職に就けて、兄の伊賀光宗を後見とし、娘婿の一条実雅(一条能保の息子)を将軍に擁立しようとしている、との噂が流れる。
 7月17日 伊賀光宗らが三浦義村邸に出入りしていることを政子が義村の詰問。義村は事態収拾を約する。伊賀の方と光宗兄弟は流罪となり、一条実雅は越前に、伊賀一族は九州流された。政子による陰謀説も;伊賀氏事件。
1232年
(貞永元年)
 執権北条泰時は「御成敗式目」を定める。
1242年
(仁治三年)
 四条天皇(87代、後堀河天皇の皇子)が11歳で廊下で転んで崩御。世継ぎなく、北条泰時の意見により、承久の変で中立的立場をとった土御門上皇の皇子(=後鳥羽上皇の孫)を即位させ、後嵯峨天皇(88代)とした。現在の皇族はすべて後鳥羽上皇の子孫。


<源頼朝家系図>
             源為義      
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  |      
               
義賢       義朝 === 藤原季範娘  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  |   | −−−−−
義仲  
義平 朝長  範頼 全成  義円  義経    希義 
義高              
                  政子 ==========  頼朝 =八重姫 
             
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
       
        大姫 頼家  三幡  実朝  千鶴丸
            (千幡)    
        −−−−−−−−−−−−−−      
             
        一幡 公暁 禅暁      
                 


<北条時政家系図>
     北条時政        
               
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−             
   
(=伊東祐親娘)         (=牧の方)     
             
−−−−−−−−−−−−−       −−−−−−−    
         
宗時 政子 義時 時房 政範    
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−             
           
  (=阿波局) (=姫の前)   (=伊賀の方)    
泰時 朝時 重時 政村

 鎌倉幕府の政治体制
中央には軍事や警察に当たる「侍所」(さむらいどころ)、訴訟を取り扱う「問注所」(もんちゅうじょ)、財政などの一般事務を行う「政所」(まんどころ)を設置した。
   朝廷から下賜された東国の広大な土地を活用して、将軍と御家人の間に「御恩と奉公」に代表される強い主従関係を結んだ。「御恩」とは、将軍が御家人に従来の領地を保証し、新たな所領や一定の権利を与えること、「奉公」とは、御家人が平時には自らの負担で幕府の警備などの役を務め、戦時には命を懸けて戦うことである。土地の権利を基礎として、御恩と奉公の主従関係で成り立つ制度を封建制度という。
 鎌倉幕府の将軍・執権
 (将軍)源頼朝(在位;1192〜1199年)
   (将軍)源頼家(在位;1199〜1203年)
   (将軍)源実朝(在位;1203〜1219年)
   (執権)北条義時(在位;1205〜年)
   (執権)北条泰時
   (執権)北条時頼(5代)
   (執権)北条時宗(8代)
   (執権)北条貞時(9代)
   (執権)北条守時(16代)
   (得宗)北条高時


 後鳥羽上皇
 1192年  (建久3年)後白河上皇崩御により、後鳥羽天皇(82代)即位。源頼朝を征夷大将軍に任命。
 1198年  (建久9年)後鳥羽天皇譲位し院政。土御門天皇(83代)が2歳で即位。後鳥羽上皇は、順徳天皇(84代)、仲恭天皇(85代)で院政を敷き、朝権回復に専念。
   和歌所を設置して、『新古今和歌集』を勅撰。勅撰作業に自ら加わる。
   北面の武士を増強、幕府に対抗するために西面の武士を設置。
   鎌倉幕府第3代将軍実朝を重用し、幕府を統制しようとしたが、実朝が暗殺される。(幕府の一部勢力による朝廷に対する警戒の可能性も)
   幕府は後鳥羽上皇の皇子から将軍を出すことを求めてきたが、皇子の東下は将来国を二分することになると考えた後鳥羽上皇が拒絶。
   源実朝暗殺により清和天皇の子孫である頼朝の系譜が断絶し、出自不明な北条氏が実権を握ったことは、幕府が朝廷の統制からはずれることを意味する。幕府と北条執権との対決は不可避となる。
 1221年 (承久3年);後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命じる院宣(いんぜん)を発す;承久の変。 
   上皇挙兵に対し、北条政子が御家人へ御恩と奉公を説き、結束。兵力19万で京へ攻め上る。上皇方は2万数千。東国武士の結束力を見誤った。
   総大将北条泰時が、執権義時に「上皇が兵を連れて現れたときは、降伏せよ」と指示する。あくまでも天皇あっての鎌倉幕府であることを物語る『増鏡』のエピソード(脚色の可能性もあるが)。結果として、後鳥羽上皇は戦場に現れず、幕府軍の圧勝。
   後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は(自ら)土佐へ配流。仲恭天皇は退位。後鳥羽上皇の兄守貞親王を後見(後高倉院)とし、その皇子を後堀河天皇(86代)とした。
   幕府は朝廷を監視するために六波羅探題を設置。
   上皇側に味方した公家や武士から取り上げた土地を東国の武士に恩賞として与えたので、幕府の支配は西国にまで広がった。公武二元体制は崩れ、幕府が一元的に支配する体制が確立。以後、武家は容赦なく朝廷に干渉するようになり、この流れは幕末までつづく。倒幕を目指した後鳥羽上皇の思いとは裏腹に、承久の変は武士の世を完成させてしまうことになった。保元の乱では天皇が上皇を配流したが、承久の変では武士がニ上皇を配流した。
   一方で、「天皇には弓は引けない」という何者にも倒されることのない最強の地位を確保したともいえる。



資料  『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)

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