Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1192年   

1189年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1198年

鎌倉幕府の成立



 1192年に後白河法皇が死去すると、源頼朝は征夷大将軍に就き、鎌倉幕府を開いた。図は主な守護の配置。鎌倉幕府の歴史上の位置づけについては、諸説ある。「権門体制論」*1や、「東国国家論」*2などである。
平安時代中期になると、国司自身が任地に赴くことさえ稀になる。武蔵守は武蔵国には赴任せず、実情として、家来を派遣して税金だけを徴収するという仕組みが中心だった。(『歴史学者という病』P178)

概 略  
1190年
(建久元年)
 11月7日 源頼朝上洛し、後白河上皇を威圧するも征夷大将軍は認められず。権代納言、右近衛大将に任じられるが、任官の儀式を終えると辞任する。京官を務めることを避けたと考えられる。
1191年
(建久二年)
 朝廷は次々と法令を発し(建久新制)、頼朝に平時においても治安維持権限を与える。(この時に鎌倉幕府成立とも)
1192年
(建久3年)
 6月 頼朝は鎌倉の永福寺の造営を開始。責任者は北条義時。9月義時は頼朝の仲立ちで姫の前と結婚、正室とする(その前に阿波の局との間に泰時を設けていた)。
 後白河上皇崩御(66歳)により、7月12日 後鳥羽天皇(82代)が源頼朝を征夷大将軍に任命。鎌倉幕府を開く。後鳥羽天皇は13歳で、九条兼実が関白として政治を主導した。「征東代将軍」には義仲が、「惣官」には平宗盛が就任しており、不吉なことから、坂上田村麻呂の吉例がある「征夷大将軍」となる。しかし、在位2年あまりで辞任する(元々臨時の官職だったからか)


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)
 『歴史学者という病』(本郷和人 講談社現代新書)


 *1 権門体制論  武士がでてきた中世に、天皇(公家)と武士が対立しながらも一つの国家として「天皇」を中心にまとまっていたという考え。歴史学者 黒田俊雄らが唱えた。やや皇国史観の流れを汲む考えでもある。
 *2 東国国家論  鎌倉幕府(東国)は、天皇のいる中央とはまったく別の国家であり、ほとんど独自に発展したという考え。佐藤進一らが唱えた。これら2つの考えを相対的に整理したのが、歴史学者石母田正。唯物史観の時代が過ぎ、実証主義史学の流れの中で勢力を得たものである。*1、*2とも『歴史学者という病』(P74)


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