Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1189年   

1187年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1192年

奥州藤原氏の滅亡



 義経をかくまった藤原秀衡が1187年死去すると、頼朝は秀衡の息子泰衡への圧力を強め、泰衡は義経を殺害する。それでも頼朝は泰衡を許さず、1189年奥州藤原は攻め滅ぼされた。

概 略  
1188年
(文治四年)
 2月出羽国目代と義経の間で軍事衝突。義経が奥州藤原氏から兵を預けられていることが明らかとなり、朝廷は藤原泰衡に対し、義経を引き渡すよう命じたが、泰衡の返答はなかった。10月にも改めて義経を引き渡すよう泰衡に命じている。
 朝廷は頼朝に対し、義経追討を命じようとしたが、頼朝は亡母供養の五重塔造営と自分の厄年により殺生禁断を誓っていると断る。
1189年
(文治五年)
 頼朝は武力討伐に方針転換。2月9日頼朝は九州の島津荘地頭の惟宗忠久らに対し、兵を率いて鎌倉に馳せ参じるように命じている。全国からの総動員体制だったと思われる。
 2月 藤原泰衡は、義経の居場所がわかったので引き渡すという書状を朝廷に提出。頼朝は虚言であり、信用できないと一蹴し、朝廷に対して泰衡討伐の許可を求める。義経殺害;このような頼朝の圧迫に耐えきれなくなった泰衡は、閏4月30日、義経の居館を数百騎で襲った。義経の家人が奮戦するも敗れ、義経は持仏堂に入り、妻と子を殺したうえで自害した。享年31歳。義経の首は鎌倉に届けられた。
 5月末には泰衡が義経を討ったことが京都に伝わり、朝廷は奥州征伐中止を頼朝に伝える。しかし、頼朝は2月に泰衡討伐の動員をかけており、老臣大庭景能の「軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」(戦時の行動は朝廷の制約を受けない)との助言により出兵する。朝廷は泰衡追討を追認した。朝廷の命令を無視して行動する権力が国家体制の中に位置づけられた。
 7月17日 東海道軍は千葉常胤・八田知家、北陸道軍は比企能員・宇佐美実政、大手軍は頼朝自ら率いて出陣。誇張と思われるが、『吾妻鏡』で総勢28万騎としている。7月29日に白河の関を越え、8月8日から10日にかけて阿津賀志山で泰衡軍と戦い、大将藤原国衡を討ち、大勢は決した。
 8月22日 大手軍は平泉に入ったが泰衡は逃亡していた。頼朝はさらに北上すると、泰衡から降伏の申し入れがあったが、頼朝は許さなかった。9月6日家人の裏切りによって討たれた泰衡の首が頼朝のもとに届けられた。奥州藤原氏は滅亡した。
 頼朝は泰衡討伐後も厨川(現・盛岡市)まで北上し、終戦宣言をしたのは、前九年の役における頼義の行いを再現した。頼朝は平家に勝っただけでなく、甲斐源氏、佐竹氏、木曾義仲、義経らを征し、源氏嫡流、武家の棟梁の地位を得たことのデモンストレーションでもあった。


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


クロニクル鎌倉幕府  鎌倉幕府の歴史 日本中世史関連 日本古代史関連  クロニクル「日本」   テーマ史《INDEX》   ホーム