概 略 |
1186年
(文治二年) |
時政は義経・行家を捜索をしつつ、治安維持、兵糧米徴収、所領没収などを行い、朝廷と軋轢が生じた。 |
3月27日 頼朝は北条時政に代えて、妹婿で貴族の一条能保を京都守護とし、戦時から平時体制へ以降し、後白河院との和解・協調に転じた。しかし、京都の治安は悪化した。頼朝は時政が第二の義経になることを警戒したとも考えられる。 |
能保は捜査網を広げ、義経派の掃討に成功、5月、源行家が和泉国で討ち取られた。6月義経の娘婿となった源有綱が討たれ、7月義経の家人
伊勢義盛が捕まって打ち首。9月義経家人の佐藤忠信が自害。義経は吉野・鞍馬・多武峰・比叡山・興福寺などを転々とした。吉野で分かれた愛妾静御前が捕らえられて鎌倉に送られた。 |
1187年
(文治三年) |
義経が奥州藤原秀衡のもとにいることをつかんだ頼朝は、4月朝廷に申請して使者を奥州に派遣させ、東大寺大仏のメッキ用の砂金三万両を出すように秀衡に要求した。秀衡に対する挑発だったが、秀衡はこれをやんわり断った。 |
9月頼朝は朝廷に対し「秀衡は謀反人の義経をかくまい、反逆を企てている」と訴える。朝廷は奥州に使者を派遣したが、秀衡は謀反の嫌疑を否定した。頼朝が独自に鎌倉から派遣した使者の目には、秀衡は合戦の準備を進めているように映った。 |
奥州藤原氏の軍事力・経済力と義経の武略が結合することは頼朝にとって脅威であり、性急な奥州侵攻はせず、外交で圧迫した。秀衡は屈せず、したたかに頼朝と渡り合ったが、10月29日病没する。 |
秀衡は嫡男泰衡に義経を大将軍とするよう遺言したとされているが、動揺した藤原氏は、義経を戴いて頼朝に対抗するという路線で団結することができなかった。 |