Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1185年(2)   

1185年(1) gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1187年

源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす



 1185年3月源義経は、壇ノ浦で平家を破る。安徳天皇と三種の神器は海中に沈んだ。頼朝の作戦とは異なる結果となった。平家を滅ぼした義経は後白河法皇から官位を授けられる。義経は、圧力を強める頼朝に対し、後白河法皇を後ろ盾に叛旗を翻すが、部下に離反され、京から逃走する。

概 略  
1185年
(文治元年)
 3月24日 壇ノ浦の戦い;源義経が平氏を破る;平氏滅亡。安徳天皇は二位尼時子(清盛の妻)に抱かれ、三種の神器は海中へ。(鏡と勾玉は回収されるが、剣は失われ、1210年(承元4年)伊勢神宮の剣から一つが選ばれ、改めて祀られた。)このような事態を避けるため頼朝は長期戦にこだわったが、義経が平家に降伏の機会を与えず性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想とは異なる形で源平合戦は集結した。このことが頼朝と義経の対立の伏線となる。
梶原景時は、頼朝に対して義経が自分一人の力で平家を滅ぼしたと勘違いして傲慢になっている、と東国武士の不満とともに告発。頼朝は和田義盛に九州武士の組織化を命じ、九州の平家所領を没収し、東国武士の不満解消に努める。
 5月平宗盛を鎌倉に護送した義経が鎌倉入りを拒否されて腰越の地で弁明書(腰越状)を書かされたが、かえって頼朝の怒りをかったというのは『吾妻鏡』の創作か。
 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、後白河上皇の院政つづく。後白河上皇は、壇ノ浦の戦いで功のあった源義経に官位を授けて、頼朝を牽制する。
 10月6日 後白河法皇の庇護下に入って鎌倉への参向を拒否した源行家を討伐を、義経に命じるが、病気を理由に断った。頼朝は、義経が行家と結託していると判断し、鎌倉に下り、自らに従属することを求めた。京都を離れ、後白河法皇の後ろ盾を失えば、一御家人となり、平家追討の英雄である義経には耐えられなかったのではないか。
 10月13日 義経は後白河法皇に対し、頼朝追討の宣旨を求めた。後白河院が義経を煽動したとされているが、義経に脅されたとみられる。義経がこのタイミングで挙兵したのは、勝長寿院の落成供養に参加するため東国武士が鎌倉に集結し、京都に軍事的空白が生まれていたことが一因。
 義経の直属武力は、西国武士であり、反平家、頼朝の代官、そして後白河法皇により平家追討命令により統率していものであり、義経の個人的魅力によるものではない。頼朝は義経討伐のため、自ら出陣した(頼朝の出陣は、1180年の佐竹攻め以来)。義経麾下の武士たちは、頼朝に反旗を翻した義経から離反した。
 11月3日 義経と行家は、京都で頼朝を迎え撃つことを断念、九州に向けて200騎ほどで出京した。途中暴風で船が難破し、散り散りとなって逃走した。
 源義経・行家の挙兵が失敗したことを見た頼朝は上洛を中止し、北条時政に千騎の兵とともに上洛させる。後白河院は、義経・行家追討の宣旨を発給したが、頼朝の怒りは解けず、時政は強硬な姿勢を示し、11月28日義経・行家の捜索・討伐のための諸権限授与を求めた。朝廷は翌日には許可した;「文治勅許」(守護・地頭制の原型か)
 12月 頼朝は大江広元と協議し、朝廷へ改革要求。一、右大臣九条兼実を筆頭とする公卿10人を「議奏公卿」に指名し、彼らの合議で国政運営する(後白河法皇の独占防止のため朝廷の人事に介入した)。 ニ、頼朝追討宣旨発給に関与した者の解任。 三、頼朝の対朝廷交渉窓口として「関東申次」を創設し、吉田経房の就任。


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


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