Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1184年(2)   

1184年(1) gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1185年

平家追討軍に源範頼を派遣



 1184年6月以降に伊賀・伊勢で平氏の乱が起き、それへの対処で動けなくなった義経に代わって、頼朝は範頼に関東武士主力部隊をつけて平氏追討に当たらせた。しかし、食糧や船が足りず、彦島を本拠とする平氏を攻めきれず、九州武士の懐柔など長期戦の構えだった。

概 略  
1184年
(元暦元年)
 6月以降、土肥実平は安芸国で6度敗戦するなど苦戦した。頼朝は義経に平家追討を命じようとするが、伊賀・伊勢平氏の乱が起きる。
 7月7日 伊賀 平氏家人平田家継が挙兵、大内惟義の郎党をことごとく討ち取った。小松家の有力家人であった伊藤忠清も伊勢で挙兵。東国武士の支配への抵抗。7月19日大原荘(滋賀県甲賀市)で激突、源氏は乱の首謀者平田家継を討ち取ったが、源氏の功臣佐々木秀義が戦死するなど犠牲も大きかった。
 義経は伊賀・伊勢平氏の残党に対処するため、畿内に釘付けになっており、8月8日 頼朝は範頼を平家討伐に起用し、鎌倉を出発。8月27日京都に到着し、8月28日朝廷から追討使に任命され。9月3日に出陣。範頼軍は、千葉常胤、和田義盛、北条義時、比企能員、三浦義澄らが参加する主力部隊であった。
 10月12日 範頼は安芸国を制圧し、論功行賞を行うが、周防・長門で補給線が伸び、食糧不足となる。また、水軍力も不足し、彦島(下関市)を攻められない状態となる。範頼は頼朝に食糧と船、馬の不足を訴える手紙を送る。頼朝は船を送ることを約束し、平家の本拠地屋島攻略を急がず、九州武士を懐柔するように手紙を送る。頼朝は安徳天皇と三種の神器を回収することと、平家の殲滅には味方に多大の犠牲を強いることとなるため、長期戦の構えだった。


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


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