概 略 |
1184年
(寿永三年) |
1月11日 義仲が「征東代将軍」に任命される。(940年平将門を鎮圧するため藤原忠文が任命されて以来) |
法住寺合戦以来の義仲の孤立を見て、平信兼(山木兼隆の父)ら伊勢・伊賀の平家方武士や安田義定が義経軍に合流。 |
1月20日 宇治川の戦い;義経が少数と判断した義仲は北陸への撤退を取りやめ迎撃。範頼が近江の勢多を、義経が山城の宇治を攻撃。義経が義仲を撃破し、義仲は後白河院を連行しようとするも失敗し、敗走途中の近江粟津で討ち取られた。甲斐源氏は頼朝に従属していく。 |
朝廷は福原に迫っていた平家の対策を協議した。九条兼実や義経に同行した土肥実平・中原親能は和平案に同意していたが、強硬論の後白河院に押し切られ、義経・範頼は1月29日に京を出発。平家2万騎に対し、源氏軍は2〜3千騎だったが、2月7日大阪湾から山陽道を進む範頼と、丹波から播磨へと内陸を進む義経に分かれ、開戦;一の谷の合戦。義経の鵯越(ひよどりごえ)で勝敗が決したと『平家物語』『吾妻鑑』ではなっているが、脚色である可能性が強い。平重衡が捕虜となった。平宗盛は後日、後白河院からの和平の申し入れがあり、使者を待っているところを源氏軍に襲われたと恨み事を述べている。 |
頼朝から朝廷へ四ヶ条の申請;一 戦乱で荒廃した東山道・北陸道に来秋には受領を任命すべき、ニ 平家追討、三 神社の保護、四 悪僧(僧兵)の武装解除。しかし、頼朝は平家との和解も選択肢に持っており、平家追討を理由に朝廷の権威を利用し、畿内の武士を義経傘下に組み入れることを狙ったと思われる。平家と後白河院との和平交渉も継続したが、結局は平宗盛の後白河院への不信感から成立しなかった。 |
頼朝は京へ使者を送り、義経を京都守護に、土肥実平・梶原景時に播磨・美作・備前・備中・備後の守護を命じた。この五ヵ国が対平家の最前線であった。和平交渉が決裂し、頼朝は土肥実平らを平家追討使とした。義経傘下には元平家の武士が多かったものと思われる。 |
3月7日 後白河院は、義仲に与えた平家没官領を頼朝に与える。鎌倉殿の直轄領荘園群であり、関東御領の基礎となった。10月にこれらを管理するための公文所(のちの政所)を開設。中原(大江)広元・中原親能らが寄人(職員)に任命された。 |