Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1183年   

1180年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1184年

平家の都落ちと木曾義仲の入京



 1181年平清盛は64歳で死去し、宗盛が跡を継ぐ。宗盛は挙兵した源頼朝に対応するため、藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任命した。1182年7月 以仁王の遺児北陸宮が平家の監視下を逃れ、木曾義仲の庇護下に入る。義仲は北陸を制圧するとともに、京へ上る大儀を得る。平家は義仲追討軍を送るが、倶利伽羅峠で義仲軍に大敗。京へ攻め上る義仲との対決を避けるため、平宗盛は三種の神器と安徳天皇とともに京から撤退する。後白河法皇から平家追討を命ぜられた義仲は苦戦した。源頼朝の朝廷工作により、後白河法皇から支援要請を受け、弟義経を派遣する。義仲は後白河法皇に対してクーデターを起こし、前関白藤原基房と組んで京を制圧した。

概 略  
1181年
(治承5年)
 1月14日、高倉上皇死去;平家の朝廷支配を支えていた。清盛は幽閉していた後白河法皇を安徳天皇の後見役として復権させ、1月19日平宗盛を五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヵ国の惣官職(受領−目代の権限を越えて武士を統括)に任じる。また、平家が任じた惣下司を通じて九ヵ国の兵糧米を徴収できるようにした。源氏は家人組織で団結し、平家は国衙機構により軍事動員を掌握しようとした。この違いは、朝廷の命令系統に依拠しない源氏の強味となる。
 2月、平清盛死去(64歳)。平宗盛(清盛の嫡男)が、後白河上皇に政権返上。以仁王令旨の大儀がなくなる。
 3月10日 墨俣川の戦い;平重衡が美濃・尾張国境の墨俣川で源行家・源義円(源義経の同母兄)ら5千騎を撃破。しかし、養和の飢饉のため帰京。戦線膠着状態となる。木曾義仲や武田信義などが挙兵しており、それら源氏の棟梁を目指す源頼朝は後白河法皇に頼朝中心の源氏が東を平氏が西を治める和平調停案を送るが、平宗盛が拒否。
 4月 頼朝が「寝所祇候衆(しんじょしこうしゅう)」を組織、いわば親衛隊。江間四郎(北条義時)、結城朝光、和田義茂、梶原景季。三浦義連、千葉胤正など有力御家人の子弟が目立つ。北条義時は家子専一(いえのこせんいつ=家子の筆頭)であった。
1181年
(養和元年)
 8月、平宗盛が藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任命し、源頼朝を挟撃する構えを見せる。藤原秀衡は中立を守ったが、頼朝は秀衡に不信感を抱く。
1182年
(寿永元年)
 7月 以仁王の遺児北陸宮が平家の監視下を逃れ、木曾義仲の庇護下に入る。義仲は北陸宮を天皇にするという上洛の大儀を得た。頼朝と義仲は不仲になるが、後に義仲が嫡男義高を頼朝の娘大姫の許嫁として人質にだす。
 8月 亀の前事件;政子が男児(後の頼家)を出産したとき、頼朝は密かに愛妾亀の前を伏見広綱の屋敷に囲い、通っていた。牧の方からこれを聞いた政子は、牧宗親に命じ、広綱の屋敷を破壊させた。頼朝は宗親に申し開きをさせたが、宗親の人前で髻(もとどり)を切り落とし、恥辱を与えた。北条時政は頼朝に怒り、伊豆へ帰った。義時は時政に同行せず、以後、頼朝に重用されていく。
1183年
(寿永2年)
 4月中旬、平維盛が越前・加賀を攻略。
 5月11日 平家は越中・加賀国境の倶利伽羅峠で木曾義仲・源行家らに大敗する。
 6月1日 さらに加賀国篠原で、平家4万騎が、5千騎の木曾義仲に敗れる。義仲が京都に迫る。さらに摂津源氏多田行綱が反旗を翻し大阪湾を占領したことで、東西から挟撃されることを恐れた平宗盛は安徳天皇と三種の神器を抱いて西へ落ち延びる(平家都落ち)。7月25日、後白河院は比叡山に逃れ、平家は後白河院を連れていけなかったことにより求心力を失う。また、一部平家は京に取り残され、平家一門が分裂していく。
 入京したのは、木曾義仲、源行家のほか、安田義定(甲斐源氏)、源光長(美濃源氏)、山本義経(近江源氏)ら。7月28日 義仲・行家は後白河院から平家追討を命じられる。
 しかし、7月30日 後白河の院御所での論功行賞で、勲功第一位は頼朝、二位は義仲、三位は行家とされた。軍事行動を主導したのは頼朝というのが後白河院の認識であったが、義仲の抗議により取り消され、8月10日義仲が従五位下左馬頭兼越後守、行家は従五位下備後守に補任され、頼朝との立場が逆転した。
 後白河院は平家に対し、安徳天皇の帰京と三種の神器の返還を要求するが、平家の京都復帰後に神器を返還する、と事実上の拒否回答を得る。後白河院は新天皇の擁立を決断する。義仲は安徳天皇の代わりに自らが保護していた北陸宮の天皇践祚を要求。践祚は後白河院に拒否され、関係悪化。高倉第四皇子の尊成(たかひら)親王が即位し、後鳥羽天皇となる。
 飢饉の中、義仲軍は京での食糧確保に苦労し、寺社・住宅や田畑への略奪行為に及び、これを制止できない義仲に対して朝廷の不満が高まる。9月19日、後白河院は、自ら義仲に御剣を渡し、平家追討を命じ、京から義仲を追い払う。義仲も自らの求心力を高めるため、軍事的成果を上げなければならなかった。
 義仲が平家追討のため西に向かったことで、後白河院と頼朝の間で交渉が進展する。頼朝は平家に奪われた寺社荘園を元の寺社に返還する/平家に奪われた院・公家らの荘園を返還する/降参した平家方武士の刑罰を減免する、という条件を出す。ただし、藤原秀衡・佐竹隆義が南進する可能性、京の食糧難を理由に、上洛を断った。義仲については非難した。10月 後白河院が源頼朝に東国の軍事警察権だけでなく、年貢貢納の責任と権限(=行政権)を与える宣旨(平家にも与えなかった強大な権力を与えた。朝廷としては内乱時の一時的な権限を意図した可能性も。);事実上の鎌倉幕府成立。頼朝が甲斐・近江・美濃の源氏の上に立つこととなる。(北陸の義仲の上に立つことは後白河院が避けた)
 閏10月1日 木曾義仲は備中国水島(現倉敷)で平家の水軍に敗れる。平家は屋島(現高松市)から本州への移動を検討。
 頼朝は後白河院からの上洛要請を受けて、義経ら5〜600騎を京へ覇権。藤原秀衡の脅威から大軍を上洛することはできなかった。しかし、木曾義仲はこの動きに過剰に反応し、京へ帰還し、後白河院を伴い東国へ下り頼朝を討つと強硬論を吐く。朝廷や行家らは、義仲から離反し、後白河院方につく。
 11月19日 法住寺合戦;義仲が後白河院御所である法住寺を襲い、源光長を討ち取り、前関白藤原基房と組んで後白河院を監禁し、国政を掌握した。
 12月10日 義仲の申請により頼朝追討命令が出される。
 12月 頼朝は異母弟の範頼を援軍として京に派遣。東国独立論者の上総広常が派遣に反対し、粛清される。


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


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