Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本1180年   

1175年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1183年

源頼朝の挙兵



 1180年後白河上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨を発した。以仁王と源頼政は、これを察した平家に討たれるが、木曾の源義仲、甲斐の武田信義、そして、伊豆の源頼朝が挙兵した。頼朝は舅北条時政の支援を受け、かつて父為朝にしたがった東国の武士に呼びかけた。山木兼隆、伊東祐親、大庭景親ら平家方勢力に石橋山の戦いで敗れ、一時、房総半島に逃れたが、安房の安西景益、上総の上総広常、下総の千葉常胤らを糾合し、平家方を破り、鎌倉を拠点とする。

概 略  
1177年
(治承元年)
 この頃、伊豆に配流の源頼朝が北条時政の娘政子と結婚。伊東祐親はすでに平清盛に取りたてられていたが、北条時政は関東土着の武士として貴種である源頼朝を婿に迎えようとした。
 池禅尼の子平頼盛を脅威に思った平清盛が頼盛を失脚させる。頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政が結婚。平清盛に不満を持つ非主流派の関係強化とみられる。
1179年
(治承3年)
 治承三年の変;後白河上皇が平清盛によって幽閉され、院政は停止。
1180年
(治承4年)
 平清盛が高倉天皇(80代)を退位させ、娘の徳子が生んだ孫の安徳天皇(81代)を即位させる。
 後鳥羽上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ;皇族が出す命令)を発す。源行家(頼朝の叔父)が令旨を全国に配る。
 5月10日計画が漏れ、宇治川の合戦で、以仁王と源頼政(伊豆知行国主)は討死。
 源頼政の後の知行国主は平時忠(清盛の妻の弟)となり、伊豆守に平時兼、目代に山木兼隆を任命。平氏の圧力から、源頼朝の挙兵計画が具体化していった。以仁王令旨を受け取った源氏が平氏から追討されるとの噂も流れる。
 6月24日源頼朝がかつて父義朝にしたがった東国の武士に呼びかけ。
 源義仲が挙兵。
 8月6日源頼朝が8月17日に挙兵を計画。目標は伊豆国の目代 山木兼隆。まずは伊豆国の国衙機能を掌握することを目指す。
 8月9日大庭景親が、北条氏の不穏な動きに関して佐々木秀義に話す。秀義は息子定綱を使者として、北条時政に知らせる。源頼朝は後に引けなくなる。佐々木定綱は戦の準備のため帰ろうとするが、頼朝は定綱を引き留める。しかし、8月17日(挙兵)前日には戻ると約束し、定綱は帰っていった。しかし、8月16日になっても佐々木定綱らは戻らず、頼朝は不安になる。
 8月17日午後になって、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟が戻る。頼朝は感涙にむせぶが、お前たちが遅れたせいで、出陣できなかったことを叱責。夜半、出陣し、山木邸だけでなく、堤信遠邸も襲う。堤信遠は討ったが、山木邸では苦戦した。そこで源頼朝は自らを護衛していた加藤景廉・佐々木盛綱らを派遣し、山木を討ち取った。
源頼朝挙兵時の頼朝直参は北条氏の30騎を含む90騎程度であり、それに工藤茂光や千葉氏、三浦氏ら数百騎が加わった。次の目標は、伊東祐親を討つことであったが、大庭景親が頼朝討伐に動き出していた。
 8月19日兼隆の親戚である史大夫 中原知親から伊豆国蒲屋御厨(現南伊豆町)を没収するなど、行政権限を執行した。以仁王令旨に正統性を持たせて行政命令を出した。以仁王は翌1181年にも相模で生存していると噂され、それを利用した。または、頼朝に後白河法皇の院宣があったとも言われている。頼朝はすぐに上洛するのではなく、平将門のように東国に地盤を築こうとした。
 8月20日 頼朝は三浦義明から参戦の約束を取りつけていたとみられるが、三浦一族は豪雨による増水に阻まれ進軍が遅れていた。頼朝と北条時政は三浦氏と合流するため、いったん伊豆を捨て、相模に向かう。
 8月23日石橋山合戦、頼朝軍は主力を工藤茂光、北条時政、土肥実平らであり、土肥実平の本拠地土肥郷に進出したが、大庭景親軍三千騎に前方をふさがれ、石橋山(現小田原)に陣を張る。三浦勢は酒匂川東岸に達し野営。大庭方の武士の家屋を焼き払う。三浦勢接近を知った大庭景親は三浦勢が頼朝に合流する前に決着をつけようと頼朝軍に夜襲をかけた。頼朝軍は劣勢となり、土肥の椙山に逃れた。北条時政の嫡男宗時が戦死した。
 8月25日 大庭景親は弟俣野景久と駿河国目代 橘遠茂を甲斐に派遣するが、富士北麓の波志太山で安田義定・工藤氏・市川氏らの甲斐勢に敗れる。
 頼朝と北条時政・義時は別々に安房国(房総)を目指す。時政は途中、三浦半島で畠山重忠に攻められ逃げてきた三浦一族と合流した。安房国の義朝の郎党だった安西景益を頼った。頼朝は、各国の目代などを襲って、倉庫の財物を奪い、国衙機構を掌握するという戦略をとった。上総の上総広常、下総の千葉常胤らに馳せ参じるよう命じた。広常、常胤とも近隣の平氏勢力と敵対していたことによる。
 9月13日 頼朝は安房から上総に向かった。9月17日 下総に向かう。
 9月19日 上総広常以下2万騎が隅田川で頼朝に合流。房総半島を制圧した頼朝軍は2万7千騎となり、大庭景親に対して圧倒的に優位となる。武蔵の秩父平氏である畠山・小山田・河越・江戸・葛西・豊島らへの対処に向かう。
 10月2日 頼朝は隅田川を渡って武蔵に入る。豊島清元・葛西清重の出迎えを受け、10月4日畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上した。畠山重忠は三浦義明を殺しているので、三浦一族が助命に反対したが、頼朝にの説得により許された。頼朝の寛大な態度に、平家方から頼朝軍へ寝返る者が続出。大庭景親・伊東祐親ら平家家人は孤立していく。
 10月5日 北条時政・義時が武田信義・忠顕親子へ同盟申し入れ。そのまま甲斐源氏と駿河侵攻。
 10月6日 武蔵を江戸重長に任せ、相模国へ進軍。鎌倉に入り、根拠地とした。また、鶴岡八幡宮に参拝した。頼義−義家−為義−義朝と続いてきた河内源氏の正嫡を継ぐという頼朝の政治的宣伝であったと思われる。
 10月14日 武田信義ら甲斐源氏は、駿河国鉢田山で、橘遠茂・長田入道を破る。平家方2〜3千騎が殲滅される。駿河国は甲斐源氏が支配することとなる。橘遠茂は、平維盛(清盛の孫)を総大将とする源氏追討軍(10/16に駿河高橋宿に達していた)に先んじて甲斐源氏に一撃を加えることが役割だった。
 10月18日 富士川合戦;源頼朝と甲斐源氏が、平家の追討軍を破る。平家は、鉢田合戦敗戦、飢饉による食糧不足などから武田方への投降が相次ぎ、1〜2千騎となり、戦わずに撤退した。主力だった甲斐源氏が駿河・遠江を支配。
 富士川の合戦の後、源義経が頼朝に合流。奥州藤原氏を後ろ盾としており、頼朝は義経を養子として迎える。
 富士川合戦での敗北を聞いた平清盛は、福原遷都を断念し、反乱鎮圧に専念。平清盛は激怒し、戦わず撤退した維盛の入京を禁じた。京都における平家の権威は失墜。
 10月23日 頼朝は相模の国府で、初めての論功行賞により、新音給与(新たな所領を与える)、本領安堵(先祖伝来の土地の支配を認める)を行った。これは朝廷に対する越権行為であったが、東国武士をひきつけるために行ったと思われる。
 11月4日 頼朝軍は常陸国の佐竹氏を攻めて、所領を奪う。富士川合戦で成果が得られなかった頼朝の威信回復と恩賞地を確保するため、または佐竹氏と縁戚関係にあった奥州藤原氏への牽制が目的と考えられる。
 11月17日 鎌倉に帰還した頼朝は、和田義盛(三浦義澄の甥)を侍所別当とする。
 12月12日 源頼朝は大倉御所への移徒(わたまし)の儀式。侍所で対面した311人の武士が頼朝直属の家人、「御家人」と呼ばれる。和田義盛は御家人の統括者となる。この時点で、南関東は頼朝の軍事占領下に置かれた独立国家の様相であった。
 12月 平清盛は叛乱鎮圧に専念するため、長年の悲願であった福原遷都を断念に京に還都。平家打倒の旗を掲げていた近江源氏の山本義経・柏木義兼を破り、近江を制圧。さらに、平氏は治承5年正月には美濃源氏の源光長を破る。
 12月奈良興福寺の大衆が蜂起し、鎮圧のため、平重衡(清盛の5男)は、鎮圧に向かい火を放つ。興福寺・東大寺など焼失(南都焼き打ち)。近江源氏、美濃源氏などを鎮圧。


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


クロニクル鎌倉幕府  鎌倉幕府の歴史 日本中世史関連 日本古代史関連  クロニクル「日本」   テーマ史《INDEX》   ホーム