ペトロ 晴佐久 昌英
上野教会のみなさん、お世話になりました。
おかげさまで何一つ不自由なく、好き勝手に神の国のために働くことが出来ました。
本当に感謝です。
司祭は信徒のお世話にならなければなにもできません。
その意味では上野教会は、お世話上手の信徒に恵まれた祝福された教会です。
司祭は信徒のお世話をする人だと思い込んでいる人もいますが、それはある意味間違いです。
キリスト者はお世話される側ではなく、すべての人のお世話をする側でなければならないからです。
ということは、信徒にお世話されなければなにもできない司祭は、一番世話の焼けるキリスト者だということになります。
感謝とお詫び以外に、言葉はありません。
そんな司祭でも、役立つことがあります。
それは、みなさんのお世話に力を得て、貧しい人や苦しんでいる人、孤立して救いを求めている人をお世話する見本を示すことです。
それこそ余計なお世話かもしれませんが、この八年間こんなふうに人々のお世話をすると、神の国がチラリと現れますよという、ささやかな見本をいくつかお示しできたと思いますので、それを小さなヒントにして、今後も「お世話する側のキリスト者」として、誇りをもって使命を果たしていただければと思います。
これを書いている今日、上野教会で四年間一緒に暮らしてお世話した一人の難民が、このたび第三国に出国できるということになり、お別れを申し上げました。
先ほど彼は、私の目を見つめて、涙をこぼしました。
命の危険がある中で世話されることがどれほどありがたいことか、しかし同時に、世話される側を生きなければならないことがキリスト者としてどれほど苦しく悔しいことであるか、私にはよくわかります。
そんな彼が、いつか本国に帰って、どれほど多くの人のお世話をすることになるかと思うと、胸が熱くなります。
私がお示しできるお世話の見本もネタ切れになったところで、折よく転任となりました。
数々の寛容と忍耐に感謝申し上げます。
八年間、本当にお世話になりました。