何と幸いなことでしょう、神のなさることは

 

ペトロ 晴佐久 昌英

クリスマスは、わたしにとっては幼児洗礼を受けた受洗記念日でもあります。
66回目の記念日を迎えた今年もまた、主キリストの洗礼の秘跡を受け、叙階の秘跡を受けた者として降誕祭ミサを捧げることになります。
感謝以外に言葉もありません。
受洗したのは東京教区の本郷教会で、授けてくださったのは当時の主任司祭、水谷九郎神父様です。
水谷師は一九〇七年生まれで、二〇〇四年に九十七歳で帰天しました。
伝説的な碩学であると同時に深い霊性に恵まれた方で、晩年は毎朝ベッドの上でミサを捧げておられました。
わたしが司祭に叙階されるとき、授洗司祭である水谷師に挨拶状をしたためました。
こうして叙階されるのも、もとをただせば洗礼を授かったからであり、これも神父様のおかげです、と。
そのときにふと、師なら何と言うだろうと、そのころの思いを書き加えてみました。
それは、神秘主義への憧れです。
当時のわたしは神秘主義に惹かれていて、そんな本ばかり読んでいました。
神秘主義とは、ひとことで言えば神の直接体験のことです。
神学生時代、信仰の闇に閉ざされて苦しんでいたある夜、突然魂の世界で光が爆発して、それ以降決定的に救われたという体験をしてからは、それが何であったかを知りたくて古今の神秘主義を読み漁っていたのです。
そのころは理性偏重の神学に対する懐疑心もあり、組織としての教会の限界も感じていたので、学問だの組織だのを介在せずに神の愛に直接触れる神秘主義的な信仰に救いを求めていたのだと思います。
ほどなくお返事の手紙が届きました。
そこには、本で読むのとは違う、一人の信仰者の生きたことばが綴られていました。
「神秘主義は神の自己啓示として大切ですが、イエズス様こそ至高の啓示であり、イエズス様は終末の先取りとしてすべてを弟子に受け継がせられたので、私は、いま、ここで、いつも、神のみこころのままに、イエズス様と共に聖霊によって生きています」
「イエズス様は最後の晩餐で命の血の契約を交わし、弟子にぶどう酒を飲めと言われ、自分はもはや飲まないと。これは、ミサで私が飲むとき、今もキリストと食を共にするということ」
「だから私はいつも十字架の道を歩きます。そうして、命は父と子と聖霊によって永遠に続きます。何と幸いなことでしょう、神のなさることは」
イエス・キリストにおける至高の啓示の絶対性と、それを受け継ぐ教会の完全性を心底信じ、次の世代にそれを宣言する一人の司祭。
自身も主の晩餐にあずかる者として感動しながら、主と共に誇り高く生きる一人の弟子の生きたことばによって、目が覚めました。
真の弟子との出会いは、真の師であるキリストとの出会いであり、それこそは、神の愛の直接体験にほかなりません。
いったい他に、何がいるでしょう。
あの夜の光は、わたしをそこに導く希望の光だったのです。
そうして信仰は弟子からそのまた弟子へと永遠に受け継がれ、今年も降誕祭のミサが捧げられ、闇に住む者に光が差し、信じる者に神が宿ります。
なんと幸いなことでしょう、神のなさることは。

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