縄文の心

 

ペトロ 晴佐久 昌英

今年の夏休み前半の合宿は、長野県の富士見高原で行いました。
心の病を抱えた青年たちのための合宿でしたので、テーマをずばり、「縄文」としました。
心の病の根本原因が、現代社会の閉鎖的な家族関係や行き過ぎた個人主義による疎外と孤立、大自然から隔離された都市環境と効率優先の非人間的社会システムなどによるものであることは疑いありませんが、縄文時代にはそのいずれもがありませんでした。
おそらく縄文時代には、今でいう「精神病」は存在しなかったのではないでしょうか。
長野県には縄文遺跡が数多くあり、特に八ヶ岳山麓は縄文遺跡の聖地と言ってもいいです。
今回の合宿では二日間かけて、近くの尖石遺跡の「縄文考古館」と、黒曜石原産地遺跡の「黒曜石体験ミュージアム」を訪ねました。
尖石遺跡は、国宝として有名な土偶、「縄文のビーナス」が出土したところです。
実際に対面してみると、なるほど言うだけのことはあって、形といい表情といい、ひ弱な現代人の創作力など及びもつかない圧倒的な存在感と生命力にあふれていて、作者と同じ人類であることを誇らしく思ったほどです。
黒曜石の原産地では、そこで採取された原石が全国に運ばれていったという、古代の共同体間の流通文化に驚かされましたし、実際に黒曜石を削って矢じりを作る体験をしてみることで、大自然の中で生き抜くための人類の知恵と世代間の伝承の大きな流れを実感出来て、予想外の感動がありました。
いずれにおいても強く印象に残ったことは、人類は互いに助け合う共同体として生きてきたのだ、という当たり前の事実です。
土偶は、共同体の一致のために広場の中央で行われた儀式のための道具であり、それによって人々は心を合わせ、結束を固めてきました。
また、矢じりも共同体で作り共同体で使ったものですし、その成果である獲物は、すべて共同体内で平等に分配されました。
個人主義の現代社会が見失っている、人類が共に幸せに生きていくための尊い知恵と聖なる伝承が、私たちの祖先の縄文文化の原初的共同体性の中にかくも豊かに息づいていることを実感しましたし、彼らにできたことが私たちにもできないはずはないと、希望を新たにしたものです。
進歩したはずの人類ですが、しかしこの百年間に、いったい何度戦争をし、どれだけの人が無残に殺されたことでしょう。
驚くなかれ、縄文社会はその百倍の一万年間、一度も戦争をしたことがない社会です。
定住しながら戦争をしないという、世界史に例を見ない一万年であることは、もっと強調されていいと思います。
もう一度竪穴式住居に住もう、とは言いません。しかし、彼らの中に、現代人が本質的に見習うべきことや、高次元で取り戻すべきこと、そしてもう一度共同体を再構築していく秘訣は必ずや見いだせるはずですし、そうしなければ人類に未来はないのではないでしょうか。
縄文体験をした合宿の仲間たちには、毎日のミサで繰り返し申し上げました。
「キリスト教の心こそは、縄文の心だ」と。
「イエスが命懸けで私たちに証ししてくれた平等性と助け合う共同体性こそは、神の国そのものなのだ」と。
「この合宿もまたそのような恵みの体験であり、縄文の心を人一倍必要としているこの弱い私たちこそ、神の国を証しするために招かれている、縄文な仲間たちなのだ」と。

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