「普遍道」としてのカトリシズム

 

ペトロ 晴佐久 昌英

ご復活おめでとうございます。
主の復活とは、キリストの個人的な出来事ではなく、全人類の復活の、目に見えるしるしです。
したがって、主の復活を祝うということは、私たち人類自身の復活を祝うことにほかなりません。
復活とは天への新たな誕生のことですから、私たちが復活祭に祝っているのは、すべての人が天に誕生していく、さらに言えば「もう誕生したも同然」という、普遍的な福音なのです。
キリスト教は、全人類の救いについての福音を語り、全人類の幸福のために働く共同体です。
その教えと実践は究極の普遍主義であり、いずれ人類が皆共に到達する神の国への道でもあり、その道を「カトリシズム」と呼びます。
「カトリック」とは、「普遍主義」という意味だからです。
「道」というからには、まだ、到着はしていません。
その意味ではいまだ「途上」ではありますが、しかし、明確な目的地を持った、明白な方向性です。
そこを行けばだれもが必ず到達するのですから、「途上であり、かつ、到達している」という場でもあります。
そのような神の国の先取りの喜びに満たされつつ、神の国を信じる仲間たちと助け合いながら、神の国へ向かう試練の道程を生き抜くことこそが、カトリシズムの本質です。
イエスが「私は道である」というのは、まさにその道のことであり、すべての人に通用するこの道は、もはや「普遍道」とでも名付けて尊ぶにふさわしい、聖なる道です。
さて、先日、毎日新聞の書評欄を読んでいたら、私の名前が出てきたのでびっくりしました。
柄谷行人著『世界史の実験』(岩波新書)を、プロテスタントの神学者である佐藤優氏が評している中で、同書に引用されている私の言説について紹介している個所です。
そもそも柄谷氏の新著に引用していただいただけでも光栄だったのですが、その箇所が全国紙の書評欄で佐藤氏に評されたことに関しては、さらなる感慨を覚えました。
ただ、そこで扱われている「カトリシズム」という用語に関しては若干の補足が必要であるように感じたので、ここで指摘しておきたいと思います。
その書評において、佐藤氏は次のように述べています。

「祖霊崇拝という日本人の宗教性の特殊性をカトリシズムが包摂できるという晴佐久氏の認識に柄谷氏は共鳴している。かつて、柄谷氏が共産主義、アソシエーション、ⅹなどと表現してきた人間の新たな共同体がカトリシズムの普遍主義に回収されつつあるのかもしれない」。

柄谷氏は文学評論という、人間そのものを対象とした評論から出発した思想家ですが、マルクスと柳田国男を根底から読み直すことによって、人類史の本質的構造を物語ることに成功した、唯一無二の哲学者でもあります。
人類という稀有な存在の奥深くに秘められている目には見えない構造を、明晰な傍証と明快な論旨で、あたかも目に見えるかのように浮かび上がらせるその知性と感性は、いわば「思想の普遍主義」とでもいうべきものであり、同じように「宗教の普遍主義」でもあるカトリシズムの知性と信仰とも、何ら矛盾なく響き合う、透明感あふれるものです。
思想であれ宗教であれ、本物は常に真理を目指して未踏の「普遍道」を行くものであり、そこにおいては何ら違いはありません。
したがって、佐藤氏のいうところの「カトリシズムが包摂できる」とか、「カトリシズムの普遍主義に回収」というような表現は、あたかも「カトリシズム」が、すでに歩みを止めて老成した、原理主義的な「イズム」であるかのように表現されている点に違和感を覚えます。
祖霊崇拝のみならず、どれほど特殊に見える宗教性のうちにも、初めから秘められているはずの普遍性を見つけ出し、共に生きる道を忍耐強く探し求めるのが普遍主義ですから、それは「包摂」するのではなく、互いに「共生」し、「成長」していくものなのです。
あるいは、どのような共同体のうちにも遺伝子のように秘められている普遍性を抽出することで、より高次元の共同体を生み出すのが普遍主義なのですから、それは「回収」するのではなく、互いに「発見」し、「創造」していくものなのです。
「カトリシズム」すなわち「普遍道」は、たやすい道ではありません。
しかし、それこそは人類が歩まねばならない十字架の道であると同時に、歩むにふさわしい復活の道です。その道を歩むこと以上のときめきと安らぎを、私は知りません。
復活祭にカトリック教会で受洗した新受洗者に、次の言葉を贈ります。
「カトリックは、カトリックを目指すことにおいてのみ、カトリックである」

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