わたしは決して追い出さない

 

ペトロ 晴佐久 昌英

「だれも排除しません」
新しい東京大司教は、聖堂につめかけた満員の会衆を前に、そう宣言なさいました。
一週間後にクリスマスを控えた12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、菊地功大司教の着座式ミサが行われたのですが、着任のあいさつの中でのそのひとことが、ひときわ印象的でした。
ああ、この人は本気だなと思わせられましたし、「よし、こっちも本気でいくぞ」という気持ちになりました。
新大司教のモットーは、「多様性における一致」です。
生物界を見るまでもなく、あらゆる複雑系は、多様であることで全体の安定と利益を生み出しているのであって、教会もまたその例外ではありません。
教皇フランシスコも先日、「一致とは画一化のことではない」と発言なさいましたが、まさに教会は、全員を同質化して管理するような全体主義とは対極にある、「みんな違ってみんないい」集いなのです。
画一化は、当然、排除を生みます。
「この集団の規格に合わない者は去れ」というわけです。
しかし、それによって同質化した集団は、必然的に硬直化し、病的になり、やがて滅びてしまうことは、生物学、社会学の常識です。
つまり、多様なものを迎え入れることは、単なる徳目や教条の域を越えて、全体の健康と幸福のための必須条件でもあるのです。
さらに、ちょっと考えれば誰でもわかることですが、誰かを排除するということは、自分も排除される可能性があるということです。
逆に、誰も排除しないということは、自分も排除されないということであり、それは自分たちのためでもあるということを理解する必要があるのではないでしょうか。
新しい大司教を迎えた今、私たちの教会も、もっともっと、多様性を大切にし、一人ひとりのユニークさを重んじ、だれも排除しないにもかかわらず全体として一致しているという、キリストの体を目指すべきです。
先日、そのような文脈で、「上野教会には、変な人が多いから素晴らしい教会だ」という説教をしたところ、ミサ後に「ありがとうございます。おかげで安心して通えます」とお礼を言われました。
思わず「よかったですねえ」と申し上げましたが、それはつまり「あなたは変な人でよかったですね」と言っていることになるわけで、堂々とそう言える教会は、本物の教会です。
そもそも人はみんな変ですし、教会は、その変であることに聖なる意味を見出し、どんな変な人でも排除しない集いなのですから。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6・37b)
イエスさまの言葉です。

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