荒れ野を歩き続ける

 

セバスチャン 西川 哲彌

例年からすると10日程早い復活祭にそなえて、四旬節の出発点、灰の水曜日がやって来ました。
イエス様が公生活にお入りになる前、荒れ野で過ごされ弱り切った身体で、3つの悪魔の誘惑をお受けになった40日にちなんだ40日を、私達も過ごそうという訳です。
子供や孫達の入学、進級、卒業、進学、或いは年度末のなにかにで慌ただしい日々でもあります。
その中でイエス様の荒れ野での修業に心を留めるというのは、なかなか難しいし、気が付いたら聖週間、ご復活祭になっているのも無理からぬことです。
イエス様は「いろいろあるでしょうが、とにかく自分のことはあとまわしして、すぐそばにいる人のためになにか出来ることをしなさい」とおっしゃいます。
私達はいつもそのことを心に命じています。
身の廻りにも、又、新聞やテレビで読んだり見たりすることのなかにも何か出来そうな事があります。
祈りは思うことと同義語です。
「どうしてるだろう」「どうなってるんだろう」と思うだけですでに祈りに通じています。
東日本大震災発生から3月11日で5年たち、まるで記念日のように催し事があり、報道があり話題にされます。
しかし、1カ月もしないうちに消えてしまいます。
しかし福島だけとっても10万人近くの方々が避難生活をし、1万近くの仮設住宅が毎日の生活の場になっているのです。
「原発さえなければ」と堆肥小屋の壁にチョークで書き残して自殺した相馬市の菅谷重清さんの遺言が私の胸に引っ掛ったままです。

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