「年令も年令ですから」

 

セバスチャン 西川 哲彌

岩橋神父様もそうですが、事故は一瞬のうちに起きるものです。
私もそうでした。
6月24日、その日は教区主催の聖ペトロ聖パウロのミサがカテドラルで行なわれる事になっていました。
教区司祭のみならず、宣教会、修道会の司祭も招待され信徒の方々も参加する盛大なミサです。
11時からの開祭でしたから、私も司祭達が準備の為に集る地下聖堂に行こうと15分位前にいつも通っている大聖堂の香部屋口へ入ろうと小さな階段に足をかけました。
その階段は、関口構内では唯一の自然石でできていました。
その小さな石に足をかけひと息に入り口へ入ろうとしたその瞬間、ビシッという音と共に右足アキレス腱を切ってしまったのです。
とは云っても、その時はまだ痛みも感じない位で、捻挫かなと思う位でした。
しかし、右足をかばいながら地下聖堂に辿り着いた時は、痛みがじわりと上って来て、ひょっとして切ったかなと思いました。
そしてミサ出席をあきらめて聖母病院に行った所、「切れてますね」と云われ、やはりそうかと観念しました。
「近くの病院に紹介状を書きますが心あたりはありませんか」と云われて「永寿病院」と答え、翌日の25日、山上さん(浅草教会)山口さん(上野教会)に伴われて外来で平石先生の診断を受けました。
レントゲンで詳しく調べ「完全に切れています。入院して手術するということですね。いいですか」ときかれ、「はい」と答え、そのまま入院の手続きをしました。
ただ、先生のスケジュールで手術は7月4日と決まり、10日間は静かにしていて下さいと指示されました。
「先生、10日間もありますが、大丈夫なんでしょうか」と.。
「大丈夫ですよ。2週間位までなら」
びっくりしたり、ほっとしたりでした。
何故なら週末に結婚式をたのまれていたからです。
静かに過ごすはずの10日間は静かどころか、松葉杖を頼りに動きまわる日々でした。
そして7月4日の手術を迎えました。
全身麻酔で約1時間の執刀でした。
それから27日に退院するまで、夢のような日々が続きました。
なにしろ朝8時、正午、午後6時と食事が出るのです。
ひとかけらも残さずに頂きました。
量も塩分も少ない病人食ですが、ともかく食事が終わったら、すぐに次の食事まであと3時間半とか5時間とか時間を数える程食事が楽しみでした。
2週間でギブスが外れ、装具をつけての生活です。
実は、手術の次の日からリハビリが始まって、毎日毎日続けられました。
入院というのはリハビリを続けながら傷口が癒えるのを待つという意味だったのです。
そしてある朝、「ぼちぼち退院して、あとは自宅でゆっくりリハビリして下さい」という指示が先生から出されたのです。
3週間目でした。それから2日程いて退院しました。
装具というのは、手術したアキレス腱を保護しながら、ゆっくり日常生活を可能にする器具で、ドイツ製の最近製品です。
退院して約2週間、まだまだ松葉杖は手放せませんが、入院中に衰えていた筋肉も少しずつ戻って来てよちよち歩きが出来るようになりました。
この2年あまりの間に、山根神父様、浦野神父様、ペラール神父様、渡辺神父様と立て続けに起きた司祭のアキレス腱断裂事故が私に及ぶとは夢にも思いませんでしたが、起きてみれば起きるべくして起きたことがわかります。
気持ちに体がついてゆけない年になっていたのです。
それにしても痛い授業料でした。
事が起きてから、入院手術、リハビリと続く中でいつも岩橋神父様のことを思っていました。
神父様意志の強さと神様の深い支え、そして数知れない方々の祈り。
感謝です。
岩橋神父様への祈りを続けます。

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