8月の説教から 『パンを食べたからか』

 

セバスチャン 西川 哲彌

「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなくパンを食べて満腹したからだ」とイエス様はおっしゃいます。
約二千年前、イエス様をおっかけて集まった人々に、厳しくそうおっしゃったのです。
何をやってもむくわれないガリラヤの人々にとって、ゆけば腹いっぱいパンが食べられるというのは大きな魅力でした。
それは私達流に云うご利益なのです。
信心すればいいことがある。
福運がむいてくるということで人々は宗教に走るのです。
最后の逃亡者が捕まったオウム事件でも、信じて修業すれば超能力を発揮できるようになると信じてついて行ったのです。
人には、不安を取り除いてもらいたい、もっといいことに出会いたいという願望がついてまわります。
ですから、その願いを叶えてくれそうな宗教や信心に向うのは自然のことです。
しかし、イエス様はそうであってはいけないとおっしゃいます。
イエス様の答えはこうです。
「あなたがたはしるしを見落としてはいませんか。パンが増えたのは 神様があなたがたに示してくださったしるしなのです」
しるしとは神様のことなのです。
イエス様がパンを与えたのではなく、神様ご自身がパンを与えてくださったのです。
パンだけではなく全てを神様が与えて下さっているのです。
パンはほんのそのおしるしなのです。
実はイエス様すらしるしなのです。
イエス様は「私がパンなのです。
しかも命のパンなのです」とおっしゃいます。
私達は神様が与えて下さったパンというしるしによって神様の豊かな愛を知りました。
パンのみではなく全てを与えてくださっているのです。
神様は大事なひとり子すらも与えてくださったのです。
私達はそれによって神様の愛を知りました。愛のかたまりともいうべきイエス様を頂くだけでなく、頂いたものをどんどん与えなさい。
与えれば与える程神様の愛の深さがわかります。
そして与えてはじめて神の愛がわかりますと教えて下さいました。
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」とイエス様はおっしゃいます。
私達もどれだけ愛が注がれているかを感じましょう。
そして、どんどん与える生き方をしてゆきましょう。

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