摂津名所図会および摂津関連の文献に表れた塔婆情報

摂津名所圖會 寛政8−10年(1796-1798)刊行 秋里籬島著・竹原春朝斎他7名画

巻之1
住吉大社
住吉大神社東西両塔
記事:神宮寺(本社の北にあり。旧号新羅寺。天台宗東叡山に属す。天平2年孝謙天皇造営)、本尊薬師佛。・・二層塔(東西に両塔あり。金剛界・胎蔵界・大日如来・四天王を安置す。前に宝池の画、後にしし座文殊の画、塔中柱の絵は雌雄の竜、おのおの変態あり。両扉十二天、その外仏殿後壁の画、両塔とも極彩色、狩野山楽筆)」
その他多くの堂宇・什宝があった。神宮寺については明治維新の神仏分離で完全に取り壊される。
大塔は元和4年(1618)、徳川秀忠、摂津住吉神宮寺に寄進する。
神仏分離の折、西塔は阿波切幡寺が買受し、明治6〜15年に現地に移築される。
初重は方5間一辺9.98m・出組・中備撥束・2重繁垂木、ニ重は方3間一辺4.8m・四手先・中備蓑束・2重繁垂木。初重正面の中3間は板唐戸。両端間は連子窓、背面と側面の中央間のみ板唐戸であとの間は連子窓とする。
 

四天王寺住吉大社屏風(大阪市立博物館蔵)(摂津一の宮住吉大社)「江戸時代図誌(畿内2)」<部分図>

住吉名勝圖會 巻之3 神宮寺(部分図)・・・東西塔の絵があります。
記事:「住吉社の北のあり。日光直末。寺領360石。境内東西67間半、南北41間4尺。仏堂8宇、本堂・釈迦堂・阿弥陀堂・大日堂・東塔・西塔・求聞持堂・一切経堂なり。」
「神宮寺の年中行事:
正月5日:東塔にて四社御本地供
正月6日:西塔にて四社御本地供
正月14日:東塔において修正会
正月15日:西塔において修正会
5月5日:東塔において本地護摩を供す。」

 和漢三才図会・記事・・・神宮寺:本社の北にある(東塔・西塔・食堂・三昧堂・東の僧房・西の僧房・宝蔵)本堂

  →住吉神宮寺西塔・阿波切幡寺大塔

平野熊野権現
 平野熊野三所権現・・かっては多宝塔があった。
記事:「宝塔(阿弥陀如来を安置す)、観音堂(もと修楽寺本尊、後世ここに移す)」
社伝によると、坂上広麻呂(田村麻呂の子)の子当道の時代、貞観4年(862)に八坂祇園の牛頭天王を祀ったのが始まりとされる。
その後熊野信仰が盛んになり、熊野三社権現が勧進され、さらに本地阿弥陀如来を安置する多宝塔等の伽藍が整備され、平野郷の信仰の中心となる。
明治の神仏分離で杭全神社と名称を変更する。
なお付近の長宝寺の大師堂はもと田村堂で、田村麻呂像を安置していたが、神仏分離でこの像は杭全神社に移され、熊野権現の弘法大師像を当寺に移したとされる。その他の当社の仏像・絵画・仏具関係も長宝寺に多く移される。塔は神仏分離で破壊される。

 和漢三才図会・記事・・・禁林寺・大師堂・多宝塔(飛騨の工が造る)・・・

  →攝津平野熊野権現社

巻之2
四天王寺
五重塔(部分図)・・・今より三代前の塔婆を描く。
記事:「五重宝塔(金堂の南にあり。もとこの宝塔は和州額田部村額安寺にあり。一説、同国黒田勝楽寺ともいふ。慶長中再営の時、台命によつて引き移すところなり。層毎に雲水の彫物あり。ゆえに世に雲水塔といふ)釈迦画像、四天王木像、八祖画像安置す。」
この塔は幾多の興亡があり、近年の歴史でも、天正4年(1576)織田信長放火。豊臣秀吉再建。慶長19年(1614)大阪冬の陣で焼失。徳川秀忠再興。亨和元年(1801)雷火で焼失。文化9年(1812)落慶。昭和9年室戸台風で倒壊。ただちに再建。昭和20年空襲で焼失。現在の塔は昭和34年再建と 云う。従って当図会挿絵の塔婆は徳川秀忠再興塔である。この塔は圖會刊行直後の亨和元年(1801)雷火で焼失する。

  →攝津四天王寺

勝鬘院
多宝塔(部分図)・・・現存塔婆
記事:「多宝塔(院中にあり。二層塔なり。大聖金剛を安置す。)」

巻之4
大融寺
大融寺全図  二層塔(多宝塔?):大融寺全図の部分図
未確認ですが、二層塔(もしくは多宝塔)があったと思われる。
攝津名所圖會の他の画の正確さから判断して、この堂塔は多宝塔ではなくて、二層堂に相輪を載せた形式であったと推測される。
但し、二層塔であったしても、本格的な塔建築ではなく、やや簡略化された建築であった思わる。
桂木山と号す。古義真言宗。高野四善庵に属す。本尊千手観音。
記事:「愛染堂(愛染明王は長丈六。肥州鍋島候より寄附なり)」
「護摩堂・・、釈迦堂・・、巡礼観音堂・・・、弘法大師開基。・・・諸堂荒廃して、・・・その外宝塔・楼閣の蹟はみな田園の字にあり。・・・」とあり、 この記事から、図中の二層塔 とは別に、かっては何らかの多層塔も存在していたと推測される。

巻の5
西観音寺
西観音寺全図(部分図)
記事:「慈悲尾山信善谷という。天台宗。本尊十一面千手観音(・・・当山に大谷・中谷・閼伽谷の三つの谷あり。ゆえに世に谷の観音と称す)、鎮守・・・。閻魔堂(当寺の入口にあり。・・・)」

  →大山崎(・・離宮八幡宮多宝塔跡・推定相應寺心礎・寶積寺三重塔・西観音寺文献上の塔婆)の西観音寺の項

巻の6
神秀山満願寺(挿絵はありません)
幾多の堂宇があったと思われる。
記事:「伽藍開基記」に曰く、・・・勝道上人の開基・・・平泰時の時、三重宝塔を建てらる。・・・阿弥陀三尊を塔中に奉ず。・・・」
とあり、三重塔が存在したと思われる。

昆陽寺
古義真言宗・僧房6舎、開山は行基菩薩。(行基建立の畿内49院の一つ)古は幾多の堂宇があったと思われる。
鐘銘:「・・・金堂・・講堂・・法華堂・・常行堂・・塔ニ基(各五重)・・鐘楼・・経蔵・・・・」とあり、創建時は五重塔2基があったと云う。
挿絵は圖會にあるが、当ページには非掲載。

猪名寺
猪名寺の図(部分図)
記事:「・・法園寺といふ。古は伽藍巍々たり。今古礎あり。その中に方1間余の石あり。土人云ふ、大塔の礎なりとぞ」
「本尊薬師佛(行基の作)坐像。長2尺。初め法道上人大化年中に開基し、その後行基ここに止住して、諸堂壮麗たり、天正の荒木が兵火に罹りて灰燼となる。・・」とあり、心礎は 当時もその存在の認識があったと思われる。また法道上人開基寺院の一つとされる。
現状、附近は住宅が密集するも、寺院西側の道は旧道の雰囲気を残し、法園寺も猪名寺の法統を伝え、この図の雰囲気を色濃く残す。
図の本堂右奥のブッシュが猪名寺の主要伽藍跡と推定される。塔心礎は本堂裏手に放置される。
なお、手前の道を左に道なりに数百米行けば、吐若寺に至る。
※法園寺は先の阪神淡路大震災で庫裏などに甚大な被害を受ける。史蹟故に復興には時間が必要であったようであるが、現在は庫裏等も復興されている。

  →摂津猪名寺

尼崎
尼崎寺町・長遠寺多宝塔(部分図)
寺町の様子で西から如来院・長遠寺・大覚寺・法園寺・甘露寺・広徳寺・本興寺・全昌寺と続く様が描かれる。
挿絵中に長遠寺多宝塔が見える。

本興寺
本興寺全図(部分図)
多宝塔拡大図(部分図)・・・今はこの塔婆は存在し ない。
記事:「・・・塔頭8院・・・」
当時は表門右本堂南東に多宝塔があった。現在の三重塔は図の位置ではなくて、本堂裏側・北東部にある。
 

有馬山温泉小鑑 貞享2年(1685)刊 編者・画師不詳。

序編の記事の要約「・・・聖武天皇の代に、行基菩薩は昆陽のさと崑崙山安養寺に入り安住した。ここに温泉山のかたわらより一人の病夫がやってきた。・・・」
崑崙山安養寺には多宝塔があったと思われる。
安養寺
いにしえの有馬山の図

  →尼崎本興寺


2006年以前作成:2008/09/24更新:ホームページ日本の塔婆