最近訪問した塔婆・ご提供画像(2005/04/09〜2005/07/14 )

過去の訪問塔婆履歴

2005/07/14 攝津太融寺三層堂1
  同        2
  同        3
「摂津名所圖會」巻之4:大融寺より:
大融寺全図  二層塔(多宝塔?):大融寺全図の部分図
未確認ですが、二層塔(もしくは多宝塔)があったと思われます。
攝津名所圖會の他の画の正確さから判断して、この堂塔は多宝塔ではなくて、二層堂に相輪を載せた形式であったと推測され、二層塔であったしても、本格的な塔建築ではなくて、やや簡略化された建築と思われます。
桂木山と号す。古義真言宗。高野四善庵に属す。本尊千手観音。
記事:「愛染堂(愛染明王は長丈六。肥州鍋島候より寄附なり)」
「護摩堂・・、釈迦堂・・、巡礼観音堂・・・、弘法大師開基。・・・諸堂荒廃して、・・・その外宝塔・楼閣の蹟はみな田園の字にあり。・・・」とあり、図中の二層塔でな無くて、かっては 図とは別の何らかの多層塔も存在していたようです。
「日本に於ける塔の層数と教義との関係」石田茂作、昭和11年より:
「大融寺多宝塔、真言高野山、今なし」とあるも、この圖會の二層堂をいうのか、かつての「宝塔」を意味しているのかは不明。
昭和20年の空襲にて、25棟を消失する。図の二層塔の退転時期は不明。
その後、大師堂はその屋根に三層塔風建築を載せて再建される。(この三層塔は大師堂塔婆と称するようです。)
写真のように正規の塔建築ではありません。昭和61年完成、おそらく鉄筋コンクリート製と思われる。柱は角柱、組物は出組、本瓦葺き、和様建築に擬す。
2005/07/07 今熊野観音寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
再訪:
昭和59年(1984)年建立。「医心方」千年を記念して建立。医聖堂と称する。本格的木造建築。
塔は本堂裏山を造営して建立された。
今熊野は現在大本山泉湧寺寺中のの一つで、西国観音15番札所。
観音寺は大同2年(807)、弘法大師がこの地に熊野権現の出現を見、1寸8分の観世音を授かった。大師は自ら1尺8寸十一面観音を刻み、授かった観世音を体内仏として一宇を建立した。
弘仁3年(812)、大師は嵯峨天皇から官財を受け諸堂を造営した。
現在泉湧寺山内寺院として以下の寺院が残存する。
即成院、戒光寺、法音院、新善光寺、悲田院、今熊野観音寺、善能寺、雲龍院
応安4年(1371)後光厳上皇、雲龍院・龍華院の別院を建立。
文明5年(1473)新善光寺、後土御門天皇の勅で泉湧寺に移転。寛元元年(12343)後嵯峨天皇勅願で建立。本尊は信濃善光寺と同仏同体という。
天文20年(1551)善能寺、泉涌寺山内に移転。
天正12年(1584)法安寺・楊柳寺、伏見より山内に移建。
正保2年(1645)戒光寺、山内に移転、復興。鎌倉期曇照律師の創立。
正保3年(1646)悲田院、山内に移転・復興。平安京に東西2箇所に置かれた西の悲田院が移転。
明治年中、即成院、山内に移転。正暦3年(992)恵心僧都が伏見に建立、寛冶元年(1087)に伏見桃山に光明寺を阿弥陀堂として移転。
法音院:嘉暦年中後醍醐天皇の創建。
来迎院:大同元年(806)弘法大師が荒神尊を安置したのが始まりと伝える。
2005/06/27
ペアーレ京都に於ける展示。
山城大宅廃寺水煙1
  同     基壇
以上「X」氏ご提供
山城大宅廃寺水煙2
  同        3
  同        4
  同   水煙・瓦1
  同   水煙・瓦2
昭和33年の発掘調査:南門(痕跡)・中門(痕跡)・金堂・講堂と推定される南北に並ぶ四棟の寺院建物跡発掘された。創建は白鳳期で、平安期に全焼、のち小規模堂舎が再建されたとされる。大宅廃寺と命名される。この廃寺は,大和興福寺の前身山階寺跡(中臣鎌足創建)、あるいはこの地の大宅氏の氏寺などに比定される。
2004年の発掘調査:南北約4mに渡り、瓦積基壇(高さ約30cm)が発見された。
基壇上には、3箇所の径約2m柱穴跡がある、塔「水煙」と推定される破片が附近から出土。
以上から、大宅廃寺は、北に講堂、西に金堂、東に塔が建つ法起寺もしくは観世音寺の伽藍配の可能性も指摘できるようです。
2005/05/29 吉野山宝塔院跡1
  同      2
 同 宝塔院報恩大師碑
吉野蹴抜塔1
 同     2
吉野水別神社本殿
吉野世尊寺梵鐘
吉野蔵王堂遠望1
  同      2
再訪:宝塔院跡は凡その見当はつきますが、多宝塔跡などの痕跡は全く無いようです。建物跡の位置も特定は不可能のようです。附近にはかなり平坦地があり、堂宇のあったことが推定できます。
宝塔院跡1:宝塔院主要部推定跡地、宝塔院跡(22004/02/07撮影):中段の平坦地が多宝塔跡の可能性があると思われます。
蹴抜塔:両脇間90cm(3尺)、中央間160cm(5尺3寸)・・・一辺3m40cm。(実測)
平面は旧規を踏襲しているのかどうかは不明。
床下を観察すると、心柱らしきものが心礎から建っているとも思われます。
詳細は「大和金峯山寺」のページ参照。
吉野南朝妙法殿1
  同      2
再訪
詳細は金峯山寺南朝妙法殿のページ参照。
吉野東南院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
 同 本尊大日如来1
 同 本尊大日如来2
再訪
紀伊野上八幡宮多宝塔
詳細は旧紀伊野上八幡宮(東南院)多宝塔のページ参照。
吉野如意輪寺多宝塔相輪
  同     多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
 同 蔵王権現立像1
 同 蔵王権現立像2
再訪
多宝塔相輪:大正初期の撮影、如意輪寺本堂前の相輪は多宝塔相輪で、現多宝塔に載せられるまで本堂前に安置されていたようです。おそらく新鋳と思われます。吉野山ビジターセンター蔵。
詳細は如意輪寺多宝塔のページ参照。
大和龍門寺心礎1
  同       2
  同       3
  同   脇柱礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同    心礎
  同   塔礎石1
  同       2
  同       3
  同       4
  同   塔石段
  同  基壇石積1
  同       2
  同   龍門瀧1
  同   龍門瀧2
龍門寺塔跡は心礎・礎石・基壇を完全に残す。
心礎は79×73cmで、中央に径24×9cmの円孔を穿つ。心礎の他、枘孔を持つ四隅の脇柱礎を含む脇柱礎が完存する。小規模塔のため、四天柱礎は当初から無く、また中間の脇柱礎は極端に四隅に偏っている。<小規模塔の中央間を広く採る例は大和富貴寺塔(一辺2.7m)が知られる。>
以上「日本の木造塔跡」
塔基壇の一辺6.3m、乱石積基壇。塔一辺は3.3m、北中央に石段を残す。
白鳳期の創建とされる。久米・大伴・安曇などの仙人が修行したという。(今昔物語)
清和上皇、宇多上皇及び菅原道真(扶桑略記・昌泰元年・898)、藤原道長(扶桑略記・治安3年・1023)などの参詣もあったという。
昭和27・28年発掘調査、塔跡・金堂跡などの礎石建物跡を発掘・奈良期の瓦出土。
下乗石(元弘3年・1333)を残す。付近に大門・小門・六角尾(六角堂)、塔の谷・龍空院などの小字を残すという。
立地は龍門岳山麓にある。龍門の瀧の落ち口の西断崖の上に塔跡はある。近江崇福寺・尾張大山廃寺・常陸権現山廃寺(未見)などと同様な山岳に立地する。
また、義淵僧正建立の大和龍蓋寺(岡寺)、大和龍福寺(廃寺)とを合わせ、龍名の三大名刹の一寺ともいう。
「龍門寺縁起」(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収):龍蓋・龍門両寺は義淵僧正が国家隆泰・藤氏栄昌のために建立するところであると記すという。
龍門瀧2:この断崖の上が塔跡。なお金堂跡・礎石、坊舎跡を残すというが、未見。
2005/05/03 備前五流尊瀧院三重塔 再訪。「備前五流尊瀧院」のページを参照下さい。
備前瑜伽山蓮台寺多宝塔 再訪。「瑜伽山蓮台寺」のページを参照ください。
2005/05/02 出雲千手院多宝塔残欠 詳しくは「出雲千手院多宝塔」のページを参照ください。
出雲国分寺 塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同 中門・金堂跡
  同 金堂・講堂跡
  同   金堂礎石
  同    復元図
南面し、南門・中門・金堂・講堂・僧房が一直線に並び塔は金堂東前方(南門と中門の中間の東)に配置されていた。廻廊は中門から講堂に達し、金堂を囲む。
塔は一辺8.9mとされる。寺跡は史蹟の整備がなされている。
基壇はほとんど復元基壇と思われる。塔跡には礎石は残存しないと思われる。
金堂跡には、かなり精巧に加工された礎石が残り、復元礎石(樹脂製?)と合わせて礎石が配置されている。
出雲清水寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同     本堂1
  同     本堂2
安政6年(1859)の建立。かっては五重塔があったとされるも戦国期に焼失。文化年中に再興を開始する。蓮乗院 慧教和尚が統括し、大工は地元の棟梁富谷覚太が指名された。完成まで33年間を有し、棟梁は富谷覚太から、由助(子)、唯市(孫)に引き継がれたという。高さ33.33m。材は欅 を用いる。塔には階段があり、3重まで登れるというが、近年は休日のみの公開のようです。
塔のほか根本堂(7間4面、明徳4年1393・重文)など多数の堂宇と大宝坊(本坊)と蓮乗院の2坊を有する。また本尊十一面観音立像(重文・平安初期)、阿弥陀堂の丈六阿弥陀坐像(重文・藤原)、常念仏堂の阿弥陀三尊像(重文・藤原)なども有す。 この地方の伯耆大山寺、伯耆三仏寺、出雲鰐淵寺などと並ぶ天台の大寺であった。
「日本社寺大観 寺院篇」:塔頭に大宝坊、蓮華院、松井坊、覚善院、松寿院、見性院
出雲教昊寺跡心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
野方廃寺。出雲風土記でいう舎人郷の教昊寺と想定されているようです。
現在、小高い小丘の上に塔心礎を残す。心礎上には小祠(神蔵神社)置かれている。
残念ながら、あるいは無慚にも、小祠据付のため、心礎上にセメントが打たれ、円孔部分には小石が載せられ、円孔などは見学することは出来ません。
大正15年後藤蔵四郎が野方の土居ゾネから瓦片が出たことなどから教昊寺と推定した。
(寺域は心礎のある小丘の東の田中と思われます。)
昭和28年山本清が心礎の確認をして、野方廃寺の存在を確かなものとした。
心礎は165×158×75cmの大きさで、径70×14cmの円穴と径28.5×6cmの小孔を持つ2重円孔式とされる。
「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式、175×165×75cmの大きさで、径72×12cmの円穴と径27×6cmの孔を持つ、白鳳。
出雲風土記:「教昊寺。在舎人郷中。郡家正東廿五里一百二十歩。建立五層之塔也〈有僧〉。
教昊僧之所造也〈散位大初位下上腹首押猪之祖父也〉。」
読下し:教昊寺。舎人郷の中にあり。郡家の正東二十五里一百二十歩なり。五層の搭を建立(た)つ。僧(ほふし)有り。教昊僧が造りし所なり。散位(とね)大初位下上蝮首押猪(かみのたぢひのおびとおしゐ)が祖父(おほぢ)なり。
出雲岡の原廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
心礎は長台寺庭園にある。長台寺は行基の開基と伝え、本尊は行基作千手観音という。元は現地奥5丁の坊床にあったが白鳳9年に流失し、 天平年中に聖武天皇によって現在地に再興されたという。
(三重塔も建立され、その礎石がこの心礎とも云われるようです。)
以上の寺伝に見られるように、この地に古代寺院があった可能性は高いと思われますが、長台寺と岡の原廃寺との関係は不詳。
心礎は小型ですが、かなり精美なもので、おそらく1段目円穴は柱穴、2段目は蓋受孔、3段目は舎利孔と推定され、古い様式の心礎と思われます。
「幻の塔を求めて西東」:三重円孔式、150×130×85(見える高さ)cm、径65×2/3cm、径15×1cm、径12.5×4.5cmの三段の円孔を持つ。白鳳前期。
現寺は母里藩主松平直員の建立と伝える。福寿山と号し、現在は比叡山延暦寺末。本尊は千手観音(行基作と伝承)。本堂 、護摩堂、阿弥陀堂などを備える。
伯耆上淀廃寺 詳しくは「伯耆上淀廃寺」のページを参照ください。
2005/04/17 山城金胎寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同  (花肘木)15
  同       16
都名所圖會 ・金胎寺
再訪。
白鳳4年役小角の草創と伝える。大和の大峰山に対して「北の峰」と称された修験の道場であった。後醍醐天皇は元弘元年南都に落ち延びるとき立ち寄ったが、地勢が峻険なため 大兵を集めるには不便であり、その為、さらに笠置に落ち延びたという。故に鎌倉幕府の焼討ちにあう。
多宝塔は幾多の戦乱を乗り越えた、永仁6年(1298)−鎌倉期の−建立の貴重な遺構で、屈指の古塔です。現在も鷲峰山上に、その秀麗な姿を留めています。
一辺4.2m、高さ13.9m。杮葺き。
 

画像6・7の右は江戸期再建本堂。
画像15は中備(有名な双っ斗の花肘木)。

石造宝篋印塔(鎌倉・重文)

山城海住山寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同     文殊堂
  同   文殊堂蟇股
都名所圖會・海修山寺1
  同    ・海修山寺2
再訪。
天平7年聖武天皇の勅願で良弁が開山と伝える。保延3年(1136)焼亡。承元元年、笠置の解脱上人(良慶)が入寺し復興。
五重塔は建保2年(1214)の建立で、非常に小型 ですが、鎌倉期の唯一現存する五重塔遺構として、貴重である。また五重塔として、心柱が初重の梁から建つ初例とされる。
一辺は2.74m、総高17.7m。
昭和38年の解体修理にあたって1層に吹き抜けの裳階を復元し旧態に復した。

文殊堂(鎌倉・重文)

山城国分寺跡 再訪。
詳しくは「山城国分寺跡」のページを参照ください。
2005/04/24
「X」氏ご提供
飛騨塔の腰塔心礎1
  同        2
上町字塔の腰にあって、古くからその存在が知られていた(飛州志など)ようです。明治初年現地から円光寺に移される。現地では白鳳・奈良期の瓦を出土。 上町廃寺。
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、212×148×65cm、径77.8×19cm、円光寺庫裏前にある、白鳳。
飛騨沢廃寺心礎1
  同       2
沢廃寺については実態は不詳。下記の寸法によると、小型の心礎です。
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、87×83×55cm、径28.5×10cm、円光寺奥庭にある、白鳳。
2005/04/02 尾張泉浄院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
昭和37年建立。純木造。石山寺塔婆を模すという。一辺5.5m、高さ約14m。木造本瓦葺き。
尾張信貴山と称し、昭和7年、名古屋の資産家(塚本義郎)が商売繁盛のため毘沙門天を本尊として創建。
現在は聊か寂れている様子です。
尾張大山廃寺塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     心礎4
  同     心礎5
  同   四天柱礎
  同   廃寺概要
  同   中心遺跡
  同 推定本堂礎石
大山廃寺:史跡
標高200m程の山中にある山岳寺院跡で塔跡と礎石が完存する。塔跡は寺域の最高所にある。
塔跡には,17個の礎石(一部は欠損していると思われる)が残り、柱間は2.4m。現状は良く手入れされています。中央に湿気抜きの細工が施されている。出土瓦から,7世紀から8世紀まで存続したものと考えられる。
かっては大山三千坊といわれ、児神社の参道脇など山中の各所にはかつての坊舎・堂跡と見られる平坦地が多数残っているようです。白鳳ー室町後半まで存続したと推定されている。
昭和50〜53年の発掘調査で、現在の児神社境内が寺院中心で、白鳳・奈良期の創建で室町期まで存続したとされる。平安期の掘立式建物跡3棟、中世の本堂(7間四方、一辺21m)と推定される礎石建物跡を発見。
心礎実測:大きさは145×100cmで、おそらく短径は欠損しているものとも思われる。
径50×6cmの円形突起を造り、周囲を巾14/15cmの溝が廻る。
「大山寺縁起」では、延暦年中に最澄が建立したとするようです。
「日本の木造塔跡」:大きさは1,27×1.36mで、外周の径77cm、内周の径57cm(溝巾11cm)深さ5cmの枘溝がある。(舞木寺式といわれる形式です。)塔一辺は7m。
□法光寺所在心礎:
尾張長福寺廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
□東塔心礎:
尾張長福寺廃寺心礎11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
昭和12年軒丸瓦と2個の心礎(原位置ではない)が発見され、14年の発掘で根固石や基壇石段があったという。このため東西両塔を備えた寺院跡と推測された。
しかし昭和45年の発掘では根固石や基壇は発見されず、寺院遺構らしき痕跡は無かったとされる。
現在法光寺本堂横にある礎石は形状から見て、紛れもない心礎であるが、もう一方の東塔心礎と云われた礎石(個人邸の沓脱石)は本尊安置の台座であろうとされているようです。
「日本の木造塔跡」:法光寺(一宮市千秋町加納馬場)本堂横の心礎が名鉄犬山線石仏駅付近から、大正末期に運ばれたとされる。
心礎は2.24×1.8×82cmで、径86×8/3cmの円穴を持つ。長福寺の陰刻(後世のもの?)がある。しかし現法光寺の地が元の寺域であるらしい。一方長福寺東塔心礎と言われる石が近隣の後藤文夫氏邸に靴脱ぎ石としてある。この石は2方が欠けているが、大きさは1.18×1.06mで、径11×5.2cmの孔がある。しかし 法光寺心礎と不釣合いで、また西塔跡といわれた場所も単に地山の礫層であることが分かり、長福寺とは別の心礎であろう。

長福寺の創建は飛鳥もしくは白鳳初期の創建とされる。
法光寺境内にあるのは多少荒れてはいるが堂々たる心礎です。
一方後藤氏邸の石は心礎であるのかどうかは形状からの判断は困難ですが、心礎である可能性は高いと思われます。但し、心礎であったとしても大きさや形式から法光寺境内心礎とは全く別の系統のもので、同時期に建立された東西両塔の心礎でないことは確かと思われます。
上面は平に削平され、(心礎とすると)この地方では類例を見ない小円孔を持つ。また小円孔から一条の溝が刻まれているが、途中で途切れ、何のためのものかは不明。現状心礎は二方を楔で割られ 大きさを損ねている。なお後藤氏邸は建替られたらしく、現在、靴脱石には新しい石が据えられ、心礎はその傍らの中庭に放置されています。
尾張福寿院 詳しくは「尾張福寿院多宝塔」のページを参照下さい。
2005/04/09
歴史の足跡」管理人様ご提供。
武蔵豪徳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同      7−1
  同        8
  同        9
現在三重塔新築工事が進行中です。完成予定は2005/10月。
歴史の足跡」管理人様情報:塔一辺(初重)は4.35m(芯芯間)、高さ22.4m。
芯柱は2重目梁より建つ。屋根:銅板葺き。
写真で判断する限り、構造材は檜材。和様3手先の組物、少なくとも三重の化粧垂木は扇垂木を用いるようです。いずれにしろ、伝統様式の木造塔婆と思われます。
写真2、3:ニ重目構造、長押は未だ打たれていません。
写真4:和様3手先組物。写真5:ニ重目桔木。
写真6:三重屋根板、銅板葺きのため5分板を二枚重ね(合計1寸厚)にするようです。
写真7:心柱と桔木、心柱は全く独立し、塔構造とは関係ないことが良く撮れています。
写真7−1:写真7をモノクロ化したもので、心柱は八角に面取され、面取面には信徒一同(寄進者)の芳名、記念文(禅宗曹洞宗)などが墨書されているようです。
写真8:銅板を葺く様子。写真9:銅板の素材。
豪徳寺略伝:文明12年(1480)吉良頼高娘(吉良政忠伯母)弘徳院のために世田谷城内に創建され、弘徳院と号したのが創建と伝える。天正18年世田谷城落城の時焼失。
寛永10年(1633)彦根藩主井伊直孝がこの地を下屋敷に拝領、寺を再興。
万治2年(1659)直孝が没し、その法号にちなみ豪徳寺と改号す。爾来豪徳寺は井伊家菩提寺として伽藍を整備する。曹洞宗。

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